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すぎなみ民営化反対通信

東京・杉並発。「一人が万人のために、万人がひとりのために」をモットーに本当のことを伝え、共に歩んでいきたいと思います

 『子どもたちのチェルノブイリ』から抜粋・連載(第5回) 空が急に暗くなった・・・・

2011年11月24日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

抜粋による連載(第5回

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 空が急に暗くなった

オリガ・アントノビッチ(女)

第十中等学校八年生 ゴメリ市

 四月二十六日は、すばらしく明るく美しい日でした。

 あの日、私たち家族の友人が子どもを連れて、私の弟のサーシャの誕生日のお祝いにやってきました。私たちは長い時間、いっしょに公園を散歩したり、ブランコで遊んだりして、みんなとても満足でした。すると突然、空が暗くなり、強い砂嵐が吹いてきたのです。私たちは急いで家にかけこみました。風は弟のパナマ帽を吹き飛ばし、砂は目や鼻や髪に容赦なく吹きつけました。

 メーデーの祭日です。

木や草は威勢よく緑色を増し、栗の木はろうそくの炎のような形の芽をのぞかせていました。しかしその時、誰も危険がどこにでもあることをまだ気づいてはいなかったのです。

私の弟はその時まだ二歳だったので、なんでも口にしたがりました。石でも、小枝でも、この葉でさえもそうです。弟には「だめよ!」といつも言っていました。

その後、子どもたちは放射能から避難するために、よそへ送られました。そして、子どもたちには教師や親が付き添いました。私の祖母は低学年のクラスの教師をしていたので、母と一緒に見送りに行きました。その時、駅にはあふれるばかりの人々が集まっていたのを覚えています。

親たちは一方にならび、子どもたちと先生は列車の側に立っていました。みんなが泣き、お互いに抱き合い、それはもう再び会うことができないかのような光景でした。

祖母が自分のクラスの子と一緒にひと夏を過ごしたのは、北オセチアの地でした。祖母は今でもそこでの出来事を話してくれます。全く知らない人々が出迎えてくれ、手を取って列車から降ろし、家に招待し、果物や花を届けてくれさえもしたそうです。祖母は今でも北オセチアの教師たちと文通しています。今北オセチアでは戦争が起こっており、人々はそこでも苦しんでいるんです。

五月の半ばだったと思いますが、私は母と弟と一緒にモスクワへ行きました。祖父の友人から電話があり「そちらは大変でしょう。こちらに来ませんか」という誘いがあったのです。

私たちはそれほど大きくない二部屋あるアパートの一室に住むことになりました。近所の人々は親切でとても思いやりがありました。

父は私たちと一緒にモスクワへは行きませんでした。父は警察の将校です。彼は三十キロゾーンに派遣され、住民の避難の手助けをしました。ゴメリに戻ったのは八六年八月です。

私たちはチェルノブイリの災害から逃れようとしましたが、それは私たちを逃しはしませんでした。

チェルノブイリ、私はこの言葉に苦い味を感じる。それは歯にはさまり、舌の上で転がり、のどにつかえる。

チェルノブイリ、お前は家族の喜びを台なしにし、母の明るい笑い声を奪い、母の瞳から喜びの色を消し去ってしまった。

お母さん。私はあなたの本当の幸せをもう見ることはないでしょう。あの日からです。ミンスクの放射線医学センターで、弟が甲状腺を病んでいることを知らされ、泣き崩れてしまった。どうしようもない不安が両親の心に居座った。それから弟の病気を治すために、地獄の苦しみを味わうことになるのです。母は自分の手で弟を手術台に運びました。二回の手術、長い苦しい治療、全面的な検査が・・・・・。

私の弟は、チェルノブイリの最初の犠牲者のひとりになってしまいました。ベラルーシ全体ではどのくらいいるのでしょうか。

町に「悲運の子どもたち」という組織がつくられました。血液や甲状腺の病気の子ども、チェルノブイリ原発の事故で苦しむ子どもをもった家族が手を結んでできたのです。ドイツ、イタリア、オーストリア、その他の国の普通の人々が、子どもたちへの援助をしてくれています。彼らはその子どもたちを、家庭に招き、暖かく、優しくもてなしてくれています。

