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すぎなみ民営化反対通信

東京・杉並発。「一人が万人のために、万人がひとりのために」をモットーに本当のことを伝え、共に歩んでいきたいと思います

『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第35回】時限爆弾

2012年05月01日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第35回)<o:p></o:p>

 

        【 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 時限爆弾

ビクトル・トロポフ(男)

第三〇河川船隊工養成学校 ゴメリ市

 

 何のために作文のテーマがこれに選ばれたのか分からない。あなたたち大人は僕たちから何を聞きたいのか。あなたたちは、あなたたちの運命の中のチェルノブイリ、あなたたちの子どもの運命の中のチェルノブイリの意味については、あなたたち自身がよく知っているのではないか。この緊急の課題の作文を全国で書くことによって、何かが変わるのだろうか。僕は放射能の被害に遭った人にこれを書けというのは恥ずべきことだと思う。彼らがどういう生活をしているのか。放射能による障害が彼らの運命をどう変えたか、僕は聞くことができない。<o:p></o:p>

 僕たちはチェルノブイリの事故の後、多くのことを考えさせられた。僕個人も、考えざるを得なくなった。善と悪と正義の問題である。チェルノブイリは、われわれの動物性、無責任性、全ての分野におけるプロ意識の低さをさらけ出した。さらにそれは、厚かましさと低い道徳性がどこに行き着くかを示した。僕は、V・P・アント―ノフの本「チェルノブイリの教訓」を読んだ。その中で著者は「この悲劇は経済よりもむしろモラルの面で起こっている」とはっきり書いてある。チェルノブイリの事故の前には、エゴイズム、無関心、無責任が強まっていたし、指導部には指導力が欠如していたし、不道徳な考えもはびこっていた。「上の方は何でも知っている。われわれはノルマを達成するだけだ」と。チェルノブイリは、その総決算なのである。<o:p></o:p>

  しかし、今日こうしたことはすべてなくなったのだろうか。でなければ、チェルノブイリがふたたび起こらないという保証はどこにあるのか。<o:p></o:p>

  チェルノブイリについて語られることが少なくなり、それに慣れてしまったように僕には見える。僕は間違っているかもしれないが、古い寓話の中のように、人間は三つのタイプに分けられることを、この悲劇は教えてくれた。第一の人は焚き火によじ登り、第二の人は薪を運び、第三の人は焚き火に手をかざす。チェルノブイリの焚き火のまわりで手をかざすことは、最高に不道徳なことである。<o:p></o:p>

  より古い世代は幸せだった幼児期にたいしてスターリンに感謝していたが、僕はチェルノブイリに対し、われわれに世界を見せてくれてありがとうと言うことはできないし、言いたくもない。子どもたちは外国に出かけ、外国の子どもたちと知り合い、外国の美しいものを見、他人の親切に出合った。このことで、チェルノブイリに感謝することは全くのナンセンスである。そのために悲劇が必要なのか。

<o:p></o:p>

  チェルノブイリの影響は今のところ直接僕の運命にはない。僕の健康状態は良い。だが、チェルノブイリの悲劇が五年後のわれわれの運命、われわれの健康にどのような影響を与えるのか、僕の未来の子どもたちには影響がなくなっているのかは、誰にもわからない。だから、僕の運命においてチェルノブイリとは時限爆弾なのだ。暇なとき、このことについて考えだすと全く恐ろしい。これは決して子どもの問題ではない。<o:p></o:p>

  ぜひ、大臣、議員、学者に作文を書いてもらうよう提案したい。しかし、その際、テーマは「わが運命、わが子どもたちの運命におけるチェルノブイリ、及び、この問題がなくなるために私は何をしたか」というふうに改めたらいい。

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いったん全部とまったら、二度とひとつも動かない!これをめざして全力で、日本中でいっせいに行動をおこしましょう!

リアルタイム時計↓

 "日本の全原発停止" まで

5月5日(子どもの日)は「原発ゼロ」の約束を子どもたちにプレゼントします!子どもたちに約束する以上、私たちは停止させるだけでなく、どんなに容易ならざる長期の闘いになろうとも、必ず原発を全部廃炉しこの世から原発をなくす!放射能から子どもたちの命と未来を守ろう!

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今日チェルノブイリ事故26周年。 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第34回】 

2012年04月26日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第34回)<o:p></o:p>

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 わたしはすべての子どものために書く

エレーナ・ジグノ―バ(女・十六歳)

第一七九熟練工養成学校生 ゴメリ市<o:p></o:p>

  第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちてきて、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。 

                        聖書「ヨハネの黙示録」より<o:p></o:p>

  

 チェルノブイリ―黒い出来事―。数百、数千、いや何百万という命が犠牲となった。この八年間、「チェルノブイリは二十世紀の悲劇だ」と何度も耳にしてきた。悲劇が私の祖国、ベラルーシを襲ったのだ。

 数百にもおよぶベラルーシの村が荒廃してしまった。人々はそこから脱出した。もう誰も夜明けの鳥のさえずりを聞くことはない。もう春になってコウノトリに出会うこともない。不気味な静けさだけが漂う。そして時々、風がその静寂を破る。かつては友人や親戚との人間関係をしっかりと結び付けていた家と家をむすぶ小道は、雑草に覆われてしまった。

 川や湖には、魚が跳ねて泳いでいる。森にはイチゴやキノコが生えている。しかし、その中にはすでに放射能が巣くっている。<o:p></o:p>

  傷だらけのベラルーシノ大地は、息も絶え絶えになって来ている。その大地の上で、多くの娘や息子たちが命を落とした。<o:p></o:p>

  四人に一人が被害を受けた・・・・

 一九八六年四月二十六日に起きたことを何と言ったらいいのか<o:p></o:p>

  その日、放射能のちりで固められた不気味で恐ろしい黒雲が、風とともにやってきた。その時から地球は、破滅的な道を歩み始めた。始発駅はチェルノブイリ。行先は、数千位のぼる町、村、川、湖、森だった。<o:p></o:p>

  私はその暑くてほこりっぽい一日をぼんやりと覚えている。まだよく理解できていなかったので、普段と変わらない日を過ごしていた。友だちと一緒になわとびをしたり、ボールを追いかけたりして、何の警戒もせずに、輝く四月の太陽、若草、青空がうれしかった。<o:p></o:p>

  私は八歳で、ようやく世界が分かりかけていた。学校には大好きな先生や数多くの友だちがいた。はじめて本を読んだのもこのころだった。両親も祖母も祖父も私を愛してくれ、幼年期を悲しくするようなものは何もなかった。<o:p></o:p>

  そのうち、私は恐ろしい言葉を耳にする。『放射能』。『チェルノブイリ』、『爆発』」・・・・。私はまだ幼かったので、その奇妙な言葉を深く考えることはできなかったし、両親がなぜ「外で遊んではいけません」と言うのかわからなかった。青々した草や春の大地に放射能のちりが居残ったことを、私はどうして知ることができただろう。<o:p></o:p>

  もうひとつ、鉄道の駅のことを思い出す。多くの子どもや大人が集まっていた。母親たちは泣いていたが、なぜ泣いているのか理解できなかった。私たちは先生と一緒に他の町に行って、一ヶ月後には帰ってくるというのに。<o:p></o:p>

 ベラルーシには多くの放射能汚染地区がある。それを避けるために、私たちは最初の二、三年は非汚染地区に連れて行ってもらった。子どもたちは、心細さもあったが、援助してくれる人には感謝をしていた。<o:p></o:p>

 時がたち、四年後に初めて恐ろしい真実を知った。病気がはじまったのだ。医者は悲劇的な通告をする。「あなたのお子さんは重病です。薬が必要です」と。そして次には、必要な薬を求め、療養のための場所を探さなければならない。新聞やテレビで、親が歌え始めた。息子や娘の命を救ってくださいと。<o:p></o:p>

 母親の苦痛を何で計れるのだろうか。私たちは毎日毎日、「同情」とか「人間性」とかいう言葉を耳にする。市場や道端で、必要不可欠なのをいいことにして、薬を何倍も高く売っている人がいる。このような人には、人間性があるのだろうか。それでなくても子どもの治療をしたり野菜や果物を買うためにはたくさんお丘陵が必要だというのに。<o:p></o:p>

 子どもは未来の国民だとよく言われる。ベラルーシではいったいどうなるのだろうか。今、子どもは安全な食べ物をとることはできないし、適正な価格で物を買うこともできない。<o:p></o:p>

 テレビの画面では、たて続けに広告が流されている。「甲状腺の病気にならないように」と。チェルノブイリの罪のない犠牲者や子どものことが忘れられていることが非常に腹立たしい。私たちの寿命が短くなることを考えると恐ろしい。<o:p></o:p>

 私はよく将来のことを考える。今、十六歳だ。いつか誰かを愛し、誰かに愛されるようになるだろう。幸せになりたい。だが、私に健康な子どもができるだろうか。これからどんな運命が待っているのだろうか。私は放射能汚染地区に住んでいる。放射能は目には見えない。匂いもない。しかし、すぐそばにいる。私は汚染された空気を吸い、ビタミンの代わりに放射能がたくさんつまった果物を食べている。ジュースは原料がないために輸入ものだ。<o:p></o:p>

 

 ベラルーシは、火山の島のように、不幸な国になってしまった。それに加えて国民の貧困化をもたらすような深刻な経済的危機が襲っている。人々は絶望に陥っている。私たちの願いはただ生き抜くことだけである。<o:p></o:p>

 チェルノブイリの問題は半分忘れ去られようとしている感じがする。作文のテーマは「私の運命の中のチェルノブイリ」だが、私はこの国の全ての子どもと大人のために書いている。私たちは誰かの怠慢のために起こった事故の罪のない犠牲者である。現在、私たちは心の冷淡さに遭遇している。<o:p></o:p>

 この八年で、私たちは多くの知人や親戚の人を亡くした。腫瘍センターに入院しているチェルノブイリゾーンの子どもたちの映像を見るたびに、私の心は締め付けられる。わが大地に襲いかかった不幸をつくりだしたのは大人なのだ。赤ちゃんの目は無言で問いかけている。「どうすればいいの」と。<o:p></o:p>

 チェルノブイリがなければ、私ははるかに幸せだったはずだ。それは激しい突風のように、私の運命の中に押し入ってきた。もう平穏な生活には戻れない。将来の希望を考えることはできなくなった。親戚、同年齢の友だち、そしてこの世に生まれてくる子どもたちたちへの不安を、一生抱えることになるだろう。 私の唯一の望みは?と聞かれたら、こう答えるだろう。「地球という名の青い星で、一九八六年四月二十六日を絶対に繰り返さないでください」と。<o:p></o:p>

 

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再稼働阻止・原発全廃は、まず北海道電力・泊原発3号機が5月5日に止まり、関電・大飯(おおい)原発3・4号機再稼働を阻止し続けることから!!!!

 ★ 5月5日を「原発をずっと止め続ける」新たな誓いの日に!

 ★ 5月5日さようなら原発1000万人アクション芝公園集会にNAZEN先頭に全東京の怒りと決意と願いを総結集しよう

?? 以下は5月5日主催者サイトからの転載

5月5日は原発ゼロの日

5月5日には日本中の原子力発電所が停止します。現在、唯一稼働している北海道電力泊原発の3号機がこの日に定期検査入りして停止。5月5日のこどもの日、東京・芝公園でもう原発の再稼働はさせないことを確認し合う集会を開催します。「さようなら原発鯉のぼり」を持って、参加しませんか?

        
  • 集会名:原発ゼロの日 さようなら原発5・5(ゴーゴー)集会
  • 日時:5月5日(土)13:00~コンサート、13:30~集会、14:30デモ出発
  • 場所:芝公園23号地 

   ???        ??????

5月6日、東京・杉並は、荻窪→高円寺の「反原発・脱原発」大規模地域デモに集まろう

 主催は2月19日蚕糸森公園・高円寺→阿佐ヶ谷4000人デモを実現した脱原発杉並(副題は自由)のグループ。集合地点とデモコース等当日の具体的詳細はまだネット上流れていないようです。

(まったく不当にも荻窪→高円寺のコースでのデモ申請を公安委員会・警察当局は頑迷に認めないという構えを崩していません。2月19日の蚕糸森公園→阿佐ヶ谷コースの枠を越させないつもりのようです。まだまだ一週間以上あります。流動的です。)

5月5日の翌日に怒りの福島と連帯し東京の一地域で万を超える脱原発・反原発デモが決行され実現されることは無条件に絶大な意義をもっており、国鉄分割民営化以来それと真っ向から対決して幾波ものストライキを実現して新自由主義と対決し、外注化を粉砕し非正規職撤廃をめざしてたたかう労働組合の闘いとともに、社会を変える闘いの新たな巨大な展望を私たちが手にすることを意味します。集まりましょう!群れましょう!つながりましょう!

