すぎなみ民営化反対通信

東京・杉並発。「一人が万人のために、万人がひとりのために」をモットーに本当のことを伝え、共に歩んでいきたいと思います

『子どもたちのチェルノブイリー』抜粋・連載を終えて・・・・50回のバックナンバー一覧 

2012年09月21日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

前回記事で50回連載を終えました。これまでの50回のバックナンバーの各タイトルと記事の投稿日付を一覧で掲載します。

『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

ー子どもたちのチェルノブイリー』

抜粋による転載50回記事のバックナンバー一覧




≪第一章≫ 突然の雨

第1回・子どもたちを助けてください 2011.11.13

第2回・喜びは幼年期に置いてきた 2011.11.14

第3回・母のもとに六人残った 2011.11.16

第4回・チェルノブイリの黄色い砂 2011.11.21

第5回・空が急に暗くなった 2011.11.24

第6回・家のそばの花 2011.11.26

第7回・ハッカの匂いがした 2011.11.29

第8回・ベラルーシにかぶさる黒い雨雲 2011.12.01


≪第二章≫ ゾーン、埋められた村

第9回・死のゾーンはいらない 2011.12.06

第10回・根が切り取られたのがくやしい 2011.12.07

第11回・ドミトリーおじさんのゾーンでの話 3011.12.09

第12回・ベラルーシの運命は私の運命 2011.12.12

第13回・殺されるまぎわの馬の悲鳴 2011.12.14

第14回・ぼくの血の中のチェルノブイリ 2011.12.17

第15回・ぼくのコウノトリはどこにいるの 2011.12.23

第16回・灰の下に 2011.12.26

第17回・ジェミヤンキ村との別れ 2012.01.07



≪第三章≫ これもだめ あれもだめ

第18回・心に秘めた願望 2012,01.13

第19回・母と私と祖父の友人 2012.01.20

第20回・空に鳥の震えるような声を聞く 2012.01.23

第21回・最後の授業のベル 2012.01.27

第22回・月の光の中で 2012.02.06

第23回・わたしのかわいいチュウリップ 2012.02.24

第24回・ぼくの町へ帰りたい 2012,02.29


《第四章》  わたしは生きる

第25回・茶サジ一杯のヨウ素 2012.03.01

第26回・わたしにふるさとを返して 2012.03.14

第27回・わたしは明るくふるまう 2012.03,23

第28回・わたしは生きる 2012.03.26

第29回・スペトラ―ナちゃん 2012.04.09

第30回・森にカッコウが鳴いていた 2012.04.14

第31回・みんな春の雨を喜んだ 2012.04,16

第32回・暗い夜になる前に 2012.04,21



《第五章》 時限爆弾

第33回 チェルノブイリのジレンマ 2012.04.25

第34回 わたしはすべての子どものために書く 2012.04.26

第35回 時限爆弾 2012.05.01

第36回 聖なる大殉教者 2012.05.03

第37回 永久に続くのだろうか 2012.05.12

第38回 ゾーリカ・べネーラの歌 2012.05.14

第39回 鏡さん はなしておくれ 2012.05.17

第40回 チェルノブりとは・・・・ 2012.05.21

第41回 苔、ああ苔! 2012.05.29



《第六章》 森よ、河よ、草原よ・・・・

第42回 二つのひまわり・・・・二つの太陽 2012.06,04

第43回 わたしはどこから来たの 2012.06,10

第44回 地球の生きている花 2012.07,09

第45回 ぼくは思い出す 2012.07,09

第46回 ニガヨモギの香気 2012.07,24

第47回 子どもたちみんなに頼みたい 2012.08,05

第48回 小麦の種をまくのが夢だ 2012.08.07

第49回 エコロジーの鐘が鳴る 2012.08.15

第50回 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 2012.09.18



※ すぎなみ民営化反対通信の2014年11月のサイト引っ越しに際しては、前掲50編の作文のほとんどで文中挿間されている「書いた子どもたちの写真」、「挿絵・写真」と「絵解き」について、引っ越しに伴う再編集で割愛しました。また、サイト引っ越しに伴う作業では、『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載の記事の前に載せた反原発デモや関連ニュースの記事も削除するか、別記事として分離して立てなおすかしていて、抜粋・連載記事とそれらの記事が併存している状態の記事はできるだけ少なくしました。カテゴリーは、『子どもたちのチェルノブイリー』抜粋・連載の1本にしました。リニューアル前のサイトでお読みの方で、引っ越し・リニューアル後にサイトを訪れてくださった方は記事の変更に気付かれることと思いますが、抜粋・連載の内容は、前記の写真・挿絵・絵解きの割愛を除いては、全文元のままです。できれば、ぜひ、本そのものをお求めいただき、子どもたちが書き、この本に挿絵として載っている絵や、写真や資料もお読みいただければと思います。
3・11福島原発事故の25年前に爆発したチェルノブイリ原発事故と当時の子どもたちのその後の25年は、福島の子どもたちが、今後いかなる険しい試練に外部被ばく・内部被ばくによってさらされ、生きていかねばならないのか、逃れ難い健康被害、被ばく症状と命の問題を示しています。むしろチェルノブイリ以上という困難を、このかんの小児甲状腺がんの発症数は示しています。避難・保養・医療はこんごますます重要な闘いになります。私たちは、3・11フクシマをなかった話にすることはできません。福島に向き合い、共に生き抜き、原発とも被ばくとも闘っていかねばなりません。『子どもたちのチェルノブイリ』の抜粋・連載記事が、そのささやかな一助になればと願ってやみません。

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『子どもたちのチェルノブイリ』連載【第50回】わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

2012年09月18日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載
 >今日が抜粋連載(50回シリーズ)の最終回になります。この今回抜粋した作文の表題「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」が、抜粋・転載した本のタイトル『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた(副題ー子どもたちのチェルノブイリー)』となっています。抜粋・転載しながら思ったことは、チェルノブイリとは文字通り、今日明日の、また数年後、10年後、20年後、25年後・・・のフクシマであることであり、また数年後、10年後、20年後、25年後・・・のフクシマとは既に現れているチェルノブイリだということです。フクシマが直面・対峙している現実と未来に、フクシマを共有して立ち向かわねばなりません。原発・核は絶対になくさなくてはなりません。涙が流れて止まらない、その涙を振り払って私たちが固く誓い、約束し、立ち向かい果たさねばならないことは、この責任です。

