2012年9月21日金曜日行動・文科省前抗議
山本太郎さんの発言要旨
「放射線管理区域以上の放射線量のところに子どもたちが住んでること自体が異常だ。子どもたちの命と引き替えに経済を守ろうとする鬼が日本にはいる。一秒でも早く子どもたちを汚染地から出さなければならない。今、声を上げなければ、文科省と国がやっている子ども殺し、棄民政策に手を貸すことになる。だから僕たちは声を上げることをやめない」<o:p></o:p>
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2011年12月8日 オルタナs はたらく から転載・貼付け
「収入は10分の1、それでも『命』を守りたかった」
--山本太郎(俳優)インタビュー(1)
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http://alternas.jp/work/challengers/12774
福島第一原子力発電所の事故後、いち早く「脱原発」宣言をした俳優・山本太郎氏。事務所を辞めて収入は10分の1に減ったが、「人間に戻った」感覚を取り戻せたという。脱原発デモに参加するなど原発の危険性を訴え続ける山本氏に、その真意を聞いた。(聞き手・編集部=吉田広子、赤坂祥彦)
■きっかけは大震災、グリーンピースと母
――原発やエネルギー問題に興味を持たれたきっかけは何でしょうか。
山本:2011年3月11日に起こった東日本大震災です。それ以前は、原発については、発電で生成される核のゴミを地下に埋めて100万年単位で管理しなければいけないという程度の知識しか持っていませんでした。
震災以降、国際環境NGOグリーンピースのホームページなどに掲載されている情報を調べ進めていくうちに、原子力発電は持続可能なエネルギーではないと気付きました。
――グリーンピースをご存知だったということは、元から環境問題に対する高い関心があったのですね。
山本:僕の実家では寄付を行うのが当然という環境でした。お年玉のうち、いくらかは親に徴収されて、ユニセフや赤十字への寄付にまわされたのをよく覚えています。
8年前に母が「良い寄付先を見つけてきた」というので話を聞いてみました。それがグリーンピースでした。当時はグリーンピースに対しては捕鯨に反対している環境団体という程度の知識しかありませんでした。
それまでは自分の中では捕鯨反対をしている団体に過ぎなかったグリーンピースが、海洋生態系や森林の保全など多岐にわたる活動を展開していることも、企業にアプローチし、実際に状況を改善してきたことを知りました。
母は「人道的支援に対してはお金が集まるけれど、環境問題に対してはお金が集まりにくい」とよく言っていました。だからこそ、僕はグリーンピースに寄付しようと決めました。核についても8年前に出会ったグリーンピースのホームページから気付きを得ました。
ただ、当時28歳だった自分は、エネルギー問題について声を上げづらい立場にいました。自分の仕事に影響があると分かっていたからです。映画「バトルロワイヤル」を撮り終えた2年後です。仕事は順調でしたし、コマーシャルにも出演していました。社会問題に対して、声を上げるには、失うものが余りにも多いと感じていました。
ですから、声を上げられない自分の代わりに行動している団体に寄付をしてきました。それでも、原子力に対して深刻な危機感を抱いていた訳ではありません。
■猛烈に「生きたい」気持ちが湧き上がる
――3.11を経て、どのように意識が変わったのでしょうか。
山本:地震続き津波が発生して原子炉の冷却装置が停止しました。それを見て「死ぬかもしれない」と思いました。同時に、猛烈に「生きたい」という欲求が湧き上がってきました。
それまでは「生きる」ということを突き詰めて考えたことがありませんでした。「遅かれ早かれ死は訪れる。自分はそれを受け入れる」と腹を括ったつもりでいました。でも、違いました。実際に、生き続けるのが困難な状況に置かれた時に、猛烈に生きたいという気持ちが沸き上がりました。びっくりしました。
その直後に考えたことは、「国は、国民に事実を伝えるだろうか」ということです。事故後の対応でこの国の本当の姿が露(あらわ)になると思い、報道に接していました。案の定、政府や東電は「(放射能)はただちに人体への影響はない」と発表してきました。
あくまで国民を欺くつもりでいる国の姿勢が分かりました。その事も「生きたい」という気持ちに拍車をかけました。DNAレベルでの叫びですね。動物として本能的に「生きたい」と感じたのでしょう。