 

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4月26日チェルノブイリ事故26年。『子どもたちのチェルノブィリ』抜粋・連載【第33回】

2012年04月25日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第33回)<o:p></o:p>

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 チェルノブイリのジレンマ<o:p></o:p>

 スベトラーナ・ジャーチェル(女)   第二中等学校

五感には感じられない放射能は、宇宙、放射性鉱物、その他から発生する。放射性物質が崩壊し、崩壊した粒子が細胞に侵入し、細胞に構造的変化をきたす。これが被曝である。

 チェルノブイリの町がつくられたのは、コロンブスのアメリカ到達の三百年前、ピョートル一世によるロシア帝国成立より五世紀も前のことだった。八百年の間、この町とその郊外に住む人々はライ麦やヒエを栽培し、牛や豚を育てた。かつてナポレオンやヒトラーがこの土地の占領を企てたが、計画は失敗した。飢餓や、敵の侵攻、ペストやコレラの流行にも打ち勝ち、厳しい冬をも生き抜き、チェルノブイリの人たちは自らの大地を守り通した。<o:p></o:p>

  現在、チェルノブイリは事実上からっぽで、打ち捨てられ、人のぬくもりはなく、物を言わぬ森が周りを囲むだけである。人類史上最悪の原子力事故によって避難させられた村や町百七十九のうちのひとつとなった。<o:p></o:p>

  六つの原子炉を持つチェルノブイリ原子力発電所の建造はソビエト原子力エネルギー政策の誇りであった。一号炉が一九七七年に完成。二、三、四号炉はそれぞれ一九七八、一九八一、一九八三年に完成した。五号炉と六号炉は一九八八年に完成を予定していた。チェルノブイリ原発は、核反応を遅らせるために使われていたのが黒鉛であり、水でなかった。そのために、冷却システムの破壊の際に、原子炉が統制できなくなる危険性が多かった。また原子炉自体は、厚い防護壁に囲まれていたが、鉄筋コンクリートの防護用のドームがなかった。<o:p></o:p>

  事故に結びついた実験は、一九八八年四月二十五日の朝、始められた。以前からの計画に従って、四号炉を停止し実験を行う予定だった。<o:p></o:p>

  この実験は停電で電気供給が止まった場合でも、原子炉の余熱で発電機タービンを動かし、原子炉の冷却水ポンプを作動させるのに何分かかるかを明らかにするためのものであった。<o:p></o:p>

  一九八六年四月二十六日、タービンへの蒸気がストップ、それはほとんど同時に、冷却水ポンプの茶道が遅れ始め、原子炉の制御棒に入る水流が急激に減る。原子炉自動停止装置のスイッチは、その時切られていた。短時間で原子炉内の温度が急上昇し、誘導反応が止まってしまう。そして一時二十三分、チェルノブイリ原発第四号炉で、あの大事故。三秒の間隔をおいて二度の大爆発。最初の爆発は水蒸気の過剰な圧力によるもので、二回目のは、あとに生じたシソガスによるものだと言われている。燃料棒のジルコニウムでつくられた外皮がとけはじめ、炉内の高圧の水と反応、瞬時に燃料棒は粉々となり、数千トンもある原子炉のカバーは吹き飛び、屋根も突き破ってしまう。死をもたらす巨大な黒雲が上昇していく。<o:p></o:p>

036_2
 (絵  ピクトル・リソフスキー)<o:p></o:p>

  事故当時、チェルノブイリ原発には、百七十六人が勤務していた。しかし、一番被害を受けたのは消防士だった。チェルノブイリの惨事はその地獄の灰で私たちの心を焼き続けている。それは、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの国境地帯、地球全体を不意に襲った。<o:p></o:p>

  恐ろしい不幸の出現という鮮烈な記憶は、いつまでも私たちを脅かし続ける。この悲劇に終わりはない。それでも私たちは希望を胸に全ての報道を隅から隅まで読む。チェルノブイリの真実を知るために。そしてすべてがもう過去になったのだと確信したいがために。<o:p></o:p>

  人はときに自分をだましたい時がある。生きていくために、自分に嘘をつく。だがそうすることは、チェルノブイリを再び生み出す可能性があるということなのだ。<o:p></o:p>

                                                    //////////////////////////////////////////////////////////////////

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絶対に二度とフクシマ、チェルノブイリを繰り返してはならない!原発も核もいらない!世界中からなくすまで闘おう!

 

 明日26日夕刻には、福井県大飯原発3・4号機の再稼働をめぐって、おおい町で住民説明会がもたれるという緊迫した一日となります。原発再稼働絶対反対、原発全廃!大飯再稼働阻止し、5月5日を「原発ゼロ」の子どもたちへのプレゼントの日にしましょう

(1) 明日は4月26日。26年前の1986年4月26日チェルノブィリ原発事故は起きました。チェルノブイリ事故は原発の爆発による大量の被曝でおびただしい人々の命を奪っただけでなく、その爆発的に排出・拡散した放射能による被曝でたくさんの子どもたち、大人たちが命を失い、病に倒れ、それは事故後26年たった今も続いています。そして、チェルノブイリを繰り返すことなどあってはならないことでありながら、そのあってはならない事故が昨年3・11東日本大震災で福島原発事故として起きてしまいました。「歴史は繰り返す」とよく語られますが、歴史が勝手に繰り返したわけではなく、歴史の主体である人間社会・人類、つまり私たちが繰り返してしまったのです。原発は地上にセットされた原爆です。ヒロシマ、ナガサキを体験した日本の私たちにとっては痛恨の痛みと主体的反省なしに客観主義的には語れない人災以外の何ものでもありません。

 (2) 福島原発事故について主体的にとらえ返す時、この人災は、核武装と「命よりカネもうけ」を至上とする国策で、原発政策を際限なく繰り広げてきたこの国の政府と財界、何よりも電力資本の責任を何よりも追及し、国家的大犯罪として弾劾しなければならないのは言うまでもありません。しかし、ヒロシマ、ナガサキがあり、ビキニがあり、当時、国民的な規模の原水禁運動が爆発しながら、被爆者を先頭とする闘いがありながら、なぜ世界で3番目の原発大国にまでこの国がなってしまったのか、原子力の恐ろしさをヒロシマ、ナガサキ、ビキニで死ぬほど思い知らされながら、なぜ私たちは原発を54基も、しかも地震の巣と呼ばれるような危険なこの国に作らせてしまったのか、という問題は決して曖昧にはできません。「原子力の平和利用」の前に、被爆者と原発絶対反対の原発現地労働者住民の闘いを見殺しに、私たちが結局屈してきた、この現実と徹底して闘って、原発(核)廃絶に真っ向から立ち向かって闘ってこなかったという問題は厳然たる事実として隠しようもなくあるのです。それがチェルノブイリ事故の大惨事を彼岸視し、どこかよそで起きている出来事としてとらえるという、今にして思えば痛恨の極みの過ちをもたらしました。

 (3) 昨年3・11の息をのむような東日本大震災・福島原発事故で私たちはこのことを真っ向から突きつけられたのでした。私たちは、根底から、生き方、社会のありかた、価値観、すべてを瞬時にしてとらえ返すことを求められ、自らを問わねばなりませんでした。人間社会は明日私たちが生きていられるのかどうかが逃れようもなく問われるほどにまで断崖絶壁のところにまで来てしまっているということに気付いたということにほかなりません。

 (4) しかし、かくして、あまりに遅ればせながらも、3・11を通して皮膚感覚の時代認識と生き方として試練に立ち向かう闘いと歩みも、確実に始まったのです。私たちが決意し、始めた《すべての原発(核)をなくすまで闘おう》という運動は、「~~たら」「~~れば」の述懐的回顧の無力で何も生み出さない泣きごとでは断じてありません。原発事故被災地・福島の人々を先頭に、原発も核もこの世からなくし、人間が人間らしく生きられる社会にする闘いです。

 3・11福島原発事故から1年、郡山開成山球場での原発いらない福島県民集会に結集した1万5千人の誓いと闘いの中に未来も進むべき道も示されています。福島の労働組合の闘い、福島のお母さんたちの闘いは、子どもたちの命と未来のためには命を張る、私たちが幸せになるためには何ものをも恐れない、未来のための闘いです。政府や財界に一歩も譲らず、ひるまず、私たちがみんなで一緒に生き続けること、そうした団結と連帯をどこまでものかぎりなく広げ、つながってゆく闘いです。この気高い誇りと命の怒りに満ちた熱い闘いこそ、「命よりカネもうけ」がすべての新自由主義のもとで生き抜くために苦闘し闘い抜く労働者階級の団結と反乱そのものであり、この団結と反乱こそ社会をつくりかえる闘いの最大の力です。

 (5) ヒロシマ、ナガサキ、ビキニ、スリーマイルズ、チェルノブイリ、フクシマを二度と繰り返さない!1945年8月6日から2011年3月11日まで、この連綿たる核と原発の歴史、それを受容・受忍してきた歴史、1%にも満たないひとにぎりの資本家たちが99%を超える労働者人民の命と暮らしを犠牲にして支配し続けてきた歴史、この屈辱の歴史のすべてを一瞬にして総反乱で吹き飛ばし、社会を変える、世界を変える闘いが始まっています。ただ、ひたすらまっすぐに前に進むことだけが未来を開きます。原発再稼働をめぐる人々の熱き思いと闘いの連鎖的広がり、全世界の新自由主義との労働者の闘いの躍動もそのことを日々のニュースやインターネットを通して示しています。この歴史の転換点を今度こそ逃さないことです。みなさん、私たちはみんな生き続けなければなりません。子どもたちに人間として生きられる社会を渡さなければなりません。原発も核もない社会、誰もが人間として幸せに生きられる社会にむかって夜明けを開くためにともに声をあげ、つながってつながりあって、立ちあがりましょう。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第32回】暗い夜になる前に

2012年04月21日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-

 梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第32回)<o:p></o:p>

 第四章    わたしは生きる <o:p></o:p>

 暗い夜になる前に

マリア・ゴルボビッチ(女・十三歳)

ソコビッチ中等学校七年生 ソリゴルスク地区

  チェルノブイリが私の小さな村を荒らしたとき、私はたったの五歳だった。不幸は私の家を避けはしなかった。兄のミーシャは、― 今もなお無慈悲に人々をなぎ倒し続けている恐ろしい病気― ガンで死んだ。医者は放射能のせいだと言った。ミーシャは二十回目の春を迎える。一週間前に死んだのだ。今では、チェルノブイリ事故の影響であることを疑う人はいない。なぜ、私の兄に恐ろしい白羽の矢が立ったのか。なぜ、今死んでいく何千もの人々に白羽の矢が立ったのか。<o:p></o:p>

 兄は死ぬ前には、もう歩けなかった。兄は私にこう頼んだ。「僕のそばに座って、マ―シェンカ、美男子になるように髪をといてくれないか」と。私は黙ってうなずいた。兄は、暗い生気のない目で私を見つめるだけだった。そして私は一人祈り続けた。<o:p></o:p>

命の灯りを 

消さないで 瞳さん

暗い夜になる前に<o:p></o:p>

 家族はみんなつらかった。私と母はミーシャをがっかりさせないように、こっそりと泣いた。こうやってチェルノブイリはわが家に侵入し、壁にかかる遺影として永久に住みついてしまった。<o:p></o:p>

 時は進む。人々は以前、人生の出来事を思い起こすとき、「戦争前、戦争後」と言っていたが、今では「チェルノブイリの前、チェルノブイリの後」と言っている。それは、悲しい歴史の区切り目となってしまったのである。<o:p></o:p>

 チェルノブイリの悲劇は、私たち皆に慈悲、思いやり、良心を要求している。高度の人間愛を発揮するのを要求している。なぜなら、それがないところには、不幸が住みついてしまうからである。でも、わが家には不幸が居座っている。それは出て行こうとはしない。<o:p></o:p>

 何年たっても何世紀たっても

 この痛みは私たちから去らない

 それはあまりにも大きく果てしなく

それは負の遺産として

何世紀も 私たちの子子孫孫に残るだろう

そして彼らの心に居座って

永遠に平静を奪うだろう

地球上の一人ひとりが

このおそろしい年、おそろしい日を覚えていますように<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第31回】みんな春の雨を喜んだ   

2012年04月17日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

 -子どもたちのチェルノブィリ-

 

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第31回)<o:p></o:p>

 第四章    わたしは生きる <o:p></o:p>

 みんな春の雨を喜んだ<o:p></o:p>

 ナターリャ・カシャック(女)

 カルポビッチ中等学校生徒 ビレイカ地区 

 そのころはチェルノブイリについて知っている人は少なかった。今では、チェルノブイリは世界的に有名になった。この言葉を聞くと、心が痛む。それは私たちにとっては、不吉な悪のシンボルなのである。<o:p></o:p>

  一九八六年の四月、ちょうど、この月に私の家族はへんぴなベレジョク村から、カルボビッチに引っ越してきたところだった。私はこの引っ越しを誰よりも喜んだ。というのは前に住んでいたところでは、友だちがいなかったし、引っ越しは多くの楽しいことを約束していたからだ。私は生活がより楽しく、幸せなものになると夢見、期待した。だが、母の顔が不安げだったのを私は見た。隣の家の人と、なにか「放射能」といったようなことを、心配そうに話していた。あとで母は、「ここはチェルノブイリから遠くにあるから心配ない」と私を安心させた。そのとき、私はまだやっと一年生を終えるところで、私たち子どもにはまったくわからない、少しもこわいとは感じなかった。そして、非常に残念なことではあるが、全ての人々が、チェルノブイリの危険性を充分理解しているというわけではなかったのだ。<o:p></o:p>

  私たちは、よい天気を喜び、春の雨を喜んだ。雨のあと、空気は新鮮な生気に満ちた香りでいっぱいになる。私たちは水たまりを走り回り、水しぶきがあたたかかくやわらかい羽のようにふりかかると陽気に笑いころげた。虹の色を数えるのも好きだった。遊びに夢中になっていた私たちは「大人の社会」で何が起こっているのか知りようもなかった。そのすぐあと、放射線測定機を持った人が村にやってきた。(その仕事を見るのが面白かった。) 村の道が急きょアスフアルト舗装され始め、ごみは土に埋められ、学校の庭の表土ははがされた。村の店には、今まで聞いたことのない食料品が運ばれて来たので皆喜んだ。どのような珍味が店の棚に並んでも、放射能は減りはしないことを、今では理解できるのだが・・・・・。その「特別の」食料品ももう長いこと目にしていない。<o:p></o:p>

 ここカルボビッチには健康な子どもはほとんどいない。だが、汚染地図では、この村は「かつては汚染地区に入っていたが、現在では除染され、きれいになった」とされている。このことで気は安、逆に腹立たしくさえなってくる。子どものほとんどに甲状腺肥大が見られるからだ。「アンチストルミン」やその他の薬はあまり効かない。貧血の子どもも多い。私の妹のアリョンカ(エレーナリガの愛称)もよく病気をする。<o:p></o:p>

  ソチや、ヤルタや、ベラルーシのラドシュコビッチのちかくのサナトリウム「ソユーズ」への療養はかなり効果があった。この療養のあとでは、元気になり生気がよみがえる気分になり、体の鈍痛は消え、頭痛はしなくなり、病気をあまりしなくなった。そこでは多くの友だちができ、おもしろい出会いがあった。療養地の美しい景色や歴史的な場所は、長く私の心に残るに違いない。<o:p></o:p>