 この重い現実と切迫した課題が眼前にありながら、本当に許しがたい事態が政府財界によって引き起こされています。野田政権が「脱原発」「2030年代原発ゼロ社会をめざす」と言いながら、「原子力規制委員会で安全性が確認された原発はすみやかに再稼働する」「新規増設はしないが建設中の大間・東通・島根原発は建設を再開する」「もんじゅは継続する」「核燃サイクルは継続する」としていることです。「革新的エネルギー・環境戦略」とは、性懲りもなく再稼働を積極的に推進し、原発推進の原子力政策をとことん進めるというものです。これが3・11福島原発事故をひきおこした政府財界が進めようとしていることです。被曝労働でどれだけの労働者を殺すことになろうが、放射能でどれだけの子どもたちが今後何十年にもわたって殺され続け、病に襲われ続け、未来を奪われ続けようが、「いのちより原発」「命よりカネ」「命より原子力・安全保障」が第一だというのです。絶対に許すことはできません。命の叫びを「音」としか感じず、無視してよしとする政府は、労働者を先頭とした命の反乱によって倒されなくてはなりません。チェルノブイリはソ連崩壊の導火線となった。怒りのフクシマと人々の命の反乱は原子力(原発と核)を命に勝る国策とするこの国を必ずや瓦解・崩壊させるものになります。そうしなければなりません。



 ★連載(最終回)★  

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
-子どもたちのチェルノブイリ-


梓書院:1995年6月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

抜粋による連載(第50回

【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ 】

私たちの涙で雪だるまが溶けた

        イ―ゴリ・マローズ(男)第四中等学校十一年生 シュクロフ町

 
祖母の住むマリノフカが汚染のひどいところだということを、当時はまだ誰も知らなかった。そこにはずっと昔から、野生のナシの木があった。いつごろからあったのか誰も知らなかったが、それは祖母の庭に生えていた。

その夏、マリノフカには、すでに放射能が舞い降りていた。しかし人々は、これから恐ろしい不幸が起こるなどとは予期していなかったし、誰もこの古い大木にも死の兆候があらわれているなど、思ってもみなかった。

その木は、庭のほとんど三分の一を日影にするので、村の人たちは何度もこの木を切り倒すよう祖母に助言した。しかしその都度、祖母は断り、こう言った。「そんなことしちゃだめなんだよ。その昔、この木の下に、罪のない女の子の血が流されたんだから」と。

遠い昔の農奴の悲しい死の伝説を知っている人はたくさんいたけれど、みんながそれを本当のことだと信じていたわけではない。だけど私の祖母は信じていた。この驚くべき古木は、祖母にとっては聖なるものなのである。

僕のいとこのナジェージュダは、このナシの木が好きだった。その年の夏休みにも彼女は祖母のところにやって来た。その夏は、蒸し暑く、沈んだ雰囲気だった。でもおばあちゃんのいるマリノフカは、とても美しかったし、広々としていた。ナジェージュダは夏中、祖母の菜園に滞在し、種蒔きなどの手伝いをした。また彼女は森へ行って、イチゴやキノコを集めたり、近くの川で日光浴や水遊びをしたりもした。

ある日、地区の何だかえらい人が来て、「村の土や水や空気はとてもきれいであります。ここには安心して住んでいただきたい」と言って帰って行った。だから村人たちは安心して住み続けた。

大きく枝を張り、葉を茂らせたナシの木の下で、ナジェージュダは水彩画を描いた。彼女は画家になることを夢見て、美術研究所で勉強していた。彼女はその夏、とても美しくなった。十五歳だった。少女からレディになった。彼女は日記を書き始め、そこには秘密の想いや印象を書き残した。しかし、この日記には、その後腫瘍専門病院での苦しみが書かれることになる。彼女の日記に書かれたことは全て、言葉では言い表せられないほど、僕を揺り動かした。とりわけ最後の十日間分の内容はそうだった。何という希望、生への渇望、人間的な尊厳だろうか。何という悲劇、取り返しのつかない災いを感じていたのだろうか。今、この日記は僕の手元にある。僕はこの勇気と真の崇高さが記されたナジェージュダの日記の、最後の数日分をここに紹介したい。

三月一日 
 第十二号室の男の子たちが、春のお祝いを言いにやって来た。病室には、もうすぐ春が来るというのに、不幸な私や男の子たちがいた。通りにはまだ雪が残っていて、彼らは雪だるまを作り、病院の大きなお盆にのせて私たちの病棟に持って来てくれた。雪だるまは素晴らしかった。それをつくったのは、と―リャに違いない。彼は彫刻家を夢見ていて、いつも粘土で何かを作っているから、彼は化学治療のあと、ベッドから起きることを今日ゆるされたばかりだ。トーリャは、みんなの気分を盛り上げようとしたのだ。「だって、春が始まったんだから!」その雪だるまのそばにはメッセージがあった。「女の子たちへ。みなさんにとって最後の雪です!」と。「なぜ最後なの?本当に最後なの?」私たちは、ひとりまたひとりと泣きながらたずねた。 雪だるまは少しずつ溶けた。それは私たちの涙で溶けてしまったように思えた。

三月二日
 今日おばあちゃんが来てくれた。大好きな、大切なおばあちゃんだ。彼女は私の病気の原因が自分にあると思っている。おばあちゃんに大きなナシの木の伝説を話してとお願いした。その大木の下で空想するのが好きだった。だけど、そこはチェルノブイリ事故の後は大きな原子炉になったみたいだった。
 絵に描くためにおばあちゃんの話を細かいところまで漏らさないように聞いた。おばあちゃんは静かに穏やかに話し始めた。
  「昔々、農奴制があったころのことでした。金持ちの領主が、貧しいけれど美しい娘を好きになりました。そして力づくで娘を城に連れてきたのです。マリイカは―この娘の名前ですが―ずーっと城の中で泣き悲しんでいました。ある日、この悲しい娘は、鍵番の青年の手助けで、彼と一緒に城の領主のもとから逃げることができました。しかし、領主の使用人たちは、隠れるところのない草原に彼らを追い詰めました。無慈悲な領主は激怒して叫びました。『おまえが俺のものにならないというのなら、誰のものでもなくしてやる』と。領主はサーベルで娘に切りつけると、その不幸な逃亡者は大地に崩れるように倒れました、その罪のないマリイカの血が流れたところに、美しい野生のナシの木が生えたと言われています。・・・・・・これが私がずっとナシの木を守って来た理由なのよ。でも今はな、ナジェージュダちゃん、もうこのナシの木はなくなってしまったの。どこからかクレーン車が来て、このナシの木を根っこから引き抜いてしまったの。ナシの木があったところには、セメントが流し込まれ、何かのマークがつけられたの。
 もうみんな村から出ていってしまったわ。私たちのマリノフカは、空っぽになってしまったの。死んでしまったのよ」
 おばあちゃんが帰るとき、私には頼みたかったことがあった。私が死んだら、墓地には埋めないでほしい。それが心配だ。美しい草原か白樺林がいい。お墓のそばにはリンゴかナシの木を植えてほしい。でもそんなことを考えるのは嫌だ!草にはなりたくない。生きなければならない。生き続ける!病気に打ち克つ力が充分にある。そう感じる!