サーシャが病気の子どもたちと一緒にドイツに行った時、私もついていったことがあります。そのグループの中にカーチャという明るく感じのいい少女がいました。彼女の病気がそんなに重いとは誰も信じませんでした。春にドイツに一緒に行ったのですが、秋にはカーチャが死んでしまったことを知りました。 サーシャの机の上には折り鶴がのっています。ミンスクの病院を訪問した日本の医者がサーシャにくれたものです。遠いヒロシマの女の子のことを聞いてサーシャが泣きだしたことを覚えています。しかし、彼女も不幸から逃れることはできませんでした。そして、折り鶴も最後まで折ることは。

ヒロシマ、チェルノブイリ・・・・・・。私たちは、こんなに小さい星に生きているのに。

 この恐ろしい悲劇の灰は、決して心の中で冷たくなることはない。<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載(第4回) チェルノブイリの黄色い砂 

2011年11月21日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

抜粋による連載(第4回

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 

チェルノブイリの黄色い砂

エレーナ・ドロッジャ(女・十六歳)

アタレズ中等学校十年生 スタルブツオフ地区

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暗黒の言葉が まるで黒い太陽のように

冷酷に べラルーシの大空に のぼった 

それは あたかも黒い日食のごとくに

ものみなを黒く汚しつくした 

緑の草も 澄んだ水も 青い空も。

 

           ヤンカ・シパコフ

 

 「私は十六歳です。チェルノブイリの悲劇のなかを生き続けるすべての人と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまったこのようです。一九八六年四月二十六日以前、そしてそのあとに。

 

 私たちはチェルノブイリからそう遠くない所に住んでいました。母はよく原発の町からおいしいものを買ってきては、私たちに、電気を供給してくれる原発の話をしてくれました。

 

 ある日、村に発電所で爆発があったといううわさが広まりました。この村からチェルノブイリ原発に働きに行っている人の口からです。でも、誰もそれが大変なこととは思いませんでした。 

 次の日、ソホーズの競技場で、地区対抗サッカー大会が開かれました。私は両親と兄と一緒に、一日のほとんどをそこで過ごしました。突然雨が降りだしました。私たちはその雨を手のひらで受けながらはしゃぎまわっていたのです。その生暖かい雨が何を含んだものなのかをまったく知らずに、そして待ちに待ったメーデーの祝日がやってきました。競技場は音楽や歌が流れ、大変なにぎわいでした。人々はメーデーを祝い、緑あふれる季節を楽しんでいました。

 

 けれどついに不安が村を襲ったのです。母はとても心配そうに、昼間ちょっとだけ家により、私たちは外に出ないようにと告げました。プリピャチに向かう国道を何日も何日もいろいろな車の列が延々と続いていました。 

 五月六日になり、親戚の人が来て、兄と私たちを連れて帰りました。それまでは私は親と離れて暮らしたことが一度もなかったので、一日もたつと、もう帰りたくてたまらなくなりました。「ストレリチェボには帰ってはいけない、良心は今とても忙しいんだから。でも心配することは何もないよ」と説明されました。私はその時はまだ、何カ月も家に帰れなくなったり、ボロブリャニの病院に入院しなければならなくなるなんて、そしてボリソフ地区のピオネールキャンプに行くことになるなんて、想像もできませんでした。

 

 それでも私は、八月の終わりに自分の村に戻ることができました。本当に嬉しかった。でもここで一体何が起こったのか、不思議でたまりませんでした。景色は去年と変わらず、とても美しかった。ただ、菜園ではなぜか花が刈りとられていました。学校の周りもすっかり居心地が悪くなっていました。植え込みや花壇はもう元の姿はなく、黄色い砂の覆われていました。まもなく私たちは、毎日十二時間学校にいなければならなくなりました。道路や競技場や森は危険地帯とわかったからです。私たちが放射能に被ばくしないようにと、政府が出した命令だったのです。

 

