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すぎなみ民営化反対通信

東京・杉並発。「一人が万人のために、万人がひとりのために」をモットーに本当のことを伝え、共に歩んでいきたいと思います

『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第20回】空に鳥の震えるような声を聞く 

2012年01月23日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載


わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修) 

 

抜粋による連載(第20回)<o:p></o:p>

 第三章    これもだめ、あれもだめ <o:p></o:p>

 空に鳥の震えるような声を聞く<o:p></o:p>

 ナタ―リア・コジェミャキナ(女) 

第三中等学校十一年生  スベトロゴールスク町<o:p></o:p>

 幸いなことに、私の家族や知人の中に事故処理作業に従事した人はいませんでした。私たちの住んでいたところは、役人さんの言葉を借りれば「放射能の許容線量以下」のところでした。だけど、放射能は、許容されるようなものでしょうか。放射能によって私の家族の中に病気が侵入しても、だから病気も許容されるなんていうんでしょうか。 

チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した直後、「チェルノブイリ」の言葉が、「大惨事」、「悲劇」、、「災難」、「苦痛」、「涙」の代名詞になることを、いったい誰が予想したことでしょう。

 

放射能は目には見えず、色もなく、匂いもありません。炎のように夜空に舞いあがり、空の見えない空気の流れに乗って、春の香りにあふれた山河に広がって行きます。しかし、そのことをわかるようになったのは、もっと後のことでした。

 

事故処理が一段落して、リクビダ-トルたちが、家族や、両親や妻のもとに帰ってきました。作業から戻った夫や息子たちは恐ろしい病気に犯され、まるで老人のようでした。作業に出る前は、若くて、健康で、すばらしい未来を夢見ていた人たちだったのに・・・・・。<o:p></o:p>

 乾いた熱風 たとえそれが毒されていても 

 吸わずにはいられない 

 病人だって吸う<o:p></o:p>

 病院も薬局もあてにはならない<o:p></o:p>

 病人を救う知恵などもっていないから<o:p></o:p>

  私たちが大惨事を初めて感じたのは、数十、数百という村が鉄条網で囲まれ、広大な土地が「ゾーン」と飛ばれるようになったときでした。ふるさとには「汚染地区」という名前がつきました。人々は恐怖の中で、今までの生活の基盤をすべて捨て、わずかな希望をたよりに、知らないところへと脱出しました。でも、どこに行ったらましになるというのでしょう。 

ここスベトロゴルスク地区にもゾーンから移住してきた人はたくさんいます。みんなは、移住の時に指導者が約束してくれたことを信じていました。人間的な水準の生活を期待し、人の親切を期待し、それがふるさとへの郷愁に勝てると信じていました。しかし、その通りにはなりませんでした。じめじめした家、小さ過ぎる納屋、不十分な物質的支援、援助の不足、そしておまけに「お役所仕事」・・・・・・・みんなこんな目にあいました。

 

ブラ―ギン地区出身のマリア・ミロンチックさんはこう言いました。「クラスノフカ村の人たちはいい人ばかりよ。でも、しょせんうちの田舎の人じゃないのよね。やっぱり自分の家の方がいいわ。たとえ土地は病んでいたとしてもね」と。

 

このようにして、たくさんの家族が行列をなして、帰って行きました。ゾーンへと、閉鎖された村へと。そして今、何千人もの人が放射能という目に見えない死のベールに包まれて生活しています。そこに住む母親たちは涙ながらに自分の子どもの目を見つめます。まるで、自分や周りの人たちの不幸が自分のせいだと責め、許して下さいと言っているかのように。

 

私は空高く 鳥がかん高い声で鳴くのを聞いた 

チェルノブイリの不幸の日々を予告したのか 

だが親たちにはわが子を守るすべがない 

<o:p></o:p>

疑問だらけです。どう生きればいいのでしょう。外で遊んではだめ。イチゴを摘んではだめ。幼い子どもにこれをどう言い聞かせたらいいのでしょう。みんなだめだと言えば、子どもらしい生活はできなくなってしまいます。これではまるでカゴに閉じ込められた鳥です。

私たちの地区で、もっとも汚染されている場所の一つが、コロレバ・スロボダ村です。そこの中でも特に汚染のひどいのが小学校の校庭です。放射能を測定する係官の線量計の針が振り切れて使い物になりませんでした。それにもかかわらず、休み時間には子どもが校庭を駆け回り、砂遊びをしています。この学校では今でも授業が行われています。誰も心配しないのでしょうか。この子たちは、将来一体どうなるのでしょうか。そしてその子の子孫はどうなるのでしょうか。

 

森はいつでも私たちに憩いの場所を与えてくれました。しかし、今は入口に「厳禁」の立て札が立っています。そこでは、人間の生活で当たり前のことが禁止されています。刈り、キノコ狩り、イチゴ集め・・・・、今はみんな危険なこととなってしまいました。土地も、森も、花も、鳥も、獣もみんな地雷と同じです。それは爆発するものもあるし、爆発しないものもあります。放射能がいっぱい詰まっていて、人間の機能を爆破し、死に至らしめることさえできるのです。

 

プルトニウムは減りつつある 

だが おそらく 今後永遠に 

畑も庭も それに育てられるのだ 

プルトニウムは減っている 

木の幹は既に 不機嫌に 

スクリューのように 毒を吸いこんでいる<o:p></o:p>

 時はたち、政府は人々が置かれている状況をよくするために動き始めています。大人には補償を与えています。しかし、これから生まれてくるものや、生まれたばかりのものたちへの補償のことは誰も言いません。せめて、来るべき問題や心配ごとから子どもたちを守ってやれないのでしょうか。子どもたちの笑顔がますます見られなくなったのはなぜでしょう。どのような補償が問題を解決できるのでしょうか。死者の苦痛、ふるさとのすでに死んでしまった土地、先祖の墓をあとにする苦痛、死者を思う悲しみをどんな方法で計れるというのでしょうか。若者や健康な人も病気に脅かされています。彼らの肉体は、魂と、いのちと、幸福と、愛を求めています。<o:p></o:p>

  私は信じたい。政府の指導者、裁判官が、今まで続けていたようなことにも顔を向けてくれることを。ぜいたくな別荘を建てたこともない普通の人々の気持ちを理解してほしい。自分の子どもの命がながらえるように、そして少しでも喜んでもらえるように毎日がんばっている人たちの気持ちを分かってほしい。この現実を信じないとでもいうのですか。ゴメリ州立病院循環器科に行って見てごらんなさい。何にも興味を示さない赤ちゃんの目や、赤ちゃんが助かる希望をなくし、悲しみから髪が真っ白になってしまった若い母親の姿を見ることができます。この光景を見たら、みんあに、そして一人ひとりにこうたずねたくなるでしょう。<o:p></o:p>

 「みなさん。この苦しみにもてあそばれているような日々は、いつまで続くのでしょうか。母親の悲しみ、子どもの早すぎる死、民族の滅亡に対して、誰が責任をとるのですか」と。<o:p></o:p>

 この質問に対する答えをいつかは聞けることと信じています。<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第19回】母と私と祖父の友人

2012年01月20日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第19回)<o:p></o:p>

 第三章   これもだめ、あれもだめ <o:p></o:p>

 母と私と祖父の友人<o:p></o:p>

 ガリ―ナ・ロディチ(女) 

第三中等学校十年生  チェチェルスク<o:p></o:p>

 



  太陽の輝く春の日だった。私と母は、白樺とななかまどの苗木を家の窓の下に植えるために、村のそばの森に行った。そして、それを家の近くまで運んで来たとき、突然嵐が吹きつけてきた。空は見えなくなり、太陽も見えなくなった。ほこりは目や口に容赦なく吹きつけた。嵐は突然始まり、そして、突然おさまった。<o:p></o:p>

 あんなにも幸せだった 

カミツレの花ひとつに 雑草の一本に心をおどらせ<o:p></o:p>

 森を歩いては カッコウの歌を聞いた<o:p></o:p>

 「カッコウさん カッコウさん」<o:p></o:p>

 私はあとどれくらい生きられるの<o:p></o:p>

 ママの瞳は光を失い<o:p></o:p>

 口からほほ笑みが消えた 

 ママの髪には白いものが目立ち<o:p></o:p>

 心には恐怖が宿った<o:p></o:p>

 チェルノブイリ チェルノブイリ<o:p></o:p>

 お前は不幸を持ってきた<o:p></o:p>

 もうじき私は死ぬの まだこれっぽっちしか生きていないのに<o:p></o:p>

 チェルノブイリ チェルノブイリ<o:p></o:p>

 一体お前は何をしたの

 残されたのは何百万のただれたむくろ<o:p></o:p>

 

 当時チェルノブイリに何が起こったのか誰も知らなかった。チェルノブイリの漆黒の翼はベラルーシ全部を覆った。放射能のちりが、林にも、クローバーの牧草地にも、畑にも、ソシやドニエプルの川にも、花の咲き誇る公園にも、家々の屋根にも落ちてきて、黒い竜巻のように、私たちの生活に乱入してきたのを、私たちは知らなかった。見えない放射能が蔓延し、甲状腺は放射性ヨウ素で被曝したけれど、誰も警告を出さなかった。<o:p></o:p>

 地球的規模のチェルノブイリ事故が、チェチェルスクやその周辺の村々を襲ったときでも、チェチェルスクの人は誰も自分たちの不幸に気づかなかった。キエフからのラジオを聞いたとき、人々は悲しみ、ポレーシェの運命が伝えられると人々はため息をつき、ナロープリャから疎開する人々のバスを見ると泣き出した。だけど不幸は遠くに起こっていて、ここは安全だと考えていた。しかし、6月初め、チェチェルスクの子どもたちも「きれいな」ところへの疎開が始まった。母も祖母も見送りの時に泣き、子どもたちも初めての母親との別れに泣き出した。私の母は教師だったので、走り始めたバスの中の子どもたちをなだめた。子どもたちは泣くのをやめ、鉄道の駅まで歌い、列車の中の二時間、さらに歌い続けた。<o:p></o:p>

 マリーナちゃんが母に質問した。「先生。おばあちゃんたちは、なぜ私たちの列車に十字を切ったの」と。目には耐え難い苦痛の色を浮かべてはいたが、みんなを励まし続けていた母もついに、デッキに飛び出し大声で泣いた。<o:p></o:p>

 セシウムは、畑や牧草地や緑のカシの森に侵入していた。リンゴの木も、森の中の草地も川も敵になってしまった。どこでもストロンチウムやセシウムがある。あれから八年、チェルノブイリの被害は何を引き起こしたのだろうか。この間、私はもりにはたったの一度しか行っていない。イチゴは採ってはいけない、キノコはみんな毒キノコになってしまった。矢車草やカミツレの花は摘んではいけない。それで花束をつくれない。だめ、だめと皆が言う。<o:p></o:p>

 

 ぼうや<o:p></o:p>

 はだしで草の上を歩いてはだめよ 

手で砂を触ってはだめよ 

雨の中を走ってはだめよ<o:p></o:p>

 川で遊んではだめよ<o:p></o:p>

 でないと 病気になりますよ ぼうや<o:p></o:p>

 わたしのいとしいおじょうちゃん<o:p></o:p>

 森の草地で遊んではだめよ<o:p></o:p>

 花を摘んではだめよ お願いだから<o:p></o:p>

 でないと あなたも うさぎちゃんも<o:p></o:p>

 死んでしまうわよ<o:p></o:p>

 子どもたちはこう答えた<o:p></o:p>

 「だめ だめ だめ もうたくさん!」<o:p></o:p>

 早くストロンチウムやセシウムをとってしまって<o:p></o:p>

 そうしたら<o:p></o:p>

 森の草地で元気に遊べるのに<o:p></o:p>

 

二年前、私の祖父は、ふるさとの村が、どのように埋められてしまったかが書いてある手紙を友だちから受け取った。この友人はその様を見ていたのだ。祖父は石のようになり、立ちつくした。足が土に根を張ってしまったようだった。祖父は長い間立ちつくした。そのあと目に見えない重力におしつぶされるかのように、ゆっくりと歩き始めた。<o:p></o:p>

 その手紙の言葉のひとつひとつが、痛みにおしひしがれていた。心臓はとても持ちこたえられそうにない。このような苦痛に誰もが耐えられるわけではないのだ。<o:p></o:p>