 私は外国に行く機会がなかった。もちろん行ってみたいと思うが、私より重い病気にかかっている子どもがいることを知っている。あまりに病気が重い子は外国に行けない。この子たちにとってサナトリウムは最後の機会だ。外国へ行った子どもたちは、学校に大きな問題を持ち込んでくる。この子たちは他の子に対して、同情しないのだ。またあるとき、私は子どもに対する教師の不可解な態度に驚いたことがある。<o:p></o:p>

 しかし、すばらしい外国も、南の砂浜浴場も、私の祖国ベラルーシにかわるものはない。私には体の中に好きな場所がある。その場所は私の秘密を何でも知っている。悲しいとき苦しいときには、そこへ行く。白樺が私との出会いを待っていてくれ、私が落ち着くのを助けてくれ、助言を与えてくれる。私の美しい場所が私の人生からなくなってしまうこと、貪欲なチェルノブイリが子どもの命を奪い、大人の健康を吸いつくすように、それをも奪ってしまうことを考えると恐ろしい。<o:p></o:p>

 ポレーシェの祖父のところへ行くのをやめた。親はここの放射能だけで充分だと言っている。あそこはよかった。何とたくさんのイチゴが生えていただろう! だが今は・・・・これらの地から人々は離れ、思いで一杯詰まった我が家を後にしている。<o:p></o:p>

 ソチで、ベラルーシの子どもたちが「チェルノブイリのはげ頭」と呼ばれ、避けられることがあったと聞いた時には、不愉快だった。私たちはチェルノブイリの罪人なのか。チェルノブイリは毎日、私の心を痛めつけている。私たちがカルボビッチ村に引っ越してきたばかりの四月二十六日以前の幸せな時に、全世界の時計を戻せないだろうか。どこにやさしい魔法使いはいるのだろうか。どうして急いで助けに来ないのだろうか。<o:p></o:p>

 私たちは、希望を捨てない。私たちは生きる。私たちはベラルーシ、そう、ベラルーシ人なのだから。<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第30回】 森でカッコーが鳴いていた

2012年04月14日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第30回)<o:p></o:p>

 

       【第四章 わたしは生きる <o:p></o:p>

 

森にカッコウが鳴いていた<o:p></o:p>

 

エブゲー二ー・ダビードコ(男・十六歳)

第三中等学校十一年生 ドブル―シ町<o:p></o:p>

  今日はわが家のお祝いだ。母が四十歳になった。客が、当時一つの大国だったソ連のあちこちから来た。キエフ、レニングラード、ジェリノグラード、ソリゴルスクから来た。山のようなプレゼントを母だけでなく、十歳だったぼくにももってきてくれた。

 なんてすばらしい時だったろう! 大人も子どもも心から楽しんだ。だがお祝いはちょっと悲しいものになった。みんなが中庭でダンスを始めようとするとき、どこからか、突然、嵐が起こり、強い風が吹いて来て、ほこりのかたまりがくるくると回り始めた。だが、誰もそれが悪い兆候だとは思わなかった。そのあと、家の屋根の上にヘリコプターが飛んできて、ピンクや青のかみきれを大量にまいたことをおぼえている。災難を警告したのだと思いますか。違うのです。これはメーデーのお祝いのものだったのです。ぼくたちは喜んで外に出て、ちらしを拾った。放射能の茎を胸いっぱいに吸いながら。指導部以外誰もこのことを知らなかった。しかし指導部は黙り続けた。 

 やっと事故のことが話されるようになったのは、五月四日だった。村からの強制移住が始まった。バプチン、チェルニボ、ピルキの村々は空っぽになった。移民の車の行列はサビッチ村まで続いた。恐ろしい光景だった。家畜は悲痛なうめき声をあげ、女たちは叫んだ。サビッチには祖母と祖父が住んでいた。夏休みなるとぼくはそこに行き、湖で魚を釣り、泳ぎ、森ではキノコやイチゴを集めたものだ。彼らは僕たちのところに来ることを断った。彼らはミンスク郊外のソスノビ・ボール村に住居を与えられた。

 夏休みが始まった。生徒にとって最も楽しく愉快な時期だったが、ぼくはもうサビッチ村には行けない。そこには人もいないし、生命もないからだ。<o:p></o:p>

  「ドブル―シで夏休みを過ごすのも悪くない」と思った。家の近くには森も川もある。泳ぎに行こうとしたが、父は放射能に汚染されているから言ってはいけないと言った。ぼくには何も分からず、長いこと川面をみつめて、汚染の目に見える兆候を探したが、疑わしいものは何も見つけることはできなかった。水は透明できれいで、ぼくに手招きしているようだった。子どもたちは土手に座っていたが、泳ぐものは誰もいなかった。みんな暗い顔をしていた。ぼくは泳がず家に帰った。六月七日、療養のためにキャンプに送られた。チェルノブイリの子どもたちは当時、広大なソ連の各地に送られた。<o:p></o:p>

  ある子どもたちはウラルに、ある子どもたちはィング―シに、ぼくはカザン郊外に送られた。ぼくたちは大事な客のように、パンと塩(※)とで迎えられた。キャンプではみんな、すぐに何かの道具で頭から足の先まで測られた。このあと何人かは、いろんなものをもっていかれた。ある子どもはシャッを、ある子どもはジャンパーを、ぼくはサンダルをもっていかれた。後で知ったことだが、それは放射能で汚染されていたのだった。それらのものは森の中で深い穴に埋められ、かわりに新しいものが与えられた。<o:p></o:p>

 休暇は楽しかった。ボルガ川で泳ぎ、カザン市にも行った。ある日、カザンでカフェに入り、アイスクリームを買った。ぼくたちがアイスクリームを食べている間、空いている席はたくさんあったのに、そのカフェには他の客は誰も入れさせてもらえなかった。理由は一つ「今ここにはチェルノブイリの子どもたちがいる」。人々は当時チェルノブイリについてはほんの少ししか知らず、彼らはぼくたちを伝染病患者と思って怖がっていたのだった。<o:p></o:p>

 八月の終わりに、ドブル―シに帰った。新学年が始まった。授業、ディスコや友だちとの遊びなどで時間は飛ぶように去って行った。悲しむ暇などなかった。春、僕たちのところへ祖母がやってきた。ここに来る前に、以前住んでいたサビッチへ行って来たそうである。そこに行った時のことを、おいおいと泣きながら話した。<o:p></o:p>

 「私がねえ、家に入ろうとすると、コウノトリの家族が屋根の上から、私を非難しているように、見つめていたよ。チェルノブイリの災難はコウノトリをこわがらせなかったんだね。なのに人間は家を捨ててしまったの。もう、いいの。ミンスクではどうしても心が休まらないよ。サビッチに帰らなければ」<o:p></o:p>

 ぼくは、また祖母のところに遊びに行けると思い、とても喜んだ。<o:p></o:p>

  一年がたち、夏休みがやってきた。ぼくは母といっしょにサビッチ村の祖母のところに出かけた。朝、祖母は搾りたての牛乳を壺に入れて持ってきた。ぼくが飲もうとして飛びついたが、祖母はくれなかった。「だめだよ。牛乳には毒が入っているから」と言った。ぼくは、くやしくてたまらず、外に出た。そこは静かで誰もいなかった。子どもの声も聞こえない。<o:p></o:p>

  村を出るとき、おもしろいことが起こった。皆バスから降りるように言われた。バスは長い時間、ホースで洗浄された、内も外も、放射能を洗い落とすためだそうだ。<o:p></o:p>

 三年後にようやく、チェルノブイリのことについて、大声で話されるようになった。遅ればせながら故郷に、真実、警告、苦痛の言葉がとどくようになった。西側も含め多くの国が、ゴメリ州やモギリョフ州の汚染された土地の犠牲者たちの耐えがたい告白に応えるようになった。ぼくも療養のため、ドイツに行くことができた。ぼくたちはベルリン郊外のキャンプに入った。食事もよく、新鮮な空気の中を散歩し、外国の果物も食べた。生まれて初めてバナナとパイナップルを見た。そして食べた。ベルリンに行って国会議事堂を見学した。この建物をどきどきしながら見た。一九四五年にぼくの祖父がここに来たことがある。祖父は勝利者として来たが、ぼくはチェルノブイリの犠牲者としてここに来た。

  ぼくはふるさとの大地での生活に対する異常なまでの不安に襲われた。以前、きれいな空気を吸い、森の中を歩き、カッコウの鳴き声を聞き、キノコやイチゴを集めたあの家に帰りたい。<o:p></o:p>

 去年、何度も森に行ってみた。一回もカッコウの鳴き声を聞かなかった。これはいいことかもしれない。でないとカッコウが、ぼくがあとどれくらい生きられるか計算してしまうかもしれない。知らないならその方がいい。それと、害を及ぼさない、かわいいスズメもいなくなったことに気付いた。家の窓の下に植えてあったサクラの木にどんなにたくさんのスズメがせかせかと動き回っていたことか。<o:p></o:p>

 ぼくの気分は悪くない。ただ目が悪くなった。放射能がその原因だろう。ぼくは楽観主義者だ。学校を卒業したら、農業大学に入る。農学者になりたいと思っている。<o:p></o:p>

 

いきあたりばったり 生きることはしまい

生きなければいけないように生きる

いつも愛する

友も、生命も、空も愛し続ける

ふるさとを

それはベラルーシという

       ★☆★    ★☆★    ★☆★     ★☆★    ★☆★     

昨13日夕政府4閣僚会議が福井県おおい原発3・4号機再稼働へ「安全性」を「最終確認」、電力需給から「再稼働は必要」判断!

きょう枝野の福井訪問、「再稼働要請」徹底弾劾!

 

 既にニュースで皆さんご存じの通りです。

 ストレステスト「妥当判断」も「新安全基準」と「おおむね適合判断」も「地元に要請し、理解を求め、最終的には電力需給で判断、決定」見解もすべて筋書き通りの猿芝居、今日14日、枝野経産相はおおい原発3・4号機再稼働への「理解」を求める「要請」のため今日福井県入り、午後、福井県知事、おおい町長と会い、再稼働への理解と同意を求める「要請」を行った。

 だが政府にとっては筋書き通りでも、地元・周辺・全国の労働者住民は激しく怒りの反対の声をあげている。当然だ。

007

 5月5日には北海道電力泊原発が定期検査入りで完全に止まることで、おおい3・4号機の再稼働が政府の筋書き通りに再稼働できなければ、5月5日には稼働原発ゼロとなる。このおおい3・4号機再稼働と5月5日問題を軸に4月中下旬から5月上旬が、当面する原発再稼働攻防の最大の勝負どころとなり、再稼働阻止・原発全廃をめぐって4月中下旬から5・6・7月が大きな激突となる。

 福島では原発事故は何ひとつ収束していないし「収束」どころか事故と新たな危険が拡大し続けている。政府と電力会社と原子力安全・保安院、安全委員会の「ストレステスト」の「妥当」「了承」、「新安全基準」「適合」判断と再稼働への動きは、いま現に原発事故に苦しみ、原発全廃を訴えるフクシマを見殺しにし、きりすてるフクシマ抹殺・棄民政策と一体だ。再稼働阻止・原発全廃、フクシマとの連帯を賭けて、4月中下旬から5月を怒りの声をあげ続けよう。「再稼働絶対反対、原発いらない」の怒りでつながり続け、世の中を原発再稼働ゼッタイ反対で席巻する闘いが求められている。再稼働に反対し、反対し、反対して闘おう。

  政府、枝野は「要請」と言うが「再稼働の要請」とはどういうことか。「理解の要請」とはどういうことなのか。「理解」「要請」が聞いてあきれる。

   3・11大地震クラスの地震が生じても、①「地震の影響を受けない免震棟」も、②「いざベントが必要なときに放射能物質の排出をおさえるフィルター」も,③「発電装置を格納する堅固な建物」も、2015年度まではできない、ここ数年間そうした「万一の安全確保対策はない」ということを「新安全基準」に対する関西電力の工程表で枝野は全部知っている、マスコミでも公表されている。にもかかわらず、枝野は、おおい原発3・4号機を再稼働すると言っているのだ。よくこんな方針を決め、それを「理解していただきたい」などと要請できるものだ。

 誰が「理解」するか。誰が「受け入れる」か。再稼働とはひとたび事故になればフクシマのような大惨事に必ずなることが明らかなのに、その福島原発事故が突き出した最低限の「安全確保対策」すらなしでスタートさせるというものだ!要するに、一言でいえば何の安全もないということだ。もしものことが起きた場合には福島原発事故のような大惨事は避けられない、それでも再稼働を優先する、これを「のめ」というのだ。万一のことが起きた時には「国の責任は重い」などと枝野は言っているが、そんな国の責任がどうのこうの以前に、おびただしい人々の命とくらしが奪われ、おびただしい子どもたちの未来が奪われ、福井はもちろん、隣接の京都・滋賀から大阪、関西・北陸圏まで壊滅的な被害を受けるのだ。それを「理解していただきたい」というのが枝野の「再稼働に対する理解の要請」だ。絶対に許せない!