 そしてまた旅が始まりました。私たち低学年の子どもは、アナパに療養に行くことになったのです。私たちのために南部の方から知らない先生が来ました。とても親切で優しい先生たちで、黒海の話や、私たちがこれから行くサナトリウムが、とても美しくて素敵なところということを教えてくれました。でも私たちはそれどころではなかったのです。両親と離れ、心の中は心配や不安でいっぱいでした。今すぐ引き返したいと、心いっぱい願っていました。

 

黒海の海岸ですごし、勉強したり遠足に出かけたりしました。デモ心の中は故郷のことが心配で、毎日寂しくてたまりませんでした。そんなある日、母が訪ねて来てくれたのです。母を見つけ駆けだした時の喜びは、一生涯忘れることはないでしょう。私だけではなく、私たちの学校の生徒もみんな駆けてきました。みんな、親戚や知人のことを聞きたかったのです。母はみんなにキャンディを配りました。みんな自分のお母さんからもらったみたいに喜んでいました。私は最高に幸せでした。 

でも母はすぐ村に戻らなければなりませんでした。大変な仕事が待っているからです。母はコルホーズの責任者をしていました。母は頬笑みながら、私に元気を出すようにと言いました。でもその母自身も、私以上につらそうに見えました。

 

一九八九年、兄がひどい病気になりました。両親は引っ越すことを考え始めました。両親が私たちに引っ越しを告げた時のことは、決して忘れられません。兄は何度も何度も両親に頼みました。「ママ、パパ、どこにも行かないで。僕はすぐ良くなるんだから。もしみんなが引っ越しても、僕はここでおじいちゃんといっしょに暮らす」と。私たちは引っ越しをやめました。兄はずっと病気で、何度も入院を繰り返しました。両親も病気がちになりました。

 

ストレリチェボでは、石造り二階建ての、新しい街の建設が続いていました。でも誰がそこに住むのでしょうか。以前母は、「ここは安全だ」と言っていた政府の幹部や科学者を無条件に信用していましたが、今それに疑問を抱きはじめ、絶望と不安の表情で「チェルノブイリゾーンに暮らすのは危険だ」と訴える人の声に耳を傾けるようになりました。 

「ゴメリスカヤ・プラウダ」や「家族」などの新聞に、母の論文が載りました。そして、ミンスクで開かれた子ども基金の総会で母が行った「チェルノブイリの子どもたち」と題する演説がラジオで流されました。それは自分の子どもだけではなく、チェルノブイリの放射能によって命と健康が冒されている全ての子どもたちのことを心配する、母親の魂の叫びでした。

 

一九九〇年四月の頃、三か月にわたって、私の学校の生徒は全員、ゲレンジックに連れてこられました。そこで私は、チェルノブイリの悲劇をテレマラソンのテレビ番組に出演していた母を見て、とても誇りに思いました。母はそこでもストレリチエボの学校の生徒たちが直面している、困難で危険な状況を語りました。放射能の値が一五から四十キュリー以上もあるのです。(※キュリー:放射性物質の量{放射能の強さ}を示す単位。一秒間に三百七十億個の原子核が崩壊して出す放射能の強さが1キュリー。新しい国際単位ではベクレルを用いる)チェルノブイリは戦争に匹敵するほどの大惨事なのです。私は長い時間この番組を一生懸命見ました。

 

私がゲレンジックから帰った先は、故郷の村ではなくて、新しい土地、ストルフシチナでした。私たちの新しい家は、村のはずれの、森のそばにありました。周りのものすべてが知らないものばかりで、なじめませんでした。

気づかないうちに夏が終わっていました。九月一日に新学期が始まります。七年生になった私は、新しい学校で泣きじゃくりました。先生やクラスメートたちは、私をなぐさめようと努力してくれました。彼らは、私が故郷の学校や友だちから離れ、とても寂しく泣いていることを理解できたからです。 

でも時がたち、私たちは少しずつ、新しい生活に慣れてきました。両親はここの名前を、間違えて前の地名で言うこともなくなりました。私はここで新しい友だちができました。 

私たちが苦しかったとき、優しいことばや思いやりで私たちを助けてくれ、今も、苦しいときも楽しいときも一緒にいてくれる、この村の人たちに感謝しています。両親も、いっしょに働いている人たちが、とても親切にしてくれるといいます。でも、」夢の中に出てくるのは、アターレジではなく、ストレリチェボです。故郷はなにものにも替えがたいものなのです。