 この村の埋葬とは、家のそばにパワーショベルで掘った五メートルの穴を用意しておき、消防車がホースで放射能のほこりが舞い上がらないように、家の屋根から土台まで水をかけ、キャタピラのついた巨大な怪物が、その大きな穴に家をなぎ倒すのである。私は、このただの葬式ではない不気味なものを、見たいと思った。この出来上がった黄色い土まんじゅうのことを考えると、心臓が締め付けられ、のどがつっかえたようになった。<o:p></o:p>

 その村は、まさに死の村になってしまった。家々は物悲しい静けさの中に建ち、雑草で覆われている。いくつかの家の窓には十字の板が打ち付けてあり、通りには、人も、犬も、猫もいない。ただ墓穴を掘る低い土の響きがあたりにこだましているだけ。人のいない村。死の村。<o:p></o:p>

 

 チェルノブイリは私たち一人ひとりの痛みであり、みんなの痛みである。死ぬまで自分自身を難民、被災者として感じていかなければならない移住者たちの、その痛みなのだ。年に一度、招霊祭の日に、親族や知人が葬られている墓におまいりすること以外、彼らが自由に自分の村、自分の家にいけるのは夢の中だけなのだ。 

コの四月の黒い日に、数千のチェルノブイリの被災者たちは、生きるうえで最も大切なもの、聖なるもの、自分の根ざすところをなくしてしまったのだ。

 

私の住むチェチェルスクも、情け容赦のない恐ろしい運命に落ちた。そこはチェルノブイリによる汚染地帯であることが分かったのだ。

 

ふるさとで生きたい 

ふるさとで朝焼け、夕焼けを見たい 

なつかしいふるさとの空気を吸いたい 

私に何の罪があるというの<o:p></o:p>

 私たちへの罰は、放射能に満ちあふれた土地で暮らすことである。そして私たちは、ニ十世紀最大の悲劇を引き起こした無責任さに対する他人の罪をも背負わされてしまった。 

ふるさとはふるさとである。チェルノブイリの灰に満ちていてもよい。人々はたとえ土地が病んでいても、それを守り抜く。事故後、多くの人にとって、土地は幾倍も貴重なものになっている。私たちは、八年もチェルノブイリの十字架をかついでいる。八年もだ。しかし、チェルノブイリは過去のものではない。今日であり、明日なのだ。そして、私たちの未来ですらあるのだ。

 

ニ、三日前、コウノトリの群れを見た。コウノトリは私たちの傷だらけの大地にやってきた。彼らは秋までここで過ごすために、毎年やってくる。彼らは人と同じく、自分の意志で小さな土地に居続ける。どこへも飛んで行ったりはしない。

 

これはばかげたことなのか。頑固なのか。いや、ただ愛なのだ。裏切ることができないのだ。忠実なのである。チェルノブイリの汚染地区に、私たちは生きている。不幸や病気に抗して、生きている。土地は死んではいない。<o:p></o:p>

 援助の手を差し伸べてほしい

  生活に必要なものだけは奪い去らないでほしい 

病んだ土地に生活する人のことを覚えていてほしい<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第18回】心に秘めた願望 

2012年01月13日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(18

第三章  これもだめ、あれもだめ 】

<o:p></o:p>

心に秘めた願望 

エプゲーニ・ペトラシェ―ビッチ(男) 

ミノフビッチ中等学校十年生  カリンコビッチ地区<o:p></o:p>

  この森には何でもあった。草原は僕を引き寄せ、友だちと長い時間を過ごした。森はキノコの王国だった。しかし、今はすべて過去のものになってしまった。<o:p></o:p>

  僕たちの村、ミノフビッチでの放射能の測定値は五キュリーに達した。昔とは全く違う村になってしまった。チェルノブイリは僕たちから、平穏、未来への希望、幸福への確信を全て奪い去ってしまい、今はただ恐ろしい悪夢の時代になってしまった。<o:p></o:p>

 僕は学生でよく勉強している。僕や友だちが勉強することは、将来、新聞、ラジオ、テレビがいつも報道している禁止事項がすべてなくなってしまうことである。<o:p></o:p>

 大祖国戦争の時、ベラルーシ国民は多大な犠牲を払った。四人に一人が死んだ。残忍なるチェルノブイリは、何万もの人々の命を奪い去り、何万もの子どもを病院や診療所に叩きこんだ。テレビで親たちが、最後の望みをかけて、骨髄移植のために息子や娘を国外に連れて行く費用を協力してほしいと訴える様子は見るに堪えられなかった。<o:p></o:p>

血液のガン。これは治療の困難な現代の病気である。積み深いチェルノブイリは、とうとう僕にも甲状腺の病気をもたらしてしまった。今後、どのようになっていくのか、予測はできない。<o:p></o:p>

 最近、僕はアリョーシャ・クリ―ガのチェルノブイリに関する本を読んだ。彼はブラ―ギン地区病院の監査委員会のメンバーとして従事した時のことを書いている。その本のあるページに記載してあった診療登録されたカルテのデータは、心の痛みなしには読むことができなかった。<o:p></o:p>

 エレナ・D 一九八五年生まれ 線量 三九六レム<o:p></o:p>

 アンドレイ・G 一九八五年生まれ 線量 七八八レム<o:p></o:p>

 女の子や男の子が百名以上も、甲状腺の被曝線量の数字とともに並んでいる。何と恐ろしいことか。戦争があったわけではない。爆弾が落とされたわけでもない。地雷が炸裂したわけでもない。だが、子どもたちは死んで行っている。これが戦争でなくてなんであろう。恐ろしい。災難は音もなく、裏切り者のように忍び寄ってくる。<o:p></o:p>

 たちは何のために生きているのだろうか。森の中に入るのは禁止。草原で遊ぶのも禁止。魚釣りも禁止。しかし、生きることは許可する。人間の命はなにものにもまさり尊いと言いながら、農村の子どもが自分の血でのどを詰まらせている。ナローブリャの男の子が授業中に気絶する。ブラ―ギンでは先生が女の子の出血を止められないでいる。なぜ、こうしたことに目をそむけるのだろうか。<o:p></o:p>

 この不幸な子どもたちを救うために何ができるだろうか。<o:p></o:p>

 チェルノブイリの苦痛。この問題は永遠の課題になってしまった。僕たちはみな、チェルノブイリ、によって刻印をおされた無実の囚人である。このような生徒はベラルーシに五十万人いる。僕たちはストロンチウムに汚染されたリンゴを食べ、セシウム入りの牛乳を飲み、致死量の放射能に汚染された土の上を歩き、そこで遊んでいる。チェルノブイリの悲劇はわれわれの健康、魂、運命を損ない続けている。僕はこんなことが続くなんていやだ。僕たちはみんな、将来によりよい希望を持って生き、遊び、楽しみたいのだ。<o:p></o:p>

 一九九二年発行の『ベラルーシの民話』七号を読んだ。そこには心配なことが書かれていた。「放射能のもとでの生活は、青少年個人に対して不幸な爪痕を記すことになる」。<o:p></o:p>

 そこには学校で行われたアンケートの結果が掲載してあった。質問は「君の心からの願望は何か」というものであった。多くの子どもたちの答えは、次のとおりである。「お母さんが絶対病気になりませんように」「生きたい」「人々が健康でありますように」 ある少年は「早く死にたい」と答えた。<o:p></o:p>

 こうした言葉は、子どもたちを支援し援助する義務を放棄した大人たちへの告発状である。<o:p></o:p>

 「草木は茂るが、喜びはなくなる」、「何でもあるが、人はいない」ようなことにならないだろうか。<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

・・・・・・・・・・・・

資料:年明け早々放射性セシウム拡散で起きていること(小出裕章さんの非公式ブログからの転載)

 1月2日年末までの放射性セシウム線量をはるかに超える放射能が東北地方や首都圏で検出されています。以下は小出裕章さんのサイトからの転載です。毎日放送テレビの種撒きジャーナルでの小出さんのトークです。

http://hiroakikoide.wordpress.com/2012/01/11/tanemaki-jan10/

福島第一原発事故から10カ月、いま私たちがいかなる現実と直面しているか、今後も何年も何十年も向きあっていくのか、一体全体、国と東電はどれほど許しがたい犯罪をひきおこしたのかがあらためて確認されねばなりません。放射能は目には見えない。この恐ろしさを「目には見えない」ことをいいことに「事故の収束」だ、「健康に影響はない」「原子力緊急事態宣言は解除」「除染により帰還は可能」と隠蔽することは絶対に許せません。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第17回】  ジェミヤンキ村との別れ

2012年01月07日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(17

 

第二章  ゾーン  埋められた村

 

ジェミヤンキ村との別れ

 

ナタ―リア・ジャチコ――ワ(女) 

ビレイカ中等学校九年生

 

私はそれほど長く生きてきたわけではありませんが、その中でも、ジェミヤンキでの生活は素晴らしいものでした。この村はリンゴ、サクランボ、ナシ、スモモの新鮮な緑に埋もれており、今でも夢の中に現れてきます。

 

村の通りの両側には生垣がめぐらされていて、その根元にはエゾイチゴが植えてあります。この生垣の中へと私の足は自然に導かれます。ここジェミヤンキの人たちはなぜだかイチゴが好きなのです。夏は、生垣はつくられませんが、代わりにエゾイチゴの茂みが絶え間なく続きます。そして、その緑の葉の間には、真っ赤に熟れたイチゴの実が光っています。誘惑に負けて、大きな身をもぎ取り口の中にほうり込むと、甘いイチゴの味が幼い日の思い出を呼び起こします。四歳の私は母の言いつけを守らずに、こっそり生垣に入り込み、おなか一杯エゾイチゴを食べて最高の味を満喫していました。すると突然、「ナターシャ!またイチゴのところね!どうしたらあなたの悪い癖が直るのかしら」母の声です。驚いた私は、急いで生垣をくぐり抜け、木戸を開けます。すると目の前には草原が広がり、足元にはまるで夢のようなフカフカのソファが並べられています。キンポウゲやタンポポの黄色い雲、ナデシコのばら色、矢車草の青、カミツレの白い波。空色の忘れな草も点々と咲いています。私は思わず花の海に身を投げ出し、その中に顔を埋めると、喜びと幸せで口から歌がこぼれます。すると草原も歌い出したのです。キリギリスは高らかな合唱、ミツバチはブーンというすてきなバスの独唱。

 

草原はちょっとした高台にあり、そこからの眺めはすばらしいものでした。右手には金色のライ麦畑が広がっています。それはまるで、太陽が地面に降り立って、かろやかな一陣の風にそよいでいるようでした。そしてその先には、堂々とした森の壁がたっていました。森は、いつでもライ麦畑や草原や村、それにわがジェミヤンキ村の周りを流れる光の帯イプーチ川を守っていました。

 

私はよく、おじいちゃんのところの脱穀場へ急いだものでした。トラックが来て麦の荷降ろしをすると、みるみるうちに黄金色の山ができます。これを見るのが好きでした。次は麦を乾燥させている女の人たちのところへ全速力。走ってきた勢いで、金色の小麦の山へととび込み、頭が隠れてしまうまでもぐりこみます。口を開けて小麦の粒をほおばり、それをかみます。うれしくて目が細くなってしまいます。

 列車が急に止まり、私は目が覚めました。「もうゴメリに着いたの?」ママに聞くと、「ここはまだよ。まだねてなさい。ここはジロービンよ。ゴメリに着くのは朝になってからよ」と、やさしく答え、私に毛布をかけてくれました。わたしはまた目を閉じたのですが、いろいろなことが頭に浮かんできて、なかなか寝つけませんでした。外は深い夜でした。 

私は何回となくジェミヤンキに行きました。おじいちゃん、おばあちゃん、友だちそれに親戚の人たちにあえると思うと胸がわくわくしました。ここジェミヤンキで何度も夏を過ごしました。この美しい、幸せの里が私のふるさとになっていました。それなのに今では・・・・・。

 

チェルノブイリでの出来事を聞き、母がどんなに心配して泣いたかを覚えています。彼女は医者なので、村や住人にどんなことが迫っているのかよくわかったのです。しかし、その時、私は母の涙や悲しみを理解できませんでした。チェルノブイリの事故は、どこにでもある普通の火事だと思っていたからです。   事故後、はじめて村に行った時のことを覚えています。村には人の姿はありませんでした。人々はまるで、一番頼りになる避難場所は生まれた家だと言わんばかりに家に引きこもり、放射能から身を隠しているかのようでした。村の農家の多くはすでに窓がクギづけされていました。<o:p></o:p>

  