三月三日
 できるかぎり痛みをこらえている。おばあちゃんの肖像画が完成した。お母さんが、この絵を見て感動し、「ナジェージュダ、おまえにはすばらしい才能があるんだね!」と言った。主治医のタチアナ先生は、私に勇気があったから治療も成功したと言ってくれた。元気づけられた。神様お願いします。持ちこたえ、生き続ける力をお与えください。お願いします。

三月四日
 医者はよくなっているというのに、どうして体力が落ちているのだろう。どうして急に病棟が騒がしくなったのだろう。点滴のあと、この日記を付けている。どうしてほとんど良くなっていないのだろう。同じ病気の友だち、ガーリャ、ピーカ、ジ―マが私を見るとき、何か悲しそうな目をする。今まで以上に同情してくれているのがわかる。彼女たちも同じような境遇なのに。わかった、誰も人間の苦悩を見たくないからだ。だがどうしようもない。ここの病棟は満員になっている。タチアナ先生の話では、三年前には、入院患者はほとんどいなかったそうだ。これらのことは全て、チェルノブイリ事故によるものなのだ。この不幸をもたらした犯人を、ここに連れて来て、この病棟にしばらくいさせたいものだ。自分のやったことの結果を見せつけたい。
 アンナ・アフマートバを読み始めた。「私は最後のときを生きている」というテーマで絵を書きたくなった。

三月五日
 一〇号室のワ―ニャちゃんが死んだ。大きな青い目をした金髪の男の子で、病棟のみんなから愛されていた。まだ七歳だった。彼はここに来る前に、ドイツに治療に行ったこともある。昨日、ワーニャちゃんは自分の誕生日のお祝いだからと、全員にキャラメルを配ってくれた。私たちもお祝いに病室に行ったら、とても喜んでくれたのに。神様、あなたはなぜ、みんなに平等に親切ではないのですか。どうしてワ―ニャちゃんが・・・・・・。何の罪もないのに。

  三月六日
 どんな痛みでも我慢できるようになった。お母さんがその方法を教えてくれた。私の胸に、病室の入り口に立ちつくす母親たちの姿を焼きつけることを考えついた。母親たちは、私たちより苦しんでいる。彼女たちを見ていると、我慢しなければと思い、希望を持たなければと思う。
 不幸を共にする仲間が、どんなに痛みと闘っているかを見たことがある。それは十五歳のボーバのことだ。母親は医者のところに走り、医者は彼に痛み止めの注射をする。薬の効く間だけ苦しみのうめきは止まり、泣き声はやむ。今後この少年はどうなるのだろう。私たちはどうなるのだろう。
 私が思うには、チェルノブイリの惨事は、人間の理解を超えたものの一つである。これは人間存在の合理性をおびやかし、その信頼を無理やり奪い去るものにほかならない。

三月七日
 今日、デンマークの人道的支援組織の人が来た。この病室にも、ふわっとした金髪の女性が入ってきた。とても美しく、魅力的な人だった。私のそばに座り私の頭をなでると、彼女の目に涙があふれてきた。通訳の人の話では、数年前、彼女のひとり娘が交通事故で突然亡くなったそうである。この外国のお客さんは、身につけていた十字架のネックレスをはずし、私の首にかけてくれた。子どもに対する純粋な愛は世界中の母親、みな同じであることを感じた。

三月八日
 今日は祝日。机には、オレンジ、バナナ、ミモザ、アカシアの花束が置いてある。それには、詩が書いてある美しい絵はがきが添えてあった。
   望みは何かというと
   あなたがよくなりますように
   あなたに太陽が輝きますように
   あなたの心が愛されますように
   あなたのすべての災難と不幸が
   勝利にかわりますように
 私たちはいつも健康と幸福を望んでいる。ただ勝利だけを。恐ろしい病気に打ち克とう。幸福はあなたのものだ。
 病院の講堂で国際婦人デーの集会が開かれた。トーリャと一緒に踊った。でもそれは少しだけ。すぐに目がまわりはじめるからだ。友だちが私たちは美しいペアと言ってくれた。

三月九日
 おとぎ話は終わった。再び悪くなった。こんなにひどくなったことは今までなかった。朝から虚脱感がひどく、けいれんが止まらないが、薬はもう効かなくなった。最も恐ろしいことは、髪だ。髪が束で抜ける。私の頭からなくなっていく。
 回診の時にタチアナ先生は、治療はもう完了したので、あとは自宅で体力を回復させなさいと言った。私は先生の目をのぞきこんだ。そして理解した。全てのことを。

三月一〇日
 おかあさんは私の好きなコートを持ってきてくれた。それを着れば私だってまだこんなにかわいいのに!私はやっと歩いて、病棟のみんなに別れを告げて回った。さようなら、みんな、私を忘れないでね!私もみんなのこと忘れないから!
 ナジェージュダは三月の終わりに死んだ。日記の最後はラテン語の「ViXi(生きた)」で結んであった。彼女は自分の人生で何ができたのだろうか。彼女は何を残したのだろうか。何枚かの風景画とスケッチと肖像画、それと大地に残る輝かしい足跡だ。
 みなさん。子どもたちの無言の叫びを聞いてください。援助に来て下さい。髪も悪魔もいらない。ただ人間の理性と優しい心だけが、痛み、苦しみぬいている大地を救うことができるのです。みんなで一緒になって初めて、チェルノブイリの恐ろしい被害を克服することができるのです。