■脱原発宣言することで「人間に戻れた」
――始めて、「脱原発」を主張した時はどういった心境でしたか。
山本:怖かったです。勇気がいりました。発言すれば、確実に仕事がなくなるのは目に見えていましたから。食いぶちがなくなるのは一番怖いですよ。でも、いい役者になるという夢も同時にありました。そのためには10年後も生きていなきゃいけない。
日本は地震大国で、僕たちは地震活動期に生きています。それなのに原発は稼働している。国は国民の命を見捨てているとしか思えません。今後、日本人が生き延びるためには、原発を止める以外ありません。
仕事がなくなる。それでも声を上げるべきか。それができるのか。僕自身も毎日、自問自答を繰り返しました。
「お前は上げるべき声を上げずに、今の生活を守る気か。それは、原子力推進派や、自分の利益のために嘘の情報を流している人と同じじゃないか」。その問いを自分に投げ続けました。
「この先、健康被害が広がったときに、どう自分を騙すつもりだ」「死ぬまで、後悔せずに、自分に嘘をつき続けられるのか」を問い続けました。そして4月9日にツイッターで原発反対を表明しました。声を上げた瞬間、「人間に戻れた」と感じました。
――その後、事務所を辞められましたね。
山本:原発反対を表明したわけですが、ツイッターで意思表示をしたり、デモに参加したりする程度で、派手な行動は起こしていませんでした。取材陣が待ち構える中で、闘志を剥き出しにして、抗議をするようになったのは文科省前がきっかけです。
要は、被曝限度を1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで引き上げて、子どもたちに危険を押し付けた。子どもたちの感受性は大人と比べて3~10倍です。子ども達に与えた毒の大きさ。平気で子どもたちの命を犠牲にするやり方に我慢ができませんでした。
子どもたちには死んでもらいますという政策です。「棄民」に他なりません。それを平気で安全ですといって、とやってのける。その国の姿勢に対して、怒りが爆発しました。
■僕が失ったものは「収入だけ」
――「脱原発」宣言をして、仕事が無くなる不安はありませんでしたか。
実際に、仕事の量は減りました。ただ、演技は一生、続けていきます。3.11以降、日本人、特に被災者は多くのものを失いましたが、僕の失ったものはハッキリ言えば収入です。10分の1以下に減り、初任給に戻ったという感じです。
逆に言えば、失ったのは「収入だけ」です。お金を払っても手に入れられないものを沢山、手に入れました。それは生きることに対して、真正面から真剣に取り組んでいる人たち、気骨のある大人たちとの出会いです。
――これまで参加したデモの数は。
山本:数え切れません。4月10日に高円寺で行われたデモに初めて参加しました。初デモです。
初めてのデモなので、正直、どういったものか分かっていませんでした。デモのイメージは「ジュラルミン、火炎瓶」というものでした。だから、デモに参加したいと言った母を止めました。母を守るために、二人が逃げ遅れる可能性を恐れたのです。
でも、高円寺に着いてデモ隊を見たときに、温かいものを感じました。こんなにもデモには愛が溢れているのかと。これがデモなのか、こんなにも同じ方向を見ている人がいるのだと実感できて熱いものがこみ上げてきました。
■デモを分散させるのはもったいない
――デモの意義はどこにあるとお考えですか。ご自身で何か団体を立ち上げる予定はないのでしょうか。
各団体を後方支援するために、自分では団体を立ち上げないつもりです。僕の役割は各団体をつなぐことだと思っています。正解は分からないですけれどね。
そして、皆、心が折れそうになる時があります。デモに参加することで、自分と同じ方向を向いて闘っている「一人」がこんなに大勢いるということを確認することにデモの意味があると思います。そういった「一人」がデモに参加することで再び活力を得て、戦いに戻るための場でもあると思います。
デモのもう一つの大きな意味は「数」です。数を揃えて、マスコミが取り上げざるを得ない状況にもっていくことです。それには同じ街で、同じ日に別の団体が2つも、3つもデモをやるのはもったいないです。
全国同時多発デモのような流れもありますが、人数を分散させるのは得策じゃないと思っています。例えば、品川に3000人、渋谷に5万人、神奈川、横浜には200人集まったとします。確かに、その街の人びとに問題提起されたかもしれない。でも、大切なことは視覚に訴えることです。