歩くごとに私の心臓は恐怖で凍りつきました。ここは本当にあの村なのだろうか。おじいちゃんの家に着くと、突然、物哀しい犬の遠吠えがしました。きっとこの犬の飼い主は、放射能を避けるためにここから出て行き、犬だけがここに戻ってきたのでしょう。その遠吠えと鳴き声は、怒りで死んだ人たちの物悲しい歌のようでした。

 

母は私のそばに近づき、頭をなで「泣かないでね。大丈夫だから」と言ってくれました。頭をあげると、母の目にも涙が流れていました。

 

おばあちゃんとも会いました。二人とも目に涙をためていました。放射能の断崖の墓穴に落ちぬようにとお互いの身体をきつく抱きしめていました。

 

私たちがビレイカに戻った時、不幸の知らせが襲いかかりました。父がチェルノブイリに派遣されたのです。父はまる二ヶ月間、放射能の真っ只中で仕事をしました。父は母には何も話さないように頼んで行ったのですが、私はうっかりくちをすべらせてしまいました。その時の母の涙は忘れられません。そして、おばあちゃんの涙も絶対に忘れることはできません。父はチェルノブイリへの出張で、甲状腺を被曝しました。

  夜明け。両親も弟も妹もまだ眠っています。悲劇の事故のあと何度もふるさとの村に行きました。今、また村に向かっています。我が家も家族全員で移住したので、村を訪れるのはこれが最後になります。おじいちゃんとおばあちゃんは、同じドブル―シ地区内のより安全な場所に部屋を借りました。私は、ジェミヤンキにおばあちゃんたちが残り、喜びと幸せが戻り、あの忌まわしい放射能が永久に消えるのだったら、何を差し出しても惜しくはありません。<o:p></o:p>

 空想をしていると、時間はあっという間にたってしまいます。気がつくとドブル―シに着いていました。「ナターシャ! ほら、そこに立ってないで。何を考えているの。こちらにおいで、バスが来たわよ」母の声が突然聞こえました。バスに乗ると、私は窓のそばに座りました。子ども時代を過ごした家に行くのはこれで最後になります。すべてを、どんな小さなことでも永遠に心に刻みつけたいと思いました。 

父と運転手さんの会話が耳に入ってきました。 

「いや、バスはジェミヤンキには行きませんよ」運転手さんは事務的に言いました。 

「どうしてですか。モロゾフカ行きのバスはジェミヤンキをいつも通っていたじゃないですか」 

「いつも通っていましたよ、前はね。今はダメ。ゾーンですよ。ゾーン。分かりますか」運転手さんは一語一語に分けてこう言いました。私の目には涙があふれました。もうそこには誰も住んでいないのです。<o:p></o:p>

 父がこちらに来たので、母は「どうしたの」と聞きました。「バスはジェミヤンキ経由では行かないそうだ」父は怒ったように答えました。「五キロは歩くことになるなあ」<o:p></o:p>

 

ゾーン!何ということでしょう。私のふるさとジェミヤンキもそうだなんて。危険地域、禁止地域、居住に不適な地区、生きることさえできないところ。<o:p></o:p>

 バスの窓の外に灰色の打ち捨てられた農家が見えてきました。いくつかの農家の木戸の柱にタオルが結び付けてありました。長い手製のタオルに簡単な刺繍がほどこされたものです。昔からタオルは民衆の儀礼や伝統とは切り離せないものでした。生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせたり、結婚式で新妻に結びつけたり、墓穴の底にそれを敷いて、その上に死者をいれた棺を降ろしたり、または墓の上の十字架にくくりつけたりします。そのタオルがここでは打ち捨てられた家の木戸に結びつけられています。家の主人の魂が永遠にここに残るというシンボルとして。<o:p></o:p>

 バスが突然停車しました。「ジェミヤンキに行く人はここで降りて下さい。バスはこれから迂回をします」運転手さんの声を聞いて、私たちは出口に急ぎました。外はきびしい暑さでしたが、なぜか寒気がしました。「これが最後だわ」心の中でささやきました。「すべて終わりなんだわ」<o:p></o:p>

 目の前に何か建物が見えてきました。そばに近づくと、検問所のようでした。遮断機のところで止まると、兵士が近づいてきました。<o:p></o:p>

 「どこへ行くんですか」大声で兵士は聞きました。

 「ジェミヤンキです。親戚の所へです」

 「名前は」 

ダビードフです」

 

兵士は長いこと名簿を繰ると、 

「レオニード・パーブロビッチさんですね?」突然、兵士は言いました。<o:p></o:p>

 「はい」<o:p></o:p>

 「どうぞ、通っていいです」<o:p></o:p>

 兵士が遮断機を上げ、私たちはゾーンに入りました。するとそこにバスが来て止まり、運転手さんが出てきて言いました。「リューダ、ジェミヤンキに行くんだね。乗りなさい。乗せて行こう」母は運転手さんの顔をびっくりしてながめると、母の同級生でした。まもなくジェミヤンキに着きました。おじいちゃんとおばあちゃんが首を長くして待っているはずです。<o:p></o:p>

 通りを歩くと、五十戸ある家屋のうち、人が生活しているのは、たったの三軒でした。ひとつはおじいちゃんの家、あとの二つはウクライナからの避難民の家だそうです。<o:p></o:p>

 故郷の家に入ると、涙がとめどもなく流れ落ちました。以前と同じはずなのに、とても悲しそうに見えるのです。庭に花はなく、あるのは低い木だけです。手入れがされなくなった芝生の中に生えています。もう少し庭を歩くと、つい最近まで実がなっていたリンゴも、ナシも、ほかのくだものも、実がついていないのに気がつきました。ただ、エゾイチゴの黄色くなった葉の蔭に、めずらしい野イチゴがぽつんぽつんと赤くさびしそうに見えるだけでした。菜園の向こうの草原には花がたくさん咲いているのですが、ミツバチも飛んでなければ、キリギリスも鳴いていません。私は悲しみと無力感から泣きたくなってしまいました。<o:p></o:p>

 ふと気がつくと、おばあちゃんがそばにいました。「ジェミヤンキ村はただのもりになってしまうのよ」と。何ということでしょう。「これでおしまいね。おばあちゃん、終りなのね。私たちの家族みんなに幸せを運んで来たものはもう絶対に戻って来ないのね」<o:p></o:p>

 「戻ろうか。ナターリャ。おうちにお別れしなくっちゃあ」おばちゃんは私にそう言いました。私はまるで夢の中のように、おばあちゃんのあとについて門の中に入って行きました。顔をあげるとドアや窓はすべて壊され、おじいちゃんは木戸に鍵をおろしていました。私の胸は張り裂け、心臓が外に飛び出しそうになりました。「ナターリア、お辞儀しなさい」、母の声が静かに聞こえてきました。見ると、母、おばあちゃん、おばさんは永遠に使われることのなくなった家に向かって、深々とお辞儀をしていました。おじいちゃんと父とおじさんは隣に黙って立ち、帽子をとり、頭を低くさげました。私は首から白いスカーフを外し木戸の柱に結びつけると、持ちこたえられずにしゃがみこんでしまいました。ひざは涙でびっしょりになりました。<o:p></o:p>

 私はバス停までどうやって行ったか覚えていません。私の前を小さい妹が走っていたのは覚えています。当時、彼女はまだほんの二歳で大人の心配や不安をまだ理解できませんでした。神様、妹の幼年期に影を落とさないでください。もうこれ以上、ふるさとや小さなかわいい国から追い出すようなことをしないでください。全能の神様、妹に幸せをお与えください。<o:p></o:p>

 

P・S 親愛なる審査員のみなさん! 

 ドブル―シ地区のジェミヤンキ村には、私の先祖が住んでいました。村の約半分は親戚にあたります。ジェミヤンキ村で、私の母、母の姉妹、おばあちゃん、おじいちゃん、ひいおじいちゃんが育ち、私の親戚も数多くここに葬られています。ベラルーシで、最もすばらしいこの土地で、私は幼年期を過ごしました。私は今、有名なヤンカ・クパーラの言葉を思い出しています。「神様!あなたはここに何というすばらしい世界を創造されたのでしょう」これはまさに私のふるさとのための文章です。私はビレイカに生まれ、ビレイカで育ちました。しかし、私のふるさとはジェミヤンキだと思っています。正確にいえば「幼年期を過ごしたところが、ふるさとになる」のです。ジェミヤンキで私の人生が始まりました。初めての言葉を話し、初めて立って歩いたのもここです。そして記憶にあるおばあちゃんの童話や子守歌。初めての友だち。そして、初めてのけんかも。

 

チェルノブイリの事故はすべてをひっくり返してしまいました。嵐のような猛烈な勢いで村人の平和な生活に乱入してきました。人々は最も大切なものに別れを告げ、長年住んできたところをあとにしました。明るく人のよい村人たちの代わりに、兵士が現れました。彼らはなぜか皆、同じ顔に見えます。そしていつも、人が住むのに適さなくなった場所でわざわざ危険な仕事をしているように思えました。まるでロボットのようでした。<o:p></o:p>

 チェルノブイリは私の人生の中で最も苦い一ページです。だから、コンクールのことを知ると、すぐ応募することを決めました。ほかの人とも苦しみや痛みを分かち合うことによって、少しでも楽になるのではないかと思っています。<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

 

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////<o:p></o:p>

 今年も当サイトのこの連載は続きます。全50回です。

次回第18回から「第三章   これもだめ あれもだめ」となります。<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第16回】灰の下で

2011年12月26日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙でゆきだるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ- 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第16回)

 

第二章  ゾーン  埋められた村  

 灰の下に 

ガリ―ナ・ユールキナ(女・十五歳) 

コロトロビッチ村 ジロービン地区  

  

当時七歳半だった私は、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に、ホイキニ地区ドロヌキ村に住んでいた。小学校一年生だった私のところにも不幸は突然やってきた。

 

朝、わたしはたまらなくのどが渇いて外に出た。家々の木々や土など周り一面、すべてのものは、灰色の薄い層におおわれていた。戦争が始まったのかと思った。地球上の他の子どもたちと同じように私も戦争は怖かった。はじめに考えついたのは、森に逃げて隠れることだった。私はおばあちゃんに、ずっと遠くの母のいるカザフスタンに脱げるように頼んだ。でも、おばあちゃんが賛成しなかったので、母は殺されたのかと思った。思えば思うほど恐ろしく、私は涙を流しながら叫んだ。

 

「ママやパパは生きてるって言って。まだ死んでないと言って」と。母は生きている。もうすぐ母のところへ行けると私はなだめられた。でも、誰も信用できず、知らない人が訪ねてくると怖くなり、恐怖で私の目は大きく見開くのだった。

 

今にも、誰かが「お譲ちゃん、パパもママも死んだよ」と言いだすような気がしていた。おばあちゃんはずっと泣いていたので、きっと母のことで泣いているのだろうと思っていた。

 

時々、私たちはホイキニに行き、そのあとミンスクに行った。私は検査を受けると、そこですぐ入院させられたが、病気のことは何一つ説明もなかった。

 

ある日、おばあちゃんとお医者さんの話を立ち聞きしてしまった。私は重体で、肝臓が悪いということだった。私は肝臓が肥大していることを初めて知った。約二カ月入院した後、医者の勧めるカザフスタンに行った。

 

しかしそこでも病から救われなかった。髪が抜け始めた私が、被曝しているとわかると、誰も友だちになってくれなかった。それどころか、「よそ者」とぞんざいな言葉を浴びせられ、どんなに泣いたことだろう。

 

カザフスタンにも長くは居ななかった。体調はずっとすぐれず、目がまわり、よく倒れた。医者はなすすべを知らず、私はベラルーシに帰らざるを得なくなった。今は、おばあちゃんとおじいちゃんと一緒に、ジロービン地区のコロトロビッチ村に住んでいる。

 

その後私の体は、さらにわるくなっている。胃も腎臓も肝臓も悪く、甲状腺肥大も進んでいる。

 

私は何度も「子ども救援基金」に手紙を書き、療養所の利用権をお願いしたが、すべて無駄だった。そして私は、ジロービンの病院で治療を受けざるを得なかった。

 

体の痛みのほかに、心の痛みも鮮烈に残った。あの時の自分の涙、両親の涙、祖父母の涙、近くに住む人々の涙・・・・・。すべてはっきりと覚えている。ちょっとした物音がしても、敵ではないかと怯えたものだ。病院での長い日々も忘れることはできない。子どもたちからあだ名で呼ばれた時の屈辱も。

 

心の傷は時間がいやしてくれるかもしれない。確かに痛みは治まって来ているが、忘れ去ることは決してできない。

 