 しかも枝野は国民向けには「原発に依存しないエネルギー政策を早急に詰めていく」と言い国会では「再稼働はしないという理由を自分では懸命に探している」などと言いながら、福井では「原発は基幹電源として必要」とハッキリ言い切った。要は、国民をだまし、分断し、原発所在地の自治体・住民に対しては、「電力提供のために原発を受け入れよ」「電力供給のために犠牲になれ」ということに「理解」を示し、「同意」しろと言っているのだ。こんなゆるしがたいことがあるか。

 原発再稼働攻防情勢はきわめて白熱的で流動的だ。私たちの怒りの大きさ、広がり、力関係がすべてを決する。再稼働阻止・原発全廃へ怒りを爆発させよう。

 

/////////// 以下は今日午後の毎日新聞配信の関連記事/////////////

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2012>大飯再稼働「妥当」 性急判断、否めず
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毎日新聞2012年4月14日(土)13:00
 

 野田佳彦首相と関係3閣僚は13日、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を「妥当」と判断した。だが、首相らが判断の根拠とした「安全性」と電力需給面の「必要性」とも疑問符が付きまとう。再稼働を急ぐ政府は14日、枝野幸男経済産業相を福井県に派遣し協力を訴えるが、「性急な判断」との批判を強める周辺自治体を含め、説得力のある説明ができるかどうかが焦点になる。

 ◇「安全」「必要」に疑問

 野田政権には「原発ゼロ」への焦りがある。3日に初会合を開き、13日に再稼働方針を決断した駆け足といえる協議のペースはそれを浮かび上がらせた。

 国内にある原発54基のうち唯一稼働している北海道電力泊原発3号機(北海道泊村)は5月5日、定期検査のため停止する。政府内には「そうなれば再稼働のハードルはさらに高くなる」(経産省幹部)との危機感がある。

 産業の空洞化を招くリスクもある。不足する電力は、火力発電で穴埋めしているが、燃料費の高騰で電気料金の値上げ懸念が強まれば、製造業を中心とした企業の海外移転に拍車がかかる恐れがある。イランは原油輸送ルートであるペルシャ湾ホルムズ海峡の封鎖を示唆しており、原油価格が上昇傾向にあることも懸念材料だ。

 政権が再稼働についての判断先送りを続ければ、難航する東京電力の会長人事に影響するとの見方もある。首相周辺は「再稼働できるものは再稼働させるという政権の意思がはっきりしなければ、会長のなり手は出てこない」と話す。

 ただ、政府は大飯原発の再稼働にこぎ着けても、個別の原発ごとに安全性や必要性を判断する方針だ。枝野経産相は13日の記者会見で「その都度、安全性と必要性について両面から判断をしていく」と説明。大飯原発の再稼働は他の原発を再稼働させる突破口にはしないと強調した。東電柏崎刈羽原発の地元である新潟県では今秋、知事選を控えており、「とても柏崎刈羽原発の再稼働に踏み切れる状況にはない」(政府関係者)ことなど、厳しい現実があるのも実情だ。

 政府は14日、立地自治体の福井県に枝野氏を派遣し西川一誠知事、おおい町の時岡忍町長らに再稼働への理解を求める。だが、周辺自治体には経産省原子力安全・保安院の職員を派遣する方針で、立地自治体とは明確に対応を区別する考えだ。

 再稼働に慎重な滋賀県の嘉田由紀子知事、京都府の山田啓二知事はこうした方針に反発。関電の株主である大阪市の橋下徹市長も再稼働に反対を強める。政府が立地自治体のみの理解で再稼働に踏み切れば、批判が一層強まる恐れがある。【笈田直樹】

 ◇需給試算、4日で見直し

 政府が大飯原発3、4号機を再稼働させる根拠は「安全性」だけでなく、原発の全停止が続けば電力不足が生じるという需給面からの「必要性」も重視した。ただ、関電が節電要請をした昨夏と昨冬に電力不足を回避できたことなどから、利用者の間には「効率的な需給対策をすれば電力は足りるのではないか」との声も根強い。

 枝野経産相がやり直しを指示した9日の需給試算を政府はわずか4日で見直した。新たな試算は水力発電の拡充などで供給力を高めたものの、昨夏並みの需要で5・5%の供給力不足に、猛暑だった10年夏並みの需要なら18・4%の供給力不足になる恐れがあるとした。供給力不足は前回の試算に比べて1・2~2・1ポイント改善。昨夏並みの需要なら、大飯原発2基(出力計236万キロワット)が稼働すれば供給力は2・9%の余力が生じるという。昨夏は15%の節電要請を踏まえた需要のため、関電は「(2基が)稼働しても厳しい」(岩根茂樹副社長)と今夏も節電要請をする方針だ。

 ただ、原発がすべて停止したままの供給力2631万キロワットを、昨夏の実績(7月1日~9月22日の節電要請期間)が上回るのは昼間のピーク時間を中心にした計19時間で、全体のわずか0・9%。ピーク時に節電すれば電気料金を割り引く仕組みを作ったり、反対にピーク時の電気料金を高く設定して使用を抑えれば、大規模停電などには至らないとの指摘もある。効率的な節電対策には「ピーク時の対応を考えることが有効」(稲田義久・甲南大経済学部教授)との見方は多い。

 東京電力福島第1原発事故で安全性への信頼が崩壊したように、政府や電力会社が訴える電力不足という言葉にも利用者は疑いを抱いている。「どれだけ足りないのか、どんな対策が可能なのか、関電は考える材料を企業に示してほしい」(関西経済同友会の大竹伸一代表幹事)。昨夏と昨冬の節電要請を経験した企業の声は切実だ。【横山三加子、丸山進】

 ◇中長期対策に遅れ 「免震棟の完成は15年度」

 「東日本大震災のような地震・津波でも燃料損傷にいたらない」と枝野経産相は強調したが、安全性を向上させる中長期対策は未完了の部分が多い。しかも中長期対策は電力会社の自主努力に委ねられている。大飯原発は、国への安全評価(ストレステスト)の1次評価の提出が早かっただけで、安全性が特に優れているわけではない。

 未整備の施設で特に懸念されるのが、事故時の指揮・作業拠点「免震事務棟」だ。07年の新潟県中越沖地震で東京電力柏崎刈羽原発の緊急時対策室が機能不全となったのを教訓に、自主的に整備が始まったが、完成したのは大飯原発以外の8原発にとどまる。

 関電は中越沖地震後も免震事務棟の建設を見送ったが、福島第1原発事故を受け導入を決定。大飯原発では当初計画を1年前倒しして15年度に完成させるが、それまでは中央制御室の隣室を使う。ただし、収容は約50人。炉心損傷のような重大事故が起きると対応できない可能性が高い。関電は「そもそも炉心損傷を起こさない対策を取り、事故が起きれば約300人の支援要員を確保した。作業が終われば帰すことを想定している」と釈明する。

 炉心損傷後の対応も評価対象になるストレステストの2次評価を出した原発はなく、内閣府原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長は再三「1次評価だけでは安全確認として不十分」と述べている。

 今後、他原発の再稼働も注目されるが、防潮堤のかさ上げや水密扉の設置など施設の浸水対策が完了した原発はない。格納容器内の圧力を下げるためにベント(排気)する際、外に出る放射性物質の量を低減させるフィルターが付いた設備の導入も、大飯原発以外は検討段階にとどまる。

 一方、原子力規制庁発足の遅れで、1次評価に対する国の作業も滞っている。これまでに18基分の評価結果が経産省原子力安全・保安院に提出されたが大飯3、4号機以外では四国電力伊方原発3号機が保安院の審査を通ったのみ。同機も安全委の確認作業は遅れ、後続の原発の再稼働の見通しは立っていない。【岡田英】

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第29回】スベトラーナちゃん

2012年04月09日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

      抜粋による連載(第29回)

 第四章    わたしは生きる 

 

スベトラーナちゃん

 

ニ―ナ・ラゴダ(女・十六歳) 

                スターロ・ビソツカヤ中等学校十一年生  エリスク地区

  あれは四月のことでした。公園の木々にはつぼみが膨らみ、白樺やハシバミの木には、もう花穂が下がっていました。草は太陽に向かって伸び、きれいな空気はきらめき流れていました。青空高くヒバリが喜びの声をあげ、鳥たちは春の訪れを喜んでいました。 

 隣のステパーノフさんの庭が、楽しく、にぎわっています。アコーデオンが奏でられ、人々の楽しい声も聞こえてきます。ダンスが続き、また歌も続くといったふうにです。外は春で、ステパーノフさん夫妻(ユーリーとバレンチ―ナ)の心も春なのです。二人に待ちに待った第一子が、ついに生まれました。一番の喜び楽しみである娘が。この喜びと楽しみのパ―ティは、娘のスベトラーナちゃんの誕生のためだったのです。幸せいっぱいのこの夫婦が、彼女のために家でパ―ティを開いたのです。二人は神様が下さった自分たちの血を分けた子どもに見とれ、見飽きることがありませんでした。夫婦の顔は輝き、幸せな笑みが、ずっと浮かんでました。私たち子どもは、赤ちゃんのベッドを離れられませんでした。そこにはレースの飾りのついた服を着たふっくらしてばら色のほっぺの赤ちゃんが寝ていて、寝ながら小さな口をおかしくちゅちゅっといわせているからです。だけど、おばさんたちは赤ちゃんにいやなことがふりかかってこないようにと私たちを追っぱらってしまいました。村の全員が、私たちのスベトラーナチャの世話をしました。誰でもが彼女を抱きたがり、彼女と遊びたがったりしました。誰もが彼女の「アグ―」という初めての言葉を聞きたがったのです。

 

 ところがとうとうおばさんたちが気にしていたようなことが起こってしまいました。私たち子どものせいではありませんでしたが、私たちのかわいい小さなスベトラーナちゃんが病気になってしまったのです。

 

 スベトラーナちゃんが一歳になったとき、不幸が彼女を襲いました。暗黒のチェルノブイリが、スベトラーナちゃんの小さな体を、重病にさせてしまったのです。両親が病院や診療所を渡り歩く生活が始まりました。つい最近まで幸せだった夫婦の顔は生気を失い、石のようでした。私たちの心臓は、重たい石がのしかかったようになってしまいました。

 

 私はいま十六歳です。学校を卒業します。私は初めて恋をしました。そのワーシャと私は同じ学校に進むことを約束しました。私の恋は片思いではありません。

 

 だけど、完全に幸せだと感じるには、何かが不足しているのです。私の目の前には、隣の家の薄暗い窓や、スベトラーナちゃんのお母さんの涙の跡のある顔がたえず浮かんできます。夜、私は不眠症で悩んでいます。私は不幸なスベトラーナちゃんが三回も受けた大きな複雑な手術のこと、打ち克つことのできない彼女の思い病気のことをいつも考えてしまうのです。私は人間のくのうの意味について悩んでいます。 

 また悪い知らせがありました。スベトラーナちゃんのもう片方の目にも悪性の腫瘍が見つかりました。神様、あなたはこの世にいるのですか。なぜこの何の罪もない赤ちゃんにこのような苦しみを与え、なぜこの働き者の両親にこのような厳しい試練を与えるのですか。 

 鮮やかな花が咲き誇っている青々とした草原の夢を見ました。私とワーシャは手を取り合い、草原を走っています。彼女に追いつこうとするけれど、どうしても追いつけません。彼女の手にはカミツレの花束があります。彼女は逃げながら、振り向いては私たちをからかっています。そこに突然毛むくじゃらの怪物が丘に現れ、スベトラーナちゃんに黒い手を伸ばし、捕まえてしまいました。私たちは怖くなって「スベトラーナちゃん、スベトラーナちゃん」と叫んでいました。しかし、返ってくるのは沈黙だけです。草原は突然灰に襲われ、空には暗い黒雲が現れました。その雲の上にはたくさんの子どもがのっています。彼らは私たちに手を振っているのですが、別れなのか手招きなのかは私にはわかりません。<o:p></o:p>

  冷や汗で目が覚めると、心臓が激しく打っていました。朝、恐ろしい知らせが届いたのです。私たちのスベトラーナちゃんの命が燃え尽き、永久に消え去ったとのことでした。<o:p></o:p>

  神様。寛容な神様。私は生きたい。愛し、愛されたい。私は不幸やとめどもない涙なんていやなのです。生気のない窓や石のような顔など見たくもありません。私は「黒い」「黒色」そして「チェルノブイリ」といった言葉は嫌いです。嫌いだし、とても恐れているのです。<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第28回】わたしは生きる

2012年03月25日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

 -子どもたちのチェルノブイリ-

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第28回)

第四章    わたしは生きる 

<o:p></o:p>

私は生きる

リュドミラ・チュブチク(女・十四歳) 

ミンスク経済中等学校九年生<o:p></o:p>

 

 魅せられた魂のモノローグ 

 僕のふるさとよ 僕の愛するふるさとよ 

                 ヤコブ・コラス<o:p></o:p>

 こんにちは。私の見知らぬ友よ。私はだいぶ前から、あなたと、考え方やユメ目を分かち合い、私の十四年間の生活、今の悩み、心配や不安などを打ち明けたいと思っていました。私は、なぜあなたと心の内を語り合いたくなったのでしょうか。あなたならたぶんきっと、ひとびとがあまりに忙しく、他人のことなどかまっていられないこの時代にも、私の話に熱心に耳を傾けてくれるに違いないと思ったからです。はじめに自分のことから書きます。<o:p></o:p>

 私はリューダ・チュブチクといいます。私が生まれたところは、ボレーシェの沼地と草原の中の、特に目立ったところはありませんが、かわいい小さな村です。グルシュ・コ―ビッチといいます。村の名前は、年寄りの言い伝えによると、深い茂みという意味の「グル―シ」からきたそうです。昔、ここには雷鳥の大群が住み、ウラジーミル・モノマフ大公が野牛狩りの際にけがをしたところでもあります。私たちの村の右側はジトミール州、左側はベンスク州で、どちらも隣の国のウクライナの州です。ウクライナの人たちとは、畑や川、店や学校、草原や森で会います。<o:p></o:p>

 昔、村のまわりには、造船用のとても背の高い松がありました。そうなんです。笑わないでください。本当に造船用なのです。ここに来てみませんか。松以外にもいろいろな木があります。森の中には私の好きな場所があります。ジモビッシチェというところです。そこにはカシワの木があります。ふつうのカシの木ではなく、カシの木の王といわれています。その巨大な根元は三かかえもあり、おおき菜はと枝をつけ、青空に向かってそびえ立つ幹を力強く支えているのです。そのジモビッシチェには、スズランが咲き、クルミの木があり、沼地にはツルコケモモがはえています。そこはまさにコケモモの宝庫なのです。このジモビッシチェを、お金儲けのために切り開こうとする人々の手から守ろうと、彼らの前に立ちはだかった人がいます。林業の労働者でイワン・ズブレイという人です。<o:p></o:p>

 かわいい私の友だちよ。私は、ジモビッシチェが好きです。ひいおじいさんから代々うけ継がれてきた、この家族のようなジモビッシチァンスキー・モフが好きです。信じられないかもしれませんが、そこには誰も干し草を積んだりはしません。沼地はたくさんあってそれは少し苦味のあるコケモモを盛った深皿の底のようです。秋の初め、沼地マフのまわりには、ヤマナラシが朝風に揺れています。その下には、よく熟れたコケモモだけでなく、足の踏み場がないほど、ヤマイグチの赤い帽子がびっしりと敷き詰めてあるのが見えます。その上に立つのは怖い気がします。赤い帽子の衛兵をたたき落としはしないかと思って。<o:p></o:p>