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「子どもたちのチェルノブイリ」連載(第49回)エコロジーの鐘が鳴る

2012年08月15日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第49回)<o:p></o:p>

 【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ <o:p></o:p>

 エコロジーの鐘が鳴る<o:p></o:p>

      ナタ―リア・ヤスケ―ビッチ(女) 第二中等学校十年生 ルニネツ町<o:p></o:p>

 

<o:p> </o:p>

 核による死が、花咲く地球の上に覆いかぶさっているなどと、一体だれが考えられるだろう。チェルノブイリ事故を人類への最終警告であると評したのは、アメリカの科学者ゲイルである。「ニガヨモギの星」に焼かれた人にとって、それに毒された水や空気で生活せざるを得なくなった人にとって、それは既に警告ではなく、過酷な現実になってしまっている。チェルノブイリの悲劇は、時がたつにつれその強烈さを少しは失うことがあっても、他の不幸のように完全に記憶から消えてしまうものではない。「時は薬だ。時は相いれないもの同士を歩み寄らせる」と人は言う。だが本当にいつもそうだろうか。<o:p></o:p>

  チェルノブイリの重荷を背負うことは、私たちにはきつすぎる。大惨事の日から時がたつにつれて、事故の被害によって苦しむ人がますます多くなっている。「こんなことは以前にはなかった」そうだ。なかった。以前は母と一緒に森へ行き、キノコを採って火であぶり、塩をかけ酢漬けにしたものだ。私のふるさとは、昔からキノコの里と言われていた。私は今でもヤマドリダケ、アンズダケ、ヤマイグチなどのいろいろなキノコの匂いや味を覚えている。だがそれもただの記憶になってしまった。科学者(放射能の安全性についての専門家)たちは、他の植物に比べ、キノコは放射能の蓄積量が多いと警告している。たとえキノコを食べなくても、放射能はどんな食べ物にも含まれており口にしなければならない。いったい何を飲み、何を食べろと言うのだろうか。<o:p></o:p>

  ある日、シュクリャロフスキーの詩が目にとまった。彼はベラルーシの出身で、放射性ストロンチウムや放射性セシウムで汚染されたプリピャチ川に何度となく行った時のことを詩に書いた。<o:p></o:p>

 庭にリンゴが落ちる音がひびきわたる<o:p></o:p>

     原子の露の上を歩く<o:p></o:p>

     リンゴや白いキノコのわきを<o:p></o:p>

     さっさと通り過ぎる<o:p></o:p>

     かがみもせず<o:p></o:p>

     花や草に憎しみを抱きながら<o:p></o:p>

  この詩を読むと、鳥肌が立つ。「花や草」と言う言葉は、人間の行い、つまりわれわれをチェルノブイリ事故に導いた社会の構造を表している。ある日テレビで原子力エネルギー研究の指導的立場の人の演説を聞いたことがある。彼はこう言った。「科学には犠牲がつきものだ、その犠牲の中には、人間までもが含まれるのだ」と。ドストエフスキーが言ったように、赤ちゃんを殺すような人間が平気で暮らしているような社会の中に、調和などあり得ない。この科学者は野蛮な人間だと思う。私たちは科学の虜にはならない。かといって無知のままでいるわけでもない。人類だけではなく、すべての生命に対して関心を寄せるべきである。<o:p></o:p>

 人のもみあげには白いものが現れたり、一晩中眠れないというのは、単に気分が滅入っているからではない。衰弱し、病気になっているのだ。私は楽観主義者ではない。全く反対に、何事にも暗澹たる思いを持つ悲観主義者なのである。痛みで目が覚めたとき、目に見えない獣の手で首を絞められるとき、鼻血が出るとき、絶望で泣きたくなるときには、特にこのような気分になる。このような「とき」を並べるだけでもう苦しくなり、我慢も限界に達する。しかし、私は我慢強くなった。母にこれ以上心配かけたくない。母が私を見ている時の苦しみようは、とても表現できない。医者はもう私を治療できないでいる。そして決まってこう言う。治療に「必要な薬がない」と。<o:p></o:p>

 人が死ぬ。あの家、この家から、続々と死者が出ていると聞く。真冬の路上の蟻のように死んでいく。これは全部放射能のせいなのか、正確には分からない。だが私が思うに、犯人はやはり放射能だ。本当にいまわしい放射能は親戚や、知人、あるいは知らない人までも、次々に墓場に送っていく。<o:p></o:p>

 私の祖父が話していた。戦後、人々は生きるために一生懸命働いた。子どもや孫たちは、今、占領中や占領直後よりもっと恐ろしい時代に生きている。草原を走り回ることもできず、川で泳ぐこともできず、日光浴もできないと。祖父は放射能を恐れていない。「わしらは放射能を吸い、放射能を食べるさ。放射能はどこにでもあるんだ。年寄りにはどうってことはない。もう十分生きてきたし、いいことも悪いこともすべて体験済みさ。だけどお前たちはどうなるのかね」<o:p></o:p>

 エコロジーの鐘が鳴っている。苦痛と不安の鐘の音だ。苦痛とは大量の酸性雨がしみこんだ私たちの大地であり、化学物質に汚染された川であり、伐採されつくした森林等々である。不安とは次の世代のことである。鐘の音が鳴き、うめいている。その音が訴えるのは、チェルノブイリのことだ。この悲劇は全世界を揺り動かした。チェルノブイリの教訓は、徹底的に解明されなければならない。そうしてはじめて、そのようなことが二度と起きないように期待できるのである。一九八六年に「落ちてきた」ニガヨモギの星はいまだに悪業を続けている。人間は、自分たちが自然の一部であると認識しない限り、いつでもどこでも、このようなことが起こり続ける。自然への感謝がなければ、人は自然とともに滅びるだろう。今日、まだこのことを理解できない人がいることは、大変残念である。<o:p></o:p>

  私の今の希望は、ふるさとの町を出て、放射能のないところに住むことだ。私の姉のスベトラーナはブレスト音楽学校を卒業する。幸せなことに、彼女は私みたいに病気をしていない。この作文をベラルーシの偉大な詩人ヤンカ・クバ―ラの詩で終わりにしたい。<o:p></o:p>

 

   父祖の大地を返してくれ 全能の神よ<o:p></o:p>

    あなたが 天空と大地の皇帝であるならば<o:p></o:p>

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『子どもたちのチェルノブイリ』連載【第48回】小麦の種をまくのが夢だ 