 

今これを書きながら、私の眼には涙があふれています。七十になる私のおばあちゃんが紙切れに書いた言葉を思い出します。「本当のことを言うと家に帰りたい」と。 

誰がおばあちゃんを救ってくれるのでしょうか。誰が、ゆがめられた運命を背負わされた何千もの人々を救うのでしょうか。誰が、数百年ももとにもどることのない放射能汚染という病に冒されたこの大地を救うのでしょうか。

 

母は小さい頃から私たち兄弟に、正直な人になるようにと教えてきました。ベラルーシの国民が国家の重要ポストに選び、私たちの運命を託してきた人たちは、親からどんな教育を受けたのでしょうか。誰が彼らを選んだのでしょうか。誰が彼らに嘘をつき真実を隠す権利を与えのでしょうか。私は彼らの名前を知らないから、ここに挙げることはできません。でも、高い地位はないけれど善良な心を持っていて、困難な現実の中で自分の意思で義務を果たしている科学者や医者や文学者の名前を挙げることはできます。 

私たちの学校に来た、作家のウラジーミル・リ―プスキーさんとワシーり・ヤコベンコさんに感謝します。私たちは彼らと会って、自分の運命が、とても大切な意味を持っていることを知りました。そして彼らの論文を新聞で読み、子どもながらに、彼らがあれほど情熱的に書くのは、私たちの運命が彼らを奮い立たせたからだと感じました。 

悲劇のホイニキの大地が、ボリス・サチェンコ、ミコラ・メトリッキーを育てたのです。現在の彼らの作品には、故郷の苦痛が描かれています。放射能は、イワン・シャミャーキンの故郷もよけては通りませんでした。彼はポレーシェの人々の性格や習慣、こまごまとしたことまでよく知りつくしているので、チェルノブイリの悲劇を書かずにはおれなかったのです。小説「不吉な星」を家族全員で読みました。父は「全て本当のことだ。フイクションではなくて、ドキュメンタリー作品だ。まるで私が、不幸の始まりの日々のできごとを彼に話したみたいだ」と言いました。

 

今私たちに書く順番が回ってきました。忘れてはならないことを書きましょう。将来のベラルーシのために、ベラルーシ国民の繁栄のために。そしていつかまた大きな災難が国民をおそったとき、誰も「なんでもなかった」とか「放射能では死なないし、病気にもならない」などとはいえないように。忘れてはならないのです。こんなことは、もう二度とくりかえされてはならないのです。」<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋による連載(第3回) 母のもとに六人残った

2011年11月16日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 

抜粋による連載(第3回<o:p></o:p>

 第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

母のもとに六人残った  

 

エレーナ・メリニチェンコ(女・十七歳)

   専門学校生 ジェルジェンスク町


 

 「私の人生は、幼いあの日以来、悲しくて、不幸なものとなった。あのとき私は小学二年生だった。それ以来、人々の苦悩や悲しみを、否応なくこの目で見てきた。そして私自身も、家族と共にそれに耐えてきた。

 

 私のうちは大家族で、事故がおこったときは私たちはポゴンノエ村に住んでいた。

 

 今、四月のあの日の朝を思い出す。天気がよく、とても暖かくおだやかな日だった。大人たちは仕事に、子どもたちは学校にでかけた。外の空気は新鮮で、緑はあざやかに萌え、鳥たちも楽しそうにさえずっていた。木々には若葉が芽を出し始め、太陽は次第に日差しを強めていた。

 

 学校に行ってまもなくすると、机に座っているのがたまらなくなってきた。他の子どもたちも、目がまわるとか、目に激痛がはしるとか、体がだるいとか、眠気がするとか訴えるようになった。何がおこったかわからなかったが、とにかく普通ではなかった。

 

 村全体をおびやかす恐ろしいことが起こっていることを、誰も推測できなかった。そして数日すると、避難することになった。それは今思い出しても胸が痛む光景であった。子どもは泣き叫び、心に深い傷を負ったお年寄りは、自分の家、ふるさとを置いたまま別れ、知らないところにいってしまうのがとてもつらく、なかなか動けなかった。