 【※マフ・・・・苔。ヤマナラシ・・・・温帯~亜寒帯に分布し、亜高山帯の河岸、日当たりのよいやや湿った場所に生える落葉灌木。ヤマイグチ・・・・キノコの一種】<o:p></o:p>

 森の中をもう少し進むと、小さな谷があります。ここの主はヤマドリダケです。このキノコは根から引き抜かれると、力の限り泣きだします。クルミの木の林を通り抜けると、ツルコケモモがびっしり生えた沼に出ます。それはまるでおばあさんの鮮やかな花柄模様のスカーフのようです。コケモモについてはお話しする必要はありませんよね? あなたもよくご存じでしょう。こちらに来ませんか。グルシュコ―ビッチのコケモモの里を見てみませんか。<o:p></o:p>

 私は、なぜ自分の約束の地について書いたのでしょう。私が生命を受けたこの土地は、私にとっては、始まりの始まり、人生の喜びと、わたしをとりまく世界との出会いの出発点なのです。なぜ書いたかというと、多分、私の好きな作家の表現を使えば、それは私の「小さな祖国」であり、私のルーツだからでしょう。<o:p></o:p>

 「よし、分かった。どうして君は自分の祖国のことを僕に話したくなったの?何か心配なことがあるの」とあなたは言うことでしょう。<o:p></o:p>

 去年の夏、私はまた、ジモビッシチェに行ってみました。そこでキノコを集め、歌を歌い(私は歩きながら歌うのが好き)、いつものように心行くまで森の中に溶け込みたかったのです。「こんいちは!赤い足のコウノトリさん」「あなたは、シダさん、いつ咲くの」私は走り、喜びで大声をあげ、おーいと呼び、歌い、そしてツリガネ草を摘みました。黄色くなってきた草や落ち葉も踏みつけたくありませんでした。私は何かに引きつけられるように、白樺林の中の小道を通り抜け、森の奥へと入って行きました。そこにはキノコのヤマドリダケがいつも私を待っているのです。一つ目が見えました。二つ目は、白樺の落ち葉の下に隠れています。三つ目は・・・・・、えっ、あれは何でしょう。真新しい白樺の立て札が立っています。その立て札には、「禁止区域! 家畜の放牧、キノコ狩り、イチゴ狩りは絶対にしてはいけません」と書いてあり、その下に、皮肉にも三つ目のヤマドリダケがあるではありませんか。どうしていいか、私にはわかりませんでした。キノコを根から抜き取り、捨てました。しかし、すぐまたそれを拾い、土に埋め戻しました。私の手は震えていました。頭をあげてもう一度立て札を見ました。キノコはバラバラになってしまいました。立て札を引き抜き、壊したくなりました。<o:p></o:p>

 ああ、神様。どうしてここに、私のジモビッシチェにひどい匂いのする、地を這うような霧が立ち込めているのでしょうか。どうして。チェルノブイリから一四五キロもあるのに。<o:p></o:p>

 寛容な神様。何のための苦悩なのですか。私のふるさと、私のポレーシェはイチゴとキノコの豊富な土地です。コケモモも有名です。それが一瞬にして、全部毒されてしまったのです。<o:p></o:p>

樹齢数百年もの巨大なカシの木を見、小川を眺め、そのせせらぎを聞き、鳥の歌声を聞くたびに、私は自分の心臓が飛び出し、空に飛んで行ってしまいはしないかと心配になります。あまりの壮麗さに耐えきれず目がつぶれ、音が聞こえなくなり、私のふるさとの自然の美しさが見えなくなりはしないかと心配になります。<o:p></o:p>

 わたしは大地に飛び込み、抱きしめ、口づけし、感謝したいのです。そこには曾祖父たちの足跡がしるされているのですから。<o:p></o:p>

 私たちの生地よ。許して下さい。ふるさとの大地を愛しています。巨大なカシの木さん、大きいクルミの木さん、コケモモさん、若草さん、私のふるさとのすべての生きるもの。みんな、許して下さい。私は自然を救うため、大地のため、人のため、できることは何でもします。どんなチェルノブイリも私を邪魔することはできません。私は生きます。私の血筋は続いていくでしょう。<o:p></o:p>

 けれども、恐ろしいことに、チェルノブイリは、私の人生に、私と同じ年頃の人や、ベラルーシノすべての人々の心と体の中に姿をひそめ、長期間にわたって、困難で、厳しい試練を与えるでしょう。神様、この試練も、宇宙の生きとし生けるものたちの義務なのですね。そのすべてが、神様の光、善、太陽に近づくためのもの、と信じて私は生き続けます。<o:p></o:p>

  チェルノブイリ。それは私たちにとって永遠の苦痛であり、不安です。それは見えない毒であり、放射能から身をかくす場所を探し、療養のために、新しい土地を旅行することを私たちに強います。そんな生活の中では、知らない土地で出会った人々の温かい心遣いだけが私たちをなぐさめてくれます。見ず知らずの人々が、言葉でいいあらわせず、予測もできない私たちの苦痛を理解してくれました。<o:p></o:p>

 チェルノブイリよ、まだ何かしようとしているのですか。どれだけの未知のことを。喜びの歌は、私の国民から奪われてしまいました。<o:p></o:p>

 ごめんなさい、わが見知らぬ友人よ。手紙をこんな悲しい言葉でしめくくって。あなたが私の話を最後まできいてくれて、うれしいです。<o:p></o:p>

 ありがとう。あなたが私の想像の中にいてくれて。お元気で

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載 【第27回】 わたしは明るくふるまう  

2012年03月23日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第27回) 

第四章    わたしは生きる  

わたしは明るくふるまう<o:p></o:p>

 

マリーナ・ミグラショーワ(女・十六歳) 

ダ-ぜファジョジノ町

  チェルノブイリ。この言葉を聞いてなぜ涙を流す人がいるのか、多くの人は分からないでしょう。私も最近まで分かりませんでした。 

 チェルノブイリの原発事故によって、今でも人々は病気に苦しみ、あってはならないこともおこっています。

 

 不幸は私にもふりかかり、私は病気になりました。診断はリンパ腫です。これは重い深刻な病気で、死刑宣告とほとんど同じなのです。私が指導を受けた科学研究所には、このような患者さんたちがたくさんいました。みんな生きたがっているし、命のために闘っています。このような目に会ったことのない人は、私のことが分からないのではないでしょうか。

 

私は十六歳になりました。自分の性格がかたくなになったような気がします。よく折れた若木や、崩れた鳥の巣、蟻塚を見ることがあります。だけど、それに心を寄せるのは、少数の人です。ひとのざせつさせられた運命や病気、苦悩に対しても、それは同じです。

 

今、新聞で汚染地区について多くの報道がなされています。その光景を考えると、とてもつらいです。私には、持ち主に捨てられた農家、菜園、一面に生えた雑草、捨てられた犬や猫が思い浮かびます。開かれたままの納屋の戸が、魂を苦しめるように物悲しくきしみ、木々の葉が心配そうに音をたて、人の声はどこにも聞こえません。不気味な重苦しい沈黙がこのような村を覆っています。おそろしいけれど、これが逃れられない現実なのです。大切なふるさとを永遠に捨てざるを得なかった人の苦悩を想像するのはむずかしくはありません。チェルノブイリは人々に何と多くの不幸、涙、被害をもたらしたことでしょうか。

   私はつい最近までベッド暮らしで、壁にあたる日の光をながめながら自分の運命や、他の人々の命について考えていました。皆、本当に生きたがっているのです。この一年、私はそれをすごく感じました。私たちはいたるところで死というものに出会っています。木の葉が枝から落ち、蝶は寒さで死んでいます。ある人にとっては、死は、たぶん、待ち続けた平穏の訪れであり、苦痛からの解放なのかもしれません。だから、病人は自殺することもあるのだと思います。そんな人たちも、きっと人生を愛していたのでしょう。しかし、苦痛に耐えることができなかったのです。 

 私と同じ病室の患者さんたちはこう言います。「私たちって、姉妹ミたいなものね。いえ、それ以上よ。家族や親戚は時にはそっぽを向くことがあるわ。私たちは一週間家にいて、またこちらに帰って来て、またもいっしょでしょう」と。こんなとき、同じ病室の仲間たちは、寂しげな笑いをするのです。彼女たちは、私に多くを語らず、私が自分の病気については、知らなければ知らないほどよいと思っていて、元気づけてくれるだけです。私は全てをよく理解できるので、私は多くを語らないようにしています。

 

 病院のベッドに横になって、闇に光る稲妻にツバメの姿がきらめき、木の葉が震え、全ての生き物が、夏や、暖かさや、太陽を喜んでいるのを開け放った窓から見ていると、私は安静にしていなければならないのが少し腹立たしく、目に涙が浮かんでくるのです。急いでふくのですが、涙はどんどんほおを伝って流れ、枕に濡れた斑点をつくってしまいます。私は生きたかったし、生き延びられることを望んでいました。私はもう半年も外に出ず、家族の者としか接してきませんでした。私は、だれにも、私の人生に突然襲いかかってきた苦痛を、話していません。今後とも、誰にも話さないでしょう。私にはよくある見せかけの同情はいりません。自分の力で直そうと思っています。ほかに方法はないのですから。みんなには以前と同じような活発な子だったと思っていて欲しいのです。自分の態度、ふるまいを変えたくありません。

 

 私は、今、家にいてやることがたくさんあります。編み物をしたり、本を読んだり、宿題をしたり、家の掃除をしたり・・・・。ただ、夜みんなが寝静まった時に、一人っきりになると、悲しくなることがあります。でも、そのときには、できるだけ楽観的になるように試みるのです。これがけっこう、うまくいくんです。私の家族はよい家族でいい人ばかりです。私はとても家族を愛しているので、私のことで悲しませたくありません。明るくなるようにし、冗談も言うようにしています。いつもそううまくいくわけではありませんが・・・・・。

 

 私は、将来に希望を抱いています。毎晩、私は、今日より明日はよくなると信じて眠りにつきます。時々夢に、私の幸せだった子どものころのことが現れます。そこでは私を不安にさせるものは何もなく、私は鳥のように、手をはばたかせて、空高く舞い上がり、美しさにあふれた故郷ベラルーシをながめることができるのです。この大地が好きです。そしてこれからもずっと好きです。<o:p></o:p>

 

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第26回】私にふるさとを返して 

2012年03月14日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第26回)<o:p></o:p>

 第四章    わたしは生きる <o:p></o:p>

 私にふるさとを返して

               ジアナ・バルイコ(女・十五歳)ミンスク経済中等学校九年

<o:p></o:p>

 覆いをはぎとられたこの世の神経は 

 あの世の苦しみを知っている 

                 V・ビソツキー<o:p></o:p>

  遠くで誰か家族の声がする。「息が苦しいよ。ラードチカ」 

 私は夢の中でつぶやく。「おばあちゃんなのね、行かないで、お願いだから。私はおばあちゃんが好きなのよ。もっともっといろんな話がしたいのよ」 

 「大地の揺れる音が聞こえるかい。ラードチカ」 

 「いえ、聞こえないし、何も感じないわ。私は今、病院の七階に寝てるの。ここの窓からは、煙があがっている工場の煙突と、屋根がのこぎりの歯のように連なった新築住宅が地平線まで続いているのが見えるわ」 

 「生きている者には、これがわからないのかい」おばあちゃんは、苦しそうに寝返りをうち、うめき泣きながら、そう叫んだ。 

 「おばあちゃん、生きていたの? 二年前に、ブラ―ギンの墓地におばあちゃんはまいそうされたんじゃなかったの」 

 沈黙があった。 

 「おばあちゃん、どこなの」 だが返ってきたのは、静けさだけだった。私は虚脱感に襲われ、はっとして目が覚めた。恐ろしかった。ドアのガラスのむこうの、長く暗い廊下の突き当たりではぼんやりとした明かりがぽつんと光っていた。町の上には、灰色の朝の光が上がってきた。<o:p></o:p>

  われに返ったように、私はおばあちゃんを抱きしめようと、手を伸ばした。しかし、手に触れたものは、ガラスの壁だった。空気に突き当たったかのように感じた。

 あの世のおばあちゃんと、この世の私をわけるガラスの壁だ。 

 「忘れないようにしてね、何もかも、覚えていてよ・・・・・・」

 一九八六年四月の終わりのころ、大好きな猫がいなくなってしまった。そのときのことを私は今でもよく覚えている。五月のある非、私が家の外の椅子に座っていると、突然、白っぽく毛がぼろぼろになったものが、ニャーと物悲しく鳴いて私の膝にどすんと倒れた。

 「うちのルイジューハじゃないのかい」 おばあちゃんが叫んだ。 

 「どうして。どうして、赤い色だったのに、白くなっチャったの」 私は聞いた。 

「白髪になってしまったんだよ。なにか、恐ろしい、取り返しのつかないことが起こったんだよ」

 私は猫を胸に抱いた。なつかしいにおいがした匂いがした。「ごめんね」 聞こえるか聞こえない程度の声でささやいた。

「私しゃもうすぐ死ぬ気がするよ。あそこにいたんだもの。おなかがものすごく痛いんだよ。あそこにいた人は、生きていけないのさ」

その時には、おばあちゃんが何故そういうことをいうのか、何もわかんなかったが、この世の裂け目の淵に立っているような気がした。私はその四月に全てが始まったことを、事故が起き世界が崩れていることを、何故、今まで知らなかったのだろう。<o:p></o:p>

 一九九二年二月、私はブラ―ギンからゴメリの病院に送られた。病室の四人は全員同じ白血病患者だった。うち二人は忌まわしい死をやがて迎え、私とオーリャノ二人が残った。 

ある日おしゃべりをしていた時だった。オーリャが突然顔を曇らせて、私に質問してきた。 

「あなた、生きていたい? ラ―ダ」 

私の両手は音もなくひざに落ち、目から涙がこぼれた。 

「泣かないで、お願いだから。ごめんね、悲しませて」 オーリャは静かに言った。 

「でも、私はあなたに何もしてやれないのよ。私はまもなく死ぬわ。どう思う、死ぬって怖いかしら。死っていろいろあるわね。楽な死もあるし、苦しい死もあるし。私を待っているのは恐ろしい死ね」 