2012年08月07日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

 

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

<o:p></o:p>

       抜粋による連載(第48回)<o:p></o:p>

 【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ <o:p></o:p>

 

小麦の種をまくのが夢だ<o:p></o:p>

      アレクセイ・ヒリコ(男) ジリチ村 キーロフ地区<o:p></o:p>

  不幸は巨大な鳥のように黒い翼をこの土地の上にひろげ、次の犠牲者を探している。僕は最近までは、新聞やテレビや、そして母や祖母や先生の語る悲しい話からチェルノブイリの悲劇について知るだけだった。<o:p></o:p>

  ここジリチはとても美しいところである。ここにはブルゴグ領土の旧屋敷が、十七世紀の記念建造物として残っている。村は巨大な菩提樹の古木や、堂々とカシの木や、魔法使いのようなカエデの並木に囲まれている。ソフホーズの公園には、木の葉が騒がしく音を立てている。村では春になると明るいピンクの花が辺りに咲き乱れ、いい香りでいっぱいになる。花々は人々を喜ばせ、楽しませる。ここでは、夏はもっと美しい。小さなドバスナ川が、心地よい音を立てて僕たちのそばを流れている。僕はその川のひんやりと澄んだ水で泳ぎ、川辺で日光浴をし、友だちと遊ぶのが大好きだ。特に洗礼者ヨハネ祭の日はとても楽しい。草原には大きな火がたかれ、少女たちは川面に花輪を流し、おばあさんたちは心のこもった歌を歌う。<o:p></o:p>

  僕には、父、母、兄弟姉妹がいる。僕はみんなが大好きだ。一番下のレーナが生まれたのは一九九三年の夏だった。彼女はとてもきれいでかわいい女の子だった。僕はよく彼女と遊び、彼女の子守をした。だが、レーナは死んでしまった。まだ、たったの生後五か月だった。<o:p></o:p>

  僕の家には不幸が居着いてしまった。父と兄たちの目は悲しみに染まってしまった。母が苦しみをこらえ、僕たちに涙を見せないようにしているのを見ると僕はたまらなくなる。母は穏やかで優しく、働き者だった。以前は楽天的で明るく、僕たちに冗談ばかり言っていた。<o:p></o:p>

  僕には分かっている。僕たちの不幸の原因はチェルノブイリだ。レーナの病気は脳水腫だと、母はボブルイスクの病院で告げられた。僕たちはレーナのために小さな墓を作り、そのそばにモミの木を植えた。僕たちは度々そこへ行き、僕たちが彼女のことでいかに苦しんだか、そして、彼女をいかに愛しているかを話すのだ。<o:p></o:p>

  最近、僕の学校で健康診断が行われた。僕も検診を受け、甲状腺に異常があると言われた。医療相談を受けるためにモギリョフの病院に送られた。健康診断の結果は正しかった。甲状腺肥大の第二期だった。何人かの友だちは第三期だと診断された。僕はよく頭痛がする。目も悪くなり、眼鏡をかけることになった。放射能の影響を低くするために、クルミ、オレンジ、バナナ、パイナップルなど外国の果物をとるように言われる。でもそんなものがどこで手に入れられるというのか。<o:p></o:p>

  二年前、僕たちのクラスは療養のため、クリミヤに行った。僕はそこが大変気に入り、みんな目に見えて元気になった。今はもうクリミヤへの旅行もない。療養所の利用券が手に入らないそうだ。いろんな困難があることは分かる。しかしただ一つ理解できないのは、なぜ僕たち子どもが一番苦しまなければならないのか、ということだ。<o:p></o:p>

  僕は生きて学校を卒業したら、すでに二人の兄が通っているコルホーズの技術学校に入学したいと思っている。僕は農学者になってこの土地と運命をともにしたい。僕はこの広い大地を治療し、小麦の種をまくことを夢見ている。僕は社会に必要な人間になり、多くの苦しみを見てきたベラルーシのために働きたいと思っている。でも一体、僕の夢は実現するのだろうか。<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』連載(第47回)子どもたちみんなに頼みたい

2012年08月05日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第47回)<o:p></o:p>

 【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ <o:p></o:p>

 

子どもたちみんなに頼みたい<o:p></o:p>

 インガ・リドフスカヤ(女・十六歳)

 第一中等学校九年生 ドロギチン町<o:p></o:p>

 ベラルーシには、チェルノブイリの悲劇に見舞われなかった家族はひとつもないのではないでしょうか。<o:p></o:p>

 私はそのとき八歳でした。何が起こったのか、よく分からない。放射能、原発・・・・・・。一生懸命、頭を使って考えました。でも興味いっぱいの私の頭では、発電所の残骸に、大惨事の恐怖を見つけ出すことはできなかったのです。まだ一九八六年は始まったばかりで、先はまだ遠かったのです。<o:p></o:p>

 今、私は多くのことが分かるようになりました。政治、経済界で起こる事柄についても、自分なりの考えを持つことができます。学校で学ぶことも無駄ではありません。それらは本や新聞や雑誌を理解するのを助けてくれます。今では、私は一九八六年の春に何が起こったのかを理解することができるようになりました。そしてチェルノブイリの事故報告に、私はひどくショックを受けました。それによると、放射能による汚染は、あらゆる生物に対し数十年から何百年もの間、有害な影響を与えるからです。残念ながら、私たちはこのことを自覚しなければならないのです。

母と妹たちが、医者の診察を受けに行く時の、その落ち込んだ顔を見るたびに、私の心は引き裂かれそうになります。私も、診察を受けました。でも医者が処方してくれた錠剤は頭痛、だるさ、疲れやすさには長く効きませんでした。これらの症状はベラルーシに舞い降りた放射能-いまわしいセシウム、プルトニウム、ストロンチウム― によるものなのです。

放射能。この怪物は広い土地を占拠し、私たちに苦痛と恐怖と心配をもたらしました。甲状腺切除のための手術台の上でも不安は消えません。甲状腺だけでなく、それに劣らず深刻な病気で、効果的な治療方法がわからないものがたくさんあります。それでも、医者は全力で病と格闘しているのです。

ヨウ素、昆布、クルミなどの古くからの民間療法も助けになります。

その他に、サナトリウム、療養キャンプに行くことは大きな効果があります。外国に行くのも、そうして希望をもつことが、私たちを精神的にも回復させ、健康にすることにつながるのです。