 数日分の必要なものをもって避難するようにと言われた。ある人は持っていき、ある人はなにも持たずに出て行ってしまい、またある人はたたずむだけだった。なぜなら、そんなことは経験したこともない出来事だったからだ。

 

 そこには狼狽と絶望だけがあった。どれだけの涙が流されたことか。

 

 私たちはゴメリに連れて行かれ、放射能の測定をされた。服と靴の汚染の値が大きかったので、それらは焼却のために全部脱ぎ捨てなければならなかった。また、検査のために病院にも入れられた。検査のあと、母と四年生になる兄のピョートル、また十一カ月の小さい弟と私はミンスクトラクター工場のサナトリウムに送られた。年上の兄や姉たちがどこに送られたかは分からなかった。母は非常に心配したが、親切な医者のおかげで、ピチェブ州シュミリノにある労働休暇キャンプにいることがわかった。父はミンスク郊外のペトコビッチ村で組立工場の職に就くことができ、そこの寮に住むことになった。しばらくして上の兄と姉たちから手紙が送られてきたが、その手紙には、親元から離れて生活するのはつらく、環境も非衛生的だと書いてあった。そこで父は兄たちを引き取るためにキャンプにでかけ、一緒に住むようになったのだが、三人に一つのベッドしかない父の寮には長くは住めなかった。私たちのサナトリウムも修理で閉鎖されることになり、父はアパートを見つけ、私たちを引き取った。みんな元の家に戻りたいと気はせくばかりだった。けれども、そのとき初めて聞いたのだが、私たちの村は有刺鉄線で囲まれ、もう誰もそこには住んでいなかった。村の人々はちりぢりになってしまったのだ。

 

「数日後、ジェルジンスクにまた引っ越した。そこのアパートの部屋は二つに分かれており、そこに二家族で住んだ。私たちは九人家族、となりは余人家族だった。私たちは中学校に通い始めた。生活は大変で、秋になっても暖房も入らず、その上、ふとんも毛布もないまま、床に寝るしかなかった。

 町の人たちみんなが私たちの悲しみや痛みを理解してくれたとは言えない。彼らは用心深く私たちに接し、私たちをよそ者として扱った。大人も子どもも同じだった。

 一九八七年三月、ここジェルジンスク地区のペトコビッチ村の一戸建の家が提供され、私たちは大喜びした。その美しい大きい家に引っ越し、そこから村の学校に通った。しかし、その喜びも長続きはしなかった。私たちはつぎつぎに病気になり、授業にも出られなくなった。兄弟全員が放射線医学診療所に検査のために行くことになった。それから私たちは毎年検査に通っている。

 あるとき検査で父の血液分析の結果がよくなかった。その三ヵ月後に父は死んだ。一九八八年六月のことだった。

 悲しみと痛みは私たちを襲い続けた。同じ年に祖母と叔母が亡くなった。強く恐ろしい衝撃だった。そして、母のもとに私たち六人の子どもが残った。母は一人で家族を支えなくてはいけなくなった。

 その悲しい出来事のあと、母はよく病気をするようになったが、不幸や困難を克服しようと、私たちをあたたかさと、そのやさしい愛で包んでくれた。そして、私たちは母の涙と苦しみが少しでも減るように、母を理解するようつとめた。

 何年かが過ぎ去った。生活は少しだけ変わってきた。私たちの心の痛みや悲しみも少しはおさまってきている。

 私たちは今もペトコビッチ村に住んでいる。数年のあいだに、二人の姉と上の兄が結婚した。二番目の兄は軍隊に入り、私は専門学校で勉強している。一番下の弟は三年生になった。ふるさとの村の大部分の人たちは、ジロービン地区に住んでいて、兄は今、そのジロービンで仕事をしている。私は彼のところに行って、もとの村の人たちに会ってみたかった。私は母といっしょにジロービン地区のキーロボ村に行き、同級生に会った。彼女とは、いっしょに遊び、学び、とても仲良しだったのだ。でも八年たった今、顔を合わせても、お互いにわからなかった。お互いに成長し、変わったのだから仕方がないけれど、新たに知り合いになったという感じだった。私の心には、喜びと腹立たしさの感情が同時にわいてきた。同級生や友だちに会えたという喜びと、いまいましいチェルノブイリのせいで、一緒にいられたものが長い間会うことできなかった腹立たしさと痛みだ。私はその村から帰りたくなかった。