「そんなふうに言わないで」 

「あなたは死なないわよ、聞いているの、オーリャ」 私は叫ばんばかりだった。<o:p></o:p>

 真夜中、夢の中で、恐ろしい叫び声と医者の声がしたが、目wp覚ますことができなかった。朝になると、ベッドが一つ空になっており、私の中で何かが崩れた。私は何もたずねなかった。即座に全てがわかった。私は泣かなかったし、叫びもしなかった。うつろな目で天井の黒い割れ目をながめた。それは夜のうちに、以前より広がったように見えた。心配そうに、医者が私のところに二回も来た。看護婦さんも何度も来た。私には彼らの話は何も聞こえなかった。私は虚脱感に襲われていた。<o:p></o:p>

 夜、突然、震えが始まった。冷や汗にぬれ、頭を枕にうずめていると、おし殺したおばあちゃんの声が聞こえた。

「泣いてごらん。楽になるよ」 

私は子どもの頃のように奇跡を期待した。私の身に起こったすべてのこと、チェルノブイリの事故も、白髪になった猫も、いとしい人たちの死も夢であり、すべてが昔のままであってほしいと思った。 

明日。十五歳にになる。今日、医者がなぜか暗い顔で私の退院を告げ、そして母は泣きだした。<o:p></o:p>

 ブラ―ギンの家に帰った。母が自分の妹に男の子が生まれたので、行って支えてあげなければならないと言っていたが、私にはさっぱり分からなかった。「支える」とはどういうことなのか。赤ちゃんの誕生は、喜びであり、幸せなのに。そのうえ、おばさんのところは長いこと赤ちゃんを待っていたのに。赤ちゃんが生まれて一ヶ月半たった今、それがどういうことだったのかを初めて知った。

 「がーリャ。ガ―ロチカ」 

母はおばさんを抱きしめた。突然激しく赤ちゃんが泣きだし、おばさんはゆりかごから赤ちゃんをとりだして、抱いた。私はぞっとした。赤ちゃんの頭は開き、脈を打っているのが見えるのだ。私は外に飛び出し、暗闇の庭を走り抜けた。私はもう少しのところで気を失いそうになった。私たちに何が起こっているのだろうか。どこのどんな深い裂け目にころがっていくのだろうか。どうして、自らこの世の終わりに近づいているのだろうか。家の中では赤ちゃんがひっきりなしに泣いていた。この世に生まれたことを嘆いているかのように。<o:p></o:p>

 
 

 私はそこから、町から逃げ出した。私にも何かが起こるのではないかという不安で、気がおかしくなりそうだった。私は野原に駆け込み、そこの冷たい、湿った土の上に倒れこんだ。大地がくやしさで叫び、泣いているのが感じられた。苦い涙が私の目から流れた。五月の苦い放射能の雨も、私と一緒に泣いた。私は暗いむなしさで叫んだ。 

「私にふるさとを返して! はだしで草原を歩きたいわ」「湖の水を飲みたいわ」「きれいな土の上に横たわりたいの」「暖かい春の雨で顔を洗いたいの」<o:p></o:p>

 神様。私の言っていることが聞こえますか。<o:p></o:p>

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【3月13日のニュース】

柏崎刈羽原発1・7号機で東電・政府が再稼働にむけたストレステストでつまずき!関西電力・大飯原発、四国電力・伊方原発の再稼働を止めて、運転原発ゼロに追い込もう! 

 3月13日、「地元の合意の前に4閣僚政治判断で運転再開・再稼働を判断し、最終決定する」と先日表明した枝野経産相が、停止中の柏崎刈羽原発1・7号機の再稼働のための東電のストレステスト結果報告に対して「大量の誤記載」の発覚に色を失い、東電をなじる会見を行った。枝野経産相は、「東電の作業の質全体に問題があったと疑念を抱かざるを得ない」とし、東電が再発防止策をまとめるまでは審査に入らない考えを示した。閣議後の記者会見で明らかにした。

 東電報告書には、2月までに見つかった158カ所に加え、新たに81カ所の誤りがあったと原子力安全・保安院に報告。使用済み燃料プールへの注水機能を維持できる揺れの強さの計算ミスなども含まれ、デタラメは合計239カ所にものぼる。

 枝野は会見で「誤りの数が桁違いで、内容も本質にかかわりかねない。安全性に対する企業姿勢について、しっかり見直す」などと言っているが、東電の最大原発電力である柏崎刈羽原発の再稼働にむけたなりふり構わぬ「急ぎ働き」の犯罪的なデタラメさは許しがたいが、枝野が東電をなじるのも、とんだお門違いというものだ。国策としてあくまで「再稼働」ごり押し強行を政府意思として表明し、東電を急かせ叱咤激励してきたのは一体誰なのだ。枝野が言っていることは、“4月には全国原発54基がこのままでは全部停止に追い込まれかねない中で、政府挙げて、再稼働強行へ舵を切っているのに、当の東電がすぐ露見するようなミスだらけのストレステスト報告書を出すような手抜きをやるとは何事だ”とあたり散らしているに過ぎない。

 そもそも、この柏崎刈羽原発は、今回のストレステスト報告以前に、昨年3・11以来、保守点検を行わず、放置し続けている計器が704もあるのだ。

 定期検査で停止中の原発は、1次評価結果について国から妥当との判断を受けることが再稼働の前提となっている。東電・柏崎刈羽原発の再稼働で政府・東電は(自失・・・私たちからいえば敵失で)窮地に立った。関電・大飯原発3・4号機、四電・伊方原発3号機の再稼働は絶対反対で闘いを爆発させれば阻止できる。再稼働阻止・原発全廃へ闘おう。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載 【第25回】 茶サジ一杯のヨウ素

2012年03月01日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 

抜粋による連載(第25回)<o:p></o:p>

 第四章    わたしは生きる <o:p></o:p>

 茶サジ一杯のヨウ素                                       

                         スベトラーナ・スコモラホワ(女) 

第十中等学校十年生  ゴメリ市

 

<o:p></o:p>

   

 ある日、私の美しいベラルーシの上に、チェルノブイリという黒い星が現れた。その黒い星は、人々の心に重くのしかかり、子どもたちの顔にひどい痛みを刻みつけた。一九八六年、私の大地に何が起こったの。神様、あなたはなぜこんなひどいことを許したのですか。ハティン(※)の死を告げる気味の悪い鐘の音が、ベラルーシの私たちには少なかったとでもいうのですか。【※ハティン・・・ナチス・ドイツに破壊された村の名。今は記念公園になっている。】それともいつかの血なまぐさい戦争で、ベラルーシの人々の死んだ数が少なかったとでもいうのでしょうか。木から吹き飛ばされた一枚の葉のように、チェルノブイリの風に押し流され、この世をかけずり回ってもどこにも行き場がない人々のことを、神様あなたはなぜ考えなかったのですか。 

 打ち捨てられた農家、誰もいなくなってしまった集落がある。でも、それは忘れ去られているのではないのです。ここから出て行った人々は、黒くなってしまった建物や黒い大地、移住者の悲しげな顔や燃え尽きた住みのように暗い目を忘れることができないのです。そして、彼ら自身の黒いつらい心の痛みを・・・。

 神様、あなたが私たちと一緒にいてくれて、私たちからそっぽをむいてしまわないようにするには、一体何をすればよいのでしょう。

    夢を見ること

   それは、気味の悪い夢だ。 

    でも神様は助けに来ない。<o:p></o:p>

   私は、小さい川ンのそばに立っている。古くて大きく枝を張った木、窓が壊れて、人の住んでいない黒い農家を見ていると、私の不安は大きくなる。村には人っ子一人いない。ただ人通りのない道で、風がほこりを巻き上げているだけである。空を見上げると灰色がかって暗い。あたりは底知れぬ静けさが漂っている。突如、遠くにうめき声のようなものが聞こえてきて、私は一層薄気味悪くなった。あれは何だ。私は不意に、人の魂の声だと気づく。彼らは、カモメのようにうめき泣き、また泣いてうめいている。彼らにとって憩いや安息はない。人々はかつて愛し合い、子どもを育て、働き、穀物を育てていた。しかし、今では見捨てられてしまった自分たちの生まれた家を、心静かに眺めることはできない。

 

 

 これは単なる夢だと、目を覚ました私は自分を落ち着かせた。しかし、これは単なる夢なのだろうか。私は、さっさと身支度をして学校へ行く。今日の授業は、物理、化学、文学、そして放射能の安全性である。授業では、白血病や死亡についての話はあるが、事故の悲劇自体の話はしない。たとえ話したとしても、果たして悲劇を十分に記述するための言葉があるのだろうか。 

 家に帰ると、私はカバンを投げ出し、川のそばの公園へ行く。ソシ川の岸辺に立って、ゆったりとした川の流れを眺め思い出している。「波は逆に流れない。流れと一緒に去ってしまうものだ」そう、あの時はもう戻って来ない。一九八六年の事故の時まで、私の心の中にあったなごやかなあの喜びは帰って来ない。<o:p></o:p>

  私は、頭から離れられない考えから解放されたくて、図書館へ行く。そこで、最近発行されたベラルーシの詩人の本を読んだ。司書が、私に渡してくれた本は「ニガヨモギの星」というものだった。ここでもまた重苦しい考えから逃げられないことを予感しつつ、一番遠い隅の席へいって読み始めた。白血病で死んでいく小さなアリョーシャに同情して、私は泣いた。’

(※ニガヨモギの星・・・・聖書「ヨハネの黙示録」からとった題名)<o:p></o:p>

  私はそれが起こった日のことをはっきりとは覚えていない。私にとって、それまでの四月の終わりはいつも楽しいものだった。というのは、四月の最後の日が私の誕生日だからである。私は誕生日まであと何日と指折り数えながら、羽が生えたように浮き浮きと飛び回っていた。そのあとの日々も素晴らしかった。太陽が輝き、栗の花は満開で、私たちはその下を軽いワンピースを着て走り回った。

 まもなく、雪崩のように恐ろしい知らせが押し寄せてきた。避難だ。パニックが始まった。ゴメリは全滅したかのようだった。通りを見ていると、町には、父と母、祖父と祖母、それ以外に私以外に誰もいないような気がしてくる。人々は歩かず、できるだけ外にいる時間を少なくするために走っていた。気温が高いにもかかわらず、家の換気用の小窓はしっかりと閉じられたままだ。 

 放射能」は人を殺す、恐ろしくて目に見えないものなのだ。<o:p></o:p>

 しばらくして、私たちは、ヨウ素を飲まなければならないと聞いた。ただ、どんなヨウ素をどうやって飲めばよいのか誰も知らなかった。いろんな専門家がそれぞれ違った助言をした。今では想像もできないことだが、薬局で両親は、小サジ一杯のヨウ素を日に三回飲むように言われた。本当はたったの数敵でよいのだ。私にとって幸運だったのは、父が茶サジ一杯のヨウ素を水に溶かしたので、私の胃のやけどは、一緒に入院していた人ほどひどくなかったことだ。

(※ヨウ素をのまなければならない・・・・・子どもの甲状腺に溜まる人工放射性ヨウ素131が蓄積される前に甲状腺にヨウ素剤を満たす目的のために使われた。事故の起こる前に飲ませるのがよいとされるが、いつ事故が起こるかもわからず、また事前に飲ませ続けるとヨウ素過多症という病気にかかるため、適切な使用が難しい。またセシウム137、ストロンチウム90など、ヨウ素以外の人工放射能の防護にはならない。)

誰もがこの放射能地獄から脱出したがっていた。鉄道の駅は大混乱になった。人々は列車を待って何日も座り続けていた。列車が来ると、人々はそれに向かって突進していった。祖母はそれを見て、戦争の頃を思い出すと言った。実際、まさに戦闘だった。命のための戦闘であり、親戚と自分の子どもの健康のための戦闘であった。<o:p></o:p>

  学校の生徒はどんどん減っていった。担任の先生も私たちを見捨ててしまった。そして、代わりの先生が来た。夏休みが始まると、母も休暇を取り、母と私はアナ・パへ行った。医者が私を南に連れて行くよう勧めたからだ。母はピオネール・キャンプの保母になり、そのキャンプで私たちは二か月間を過ごした。私は太陽の光にあたることを禁じられていたので、海で泳いだり、黄金の砂浜に寝そべっている子どもたちがうらやましくてたまらなかった。私は砂浜でさまざまな色の石を集めたり、童話に出てくるようなお城を砂でつくったりしたかったのに。

 

 休暇の後も、私は丈夫になったとは感じられず、いつもけだるく、学校も休みがちになった。二学期には一週間しか学校に行けなかった。大人たちは私に何が起こったのか分からず、とても心配した。冬休みになると祖母は、彼女の妹がいるモスクワに私を連れて行ってくれた。私はそこで医科大学病院へ行った。大学病院では、私の血液の全面的な検査が行われた。私は病気であり、血液の成分の形が変わっていることが明らかになった。医者は、せめて一年間は今住んでいるところを出て、キャビアを食べ、新鮮なザクロジュースを飲むようアドバイスした。彼のアドバイスは、私の家庭にとって不可能なことであった。

  故郷ゴメリに帰ると、私は州立病院に登録され、毎週のように検査をされた。なんと恐ろしい体験だったことか。病院へ行き、血をとられるのをじっと見ているのだ。音楽の授業の時、注射針で刺し傷だらけになっていた指がものすごく痛んだ。音楽学校を辞めなくてはならなくなった。これは短い間のことだったからよかった。今、これまで耐えてきたことを振り返ると、悔しさと腹立たしさで胸が締め付けられるようだ。何人の子どもたちが、医者の怠慢や無知、専門技術の欠如死んだのだろうか。彼らは、ここで何が起こっているのかを知らず、そのことを考えることさえしたくなかったのだ。<o:p></o:p>