私はサナトリウムキャンプや観光地に行くことが好きです。でも私は外国に行く幸運に恵まれていません。しかし、このことを悔やんでもいません。ここベラルーシでも休息がとれるし、元気になれるし、着飾って愉快に過ごすこともできるからです。<o:p></o:p>

 自然とすばらしい人々の中で、休みを過ごそう。そうすることで、思いやりのある、優しい、すてきな人間になることができるだろうし、自然を愛し、理解することを学ぶことができると思います。

薬をのまなくてもいいのなら、頭痛や甲状腺肥大のことなど忘れてしまうのに。でも、薬なしではこの苦痛を和らげることはできません。

チェルノブイリ原発での事故は大きな被害をもたらしました。それは誰の罪なのか。社会か、原発で働いていた人なのか、偶然なのか。

罪の大小はあるけど、きっとその全部なのでしょう。<o:p></o:p>

 最も重い罪をおっているのは、事故の事実を明らかにすることを禁じた者です。これは議論の余地がありません。なぜなら四月二十六日、チェルノブイリ原発で大規模な火災が発生し、原発が爆発したのを知っていたのはわずかな人だけだったのです。その時多くの人が知っていれば、どれだけの人が助かったでしょう。数千人、いえ数百万人かもしれません。

最も恐ろしい問題は、誰が、新しい世代に健康を保証するのか、ということです。親は子どもたちに自然の美しさを教えてやらなければなりません。自然の破片や残りものではなく、本物の美しさを。

私は私の子どもや孫が病気になるのはいやです。このことがまた起こるのは絶対にいやです。だから、子どもたち皆に頼みたい。「もう二度と過ちを犯さないでください。悲劇を思い起こして下さい。自分たちの力で判断して、過ちを犯さないようにしてください」と。<o:p></o:p>

 人間は決して自然をないがしろにしてはいけないのです。自然はそれをゆるしません。反対に懲罰を加えるからです。<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ」連載(第46回)ニガヨモギの香気

2012年07月24日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第46回)<o:p></o:p>

 【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ <o:p></o:p>

 

ニガヨモギの香気<o:p></o:p>

 

ナタリア・スジンナヤ(女・十六歳)

第一中等学校十年生 ルニネツ町<o:p></o:p>

  ずいぶん昔に、ヒロシマ・ナガサキの話を聞かされたことがある。原爆の刺すような光に殺された人、壁に焼きつけられた人の影、地獄の灼熱の中で、生きながら苦しみもがいて死んでいったたくさんの人々。頭ではわかっていても、その本当の恐ろしさを私は理解していなかった。ヒロシマ・ナガサキの人々の苦しみと痛みをはるか遠くの見知らぬ人のそれのように感じていた。ただ、「ヒロシマが、ここでなくてよかった」ぐらいに思っていた。<o:p></o:p>

  ところが、その恐怖がこの国でも現実のものとなってしまった。<o:p></o:p>

  当時八歳だった私には、何も分からなかった。どうしてクラスの子たちみんなで「ピオネール・キャンプ」にいかなくてはいけないのだろう。どうして大人はこんなに驚いているの。どうしてママたちは泣いているのかしら。<o:p></o:p>

  キャンプにいる私たちのもとへ家族から送られてきた手紙には、外の果物や野菜をとって食べてはいけない、とか、イチゴやキノコを採ってはいけないということが書かれていた。それさえ、私たちにとっては、めずらしく、ただの興味の的でしかなかった。驚きはしても恐さなどこれっぽっちもなかった。私たちは「チェルノブイリ」という言葉が何を意味するのか、ほとんど分かっていなかった。<o:p></o:p>

  春、色とりどりに香ぐわしい花の咲き乱れていた大地は、今やニガヨモギにびっしり覆われてしまった。事故は原子力発電所の誰かのミスで起こったという。すべてが一瞬にして変わってしまった。うららかな、陽のさんさんと降り注いだあの朝に。真っ黒な風が吹きすさび、ベラルーシの青く澄んだ瞳を、悲しみと痛みの影で曇らせてしまった。地球全体が凍りついたように動かなくなった。私たちは何も教えてもらえなかった。気がついたときはもう間に合わなかった。すでに子どもたちは被曝しており、避難のためキャンプに送られ、村はまるごと引っ越して人っ子一人いなくなった。私たちの周りがせわしく動き始めた。<o:p></o:p>

  補償。学校の給食や企業で行くサナトリウムの費用は無料になっている。両親は給料以外にも手当を受け取っており、私たちはそれで暮らしている。だが、これで状況が少しでもよくなるのだろうか。子どもが授業中に気絶しなくなるのだろうか。白血病で死ぬ人がいなくなるというのだろうか。私たちのはれあがった甲状腺が元通りになるとでもいうのだろうか。<o:p></o:p>

  私たちは何よりも深く考えるようになった。医者が人の生命を救おうと努力してみても、国家があらゆる補償を与えようとも、私たちから、チェルノブイリの刻印が消えることはない。サナトリウムに行ったところで、家に帰ってくるのだから同じことだ。私たちはこの土地に住み、ここでできる果実を食べる。どうすることもできない。私たちは自分たちの犯した取り返しのつかない過ちに、今もこの先もずっと苦しみ続けるのだろう。私たちだけではない。その子どもも、孫もひ孫も、だ。<o:p></o:p>

  なんということだろう。新聞は、私たちの体の状態をさまざまな事実と統計をならべて警告している。ありとあらゆる体の異常、白血病、甲状腺肥大、私たちの体で休みなく続く変化、私たちは自分だけではなく、知人や大切な人のことをも心配している。<o:p></o:p>

  だが、それと同じくらいに私たちを脅かしているものがまだある。私たちのゆがんだ魂。心の永遠の痛み。<o:p></o:p>

  このような悲劇にあっても、私たちは孤立しているわけではない。世界中の人々が私たちに救いの手をさしのべてくれている。親切な、心のやさしい、他人の不幸を分かってあげられる人がいるというのは、もちろんいいことだ。<o:p></o:p>

  彼らは私たちを慰め、痛みを分かち合い、それを言葉だけでなく行動でも示してくれる。彼らは、私たちに必要な援助や、機器を送って来てくれる。私たちは他国の人の善意に対して厚かましくなってしまったうえに、そのことを認めようとしない。自分の傷を見せびらかし、自分でしでかした過ちを世界に賠償しろと言っている。私たちはいろんな国からの贈り物を平気な顔で受けるようになってしまった。仕事も忘れ、資本主義世界からの好意に頼りきってしまっている。<o:p></o:p>