私は帰りながら、多くの悲しみや不幸を自分の肩に背負わざるをえなかった母のことを考えた。そしてチェルノブイリによって、破壊され、不幸にされた多くの人々の運命について考えた。とくに罪のない子どもたちが、いまでも苦しんでいる。しかも彼らは、自分たちの幸せと健康を奪い去ったものが何者かさえ知らないでいるのだ。

これから先何年たっても、この悲劇は、社会生活、多くの人々の運命、すべての世代の記憶に消し去ることのできない痕跡を残すだろう。

おぼえておいて みなさん

原子力のある限り 平和も秩序も守れない

地球から汚れを一掃しよう

核の狂宴のあとを 残さないようにしよう<o:p></o:p>

 

  ※サナトリウム:療養のための施設 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋連載(第2回) 喜びは幼年期に置いてきた

2011年11月14日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

-子どもたちのチェルノブイリ- 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第2回 

第一章 突然の雨・・・・

 

喜びは幼年期に置いてきた

 

タチヤーナ・クラコフスカヤ(女十七歳) 

   第一中等学校十年生 バラーノビチ町

 

  セシウムが崩壊すると 

  厳しい不幸に追い立てる運命が! 

  太陽の下には居場所を 

  僕は見つけられない 

              ミコフ・メトリッツキー

 

「その日、私は八歳の誕生日を迎えていた。あたりが暗くなって庭にもどってきた母は、手に白樺の枝を持っていた。その枝についた茶色の丸い実は美しく輝き、心地よい春の香りをただよわせていた。母は、私の誕生日を祝って喜びに満ちあふれた顔をし、白樺の枝をそっとプレゼントしてくれたのである。

 

だが、この毎年きまってやってきた美しくて輝く自然の躍動は、四月二十六日の夜、巨大な目に見えない恐ろしいものによって、奪われてしまった。それまでは、緑の豊かな自然が、人々に喜びと幸せをもたらすと教えられてきた。しかし、今では花や枝を手で摘むのもいけないと注意されるようになってしまった。母はもう、私に誕生日のプレゼントもできなくなってしまったのだ。こんなになってしまった世界に親しみを感じることはできない。私たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。

 

事故のあった前の日の夕方、私と弟のワーニャは父に連れられて、おばあちゃんの住むオラビッチ村へ、車で向かった。農園のじゃがいも植えを手伝いに行ったのだった。その村はホイニキの南側にあった。私は、その日のことをよく覚えている。陽が沈む前、まわりの景色はとても美しく、私と弟は、はしゃいでいた。父が遠くまで連れて行ってくれることがうれしかったのだ。私たちは、後ろの座席で笑い声をあげて喜び騒いでいた。父は運転しながら静かで楽しそうなメロデイを口ずさんでいる。それはいつもの父のくせだった。おばあちゃんの家に着いたのは、すっかり遅くなってからだった。首を長くして待っていてくれた彼女は、絞りたての牛乳を飲ませてくれた。私たちは、暖かな喜びを感じながら、眠りについた。しかし、その眠りの間に、幸せは、永遠に私たちの心から逃げてしまうことになったのである。

 

あの恐ろしい夕方から八年間が過ぎた。私はもう十七歳になった。私の心は空っぽのままである。幸せは四月二十六日から、無限の荒野をさまよったまま元に戻っては来ない。私の心が、現実を受け入れることができないからだ。

 

いつだったか、クラスノボーリエ村から遠くない所で釣りをしていた漁師が、その恐ろしい夜の話をしてくれたことがある。彼らは、火の柱を見た。それは、天まで届きそうに垂直に立ち、黄色、白、茜色の光が同時に鮮やかに光っていたそうである。その後、火の柱は、大地を照らしながら、ブラ―ギンの東の方向に消えていった。その日の柱は、大地に肉体的な痛みを与えなかったが、健康を害し、命をも奪う種をばらまいてしまったのである。この大地がうずいている間は、私の心に幸せはやってこないだろう。大地のうずきはいつ消えるのか、私は知らない。私が生きている間、いつまでもこのままなのだろうか。