  悔しさで胸がいっぱいだ。多くの親戚や知人の命が消えて行った。私の叔母と叔父、知り合いの若い女性が死んだ。私の父も病気がちである。彼は事故のあと、汚染地区に出かけて行き、住民に食料を供給する仕事に携わったからだ。<o:p></o:p>

  八方ふさがりのこの恐ろしさから解放されるためには、何を食べて何を飲めばよいのでしょう。<o:p></o:p>

   まもなく母が帰ってくる。今日は「棺桶代」をもらう日だ。人々は汚染地区の住民への補償金をこう呼んでいる。母は泣きながら帰って来た。まだ三十五歳だった母の友人が死んだそうだ。母は黒い服に着替えて墓地に向かった。その墓地はまもなく「過剰」のために閉鎖されると聞いている。黒ずんだ農家、黒い大地、他へ移って行った住民の悲しげな顔やもえつきた炭のような暗い目が思い出される。

 ニガヨモギの星、ここにヨモギは多くなかった。しかしそれでも、ニガヨモギの星はベラルーシの上空に現れ、全ての人々に苦しみを与えた。永久に免れることのできないであろう苦しみを。 

ふるさとの美しい景色よ。

おまえは、私の悲しみ、そして喜びだ。 

 悲しみはもういらない。一滴だけの喜びでいい。私と私のベラルーシの人々の上に・・・・・。<o:p></o:p>

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★☆★☆★連載の今回の作文には、「ヨウ素」のことが出てきます。先日、「原発50キロ圏内の各戸にヨウ素の事前配布」の提言のニュースが流れました。

【以下、2月24日朝日新聞デジタル版】

450osk201202240059

 原子力安全委員会の防災専門部会被ばく医療分科会は24日、原発事故の際に甲状腺被曝(ひばく)を防ぐ安定ヨウ素剤の服用などについて提言をまとめた。原発から50キロ圏内では各家庭への事前配布を検討し、服用を指示する主体を国から自治体に移すべきだとした。近く国の防災指針の見直しを進める作業部会に答申する。 

 

 安定ヨウ素剤の服用は、甲状腺がんの原因になる恐れのある放射性ヨウ素による被曝を防ぐのが目的。東京電力福島第一原発事故の教訓から、事故発生後の配布では間に合わない可能性があるため、分科会は、原発から50キロ圏内では、原則として各戸への事前配布を検討するよう提言した。ただ、各原発から50キロ圏内に含まれる市町村名は示されていない。<o:p></o:p>

 

  服用基準は従来の防災指針の100ミリシーベルトから50ミリシーベルトに厳しくするよう求めている。40歳以上の人にも甲状腺がんが発生する可能性があるとする論文が出たことを受け、従来は必要はないとされていた40歳以上の服用も検討するよう提言した。<o:p></o:p>

 

  福島第一原発事故の際、安全委は、服用指示を出す権限がある政府対策本部に対して服用を助言したのに、現地対策本部に伝わらず、大半の住民は服用しなかった。この反省から、分科会は、原発の原子炉の状況が悪化したり空間線量が一定値を上回ったりした場合、自治体が国の指示を待たずに自動的に服用を決定できるしくみを作るよう求めている。

<o:p></o:p>

 

               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 原子力安全委員会被曝医療分科会はこのように答申しているが、福島原発事故があり、原発そのものが最大の問題となり、廃止・廃炉が最大の課題となっているとき、原発の再稼働に躍起になっている政府系機関が「原発50キロ圏内で各戸にヨウ素事前配布」と提言するのを聞いて、人々はどう思うでしょう。「事故が起きた場合に備えて原発50キロ圏内には事前にヨウ素を配布するから原発再稼働を認めよ」というに等しいものです。人々が求めているのは、事故が起きた場合にはヨウ素を服用しなければならないような原発そのものをなくせ、ヨウ素を事故に備えて常備していなければならないような原発の存続そのものをやめろということです。原発さえなければ、福島原発事故やチェルノブイリ原発事故のような大惨事も放射線被曝・放射能汚染による苦しみもなかった。今回の「ヨウ素事前配布」答申は、まったくサカサマです。まず必要なのは原発を全部止めること、廃炉すること!私たちが求めているのは、「原発事故に備えてのヨウ素」ではなく、不可避に事故を起こす原発の廃止です。私たちは被曝医療における「ヨウ素」の適正な服用を何ら否定しないし、その保障を要求もするが、「ヨウ素を原発50キロ圏内に事前配布して、万一の備えを確保したうえで原発を再稼働する、原発を存続させる」という議論には絶対に反対です。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載 【第24回】 ぼくの町へ帰りたい

2012年02月29日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

  

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ- 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修) 

<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第24回)<o:p></o:p>

 第三章    これもだめ、あれもだめ 

 ぼくの町へ帰りたい 

マクシム・パシコフ(男・十四歳) 

第二中等学校七年生  オシポビッチ町<o:p></o:p>

 


    

ヤッター! 僕の弟が生まれた。一九八六年四月二十六日、よく晴れた日だった。暑かった。そのとき僕は後妻だった。僕はこの日の来ることをどんなに待ち望んでいたことか。父と母と僕と三人で、指折り数えた日々、赤ちゃんの名前を考えたほどだった。なぜか知らないが、みんな男の子が産まれることを知っていた。<o:p></o:p>

 

この日、僕は初めての体験に興奮しきっていた。喜びのあまり、病院の窓のところでぴょんぴょんはねていた。みんなは弟がすり替えられないかと心配していた。生まれたての赤ちゃんはみんなそっくりだから。僕は弟の名前をブドゥライエムにしたかった。というのは、そのころ、テレビ劇で「ジプシー」というのをやっていて、僕はこの名前をとても気に入っていたのだ。なのに、どうして父や母はブドゥライエムにしなかったのだろうか。<o:p></o:p>

 

まる一週間、母は病院に入院していた。その間、僕は毎日病院に走って通ったものだった。弟の顔を見たくてたまらなかったのだ。だから母がやっとアルトゥーシャ(こう名付けられた)を家に連れて帰って来た日、僕はとてもうれしかった。だが、突然に悲劇は始まった。<o:p></o:p>

 

 

 その頃の僕はどうしても大人を理解することができなかった。大人たち顔つきが悪くなり、みんないつも同じことばかり話していた。僕は、たびたび、美しい、歌うような言葉を耳にするようになった。僕にはそう聞こえた。「ラジアーツィア(放射能)」である。みなそれを恐れた。しかし誰もそれを僕に見せることはできなかった。のちにもうひとつ記憶に刻み込まれた言葉がある。それは「エバクアーツィア(避難)」である。この言葉は気に入らなかった。第一にそれはかえるの鳴き声にそっくりだったし、第二に、どこかに行ってしまうことだと聞かされたからだ。僕は何処にも行ってしまいたくなかった。しかし、この放射能からの避難は現実になった。友だちは全くいなくなってしまった。外には誰もいなくなり、町はすっかり寂しくなってしまった。母は砂遊びを禁止した。ラジアーツィアだ。一日に何回も手を洗った。ラジアーツィアだ。花にも草にも触ってはいけない。ここにもラジアーツィア。壁と床からじゅうたんがはぎとられた。ここにもラジアーツィア。床は洗浄の水が乾ききることはなかった。知らないおじさんが何か器具を持ってよく家に来た。おじさんは何かを測っているようだったが、僕にはまだその意味が理解できなかった。僕はおじさんの後をついてまわるのが楽しみだった。でも、おじさんが帰った後、母の顔はさらに悲しげになった。ある日、アルチョムが病気になってしまった。医者は診察した後、小さい声で、多分恐怖からだろうが、「ラジアーツィア」と言い、母は母乳をやるのを禁止された。そのかわり、レニングラードから粉ミルクが送られてきた。町では牛乳を搾ることが禁止されていた。牛も人も同じく、呪いのここにもラジアーツィアに苦しんでいたのだ。 

太陽は熱く輝いている。木々の葉は風に音を立て、花は咲き乱れている。だがチェリコフの町の通りには人もなく、静かだった。けれども僕たちはまだそこに住んでいた。

 

母の具合も悪くなった。ちょうどその頃、父はゴールキの農業アカデミーの講座に参加することになった。父は行くのを渋ったが、母は送り出してしまった。僕に着いて言えば僕の嫌いな「避難」という言葉に直面しそうな予感がしていた。町に残っている子ども全員が郊外のレチェツァ村の幼稚園に集められた。採血するためである。僕は非常に怖かった。子どもたちはみんな泣いた。痛さからより怖さから泣いたのだ。母親たちも泣き叫んだ。僕は、生まれてからたった一週間しかてっていないアルトゥーシャに大きい注射器を刺さないように頼んだ。今でもこのときの光景が目に焼き付いている。<o:p></o:p>

 分析の結果が分かると、母はクリモビッチのおばさんの家に行くように僕を説得した。放射能はそこまで飛んで来てはいないという。僕は絶対ン行きたくなかった。母や弟と離れたくなかった。でも母が泣いて僕に頼むので、僕はとうとう言うことをきいた。何日かして、おばさんが僕を迎えに来た。僕はおばさんのところから幼稚園に通った。叔母さんはい人だし、大好きだ。でも僕は、家が恋しくてしかたがなかった。しばらくして、クリモビッチも放射能に汚染されていることが分かった。瞬く間に時は流れて。母がどこかに出かけて行った。後から知ったことだが、母は移住先を探しに行っていたのだ。だが、なかなか決まらなかった。僕たち家族は、三年後に、ようやくオシポビッチに引っ越すことができた。アパートの部屋も家具も、そして最も大切な僕の友だちもチェリコフの町に残して。<o:p></o:p>

 現在、僕の家族は、アパートに住んでいる。弟は二年生になった。新しい友だちもできた。しかし、僕は幼い頃過ごした僕の大好きな町が恋しくてならない。夢にも友だちがよく出てくる。ィリューシャ、隣のユーラ、リューダ、ワ―リャ。放射能が早く去ってしまい、僕の町、僕が住んでいたロコソフスキー通りに帰りたい。

 

 

<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第23回】 私のかわいいチュウリップ

2012年02月24日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第23回)<o:p></o:p>

 第三章  これもだめ、あれもだめ <o:p></o:p>

 私のかわいいチュウリップ<o:p></o:p>

  キ―ラ・クツォーバ(女・十五歳)ホイノ中等学校十年生  ピンスク地区

 

 

 私は今、十五歳だ。作文を書きながら、「運命」のことを考えている。<o:p></o:p>

  一九八六年のあの忌まわしい事故は、多くの人たちの運命をはるかに苦いものに変えた。しかし、一部の狡猾な人たちは自分の運命を機敏に転換させることができた。彼らは人の不幸を利用し、それで自分の腹を太らせたのである。<o:p></o:p>

  子どもたちはどうだったのだろう。一九八六年十二月に生まれた、私のいとこのマーシャは、一歳になっても立つことができなかった。股関節に骨がなかったからだ。このことをピンスクの医者は認めようとはしなかった。親の思い過ごしとされた。おばさんだけがマーシャの不幸をわかっていて、医者の指示を完全に実行し、辛抱強く回復を待った。神様ありがとう。マーシャは普通になった。マーシャはこのことを覚えていないけれどもチェルノブイリが始まった年、彼女が生まれた年に、彼女の運命がこのようにして始まったことを彼女は知っている。 

  一九八六年の夏、カザフスタンの学校で働いている母は、夏休みに私を連れておばあちゃんが住むベラルーシのビチェプスク州に遊びに行った。そのときはまだチェルノブイリの被害は明らかにされておらず、ビチェプスクの町の人たちは、放射能はここまで来なかったようだと話していた。町は静かで穏やかだった。私たちはイチゴやリンゴや野菜を疑うこともなく食べ、当時は病気になる人もいなかった。

 

事故についても「ベラルーシ人」の不幸として、話すことを嫌がっていたようだ。チェルノブイリはここから遠いし、ウクライナのどこかにあるという程度だった。でもその不幸はすぐそばまで忍び寄ってきていたのだ。母も親戚もみんなが心の底では不安で恐怖を抱いていたものの、何も知らされないままでいたのだ。

 

私の住んでいたカザフスタンのプリオゼルスク市は、九十年代まで閉鎖軍事都市で、町の周りにさまざまな地下・地上発射ミサイルが配備してあった。このプリオゼルスクの大人たちは放射能の人体への影響を、その当時でもよく知っていたのだ。ここに勤務する軍関係者は早めに年金をもらい始めるなどさまざまな特権を持っている。チェルノブイリのリクビダ-トルとは全く違っている。母は当時、母の弟のことを心配していた。彼はウクライナのスラブチチ町の建設に派遣されたが、原発事故直後その町はウクライナ避難民のための町だったのである。

 

こうして、私たちのチェルノブイリの日々が始まった。遠く離れたカザフスタンでベラルーシからのニュースに耳をそばだてた。母はベラルーシからの報道、被災者への助言を期待した。だが、ミンスクは沈黙し、モスクワも沈黙し、何の助言も得ることはなかった。<o:p></o:p>

 八六年以降、母と私は、二回ベラルーシに行った。おばあちゃんは急速に老け、おじさんはスラブチチの建設から戻ると咳をするようになっていた。 

マーシャは今でもいろんな病を「花束」のように抱えて成長している。<o:p></o:p>

 ささいなことかもしれない。でも私には多くのことが変わって来ているように思えてならない。人々は寂しげになったり、目つきが厳しくなったり、粗野になって来ているようだし、子どもも同じだ。療養と名付けた外国旅行で手に入れた中古の品物を自慢しあったりしている。私にはこんな機会は決して巡って来ないだろう。でも私の「運命」は私にさまざまな運命を運んでくるのである。

 

  母は教師を続けたが、よく病気をするようになった。人々は大量に町から出て行くようになり、学校の生徒の数も減った。カザフスタン政府は事実上モスクワの直轄都市であったプリオゼルスク市はいらないと言った。ロシア政府も私たちの生活の援助はあまりせず、状況はどっちつまずのものになっていった。町の大きな近代的建物からは、板の一枚まで持ち去られ、町並みは窓を板で十字に釘づけした家が増えていった。<o:p></o:p>