  私たちの社会は、まるで巣の中のか弱いひな鳥だ。大きく口を開け、餌をくれる母鳥を待っているのだ。仕事に精を出す代わりに、自らの欠陥を直す代わりに、私たちはみな、無秩序の底なし沼に深くはまりこんでいっている。援助はあくまでも援助である。他人の体で永久に寄生虫のように生きてゆくことはできない。自分の悲劇を売り物にすべきではない。このことを心がけないことには、私たちは文明人として生きることはできない。もちろん私たちと彼らは同じではない。私たちは目には見えない壁に囲まれている。私たちの多くがニガヨモギを背負っているからだ。だからと言って、街角でそれを大声でまくし立てるべきではない。わが民族は悲劇を他人に見せびらかしたりなどしない。私たちは自分の運命に慣れてしまったかのように生きている。だが、本当は、変えたくても変えられないから黙って苦しんでいるのだ。それでも、心の奥深くで、冷たい絶望感がふるえている。時に、絶望が頭をもたげると、私たちは空を見上げ、たずねる。「なんのために・・・・・」 答えはない。<o:p></o:p>

  私は、ある女の人の話を思い出す。仕事から帰って来た彼女に、彼女のまだ幼い赤ちゃんがこう頼んだ。「ママ、キエフに連れてって。ぼく、死ぬ前に教会の鐘が見たい」<o:p></o:p>

  「赤子の口は真実を話す」ということわざを思い起こす。世界は何千もの人々がチェルノブイリの十字架にはりつけになり、何百万もの人々が毒によって殺されるその最期を、なすすべなくただ待っているのだろうか。そんなの間違っている。生きなくては。<o:p></o:p>

  何をなすべきか順序立てて考え、希望を持とう。このような状況にも屈しない人々がいる。科学者はテクノロジーを安全なものにしようとし、科学を人類に役立てようと努力している。医者は、限られた条件の中で、被害者一人一人を救おうとしている。私たちはこの人たちのように、未来のため、私たちの子どものために、以前の恵み豊かな大地を取り戻さなくてはならない。<o:p></o:p>

  現在の社会は私たちに厳しい教訓を与えた。おのおのがこの教訓から自分の一番大切なものを見つけ出し、そして、自分の運命の、生命の」、この地球の主人は自分だと悟らなくてはいけない。手遅れになる前に、一歩踏み出そう。苦痛を口実に無気力や無関心になるのではなく、それをバネに、大きく踏み出そう。誰も、二度とこの苦しみを味あわなくてすむように、この地球の人間と自然が再び毒におかされることのないよう努めよう。私たちのすばらしい地球を、ニガヨモギの香気だけが漂う、生命のない無限の砂漠に変えたくない。<o:p></o:p>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【今日7月24日のニュース】

10都県で放射性ストロンチウム検出

7月24日 19時56分

東京電力福島第一原子力発電所の事故で放出された可能性がある放射性物質ストロンチウム90が、茨城や東京など10の都県でも検出されたことが文部科学省の調査で分かりました。
こうしたストロンチウムが文部科学省の調査で検出されたのは、福島、宮城以外では初めてですが、「濃度は非常に低く、健康への影響はほとんどない」ということです。

この調査は、文部科学省が全国の都道府県で原発事故の前から毎月、行っていたもので、今回は事故の影響もあって、おととし4月から去年12月までのデータが24日、公表されました。
それによりますと、原発事故で放出された可能性があるストロンチウム90は、すでに別の調査で検出された福島、宮城以外にも、秋田、岩手、山形、茨城、神奈川、群馬、埼玉、千葉、東京、栃木の10の都県で検出されたことが分かりました。
このうち最も数値が高かったのは、茨城県ひたちなか市の去年3月のサンプルで、ストロンチウム90の濃度は1平方メートルあたり6ベクレルでしたが、同じサンプルに含まれた放射性セシウムの2850分の1程度だったということです。
文部科学省は「濃度は、放射性セシウムに比べて非常に低く、健康への影響はほとんどないと考えられる」としています。

何が「健康への影響はない」(文科省)だ!

 福島原発事故由来のストロンチウム検出の人体と健康への脅威を打ち消すために、またぞろ「健康に影響ない」「検出値は著しく低い」とデマで抹殺しようとしているのだ。それが今日の文科省発表の核心だ。

 

 ストロンチウムはカルシウムに似た性質を有し、水に溶けやすく、体内に摂取されると、一部はすぐ体外に排出されるがほとんどは体内、の無機質部分にとりこまれ、長く残留する。ストロンチウム90の半減期は29・1年と長い。このストロンチウムの内部被曝によって、骨腫瘍に罹患する危険が明白にあるのだ。だから紛糾し、大問題になる前にもみ消そうと、「安全」「影響なし」コメント目的で「ストロンチウム10都県検出」を公表した。断じて許せない。そんなに「安全」「問題ない」というのであれば、どこかで誰かがやったように、発表した文科省の担当者は自分の家族にその検出されたストロンチウムを水に溶かして飲ませて見せよ。子どものことを考えたら絶対できまい。

 

 「命より原発(核)」「福島原発事故によって放出された放射能の健康への影響はナシ→フクシマは過去のこととして抹殺」というこの国の政府・電力資本・原子力ムラの暴力的デマを粉砕しよう!再稼働反対・全原発廃炉!放射能から子どもたちと私たちの命と未来を守ろう!原発労働者への大量被曝強制許すな!

  「水たまりなら避けることはできる。しかし目に見えない放射能は避けることができない。放射能戦争、子どもたちも市民たちもこの中にいます。これがフクシマです」

カリフォルニアでのラジオ放送での椎名千恵子さん(「原発いらない福島の女たち」)のアピールから)

 

 

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保育所・幼稚園で働く皆さんに幼保新法案絶対反対を訴える!企業への売却・譲渡が正体

2012年07月22日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

「社会保障・税の一体改革」絶対反対!子ども子育て新制度法案廃案で幼保職場・現場、20~40代非正規世帯、地域から怒りの抗議を!