 

祖母の村オラビッチは、いや正確にいえば、過去にそこにあった村は、ウクライナのヤノフ村から二十七キロの地点にあった。ヤノフ村の向こう側に原発職員の町プリピャチと原発が建設された。そこから十五キロ離れたところにあった小さな集落チェルノブイリの名を使うことになったのである。誰が名付けたのか。それは、ウクライナのヨモギ草の名前ではなく、昔、そこに人々を苦しめる痛みがあったからそういう地名になったのだと思う。最近まで緑に埋もれていたチェルノブイリの町は死んでしまった。祖母のオラビッチ村も死んでしまった。人間の生活が裕に花開いていた土地に、いまいましい原発を建設しようと考えついた人が、今、生きていれば、呪いたい。

 

朝とは何だろうか。それは、昇ってくる太陽に向かって、自然が背伸びをし、鳥のよろこぶさえずりが空に満ちる時である。しかし、その日の朝はひっそりしていた。不自然な静けさが、危険を知らせた。人々も自然も、それに聞き入った。放射能という名の怪物が村の遠くに現れた。その忌まわしい翼は、目に見えない毒とふるさとの消失、それに苦しみと涙を運んで来た。その朝はまだ、プリピャチ川近くの草原に緑のビロードが敷き詰められているようだった。ライ麦畑は、宝石のように輝いて見えた。でももう、この美しさが、私たちに喜びをもたらすことはなかった。

 

日曜日の夕方になって、ホイニキの家に帰り着くと、街の通りは、死んだように人の気配がなかった。家のそばの白樺の木の下に、隣の人が方針したようにたたずんでいるのが見えた。二日あとにメーデーがやってきた。とても暑い日だった。多くの人々が子どもたちと一緒に、行進を待って昼まで外で立ち続けていた。その間でさえも、小さな子どもの体に、幾レムの放射能が蓄積するかなど、誰も考えつかなかった。翌五月二日は、南の風が気味悪い雨雲を運んで来た。どしゃぶりの雨だった。雨粒はとても大きく、インゲンマメほどの大きさほどもあった。私たち子どもは、母が呼びに来るまでアンズの木の下で遊んでいて、ずぶ濡れになっていた。

 

その後私はどうなったのか。放射能を逃れ治療を求めて、まさに放浪の旅だった。ホーニキ、モロジェーチコ、ゴメリ、ォルシャ、ベルグラード、ドネストロフスク、ドウボサールイ、ボリソフ、ビレイカ、ソリゴールスク、スベトロゴールスク、ミンスクなどの土地を転々とした。放射能の悪魔が、私たちを引き回したのである。

 

そして最後に、一九九〇年、私たちは家族全員で、バラノビッチに引っ越した。今では、母の顔に悲しげな、今にも泣き出しそうな表情しか見ることはできない。引越しの日、荷造りを終えて、私は表に出た。あの白樺の木の下に行った。人間にとってもっとも大切な場所、私が幼年期を過ごした場所をよく覚えておくためだった。あの頃が、もう二度と帰って来ないと思うと、胸がしめつけられるようだった。

<o:p></o:p>

 生活は今でも続いている。夜になると、幸せだった子どもの頃を思い出してしまう。あの時は、すべてが輝いていた。しかし、それはもう遠い昔のことになってしまった。悲しみで心がうずく、それでも生きていかなければならない。

 

これからの私の人生で、満足や喜びを充分に感じることはできないだろう。それは、幼い頃の楽しい思い出が途切れたあの恐ろしい日に、置いてきてしまったのだから。」<o:p></o:p>

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載第1回 わたしたちを助けてください 神様

2011年11月13日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第1回)<o:p></o:p>

 