まもなく十六歳になる私に、恐怖がつきまとう。病気と直面している恐怖である。突然変異についてよく耳にするが、自分の未来の子どものことも心配だ。その可能性があるのではないかと恐怖はひろがる。

 

被曝した人は大勢いる。私と同じようにののしられた多くの「よそ者」が同じような思いで生きていることだろう。世界のすべての人々に訴えたい。

 

「みなさん、考え直してください。過ちは犯さないでください。原発をつくらないでください。核兵器をつくらないでください。ヒロシマやチェルノブイリを思い出し、その結果起きたことを考えて下さい子どもたちのことを考えて下さい。 

相互理解と平和を達成することは、果たしてそれほど困難なことでしょうか。エネルギー源を他に求める道は本当にないのでしょうか。考えて下さい。

 

ごく普通の女の子の叫びを聞いてください。私たちの惑星を守るのを手伝ってください。<o:p></o:p>

 

本当にお願いします。本当に・・・・・・・・」と。

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第15回】ぼくのコウノトリはどこにいるの

2011年12月23日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

 -子どもたちのチェルノブイリ- 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(15

 

第二章  ゾーン  埋められた村

 

僕のコウノトリはどこにいるの

 

パーベル・チェクマリョフ(男) 

第一中等学校八年生  ドゥブルシ町<o:p></o:p>

   

   飛んでいく 渡り鳥が 

   遠い秋の青空を

 

 鳥が耳をつんざくような別れの鳴き声をあげて飛び去るのを見ると、僕はいつもこのミハイル・イサコフスキーの歌詞を思い出す。そして、僕はなにか寂しさを感じる。 

だけど春になって彼らが自分の巣に戻ってくると、僕はこの羽根をもったお客さん一人ひとりにキスをしたくなるのだ。

 

村のはずれにレンガづみの高い煙突がある。ずっと昔に全焼してしまった農家に残っていたものだ。僕の生まれたころにはもうすでに、その墓標のような煙突だけがそこにあった。この煙突のうえに、巨大なキノコの形をした帽子のようにコウノトリの巣があった。コウノトリは草原を堂々と歩き、また道に静かに立ち止まっては、何か考え込んでいるように見える。「コウノトリは哲学鳥だ」と僕たちの先生は言っていた。

 

僕の父は魚釣りが好きだ。夜に釣り道具を準備し、夜明けに、湖に出かける。その日、僕はどうしても父と一緒に行きたくなって、連れて行ってもらうために、一晩中寝ないでいた。そして明け方、父の運転するオートバイに乗って出かけた。コウノトリの巣のそばを通りかかったとき、コウノトリはもう赤い足で草原を歩きまわっていた。 

霧がかかった湖は、なんて気持ちがいいんだろう。葦や青い柳はまだ眠りこんでいるみたいだ。一枚の葉さえ、そよいでいない。 

やがて僕たち二人は、黄金色に輝くたくさんのフナを針金に通し、それを手に得意げに家に帰った。たまらなく暑い日だった。巨大な夏の熱い太陽が満天に燃えているかのようだった。この輝きが災いをもたらしたのである。

 

このような太陽を今まで一度も見たことはなかった。僕は最後の魚釣りを一生忘れないだろう。

 

奇妙なことだ。僕は太陽が好きだった。寒いとき、湿っぽいとき、いつも太陽を心待ちにしていた。しかし、今は、太陽が空に大きく、鮮やかに輝くのを見ると、恐ろしさを感じ、ぞっとするようになった。一人ぼっちになってしまったコウノトリ。全てが変わってしまった。コウノトリは家を捨てて避難して行った人々を見送った。荷物を積んだ車を黙って見送りながら、コウノトリは「人間も渡り鳥になっちまったのかい・・・?」と不思議に思ったに違いない。村の家々の窓は十字に板が打ち付けられた。まるで村全体が大きな墓場になってしまったみたいだ。解体された農家にはレンガづみの煙突だけが多数残り、今となってはそれは薄気味悪くそびえ立つ記念碑になってしまった。しかし、そのただの一本にも、鳥の巣はできなかった。

 

もう湖には行けない。その代わり、僕はよく他のいろんな所に行く。僕の知らない所、つまり「非汚染地区」へだ。多分これはいいことだと思う。いろいろな土地、いろいろな人と出会えるからだ。僕には新しい友だちもできたし、新しい通りにも慣れた。しかし、心から楽しむことはできない・・・・・・。

 

でも、あの思い出は、僕をいつも深い愛情に包んでくれる。それは、僕が同学年の何人かと一緒にドイツに行く機会に恵まれ、絵のように美しい村の、親切なブリギッタさんの家に滞在したときの思い出だ。彼女は僕のことを息子のように愛してくれて、いつも美味しい料理を腹いっぱい食べさせてくれた。ブリギッタおばさんはロシア語が分かり、僕と喜んで会話をしてくれた。彼女は歴史の話を面白おかしく話してくれたりもした。僕がうるさく何かをせがむ時も、彼女は、僕のカーチャおばあちゃんみたいにほほ笑みを絶やさなかった。いつもは明るく陽気なブリギッタおばさんであったが、ただ一度だけ、僕が犬と遊んでいる時、なぜか彼女は黙って僕を見つめ、泣いていた。

 

暖かい海、雪をかぶった山々、エキゾチックな村、飾り立てた船が行き来する大きな川、僕はいろんなものを見た。僕はたくさんの町を訪れ、たくさんの人と出会った。いかし、どういしても僕の目の前には静かな湖が浮かんでくる。鏡のように透きとった水、青々とした柳、そして道には、長い尾の「哲学する鳥」がいる。

 

 またあるとき、急行列車で僕を別の町につれて行ってくれたりもした。そこにはきれいな空、きれいな空気があるけれど、そこは僕のふるさとではない。列車の窓際に立っていると、向こうの空から鶴がこちらに飛んでくるのを見た。彼らは事故について何か知っているのだろうか・・・・・。 

皆さん、僕たちは一体何をしてしまったのでしょうか。神様、生きる力を与えて下さい。 

罪深い僕たちを許してください。<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第14回】  僕の血の中のチェルノブイリ

2011年12月17日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第14回)

 

第二章  ゾーン  埋められた村<o:p></o:p>

 

僕の血の中のチェルノブイリ<o:p></o:p>

 

キリル・クリボーノス(男・十五歳) 

ネシャチ中等学校十年生  クリチェフ地区

 

 

 

 

 物理の授業の時だった。授業のテーマは「放射能照射の生物学的影響について」だ。「放射能」「線量」「アイソトープ」「キュリー」「セシウム」「ストロンチウム」「チェルノブイリ」などの用語が響き渡る。「生きた細胞は複雑なメカニズムであり、一部の損傷によってもその活動を維持できない。また、ごく小さな変化でさえも細胞に深刻な影響を与え、重大な病気を引き起こす可能性がある。放射能が高度に集中すると生きた組織は破壊される。致死量の線量でさえいかなる痛みも感じないという点が、放射能照射の危険性をさらに大きくしている」<o:p></o:p>

 

    ※ アイソトープ:同位体。同位元素。同じ元素であっても、中性子の数  が違うため質量が違う元素をいう。また放射線を出す同位体のことを放射性同位元素という

 

 ふと気がつけば、これらすべての用語を僕はずっと以前から知っている。そうだ。ずいぶん前なのだ。それは僕がまだ幼いころに、するりと僕の意識に入り込み、僕の心のすみずみにまで浸透したのである。放射能は目には見えないが人を殺すことができるほどの危険な悪魔の力を持っている。そしてそれは、親戚や知人の命、ふるさとの命を一気に抹殺できる力を持っているということも、僕にはよくわかっている。

 

 そして今、物理の授業で、それがまさにその通りであるということをもう一度確認した。しかし、一九八六年六月当時は、僕は多くのことが分からなかった。七歳だったから理解できるわけもなかった。だが、僕には多くのことが永遠に忘れられないものになってしまった。当時僕は、母の故郷であるクラスノポリシーナのクリベリック村に祖母や祖父と一緒に住んでいた。そこはソシ川のそばのすばらしいところだった。集落は大きな森に囲まれていた。そこには整然と並んだ背の高い松や、とうひの木があった。白樺もあった。僕はとくに松が好きだった。それは滑らかで、高く伸び、その幹は赤銅色の光沢をもっている。それ以前にはそのような木は、有名な画家の作品でしか見たことがなかった。森は数キロにわたって広がっている。その森のはずれには草がびっしり生え、花の香りがいっぱいの広大な緑の牧草地がある。そして、そのまた向こうに銀色に輝く川の帯が見える。僕は祖父と一緒に馬に乗ってそこへ行き、干し草を蓄えておいたり魚釣りをしたりした。祖父は岸のそばで水遊びをさせてくれたものだった。

 

クリベリック村は大きい。村の中心を貫く通りは一キロ半にもおよび、その通りに沿って、きれいな家が建ち並んでいる。その反対側には小さな公園があり、その隣には巨大なネコヤナギの木がある。祖母と祖父の家はお菊手明るい農家である。中庭もよく手入れされている。家の前には広い壁もあってそこにはリンゴ、ナシ、スモモ、スグリ、グズベリーの木がある。家の窓の下にはいろんな色が塗ってあり、祖母のお気に入りだった。少し向こうにはイチゴの畝がある。そこは僕にとってどこよりも魅力的な場所だった。しかし、その年には祖母は僕をそこに行かせてくれなかった。イチゴは放射能があるから食べてはいけないという。僕は注意深く、赤く輝くみずみずしいイチゴを窓から見て、放射能を見つけようと努力した。でも、恐ろしいものなど何も見えなかった。祖母が家事に忙しいとき、ぼくはこっそりと畝に忍び寄った。わずかに熟れたイチゴを次々につみとって、大満足で口にほうり込んだ。祖母は僕を見つけて菜園から追い出し、いろんなことをののしった。どこかの誰かの発明を、原子力のことを。

 

 

その日、僕は祖母に早く伝えたくて、友だちのところから急いで走って帰った。サーシャの家に知らないおじさんたちが大鎌を持ってやって来て、イチゴの畝を全部刈り取って行ってしまったのだ。彼らを打ちの菜園に入れないように、祖母に頼んだ。しかし、おじさんたちはうちにやって来て、イチゴを根こそぎ大鎌で刈り集め、車に積んで行ってしまった。僕は泣いた。祖母も一緒に泣いた。

 

間もなく両親が僕を迎えに来て、家に連れ帰った。夏休みが始まったばかりだというのに、なぜ村を離れなければならないのか分からなかった。

 

 僕はもう、二年も村に行っていない。祖父が僕の家に来て、村のことを話してくれた。馬のセ―リィと牛のゾリカはもういない。家のそばの畝もなくなった。そこは二回除染され、表土が取り去られた。その後しばらくして、祖父と祖母は僕たちと一緒に住むことを決めた。クリベリック村から最後の住人が出て行く日が来てしまったのだ。

  

最低限必要な物だけが持ち出しを許可され、すでに集められていた。祖父の家には親戚が集まった。彼らはモギリョフ州ドリーピン地区に引っ越すのだ。親戚の人々の目には苦悩と悲しみの色が濃かった。みんな泣いた。祖母は打ち捨てられる家の周りを歩いては涙を流し、祖父はしょんぼりと中庭をぶらついている。大祖国戦争のことを思い浮かべ、融資に与えられた勲章を持ちながら。カrにとっても、敵がどこにいてまぜ逃げなければならないのか、理解できない様子だった。「どうしてここから逃げなきゃいけないんだ」と、祖父は誰にともなく茫然とたずねた。

 

魂が抜けたようになった祖母を車に乗せ、家や、まだそこに残る親戚、知人たちに別れを告げた。目の前の道は永遠に人の住まない故郷の村に通じている。平坦なアスファルト道を走ったが、一台の車にも出会わなかった。

 

大きなノポリエニ村にさしかかった。人々が見捨てた家々が、空っぽの姿で私たちを見下ろしている。以前は、学校、マーケット、病院、薬局だった建物もある。だがどこにも人の姿はない。恐ろしさを感じた。

 

捨てられた村の通りにはヨモギギク、いらくさ、ヨモギがびっしり生えていた。放射能に汚染された土地にはこれらの祝物しか生えることができないようだ。地区の中心にあるチャウサにたどりついた。牧草地や牧場には、家畜が一匹も見当たらない。人はどこにもいず、気味の悪い静けさだけが支配している。鳥の鳴き声もしない。多分、鳥たちもどこかに移住してしまったのだろう。

 