  チェルノブイリのゾーンから脱出する人たちが、私たちと同じように自分たちの家の窓を釘づけにしている写真が、地元の新聞で報道されていた。いろんなことで疲れきった両親は町を出ることにした。でも、どこへ行くか引越しの結論が出ないままに学年が終わり、母は休暇をもらった。母と私はベラルーシのビチェプスク週に出かけることにした。私はそのとき、ベラルーシにこのまま長く留まるのではないかという予感がしていたが、やはりそうなってしまった。失業中の父が遅れて私たちに合流し、新しい場所での生活の責任がすべて母の肩にかかってきたのである。 

 でもここベラルーシでもうまくいかなかった。母は新しい職場を見つけ、なんとか住居も手に入った。しかし父の仕事の問題は未解決だった。ここで職を得るのがおおよそ不可能であろうことは分かっていた

 父はピンスクのおばさんのところに行った。今、私はピンスク地区のそう大きくない村ホノイに住んでいる、予測もつかない放射能汚染の不安にかられながら、ここにたどり着いてしまったような気がする。両親は悲しみながらも、ホノイでの居住権をとり、「棺桶代」をもらうようになった。それは私にも支払われる。補償金は定期的に支給されるが、お金をもらい忘れると、商店のそばの塀に長いリストが貼り出される。このリストでまだ補償金を受け取っていない人たちを知るのだが、戦死者の名前を並べた「記念銘板」を思い起こすので、私は足早にそこを通りぬけることにしている。

 他にも村民への補償として、私たち生徒に朝と昼ニ回の食事が与えられる。内容は良かったり悪かったりであるが、これは多くの人にとって大きな恩恵だと思っている。

 半年に二回健康診断を受けたが、結果が悪く、両親にとっては驚きであった。私はこの数値がどれほどひどい値であるのかを本当は理解できていない。しかし私が正常ではないということがはっきりしたのである。去年の十一月の検査は異常がなかったものの、三月の検査結果は悲しいものであった。ホノイに住んで一カ月たつごとに検査結果が一ポイントずつ悪くなる。父は恐ろしい早さだと言った。そのうち、ここに生まれ育った人に追いつき、追い越すことになってしまいそうだ。私のことを心配して、母の方が病気になるのではないかと心配している。

 初めてホノイの村に着いたとき、私は驚いた。家のそばにはただ雑草が生え、花壇にも雑草は伸び放題、道はゴミの山だった。庭には赤茶けた彼気が立っていた。隣のテクリヤおばさんが話してくれたけど、この家は避難民が次継ぐに入れ替わりに住み、長く居続けることは泣く、三年以上住んだ人はないそうである。

 春、私たちは花壇の手入れを始めた。私の好きなチュウリップ、スイセン、グラジオラス、アスターの花が咲くのを楽しみに・・・・。

父はスタプロポーリエからトマト、キュウリの種を買ってきて植えた。じゃがいもをコルフォーズに売るのだと張り切った。私たちは生きられるのだ。庭は一新した。

 

  しかし、本当のところ、状態は悪くなる一方で、学校でチェルノブイリの子どもたちを見ても希望など感じられない。現在既に警告されているように、将来どうなるかはまったくわからない。信じたくないが・・・・。

 チェルノブイリ事故の後の暮らしは、格言にある「昔のことは、昔のまた昔。そんなことは忘れてしまった」とはいかないだろう。黒い放射能は、単純には過去のことになってしまわないのだ。

 私と母は最近、家のそばの草を引き抜いた。引き抜き、掘り返し、放り投げ、そして一か所に集めた。疲れは感じなかった。むしろチェルノブイリを清算した気分だった。

 母とけんかしたとき、母は「おまえの運命は泣いている猫と同じようなものだ」と言った。ママ、あなたが正しいかもしれない。だが私は生き延びてきた、これからも・・・・・・・。私の過去はチェルノブイリの事故そのものの体験だ。

 窓の外に目をやれば、明るい太陽が青空に輝いている。私の花壇には赤いチュウリップが咲いている。太陽の光に暖められ、とうとう開いたチュウリップの季節、黒い翼がおおうホノイの村で咲いた初めての花チュウリップ。お前に誠意があるなら、いつまでも咲き続けておくれ、自由に、楽しく、美しい空の下で。幼い日、カザフの草原に咲き乱れていた輝く花を、私は忘れはしない。「神様、私たちの美しいチュウリップよ。いつまでも生きておくれ、そして人々に喜びを与えておくれ・・・・・と。

 

 P・S   この作文は先生に見せていません。地区にも送りませんでした。私が自分一人で決めました。というのは、この作文は私が個人的に体験したことを書いた私的なものだからです。 

 

尊敬する選考委員のみなさま、直接ミンスクに送ります。今、私にはどんな希望もなぐさめもありません。私と同世代の数千の子どもたちの運命をチェルノブイリが暗くしているからです。彼らの中の何百人かが、このコンクールで考えを整理して述べることでしょう。彼らの成功と健康を祈ります<o:p></o:p>

 

//////////////////////////資料/////////////////////////////////

東日本大震災救援対策本部ニュース243号(2012、2,23)からの転載2431223img_291382_7850131_0
                         
                          2432223img_291382_7850131_1_2

  前掲ニュースの記事詳細は下記のワンクリック、「フアイルを開く」でごらんになれます。

http://www.geocities.jp/shinsaikyuenhonbu/honbu243.pdf

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第22回】月の光の中で

2012年02月06日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 抜粋による連載(第22回)

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

           【第三章   これもだめ、あれもだめ <o:p></o:p>

 月の光の中で<o:p></o:p>

 ナタ―リア・ビノグラードバ(女・十六歳)

第三中等学校十年生  ルニンツァ町<o:p></o:p>

 八歳の私には、私たちを襲った不幸を完全には理解できなかった。 

事故について初めて知ったのは、二日たってからだった。そのときはそんなに恐ろしくもなく、自分たちの国で反区手、他の国の出来事だと思った。私たちはチェルノブイリ原発がすぐ隣にあるとは思ってもいなかった。<o:p></o:p>

 日を追って、テレビやラジオで不安な情報がどんどん入ってきたが、もっと多かったのはいろいろな噂だった。私の幼い心に初めて恐怖が生じたのは、母がある時仕事から帰って来て、どうやら町から避難させられるらしいと泣きながら話した時だった。<o:p></o:p>

 私は、まだその意味が分からなかったが、母が泣くのは何か怖いことが起こったということを意味していた。その時に私の心配のない幼児期は終わった。土の上に座ること、はだしで草地を歩くこと、畑でそのままイチゴを食べること、日光浴をすることは、すべてしてはいけないことになった。毎日、禁止事項が増えていった。<o:p></o:p>

 私は翌病気をするようになった。以前は「悪い」血液の病気や甲状腺肥大といった病名を聞いたことがなかった。しかし、統計報告には、私たちの町の住民の健康状態に異常はなく、心配されるようなことは何ひとつないと、まったく事実と違うことが書いてあった。最近では、診療所に行けば、患者が増えていることが一目でわかる。単純な風邪もひどくなりやすく、死亡にいたることが度々起こるようになった。<o:p></o:p>

 毎年夏が来ると、家庭で大きな問題になるのは、子どもをどこで療養させるかということである。最初のころは出かけることがうれしかったが、だんだんいやになってきた。家にいたくてたまらない。誰かにしばられ、急いでどこかに行くこともない。決められた時間になると食堂に走り、与えられるものだけを食べ、すべて日程表通りに行動する。こんなのはいやだ。ここはこんなに美しい町ではないか。静かで平和だ。そばにはすばらしい森、プリピャチ川、すばらしいベ―ロエ湖がある。よい休暇を過ごすためにはまだ何が必要だというのか。ところが、すぐ目の前には汚染ゾーンがある。<o:p></o:p>

 一九九一年九月、学校が、ドイツに私を送ってくれた。私はそこに二十七日間滞在した。たくさんのものを見、たくさんのことを知った。バルチック海と小さな町へリングスドルフで休暇を過ごした。この町は美しく、清潔な町だった。私たちは泳いだり、日光浴を楽しんだり、遠足にも出かけた。私たちのグループはこの町の小学校を訪れ、そこでドイツの教育システムについて興味深いことをたくさん知った。しかし、何よりも思い出に残っているのは、星を見に行った時のことだ。小さな天文台には天体望遠鏡があり、それで月を観察した。そして初めて、写真ではなく自分の目で、間近に人工衛星を見た。 

もちろん、この旅行は私にとって、忘れがたいものとなった。私はつい最近まで敵だった人々の生活や文化を知った。私の祖母はドイツの強制収容所の捕虜だったのである。祖母はむりやりドイツに連れて来られたのだが、私はそこに休暇をとり、療養に行く、なんと矛盾したことだ。私と同じように星を見るのが好きな言い人たちが、私を受け入れてくれた。彼らは私たちのこと、私たちの健康を非常に心配してくれた。すべてがすばらしかった。しかし、私の故郷の町のほうが楽に息ができる。たとえ放射能で空気が汚染されていても。

  私たちが不幸に見舞われたことを知ったあの忌まわしい時から、八年がたった。時は最良の医者であり、苦痛は少し和らいだ。親たちから教えられた禁止事項を、少しずつ忘れようとしている。だが私には忘れられない写真がある。全員が立ち退いた村だ。家の窓は破れていた。一人ぼっちのコウノトリだけは自分の巣を離れられない。そのすぐそばには、「居住禁止」の立て札が立っていた。私は泣いた。時間が止まったように感じた。むしょうに叫びたかった。「チェルノブイリよ。お前は何ということをしたのだ」と。 

神様、私たちに大きな苦痛をもたらしたチェルノブイリの悲劇が、再び起こらないようお願いします。太陽が輝きますように。どんな禁止事項も知らないで、子どもたちがほほ笑みますように。お母さんたちが、もうこれ以上、嘆かなくていいように。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第21回】 最後の授業のベル 

2012年01月27日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第21回)<o:p></o:p>

 第三章  これもだめ、あれもだめ <o:p></o:p>

 最後の授業のベル<o:p></o:p>

 エレナ・クラジェンコ(女)

 グリニッツ中等学校十年生  モズィリ市<o:p></o:p>

 チェルノブイリ。それは地球のほんの小さな点。しかし、一九八六年四月以降、世界中の人たちがこの地名を知ることになりました。 

私が幼いころ住んでいたベロペレ―ジスカヤ・ルドニャ村は、チェルノブイリ原発の三〇キロゾーン内にあります。チェルノブイリ事故は、家族や多くの人々に苦痛をもたらしました。私は人々がどのようにして家を打ち捨てて出て行ったのかを実際に自分の目で見てきたのです。

 

私たちは生まれた家を捨て、非汚染地区に脱出するしかありませんでした。その後、多くの村人たちはいろいろな病気で入院し、何人かは死にました。

  私たちの村の習慣では、誰かが死ぬと最後のお別れをするために、どこにいようと集まってきて葬式を行います。今でも死者が出ると、皆、脱出した村に帰ってきます。母なる大地に埋葬するために、そして埋葬が住むと、それぞれ自分の住んでいた土地へ立ち寄るのです。でもその土地は、いったい誰の土地なのでしょう。いまやそこには何もありません。家自体が埋葬されているのです。取り壊されなかった家も悲しい様相を見せています。窓は破れ、ドアは外され、家のなかはすべて壊され、略奪され、垣根には雑草が生い茂っています。チェルノブイリの事故の前は、人々の話し声、笑い声、泣き声であふれていたのに、今は想像することもできません。<o:p></o:p>

 チェルノブイリの悲劇は、ベラルーシ全体に及んでいます。今私たちはグリッツという美しい村に住んでいます。快適な家も与えられました。しかし、私たちの村ではないのです。私は以前住んでいた自分の家に帰りたい、大好きだったペチカのある家に戻りたい。私は十年生です。学校にも通い、だんだんと新しい土地にも慣れてきました。しかし、ここでもチェルノブイリは私たちをつかんで離さないのです。<o:p></o:p>

   一年前、新しく友だちになった同級生のマイヤちゃんが死に、学校の人たち全員で埋葬に参加しました。葬列が学校のそばを通った時のことです。突然いつも授業開始の時に鳴らされるベルが鳴り始めました。アツラ校長先生が短かったマイヤちゃんの人生のために、最後の授業のベルを鳴らしたのです。<o:p></o:p>

 彼女の死から一年がたちました。マイヤちゃんとは今も一緒です。机も置いたままにしていますし、マイヤちゃんの誕生日には花束を持って彼女に会いに行きます。チェルノブイリは、私たちの生活の中にしっかりと住みつきました。医者の検査データもこれを物語っています。ゲレンジック、モルダビア、ウラジーミル、キーロフ、グロドネン、アナバ・・・・私たちは、療養のために数々の土地を訪れました。医者の診断では、十一人の同級生のうち健康と言えるのはたったの二人です。私たちの身体の全機能が慢性的な病気に犯されています。 <o:p></o:p>

 私は信じたいのです。私たちの世代が生き延び、いつかチェルノブイリの被害を取り除くことを。そして希望を未来へとつないでいけることを。<o:p></o:p>

 

//////////////////////////////////////////////////// 資料

東日本大震災救援対策本部 

ニュース226号(2012.1.26)、227号(2012.1.27) からの転載

 

福島に被曝医療とみんなの拠り所をつくろう

                                          /////////////////////////////////////////////////////////////////////////

★ニュース226号

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                         1262226img_291382_7583843_1

  この記事の詳細は下記のワンクリック、「フアイルを開く」選択でごらんになれます。

http://www.geocities.jp/shinsaikyuenhonbu/honbu226.pdf

★ニュース227号

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http://www.geocities.jp/shinsaikyuenhonbu/honbu227.pdf

原発再稼働絶対阻止、放射能から子どもたちを守れ

◆2月11日 代々木公園 反原発大集会・デモ

◆2月25日 東京・杉並 反原発★反失業で高円寺→阿佐谷デモ

◆3月11日 安心して暮らせる福島県を取り戻そう!3・11福島県民集会(仮称) 郡山市開成山球場

  福島に連帯し、労働組合先頭に全国から現地郡山に行こう

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