第一章 突然の雨・・・・・<o:p></o:p>

わたしたちを助けてください 神様



          タチヤーナ・アクレービッチ(女・16歳)<o:p></o:p>

             カリンコビッチ第六中等学校十年生<o:p></o:p>

 神様。もしあなたが天にいらっしゃるのなら私の祈りを聞いてください。私の魂がいたく悲しんでいるのです。心がとても苦しいのです。

教えてください神様。どうしてあなたはたくさんの苦しみを味わった国、私たちのベラルーシをきびしく罰したのですか。あなたに対して何か罪をおかしたのですか。<o:p></o:p>

  神様、私はあなたに訴えます。あの日、私は母と一緒に野菜畑を耕していました。庭は花で埋もれ、カリンコビッチ村の空は真っ青、そしてその空に太陽がやさしく照り輝き、大地は喜びにみちあふれていたかのようでした。 

 私は思い出します。そう、あの日を。

 神様、何で言ってくれなかったのですか。太陽も、空も、空気もすべて既にチェルノブイリの灰で毒されていたことを。

 

 敬愛する全能の神様、五月一日、私と母はきれいな小旗をもってメーデーの行進に参加しました。その時も、なぜあなたは警告するのを忘れたのですか。空からは目に見えない放射能が私たちに降り注いでいたのですよ。

 

 今となってはこのことを思い出すだけでぞっとします。ストロンチウムやセシウムの中で生き続けるなんて背筋の寒くなる思いです。

 

 でも神様、私は感謝いたします。あなたは人の心を動かし、私や私と似た境遇のたくさんお人々を療養キャンプに行けるようにしてくださいました。そのキャンプでは私は体調もよかった。だけど放射能に汚染された土地には、私の親戚や知人が残っていました。なぜだれもそのような人たちのことを考えてあげないのですか。彼らは何か悪いことをしたのですか。

 

 答えてください、神様。 

 アンドリューシャ・ポリープニコフちゃんの手術のために私たちは世界中からお金を集めました。彼はいったい何の罪をおかしたというのでしょう。それに私の先生の十四歳の息子のアンドレイカ・コルチェイ君に、あなたはどうして怒っているのですか。

 

神様、もう私には悲しみでふさぎこんでいる先生や、座ってくれる生徒を待っている九年A組の空いた席を見る気力もありません。

 

アンドレイカ君を助けてください。全能の神様。だって彼は妹が大好きで、いつも二部授業が終わると妹を迎えに行っていたんですよ。その子は暗いのがこわいからです。そして、彼は母親の手伝いが大好きです。先生はよく働き、疲れやすいからです。アンドレイカ君が生きられるよう助けてください。

 

神様、病気でうちのめされ、もうあなたに頼るしかない全ての人々が生きられるよう助けてください。

 

神様、あなたが私の家族の命を放射能の悪影響から守ってくださっていることに感謝します。私はまだ十六歳なんです。知人が苦しんでいたり、ふるさとの大地が事故のことで人々から嘲笑を受けたり、かつてのような青さがなくなった空を見上げたり・・・・・そんな中で生きていくことは、つらくてしかたがないのです。

 

鳥が以前のようにさえずり、放射能のない暖かい雨が大地をうるおし、近所の年金生活の人たちがまた祖母の家のそばのベンチに夜ごと集って好きな歌をうたえるようにしてください。私の友人や知人の中にチェルノブイリの次の犠牲者を数えたりすることの代わりに・・・・・。

 

 

神様。私は、愛し尊敬するすべての人のために毎日お祈りすることを誓います。お願いですから私の魂のなげきを聞き届け、私の大地と祖国を救ってください。昼も夜もあなたの子どもである私たちを見守り、真理の道へと導き、誘惑から遠ざけ、生きる力と智恵を与え、そしてあなたの御名が照り輝きますように。私たちをお救いください。神様。

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※ストロンチウム:ストロンチウム90は核実験における「死の灰」及び原子炉における核分裂で生成される。半減期は28年。カルシウムと混じって骨に沈着し、骨髄被曝による白血病の原因となる。

※セシウム:セシウム137は原爆や原子炉によって生成される核分裂生成物。半減期は30年。体内では血液に入り込み、筋肉などに集まり、ガンや腫瘍の原因となる。生殖腺被曝は深刻で遺伝に影響を及ぼす。

 

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