もう三年も祖母と祖父は僕たちと一緒に住んでいる。彼らの会話に最も出てくるのは、「あそこでは」という言葉である。年寄りにはこのような宿命になじむのは困難なことだろうと思う。

 

不吉なチェルノブイリの影が僕たち全員を包み込んでしまった。モギリョフではこの不幸を負わなかったところはない。唯一、クリチェフ地区だけが比較的安全な地帯と考えられている。しかし、あくまで相対的な話に過ぎない。この場所もすべて、放射能の「黒い斑点」の中にある。直接的な意味でも、比喩的な意味でも、チェルノブイリは僕の血の中にあると、僕はそう思い始めている。

 

一九九一年初め、共和国保健省から派遣された医師団が僕たちの学校を訪れ、医療検診が実施された。多くの子どもに甲状腺肥大が見られた。僕にもこの病気が発見された。クリチェフ地区病院で一クールの治療を受けた。その年の夏、僕は「チェルノブイリの子どもたち基金」によって、黒海沿岸の保養地トゥアプセのピオニール・キャンプ「ォルレー・ノック」に行くことができた。四十日間、ベラルーシノさまざまなところから来た男の子、女の子たちとそこで休養した。そこで気分はよくなった。しかし、チェルノブイリによる故郷の不幸や災難で苦しんでいる人のことを思うと胸が締め付けられる。

 

僕の心の中から抗議と絶望の叫びが聞こえてくる。ついに、この地で生命が尽きてしまわぬように、そして、今は死んでいる町や村が再び命を取り戻すように、あらゆることをしなければならない・・・・。まさにこれこそ、僕が物理の授業で考えたことだった。<o:p></o:p>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《東日本大震災救援対策本部 ニュースからの転載》

208号(2011.12.17)の転載
                 

概要はニュースオモテ・ウラの画像を参照してください。下記のワンクリックと「フアイルを開く」選択で記事がごらんになれます。

 ☆おもて  http://www.geocities.jp/shinsaikyuenhonbu/honbu208omote.pdf

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                12172img_291382_7138128_1
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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第13回】 殺されるまぎわの馬の悲鳴

2011年12月14日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第13回)

 

第二章  ゾーン  埋められた村

 

殺されるまぎわの馬の悲鳴

 

ガリ―ナ・ポチチェンコ(女)
 ホルメチ中等学校十一年生  レチツア地区

 私は、人々が避難した直後にゾーンに入って働いた、ある人の話を書きたい。 以下は彼から聞いた話である。

 

 私は当時運転手として働いていた。 

 ある日の朝、誰かが家のドアをたたいた。ドアを開けると、警察官の制服を着た背の高い人が立っていて、「あなたは○○さんですね」と尋ねた。 

 「はい、そうです。私に何かご用ですか」 

 「私たちと一緒に来て下さい。必要なものは全部持ってきてください。あなたを連行します」

「どこへですか」私は気が動転した。 

「あとで分かるでしょう」 

 私は、言われたとおり準備し、しばらくのちに出発した。 

 「どこへ行こうとしているんですか」わたしはたびたび質問した。 

 「まあ出張だと思って下さい。あるものを運ぶんですよ」

 

 目的地に着くとダンプカーを与えられ、朝まで休むように言われた。初めて着た場所だった。そう遠くはないところに、座っている男たちの集団を見かけ、近づいて行った。私の目にはそれが不思議な光景に見えた。彼らはすわって、何かを飲んでいた。なんと、それは強い酒だった。そのすぐそばには、警察の車がとまっている。 

 「何で酒なんか飲んでいるんだい。警察が隣にいるじゃないか」私は驚いて言った。彼らは私をどろんとした目で見上げ、 

 「お前さん、たぶん新米だね」と言った。「まあ、こっちに来て座れよ。恥ずかしがらないで。あした、みんな、わかるさ」 

 彼らの中には制服を着ている者もいた。相変わらずちんぷんかんぷんだった。 

 翌朝、私の仕事についての説明があった。

 

 住人は誰もいなかった。この放射能ゾーンから出て行ってしまったのだ。彼らは長年の労働によってためた財産を投げ捨てて、脱出した。家は家具をそのままにして建っている。納屋には牛が鳴き、羊が鳴いていた。コルホーズの畜産場には家畜がそのまま残されていた。 

 私と私の相棒たちの仕事は家畜を運び、殺すことだった。私たちが牛や豚を運び、崖のふちに降ろすと、そこに立っている軍服を着た人たちがすぐさま射殺するのであった。<o:p></o:p>

 

最初の夜、私は家畜の悲しい鳴き声と自動小銃の音が耳から離れず、なかなか寝つかれなかった。こんな恐ろしい光景は今まで一度も見たことがなかった。 翌朝は、馬を運んでくるよう命令された。この日のことを私は永久に忘れることができないだろう。

 

 

馬が涙を流して泣くのを聞いたことがあるだろうか。めったにない光景だ。かれらは泣いた。号泣した。小さい子どものように。馬を荷台にあげると、かれらは運転席の上に頭を横たえる。まるでどうにかして体を安定させようとしているようだった。馬の惨めな号泣は私の魂を痛めつけた。かれらは崖から突き落とされ、骨は粉々になるのだ。私はたたずみ、両手で顔をおおい、大声をあげて泣いてしまった。私はそれまでそのように泣いたことは、一度もなかった。火炎放射気が馬を焼いた。馬の苦痛を和らげるかもしれないが、それは地獄そのものだった。

 

私は酒を浴びるように飲むようになってしまった。私はそこで働いた二週間の間に頭は真っ白になってしまい、妻でさえも私を分からなくなったくらいだった。私は死ぬまでこの大量殺りくを忘れられないだろう。夜になると、夢に現れる。悪夢は続いている。

 

この話は私の心から離れず、三日もの間われに返ることができなかった。今でも耳元では「馬は運転席の上に頭を横たえる。まるでどうにかして体を安定させようとしているようだった」の言葉が響いている。私は彼の身になって考えたい。私はとてもつらい気分になり、彼の話の印象を詩に書いた。

 

 チェルノブイリ! 

 おまえはどれだけの悲しみと鳴き声を 

 家々にもたらしたことか 

 誰かが言った 「失敗だったのさ」 

 誰かの心が痛む 誰かの 

 このようなことは二度とあってはならぬ<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第12回】  ベラルーシの運命はわたしの運命

2011年12月12日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ- 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(12

 

第二章  ゾーン  埋められた村<o:p></o:p>

 

ベラルーシの運命は私の運命

 

オリガ・ゴンチャロ――ワ(女・十六歳) 

第十八中等学校九年生  ボリソフ町


  

 

 一九八六年四月のある夜、静かな森、松林、青く染まってきた畑、花が咲き始めた公園、家々、学校、病院の屋根に、チェルノブイリの灰が襲った。事故処理の戦いに、何千もの人が動員された。内務部につとめていた私の父も危険地区に派遣された。当時は、父がなぜこんなに長く家を空けたのか、理解できなかった。私はまだ二年生になったばかりだったからだ。父、つまり警察曹長アレクサンドル・ミハイロビッチ・ゴンチャロフが家に帰れなかった理由は、彼が持ち帰った証明書にこう記されていた。「ホイニキ内務部地区の三〇キロゾーンにおける任務を遂行していた」ためだと。

 

父が知らないおじさんと帰って来たときのことをよく覚えている。そのおじさんは、しゃがれ声でミネラルウオーターをたくさん飲んだ。医者がそう助言したそうだ。彼はポレーシェの空になった村のこと、置いてきぼりにされ、どう猛な唸り声をあげながら森や野原をさまよっている家畜のこと、得体のしれない掠奪者のことなどを話してくれた。

 

二年後、父は再び私と母のもとを去った。今回はミンスクの病院であった。家の中ではチェルノブイリという言葉がよく話されるようになった。 

一九八九年、父に恐ろしい診断が下された。脊髄悪性腫瘍。ミンスクの医者は手術を拒否した。そのため、父は彼の妹たちと一緒にモスクワに行った。入院したいと思ったからだ。モスクワでは驚いたことに、「なぜ、ここに来たのか。私たちにはソ連全体の人を治療する義務はない」と言ったのである。 

父の手術をやってもらうために叔母たちは、屈辱に耐え、わいろを贈り、涙を流してやっと手術を認めてもらった。しかし、その手術も父を助けることはできず、症状はよくならなかった。 

親戚の人が、外国での治療の可能性を探し始めた。アメリカへの道は長く困難なものだった。けれども、アメリカのミシガン病院で、父は二ヶ月間治療を受けることができた。 

私は夜も昼も、大西洋の向こうからの便りを待った。私は際限もなく、大人に「どうしてパパはこんなに長く家にいないの」と聞いてまわった。彼らは、チェルノブイリがかれをそこにひきとめているのだと答えた。 

長く待った再会であった。父は陽気になり、希望にあふれて帰って来た。うまく体を動かせるようになっていて、私たちは父が春までには完治することを期待した。そして彼の話を、遠い国で会ってきた外国人の事こと、思いやりのある親切な人々のことを、私たちはまるで魔法にでもかけられたかのように」聞いていた。

 

父を治療したアメリカの医者が、モスクワの医学界の権威に手紙を書き、その中で父の治療の継続を要請した。しかし、その有名なモスクワの医者は言った。「私に何をしてほしいのですか。あなたはもういけるところまで行ったじゃないですか」 

結局父は医療援助から見放されてしまったのだ。彼の具合が悪くなり、母は父のめんどうをみるために仕事を辞めた。医務委員会が父を第一級の身体障害者であると認定したからだ。証明書には、「チェルノブイリ原発事故の処理作業に伴う疾病」と書いてある。二年間、父は身体障害者であり、私たちは父の年金で生活した。 

一九九三年三月、父はまた入院した。主な病気にもう一つ病名がついた。肺炎である。夜も昼も医者が父のベッドに付き添っていた。生のための闘いはほぼ二カ月続いたが、三月二十八日、父は死んだ。死の一時間前、医者が父に質問した。「気分はどうですか」「いいです」と父は答えた。誰も彼の愚痴を一度も聞いたこともなかった。誰も彼の涙を見たことはなかった。

 

こうしてチェルノブイリは私から父を奪ってしまった。そのうえ私の誕生日さえも。父は私が十四歳になったちょうどその日に死んでしまった。どういうことなのだろう。この質問を権力者たちにぶつけたい。平和の時期なのに、なぜ、父を奪うのですかと。答えて下さい。私は父の温もりとささえがほしい。父と一緒にお正月の前にモミの木の飾り付けをしたい。私の誕生日に、お祝いの食卓を一緒に飾りたい。なのに私は、父の墓にモミの木を飾らなければならないし、自分の誕生日を放棄しなければならない。その日は父の命日になってしまったのだから。数百万の人を放射能の地獄にたたきこんだ責任ある指導者、権威ある科学者は今、どこにいるのか。

 

チェルノブイリ事故の立役者は、陰に隠れてしまった。今も多くの人に押し付けた大変な苦しみを思い出そうとせず、その責任をとろうともしない。チェルノブイリがもたらした災難に関わっているのは、きちんとした良心的な人ばかりではない。権力を持っている人の多くは、自分のことだけを考えている。あっとえば、「国家に対する非常に重要な功績」なる理由で多くの年金を受け取れるような政令を考えついた。彼らがいったいどのようなじゅうような仕事をやっているのだろう。ただ、狡猾な法律や決定をつくりあげているだけ。チェルノブイリの被災者は、役人どもが考えついた法律では生きていけない。ことに私の家族はそうである。

 

母が父の面倒を見ていた間は勤務継続期間になっていたが、元の職場に母の場所は残されていなかった。父の死後、母はやっと掃除婦の仕事を見つけた。この国の法律とはこんなものだ。

「法律の父」(※法律に関する仕事をしている人の中でも権力を持っている人)は、認識しているだろうか。出生率が下がり、死亡率が急激にあがっていること。通りには労働している人よりも、酔っ払いの方がはるかに多いことを。 

私は理解した。大人の生活には多くの嘘がある。私は、人間の嘘、残虐性、良心の無さを測ることができる計測器を発明する学者が現れることを期待している。そうなればようやく、賢く、親切で、謙虚で、思いやりがある人が政府の指導者になることだろう。

 

父は彼の短い人生で、つらい時に助けてくれる多くの立派な人と出会った。それはベラルーシ労働組合の指導者ウラジーミル・ゴンチャリさん、ベラルーシ赤十字総裁I・レーピンさん、「チェルノブイリの盾」協会副会長S・サゾンコフさん、国連ベラルーシ代表ゲンナ―ジ―・ブラフキンさん、他の多くの人々である。 