そのために一番有効なのはマスメディアを使うことです。だから、今回は東京で集まろう、その次は横浜で、という具合に遠征しながら、分散していた人数を集めるべきです。そして、「渋谷に6万人」「横浜で6万人」という既成事実を積み上げていく必要があると思います。
■政治家に原発の是非を問いたい
――デモに参加し声を上げることも大切ですが、投票などによって国を動かすことも大事だと思います。デモ以外に、政治家に働きかけることはしないのですか。
山本:今、政治家たちに対して包囲網を作ろうと、皆さんに呼びかけています。「仕事をちゃんとしなければ、落とすぞ」ということをハッキリと政治家に伝える。地元選出の国会議員に対して、電話をして下さい。秘書でも良いから、きちんとこちらの考えを伝えて下さい。
その時に伝えて欲しいことが3つあります。
1つ目は原発についての考えを聞いてください。その時に、重要なのは、長話にさせないことです。YesかNoに近い回答を求めて下さい。言い訳じみた、曖昧な答えを許さないで下さい。イエスかノーで意思表示させることが大切です。
原発について即時停止です、と言えるのは共産党だけです。ほとんどの議員は「段階的停止」と答えるでしょう。でも、僕はインチキだと思っています。エネルギーはもう足りている。これはハッキリしています。この後に及んで段階的停止をする意味があるとすれば、停止までの期間、利権に群がる人びとの懐を肥やすだけです。ですから、段階的停止と答える議員には注意が必要です。
段階的停止と答える議員には、そのスピードを問いて下さい。それと、その先のエネルギーの展望。僕は、原発停止までの間は火力発電でつなぐしかないと思っています。すぐに自然エネルギーで全てをまかなうのは現実的ではありません。研究やインフラ整備には時間が必要です。その間は、環境負荷の少ない天然ガスに頼ることになると思います。
2つ目は福島の「中通り」や茨城の北部、群馬、栃木の一部などの高線量地帯、高汚染地帯に住んでいる人たちについてどう思っているのか。その人たちを疎開させる案をちゃんと考えているのか、その案はいつ提出するのかについて尋ねて下さい。
政治家はお尻を叩かないと動きません。次の選挙を待っている間にも、刻一刻、被爆者は増えています。もし、その議員が高汚染地帯の住民に対する明確な考えを即答できないのならば、それが、その議員の人間に対するスタンスです。
そこに気付かなかった議員もいるかもしれないので、アイデアがなければ、政策にまとめるまでの時間の猶予を与えましょう。その代わり、その間の努力をチェックする必要があります。
最後、3つ目はガレキの拡散についてです。そして、最終処分地に関してどう思っているのかを尋ねて下さい。これについては皆、答えづらいはずです。反感を買うのはこわいですから。
僕が発言するだけでも、もの凄い数の抗議が来ますか。僕の考えでは、最終処分地は、福島の周辺20キロにとどめるべきだと思っています。こういう議論が一般の人びとの間でもっと盛んにされないといけないと思っています。そうでないと国が秘密裏にまとめあげた政策に基づいて、放射能をばらまかれてしまう。全国に汚染されたガレキを拡散させるのは愚行以外の何物でもありません。
日本全国で原発事故を発生させるに等しい行為です。埋め立てた汚染物質が地下水に流れ込めば、日本から汚染されていない土地がなくなります。それなのに、実行しようとしている。ばら巻こうとしている。そこには裏があるはずです。
――政治家にはどうアプローチするのですか。
山本:地元選出の議員の事務所に電話します。秘書が出たら、期限を設けて回答をもらってください。絶えず、問い合わせの電話が鳴るのが理想的です。
僕は、規模の大小を問わず、皆さんの前で話す機会がある時には「一番良いのはここにいる全員が電話をしてくれること。でも、そうはうまくいかないでしょう。この中の10人だけもいいから行動を起こしてくれると日本は変わります。全員が電話すれば必ず変わる。この町から日本を変えよう」と呼びかけてきました。
――20代の投票率向上を目指すアイ・ヴォートという学生団体があります。彼らは最近、自分の考えに近い環境政策を打ち出す政党を測定するサイトを立ち上げました。
山本:素晴らしい!僕たちも似たようなことをやろうとしています。僕たちは、議員に直接電話をして、そのやりとりを映像として、全国に配信していくことを検討しています。
今、そのためのホームページづくりを進めています。