また、遠いアメリカの新設ですぐれた人々の名前も列挙する。ヤビフ・サジッチさん、ビューラ・アートンさん、カーチャ・マズ―ラさん、リンダ・ロジャーズさん、ステファニ―・ブレバーさんたちである。

 

チェルノブイリは、私の生活だけをだめにしたのでないことはわかっている。私の祖国ベラルーシの大地の三分の一を奪い去った。傷ついた私の祖国国民から、私は切り離されるものではない。ベラルーシの苦痛は、私の苦痛であり、ベラルーシの運命は私の運命なのである。<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第11回】ドミトリーおじさんのゾーンでの話

2011年12月09日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第11回)

 

第二章  ゾーン  埋められた村

 

ドミトリーおじさんのゾーンでの話

 

リュードミラ・ラプツエービッチ(女) 

第一九七中学校十年生  ミンスク市

 

ベラルーシの人々と他の国の人々は、重い試練を受けることになった。それはわたしたちが自らの運命を身をもって知ることになった原子力発電所の事故による、深刻な被害のためです。チェルノブイリの灼熱に倒れた人々に対して、弔意を表したいと思う。

 

私たちが生活し、働いているすぐそばにリクビダートルと言われる人々がいる[ ※リクビダートル:事故の後、消火作業や後片付けに動員された軍人や労働者のこと。六十万人を超える人々が動員された]。私はおじさんのドミトリー・ゴロツコフのことについて話をする。

 おじさんは、最初のミンスク警察部隊に一員として、一九八六年六月に、チェルノブイリ三十キロゾーンに入っていった。舞台は軍曹七十人、将校五十人で構成されており、事故処理には、ロシア、リトアニア、ラトビア、その他の旧ソ連の共和国の人々が参加していた。彼らの言葉や車のナンバーから、何処から来たか分かったそうだ。時には救急車や警察、軍隊などの車両二千台が縦隊列を組んで進んだこともあったという。

 

半径三十キロに住む人々は、避難する際に家畜も連れて行ったが、犬や猫は連れて行くこともできず、そのまま放置された。それらはやがて野生化し、危険になったため、駆除のための作業が行われることになった。人々がいなくなった村には長年にわたって少しずつためられた家財道具が置かれたまま、住む人もなく、ひっそりと家が建っていた。不幸な運命によって、人々は故郷から追い出されてしまったのだ。 

一九八六年の夏は、天気がよく、暑く、南風が吹いた。しかし、広大な土地、広大な畑は、もはや誰をも喜ばせなかった。 

チェルノブイリの事故のずっと以前、年寄りたちが語ったことがある。『全てのものが豊富になるときが必ず来る。しかし、そのとき、それを食べることもできないし、使うこともできない』と。 

誰もこの予言を信じる者はいなかった。しかし、今まさにこの恐ろしい予言のときが来た。すばらしい天気と、人々の勤勉な労働によって、畑や菜園には食糧が満ちあふれた。人々は放射能のことを知りながらも、その危険性については分かっていなかった。汚染は目には見えない敵だったのだ。

 

新聞、雑誌、本などでは、リクビダートルたちが、災害を克服するために働き闘うのがいかに大変だったか、ということをよく目にする。しかし彼らの日常生活や食料などの条件がどうだったのか、ということについては紹介されることはない。<o:p></o:p>

 

最初のミンスクの部隊では、二十五歳から四十歳の男性が働いていた。昼食には、328グラムの肉の缶詰が二人に一個の配給しかなく、これではとても足りなかった。そのために、彼らは打ち捨てられた菜園で、汚染された果物をちぎり、それを井戸水で洗い、防護シートでふき、食料にしたのだ。空腹がそうさせたのだ。危険だ!恐ろしいことだ!しかしこれは事実なのだ。

 

ドミトリーおじさんの話では、警察の部隊の服装は、病院の白衣のようなものを着ただけのもので、他の作業員との違いといえば制帽だけ。夜の勤務の時は、ゴム製の軍隊の防寒服が与えられた。昼間は暖かいが、この勇敢で忍耐強い、しかし半分飢えていた人々にとって、夕方や夜の勤務の時の寒さは、防寒服を着ていても凍てついてしまいそうだったという。 

たき火は禁止されていた。空気中に放射能が舞いあがるからだ。家を捨てて行ったある農民がからえらのために、納屋の鍵を預けていった。おかげで寒い夜の時など、彼らは干し草やワラの中で暖まることができた。

最初の部隊が撤収する三、四日前に、食料の基準をそれまでより四倍にしなさいという、厳しい命令が出された。この命令により、交替した次の部隊からは最初の部隊のような衣服や食料の困難はなくなった。

 

三十キロゾーンでの秩序維持と財産の保護のために働いた人々には、警察に限らず、武器が必要だった。しかし、最初のリクビダートルァたちは、任務を遂行する際、それらの武器を持っていなかった。次に後退した部隊からは状況が少し緩和されることになった。

 

着任後、おじさんが所属していた部隊の仕事は、まず自分たちの基地をつくることだった。その後、警察部隊は農民の財産を泥棒から守る任務に就いたが、警備が手薄な家は泥棒に荒らされた。よそから来た悪者が、何とかゾーンに入り込み、ベラルーシノ街の市場で売りさばこうと、菜園から作物を盗むのだ。

 

ゾーン内の主要な道路は民間警察によって閉鎖されていたが、小さな田舎道や森の中の小道がたくさんあったため、侵入者が後を絶たなかった。そのためリクビダートルたちは木を切り倒して杭にし、それでワイヤーを張った防護柵を設けたりもした。

 

その地区の役所が、住民が中に入り自分の持ち物を持ち出すのを許可することがあった。その際にも、リクビダートルたちはその運搬の手伝いをした。また、ゾーン内には移住したがらない老人が何人か住んでいて、その老人たちにパンを運ぶのも彼らの仕事だった。 

それ以外にも、たくさんの苦難が待ち受けていた。 

泥炭の火事がたびたび起こったので、消防士は苦しみながらも、手を休めるひまもなく消火に従事した。また散水車や消防車は、放射能のほこりを固めるための洗浄水溶液を絶えず道に散水し、土地の除染に努めたのだ。 

このようなつらく危険な条件の中にもかかわらず、リクビダートルたちは週に一回、壁新聞を作っていた。おじさんはこの編集に携わっていた。

 

ちなみに任務解除後の、一九八六年六月二十二日付警察新聞「十月の警備」紙で、厳しかったことについて書いたおじさんの詩が、コンクールに入選していることが報道された。 

リクビダートルたちの日々の疲れをいやしたのは、サッカーのワールドカップの試合だった。夕方や夜に働いたリクビダートルたちは、朝、再放送を見ることができた。これは悲しみを取り除き、力とエネルギーと気分を高揚させるものとなったそうだ。<o:p></o:p>

 

おじさんは三十キロゾーンから移住してきた人々の苦しみについては書いていない。これはまた別の違ったテーマだからだ。 

一つだけ紹介しよう。

 

非常に危険な汚染地区(ホイニキ地区ストレチボ、ベリーキー・ボル)からの移住者のために、争い事もなく、家や学校が建てられた。しかし、一九九一年には、そこも居住不可能であると宣告されてしまった。

 

チェルノブイリの被害を分析するのは困難である。それを計測するのは不可能に近い。しかし、不幸は現実であり、誰の目にも明らかである。被っている損害は長い将来にわたって続く。<o:p></o:p>

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がんばろう!さようなら原発1000万人署名
12・10集会

東京・日比谷野外音楽堂
と き 12月10日(土)

オープニングコンサート午後1時15分~
午後1時30分開会
※40分程度の集会後にデモ
主催/さようなら原発1000万人アクション実行委員会 

3・11福島県民大集会

郡山開成山球場で開催

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郡山開成山球場は観客席総数19960

グランドまで埋め尽くせば・・・・福島原発事故から1年、フクシマの怒り、私たちの怒りはどんなスペースにもおさまらない!

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第10回】・・・・根が切り取られたのがくやしい

2011年12月07日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(10 

第二章  ゾーン  埋められた村

 

根が切り取られたのがくやしい

 

ユーリア・トボルコーワ(女) 

モシュコフ中等学校十年生  クレック地区

 

僕たちは同じ巣の鳥 

僕たちは世間にまきちらされた 

 V・シェルコシートヌイ

 

 学校に入ったばかりの小さな女の子を想像してみて下さい。 

 わたしはチェルノブイリ原発の事故をどんなふうに知ったのか、それだけは覚えていないのです。確かに時間目が終わったとき、その日の授業がもうないことを知らされました。私たちはとても喜んでいて、なぜ先生が泣きはらした目をしているのか、なぜ外で歩いてはいけないのか、まったくわかりませんでした。

 

 次の日の朝から、今までになかったことがいろいろ起こってきたのです。 

父は前の夜帰ってきませんでした。父は度々電話をかけて来て、母と長い間話していました。母は泣きながら、バッグに食料品や衣類を詰めているだけでした。夕方の九時、アパートの出入り口にバスが来ました。私たちは部屋を出ました。母は閉ざされてドアの前で頭を下げて、アパートにお別れをしました。他の出入り口にもバスがとまっていて、子どもとお母さんたちが乗っていました。いつもと違ってとても静かでした。まもなく父が現れ、私たちにキッスをしてちょっと一緒にいただけで、またすぐどこかへ行ってしまったのです。そこに将軍と委員会(と母が言った)が来ました。彼は何か私たちに言って、大声で笑いました。ある女性は彼にひどく怒り、私たちを元気づけることはない、早く移送しろと怒鳴りつけました。

 どのようにバスが走ったのか覚えていません。とても長くえんえんと続く道だったので、うとうとして眠ってしまいました。母の話では朝の三時過ぎに着いたそうです。私たちは、今ではキエフの軍事学校の兵舎に連れてこられたと知っていますが、そのときはただ、長い空っぽのホールを見ただけで、そこには二段ベッドが幾つかあるだけでした。母はどこかに行って、私たち用のマットレスと枕を探してきました。

 

今は、私に起こったことは恐ろしいことであったことを知っています。でも、当時私はまだ小さかったので、全てがとても面白いものに見えました。熱湯が出ないことさえも。巡回売店が来ると、そこに行こうと私は母の袖を引っ張りましたが、母はなぜか行く必要はないと言いました。私は一人で走って行きましたが、全てが面白く思われたのです。

 

もう、父とはまる五日も会っていませんでした。兵士と将校が車でやってきたので、私たちが彼らに走り寄ると、追い払われました。腹が立ってたまりませんでした。それでも幼い私には、興奮することばかりだったのです。

 

母は戦争のときのように父を待っていた、と今になって言っています。その後、わたしたちのところに棒と箱のようなものを持った人たちが来ました。、私たちの放射能汚染を計るためです。そこで私たちは「光っている」から、風呂に行くように言われました。なんておもしろいこと。

 

当時の私たちへの援助を今、評価することは難しいことです。私たちに補償金が支払われたことは知っています。そのお金で新しい家具を買いました。私たちはチェルノブイリ原発からたった七キロのところに住んでいて、放射能の汚染がひどく、何も持ち出すことが許されなかったからです。でも私は、住民への施しみたいな援助は必要ないと思います。放射線医学センターに検査に行く必要も、どんな「援助」も父を甲状腺の手術から守ることはできませんでした。でも彼だけとは思えません。母は、自分の腫れ物はみんなチェルノブイリによるものだと考えています。このことについて、私は話したくありません。ただ、過ぎ去ってしまうことを信じたいだけなのです。

 

私はチェルノブイリがどんなに多くの人々の生活を、そして運命を変えてしまったかを考えています。チェルノブイリは、私たちの大きな節目になりました。その前と後では、戦前、戦後ほどに。

 

私の家族は引っ越しに慣れていましたので、汚染地区からやむを得ず脱出したのではなく父の新しい任地に派遣されたのだと考えることもできますが、他の人にとってはどうでしょうか。自分の牛や豚、」それに家や親戚の墓を捨てて、知らないところに疎開させられたおばあさんはどうなるのでしょう。七十歳のおばあさんに新しい生活が始められるでしょうか。彼女を、ふるさとの大地と過去に結び付けている木の根から切り離すようなものではないでしょうか。若い人の場合はどうでしょう。生まれた場所、家の壁、そこで過ごした年月は、わたしたちにとってどうでもいいのでしょうか。私たちも木の根を切り離されてしまったのです。

 

私は、なぜ、このようなことが起こってしまったのか、よく考えます。誰の罪なのでしょう。このことで裁判があり、誰かが処罰されたのは知っています。でもこれはそんなに単純なことではありません。事故は偶然に起こったわけではありません。この事故を引き起こしたことで、大勢の犠牲者を生みだしたのです。人の命は、私たちの国家の中で最も価値のあるものではなくなってしまいました。人の命は、役人の自尊心と比べると無と同じです。

いま、すばらしい大地から人がいなくなってしまいました。もしかすると永遠にかもしれません。人々は苦悩し、病み続けています。誰が彼らを救うのでしょうか。それぞれが、自分の問題を解決しなければならないのです。<o:p></o:p>

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真実、助けてください【あの忌まわしき日に福島の高校生から発信されてました。

何度でも、何十回でも瞼(まぶた)の奥にまで焼き付けておきましょう!絶対に決して忘れない為に!!!】

私たちはこの画像を、とても厳しくても、険しくとも、暗くとも、絶対に忘れてはならないと心に思うのです。真実・・・・・・

下記ワンクリックして、それはご覧になれます。

http://www.youtube.com/watch?v=7yBFvOdmpL4

 

★☆★☆

がんばろう!さようなら原発1000万人署名
12・10集会

東京・日比谷野外音楽堂
と き 12月10日(土)

オープニングコンサート午後1時15分~
午後1時30分開会
※40分程度の集会後にデモ
主催/さようなら原発1000万人アクション実行委員会

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第9回】・・・・・死のゾーンはいらない

2011年12月05日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

  

抜粋による連載(第9回

 

第二章  ゾーン  埋められた村<o:p></o:p>

 死のゾーンはいらない 

ミハイル・ピンニック(男) 

第四中等学校九年生  ボブルイスク町<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 僕の両親はベラルーシをあちこち旅行するのが好きだ。僕もついて回っていろんな所へ行った。僕が旅行で一番印象に残り、感動するものがある。それは戦争の史跡、われわれの未来のために戦った解放戦士やパルチザンの記念碑である。そのすべての史跡には、全ての戦争の悲劇がある。そして、今また、新たな悲劇の記念碑が加わった。チェルノブイリの悲劇の史跡である。

 

ポロシェの大地にミチノ墓地がある。これはミチノ村の外側に広がっている大きな死人の町だ。未だ「若い」墓地である。墓地の中央を貫く並木通りには、二十六の同じ形をいた白い墓標と、小さな大理石でつくられた石碑の墓が並んでいる。ここにはチェルノブイリ事故処理に参加して死んだ人を葬ってある。彼らの死は人々を動揺させた。

 

あの森ではカッコウは鳴けない 

不毛の森ではないのだが、もっとおそろしいことに 

沈黙の森なのだ 

おお 人間たちよ 

気がついたのが遅かった 

チェルノブイリは核戦争なんだよ<o:p></o:p>

 

 僕は同い年の人たち同様に汚染地区に住んでいなくてよかった。しかし、僕は自分の故郷のことで心が痛む。それぞれが自らの人生の総括をするだけではなく、祖国の運命、国民の歴史について考え、国民全体の問題の中での個人の貢献を、評価する時が来るだろう。このような考えにおいて、精神的なきっかけを与えるのは、たいていドラマチックな事件である。僕は、国中がその名を知っている人々のことについて書いてみたい。 

 それは暖かい四月のライラックや桜の香りがする夜だった。突如、チェルノブイリ原発第四号炉が爆発した。二十三歳のウラジミール・プラビイク中尉は危険な中に突進した。その時点で、四十か所いじょうにものぼっていた火の手との戦いを始めた。どこが一番危険なのか。決定を下すのに猶予はなかった。

 

 消防士は二十八人で、三つの消防隊から来ていた。火を消せないにしても、拡大するのは食い止めねばならなかった。ワシーリ・イグナチェンコ中尉は七十メートルのハシゴをかけ登っていった。ウラジミール・チシチューラは機械棟の屋根に飛び込んでいった。現場に消防隊長のウラジミール・チェリャートニコフ少佐が到着した。彼が見たものは恐ろしい光景だった。原子炉は燃えさかり、地獄の炎の光の中、相当な高さのところで人影が揺らめいていた。そこが最も危険な場所だった。チャリヤ―トニコフ少佐は、ビクトル・キベソク、ウラジミール・プラ―ビック、ビターリー・イグナチェンコ、ニコライ・バシチューク、ウラジミール・チシチューラ、ニコライ・チチェノ―クが絶対絶命の状況に置かれていることを理解した。機械棟は家事から守られた。消防士たちは十分に職務を果たした。なぜなら彼らは一人ひとりは、逃げてはいけない。自分たちには、子どもや父や母、年寄りがおり、故郷があるのだということを理解していたからだ。彼らは、自分の命をかえりみず、崇高な献身的精神で、炎との戦いでお互いに先を争って挑もうとしていた。<o:p></o:p>

 レオニード・チェリャーニコフは三八〇レントゲンの放射線量を受けた。大胆さと勇気と自己犠牲の精神である。どうしたらこのような精神が身につけられるのであろう。僕はこの地獄の試練を受けた人々の英雄的な行為に頭が下がる思いがする。彼らの功績は、大祖国戦争の時の解放軍兵士たちの功績にひけをとらないものである。

 

チェルノブイリ。チェルノブイリの悲劇。この苦しい時期、人々はそれぞれ異なった行動をした。ある人たちは、パニックにおちいり、ある人たちは、脱走してしまった。しかし、ほとんどの人々は英雄的にがんばったのである、不幸はレントゲンのように、一人ひとりの心を透かしてみせる。

 

時がたっても、多くの人がチェルノブイリの悲劇の中の英湯的な戦士の名を忘れないだろうと、僕は信じる。チェルノブイリによる苦痛は、子どもたちの夢のような療養のための外国旅行によっても静められないし、政府の住民への追加補償の約束によっても消し去ることはできないし、医者の楽観的な診断によってもやわらげることもできない。これらには全て嘘の印が押してある。

 

チェルノブイリ事故は大地を揺り動かし、われわれの生活を変えてしまった。日常会話が「放射能」「レム」「キュリー」などの用語でいっぱいになった。われわれの全ての生活がチェルノブイリを考慮にいれてつくられている。

 

有刺鉄線、重苦しい通達、居住禁止区域、これは戦争の記録映画ではないのだ。今、ここベラルーシで起こっていることなのだ。チェルノブイリゾーンでは、穀物を栽培してはいけない、水も飲んではいけない、空気も吸うのは危険で、父祖の家も永久に住めない所なのだ。チェルノブイリで汚染された土地には、僕たちも子も孫も帰れない。それでも、セシウムやストロンチウムに冒された畑や森や草原が治った後、いつの日にか、子孫たちが帰れるようになるだろう。大地は、太古から住み続けた主人の子孫をわかるだろう。大地は、必ず誰だか分り、許すことだろう。僕は心からこのことを信じる。

 

現在、われわれの生活には多くの困難と問題がある。われわれがどれくらい生存できるか、多くの事を成し遂げることができるかどうかは、誰にもわからない。われわれが残す足跡は、いいものでなくてはいけない。のちの人たちが思い出してくれるように、この国でこれ以上、死のゾーンや居住禁止区域ができないようにしたい。そして、チェルノブイリで破壊された地域に早く白樺の林が輝き、豊かな庭があらわれ、リンゴの木にはみずみずしいリンゴがなるようにしたい。空気が自由に吸え、水が飲め、土地には種をまけるようにしたい。

<o:p></o:p>

 空気はきれいに<o:p></o:p>

 空は青く

畑には種がまかれ

 

 黄金色の小麦が

 

 実るように<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第8回】・・・・・ベラルーシにかぶさる黒い雲

2011年12月01日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第8回) 

  【第一章 突然の雨・・・・

 

ベラルーシにかぶさる黒い雲

 

スベトラーナ・フボロスチェンコ(女・十五歳) 

第一中等学校九年生  バラノビッチ町<o:p></o:p>

 エコロジーは人間と環境の相互関係についての科学である 

                        - 教科書より -

 

チェルノブイリ。この昔からある町の名ニ既に何か暗い予言が含まれているようだ。ある「ブイリ」(※ブイリ:出来事)があった。しかし、残念なことに、チェルノブイリは昔の英雄叙事詩ではなく、過去でもなく、現在の悲しみ、苦しみ、痛み、そして涙の話なのである。

 

この悲劇の土地では、すべての家、木々、植物など人々の思い出に残っている全てのものが土になってしまった。死んだゾーンだ。死んでしまったのだ。そこはもちろん強制移住地域とは置きな違いがある。そこは、今はだれも面倒を見ていない家や、庭や、菜園が残っているのだ。しかし、ある村ではまだ生きている人間に会うことができる。これは戻ってきた人々で、自分が育ち、愛し、夢を見、子どもや孫を育てたふるさとの村から離れていては生きていけない人々である。彼らの目を見ると、目の中にあるものを長いこと忘れることができなくなるだろう。

 

私は別の町に移り住んで二年になる。以前は六十キロゾーン内に住んでいたが、そこからはすべての家族が立ち退いた。私はピオネールに入ったときのことを覚えている。私たちのピオネール隊に、同郷の消防士でチェルノブイリ原発の事故処理に参加したワシーリ・イグナチェンコという名前を付けることに決めた。ある日彼の母が病院のワシーリを訪ねた時、彼は母親に泉の水を汲んでくるように頼んだ。ワシーリは、その水がチェルノブイリで汚染され、もう誰も飲んでいないのを知らなかったのだ。

 

ワシーリの母親タチヤ―ナ・ペトロービナは町の美術館で働いていて、素晴らしい絵についてたくさん面白いことを話してくれたが、チェルノブイリの悲劇をテーマにしたホールでは、彼女は何も言えなかった。しばらくして亡くなった息子の胸像が展示されるようになった。 

 

チェルノブイリのことが話題になると、私は事故直後の状況を記録した映画を思い出す。原発の職員が住むプリピャチの町から人々が立ち退かされている時、小さな男の子がはぐれ、ただ一人残された。男の子は町をさまよい歩き、母親を探しまわった。彼にはなぐさめてくれ、落ち着かせてくれる母が必要だった。けれど、まわりには誰もいない。置き去りにされた子猫を見つけ、胸に抱いて、一日中町を歩いた。その日の夕方、男の子は、放射能を致死量被曝し死んでしまった。

 

ある日、チェルノブイリについての展覧会で、一枚の絵が私を動揺させ、長いこと忘れられなかった。その絵では、美しい少女が穏やかな青い海にいて、その少女の頭の上には黒い雷雲がかかっているのである。画家は私のベラルーシを描いたのではないかと思われる。彼女は、輝かしい幸せな岸辺にたどりつくことができるのだろうか。

 

私の国の歴史には黒いページは少なくない。その中で最も悲しい出来事は、たぶんチェルノブイリであろう。

 

P・S  私のことについて少し書きます。私は十五歳です。ブラ―ギンに生まれ、一九九二年までそこに住んでいました。その後、家族全員でバラ―ノビッチに引っ越してきました。チェルノブイリについての作文コンクールのことをテレビで知り、私も何か書かなければという衝動にかられました。この悲劇が私の家族だけでなく、奥の、多くの人を襲って不幸にしたのを知っているからです。私はこのコンクールに感謝しています。チェルノブイリで心が傷ついた子どもたちに、自分の悩みとチェルノブイリに関することを吐露する機会を与えていただいたことはとてもいいことだと思います。

<o:p></o:p>

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 次回から連載は、「第二章 ゾーン・埋められた村」に入ります。

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第7回】・・・・ハッカの匂いがした

2011年11月29日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第7回

 

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 

ハッカの匂いがした

 

オリガ・ジェチュック(女・十九歳) 

第二中等学校十一年生 ミンスク市

 

母が医者のところから帰ってきて、私にすべてを話した。論理的にいえば私はそこで泣くという場面だったろう。「ママ!なぜ私が、どうして」と。だが、私の代わりに母がそのことをしてくれたのだ。母は子どものように手の甲で目をこすり、泣き始め、問うのだった。「オリガ!何でお前が。お前が死ななくっちゃいけないの」私はただ唇を結んだまま、だまって途方にくれるだけだった。どうしていいか分からなかった。私はまだ一度だって死んだことがないのだから。

 

どことなく胸がひりひり痛んだ。私はどうしても恐ろしい知らせを理解することも信じることもできず、精神状態が不安定の中で、何度もつぶやいた。「これは何かの間違いだわ。こんなことある訳がない。私は死なない、こんな若さで死ぬことなんてことはないわ!」私はやけっぱちになって叫んだ。「わたしはまだ十九歳なのよ!」と。

 

しかし、見えないハンマーが、重たいばかげた言葉を吐き出させた。あと二年。いや一カ月。残った時間は・・・・・・・」と。いままで私は「残り」時間がどのくらいか、などと考えたことはなかった。

 

私は小さい頃のことをよく覚えている。毎朝、母は私を幼稚園に連れて行ってくれた。いつも寒かった。母はいつも古ぼけた秋用のコートを着ていて、寒さに震えているように見えたので、私は母が寒くないよう風をさえぎるようにくっついて歩いた。私と母は二人で生活していた。父は一緒に住んではおらず、祭日にだけやってきた。いつもキャラメル三個がお土産だった。父は正確さと一貫性が好きで、数字の三も好きだった。今、父には三人の息子がいる。もうキャラメルを持ってくることはない。

 

幼稚園では、私は活発で、明るい女の子だった。遊びながら私は、一緒のグループの男の子全員とキスをしたりしていた。これは「いけない」行為だった。もちろん良いことではない。ある日、母は早めに私を迎えにきた。私は着替えをしていて、女の子たちが走ってくるのが見えた。彼女たちは「オリガちゃん、逃げて、コースチャがキスしに来るわよ」と叫んだ。恥ずかしさで、私は穴にでも入りたい気持ちになった。「どういうことなの」と母は青ざめた顔で静かに私に質問した。私は黙ってしまった。

 

私の幼年期は面白いものだった。少女期はと言うと奇妙だった。私は友達のお兄さんであるアルトゥールを好きになってしまった。彼はやせ気味で背が高かった。私には世界でもっとも美しい男に見えた。神様、私はどんなにか彼を好きだったことでしょう。夜空の星々に、数えきれない彼の笑顔が見えた。彼から電話があれば、すぐさまどこへでも飛んで行くつもりだった。もちろん、彼が電話などするするはずがない。彼は私が恋い焦がれているなんてなんにも知らないのだから。そして、とうとう彼が美しくて華やかなファッションモデルの人と結婚するというニュースが飛び込んできた。彼は幸せだという話を聞いた。その時、私はまだ子どもで、目立たなくて、美しくもなかった。私は泣きじゃくった。ほほを冷たい窓グラスに押しつけ、夜空の星をながめようとした。でも空は雨雲が覆っていた。

 

世間知らずの子どもは大人の男に恋い焦がれる。それはおかしなことだろうか。私は気を取り直してすべてを忘れ、いたたたまれない失恋の痛みを胸の奥底で堪え忍んだ。日常の生活に戻った私は、学校の授業に出るようになった。あまり勉強ができる方ではなかった私は、何日もかかって宿題を機械的に無理に頭に詰め込まなければならなかった。

 

休みになると母と一緒に、ゴメリに住む祖母のところへ出かけた。そこで私の悲劇が始まった。その日、空気にハッカの匂いがした。頭がくらくらするような太陽の日差しが襲ってきて、鳥はまるで正気を失ったかのように鳴いていた。予期しない幸せに、なぜだか突然私は泣きたくなった。私は一日中外にいて、太陽にあたった。一週間後にはじめて、原発が爆発したことを知った。

 

そのあとには、恐怖、パニック、奔走、そして涙があるだけだった。ゴメリから脱出するためのチケットがなかなか手に入らなかった。鉄道にもバスにも、泣きながら頼んだが、だめだった。だれもわれわれのためにチケットをとってくる人はいなかった。そのとき、私は自分の肉体の中で何が起こっているかを知らなかった。つまり、セシウムが骨に蓄積し、筋肉が被曝したということを、何年もたってから、医者へ行ってきた母に、私は末期のガンであると聞いたのだ。

 

どうすればいいのか。私はそれほど頭がいい方ではない。使途は素晴らしいものであると証明するような、何か美しい哲学を考えつくことはできない。そして、私は神も信じない。

 

教会に行ったときのことを思い出す。そこは薄暗く、香と汗のにおいが充満していた。よくとおるテノールの声がひびきわたる。群衆は何度も十字を切り、なにかをぶつぶつ言っている。私のとなりのうつろな目をた女性は、ちょうしのはずれた声でお祈りしている。「神様、お慈悲を。カミ・サーマ・オ・ジヒ・ヲ」子どもたちは、どういうお願いがあるのか分からないが、特徴のある発音で、奴隷の早口言葉を繰り返していた。わたしはいたたまれなくなり、出口に突進した。

 

人は将来への幸福の夢で、現在をなぐさめるために神を考え出した。私は強い。信じないから、なぐさめ入らない。もし神がいるのなら、チェルノブイリの悲劇は起こらなかったはずだ。

 

入院患者用の服を着た幽霊のように青白く、目の下に恐ろしい斑点ができた女の子が、細い指で強く私の手を握り締めながら話した。「おかしいでしょう?」と彼女は言った。彼女は私に何回となく、自分の生い立ちを話すのだった。しかし、わたしはなぜか笑うことができなかった。彼女の目は燃えているようだった。このオーリャは白血病で、あと一カ月の命と宣告されていた。これはまったくおかしいことではない。彼女の笑みは私の胸を痛めつけ、わたしはどなりたくなった。「何で笑っているの。ばかじゃない。死ぬということは、永遠の別れなのよ」と。私の考えに応えるように、彼女は笑うことをやめて窓の方を向き、ゆっくりとこう言った。「しぬということはもちろん怖いことよ。私のことを書いて、お願い。父がそれを読んで、私のことを知るわ。父は一度もここに来たことがないの」彼女は手のひらで、乾いた目をこすった。

 

チェルノブイリが語られるとき、わたしはなぜか巨大な原発、石棺、黒鉛棒の山を連想することもなければ釘付けされた家、野生化した犬、詩と腐敗の匂いのする汚染地区の姿が現れてくることもない。私はただ、死んでいくオーリャを見つめているだけだ。彼女はまるで四六時中詫びているようだった。彼女は死ぬことと、そして、生きてきたことの寛大な処置を乞うのだった。

 

オーリャはお母さんを愛していた。オーリャは生命を愛していた。 

かわいそうなオーリャ。どうしたら、放射能が充満し、神様さえも見離してしまったこの世に生きることが好きになれるの。人間の愚かしさに呪いあれ。チェルノブイリに呪いあれ!<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第6回】・・・・・家のそばの花

2011年11月26日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第6回

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 

家のそばの花

 

ナタ―リャ・ヤルモレンコ(女・十六歳) 

ブラ―ギン中等学校十一年生

 

チェルノブイリの灰を 

塵のように 

風が吹き飛ばす 

どこに?

私たちはこの世の 

黒い不幸のとりこだ 

                                         ルイゴル・ボロドゥーリン

 

 

 

 あの、四月二十六日の夜が次第に遠ざかっていく。プリピャチの町、その周りの小さな美しい村々、古代からの町チェルノブイリ、ポレーシェを、そして世界を揺るがしたあの夜が・・・・・・。

 

私たちは、今、ようやく、事故の被害や損害の実態を、全体的に知ることができるようになった。しかし、それは、有名な科学者や専門家の予測をはるかに超えるものとなてしまった。事故の直後、人々は黙りこみ、事故について話すことは避けられた。そのため、正確な情報によって事故の真実を知ることは一般の人々には不可能だった。本当の事態が隠され、人々は事故の影響を楽観的に考えていた。住民は放射能汚染の危険性を知らされないまま放置され、貴重な時間が失われていったのである。

 

私たち汚染地区の住民は、浅はかにもすべてを信じ、なにごともなかったかのように生活していた。放射能の雨に濡れ、スタジアムではスポーツ大会が開かれ、戸外ではピロシキを食べ、森を散歩し、大人たちは今までと同じように畑で働いた。けれども、あの年のメーデーに、私の両親は私たち姉妹をデモに連れて行かなかったことを覚えている。今考えてみれば、私たちが少しでも被曝しないように、という直感がそうさせたのだろう。だが、放射能の雨を止めることは誰にもできなかった。

 

あれは日曜日のこと、私が家の周りに花の苗を植えようとしていると、雨が降ってきた。私は、苗を植えるのにちょうどいい雨だと思い、下着まで濡れながら全部の苗を植えてしまった。兄が私を手伝ってくれた。家に入って初めて気がついたのだが、私たちの服と靴に緑色の何かがびっしりとついている。兄はそれを、風と雨が運んできた植物の花粉に違いないと言った。ところが、その時私たちにはわからなかったのだが、それは気味の悪いチェルノブイリの死の灰だったのだ。その灰は、私の服だけではなく、私の体に、血液に、そして私の運命にまで入り込んできた。私は今十六歳で、もう七年間も甲状腺の病気を抱え、ゴメリ腫瘍保健診療所に通っている。病気が悪化しないように、いつも薬を飲んでいなければならない。今が人生の中で一番楽しい時期のはずなのに、私の心は悲しみに沈んでいる。なぜ、私はこんなに苦しまなければならないのだろう。将来、私はどうなるのだろうか。チェルノブイリは、私から健康な体を奪った。そしてそれだけでは足りないとでもいうように、わたしのふるさとをひきいぎり、私の親戚や知人を、遠く離れ離れに暮らさなければならないようにしてしまった。私たち一人一人の魂を堪えがたい苦しみと、片時も忘れることのできないふるさとへの思いが焦がしている。

 

汚染されたプリピャチ川の水、毒された泉、古く美しい森、実り豊かだった畑。そこから永久に別れを告げなければならなくなっても、私の魂は、ふるさとの井戸、納屋、なつかしい私の家にとどまっている。チェルノブイリは、冷酷な核戦争とまったく同じように、子どもも大人も容赦なく次々と新しい犠牲者を生みだしている。原子力発電所の恩恵などほとんどうけなかったような普通の人々が、結局は事故の報いを受け、自らの命や健康、打ち壊された運命などの、最も重いつけを払わされている。放射能汚染地区に住んでいた多くの人々が、ふるさとに永久に別れを告げた。特に大人たちにとって、まったく新しい土地に根を下ろすのがどんなに困難なことかを、私は、祖母やナーシャおばさんの悲しい目の中に見る。彼女らは、住みなれたラファノフ村を追われ、いまではベラルーシの別々の場所に住まなければならなくなった。ラファノフ村のきれいな花々、熟したリンゴや、柳の下の透き通った泉は、突然変異によって人の背丈よりも高くなった、気味の悪いヒレアザミにおおいつくされてしまっている。

 

もう一人の祖母、アレーナおばあちゃんが住んでいたクルグルードガ村も、いまではもう存在しないことを思うと、私の心は痛む。彼女は、一生を過ごした生まれ故郷の村が、どんな恐ろしい運命に見舞われたか、知らずに死んだ。彼女の死後すぐに、クルグルードガ村は村ごと埋められてしまい、今では、水揚げポンプの塔だけが、まるで死んだ集落の墓標のようにそびえている。

 

私たちのブラーギン地区だけでも八つの村が消えてしまった。この世に存在しなくなった村々を追悼する儀式が行われた日のことを思い出すと、私の心臓は苦痛で止まりそうになり、涙がとめどなく流れる。こんなことが、この平和な時代に起こっていいものだろうか。けれども、これが現実なのだ。チェルノブイリは、私が子どもの時にはだしで歩いた美しい小道を、私の両親の家を奪った。このことを私は決して許すことはできない。

 

チェルノブイリは開いた傷のようなものである。事故による犠牲者は数えきれない。こんなつらい現実のなかで、親切な言葉や行動で私たちを支えてくれる人々の存在がどんなに大きな救いとなっていることだろう。彼らは、ベラルーシノ子どもたちを療養のために外国に招待してくれている。不幸に国境はない。私たちの苦しみを黙ってみていることができなかった世界中の人々が、私たちに援助の手を差し伸べてくれていることを、私は地に伏して感謝したい。

 

私たちの国をおそった不幸が、地球に住むすべての人への警鐘となり、同じような不幸が決して繰り返されることのないよう祈りたい。

 

地球上に生きる一人ひとりに、毎日太陽がやさしくほほえみかけ、それが放射能のにごったもやでくもってしまうことがありませんように。そして、未来が暗く、希望のないものに変えられてしまうことがありませんょうに。私たちの地球が永遠でありますように。

ポレーシェに生命が消えてしまうはずがない、というかすかな希望が今でも私の心に燃えている。 

神様お願いします。<o:p></o:p>

 

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