 超反動延長国会のもとで消費増税法案の参院採決強行をめぐる攻防の一切は予断を許さない情勢に入りました。だが、それでも何も決まってはいません。国会外の私たちの怒りが再稼働反対の空前の大衆行動として爆発し、オスプレイ配備をめぐっても配備先の沖縄と搬入された岩国を先頭に全国で怒りの抗議がもえひろがっているからです。私たちの満身の抗議を無視してあくまで国策として命踏みにじる政府に対して、私たちの反乱がとどまるところを知らず始まっているからです。「社会保障と税の一体改革」法案の一環として民自公合意のもとに参院に送付され審議されている「幼保連携認定こども園」「子ども子育て支援」法案についても幼保現場を先頭に抗議の怒りが爆発しつつあります。7月19日付け当サイト記事で結論的に暴露・批判したが、子ども子育て支援と幼保新制度「こども園」をめぐって、政府の上程法案原案と自公の修正要求による民自公3党合意に基づく議員立法での修正法案の中身は、その極悪の核心、核心中の核心(公私連携)はまったく同じです。

 以下にその極悪の条項一点に絞って、政府原案と修正法案の対照を行います。両者は、幼保の民間企業への市場解禁、参入自由化については、まるきり同じです。これこそ、財界が追求してきた狙いです。必ずしも周知・暴露されているわけではなく、むしろほとんど知らされていません。この法案の極悪の核心中の核心について暴露することは決定的に重要と当サイトは考えます。

【比較対照資料】<o:p></o:p>

 総合こども園法案(政府原案)<o:p></o:p>

 (設置者) <o:p></o:p>

 第六条 総合こども園は、国(国立大学法人法(平成十五年法律第百十二号)第二条第一項に規定する国立大学法人を含む。第十二条第一項において同じ。)、地方公共団体、学校法人(私立学校法(昭和二十四年法律第二百七十号)第三条に規定する学校法人をいう。第二十二条第一項において同じ。)及び社会福祉法人(社会福祉法(昭和二十六年法律第四十五号)第二十二条に規定する社会福祉法人をいう。第二十二条第一項において同じ。)のほか、次に掲げる要件の全てに適合する法人(次条第一項及び第二十二条第一項において「適合法人」という。)のみが設置することができる。

第八条第一項の基準に適合する設備又はこれに要する資金及び当該総合こども園の経営に必要な財産を有すること

二 当該総合こども園の経営を担当する役員が総合こども園を経営するために必要な知識又は経験を有すること<o:p></o:p>

三 当該法人の経営を担当する役員が社会的信望を有すること<o:p></o:p>

 (公私連携型総合こども園に関する特例) <o:p></o:p>

 第二十二条 市町村長(特別区の区長を含む。以下この条において同じ。)は、当該市町村(特別区を含む。以下この項及び次項第三号において同じ。)における保育の実施に対する需要の状況等に照らし適当であると認めるときは、公私連携型総合こども園(同項に規定する協定に基づき、当該市町村から必要な設備の貸付け、譲渡その他の協力を得て、当該市町村との連携の下に教育及び保育等を行う総合こども園をいう。以下この条において同じ。)の運営を継続的かつ安定的に行うことができる能力を有するものであると認められるもの(学校法人、社会福祉法人又は適合法人に限る。)を、その申請により、公私連携型総合こども園の設置及び運営を目的とする法人(以下この条において「公私連携法人」という。)として指定することができる。<o:p></o:p>

 3党合意に基づく議員立法としての修正法案=「就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の一部を改正する法律案」(衆院可決・参議院審議中)<o:p></o:p>

 (・・・・認定の申請者・・・・)<o:p></o:p>

 5 都道府県知事は、国(国立大学法人法(平成十五年法律第百十二号)第二条第一項に規定する国立大学法人を含む。以下同じ。)及び市町村以外の者から、第一項又は第三項の認定の申請があったときは、第一項又は第三項の条例で定める要件に適合するかどうかを審査するほか、次に掲げる基準(当該認定の申請をした者が学校法人(私立学校法(昭和二十四年法律第二百七十号)第三条に規定する学校法人をいう。以下同じ。)又は社会福祉法人(社会福祉法(昭和二十六年法律第四十五号)第二十二条に規定する社会福祉法人をいう。以下同じ。)である場合にあっては、第四号に掲げる基準に限る。)によって、その申請を審査しなければならない。

一 第一項若しくは第三項の条例で定める要件に適合する設備  又はこれに要する資金及び当該申請に係る施設の経営に必要な財産を有すること

二 当該申請に係る施設を設置する者(その者が法人である場合にあっては、経営担当役員(業務を執行する社員、取締役、執行役又はこれらに準ずる者をいう。)とする。次号において同じ。)が当該施設を経営するために必要な知識又は経験を有すること

三 当該申請に係る施設を設置する者が社会的信望を有すること<o:p></o:p>

四 次のいずれにも該当するものでないこと。<o:p></o:p>

 イ 申請者が、禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなるまでの者であるとき。<o:p></o:p>

 ロ 申請者が、この法律その他国民の福祉若しくは学校教育に関する法律で政令で定めるものの規定により罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなるまでの者であるとき。<o:p></o:p>

 ハ 申請者が、労働に関する法律の規定であって政令で定めるものにより罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなるまでの者であるとき。<o:p></o:p>

   ・・・・以下略<o:p></o:p>

 (公私連携幼保連携型認定こども園に関する特例)<o:p></o:p>

第三十四条 市町村長(特別区の区長を含む。以下この条において同じ。)は、当該市町村における保育の実施に対する需要の状況等に照らし適当であると認めるときは、公私連携幼保連携型認定こども園(次項に規定する協定に基づき、当該市町村から必要な設備の貸付け、譲渡その他の協力を得て、当該市町村との連携の下に教育及び保育等を行う幼保連携型認定こども園をいう。以下この条において同じ。)の運営を継続的かつ安定的に行うことができる能力を有するものであると認められるもの(学校法人又は社会福祉法人に限る。)を、その申請により、公私連携幼保連携型認定こども園の設置及び運営を目的とする法人(以下この条において「公私連携法人」という。)として指定することができる。

  【当サイトによる注・・・指定と言っている!<o:p></o:p>

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 野田をたおして、幼保新法案を廃案にしよう!

 

 【1】  この法案の最大の核心は、政府原案と3党合意・修正法案の変わらぬ一致点、ここにこそあります。これは、自治体の公立の施設であり事業である保育所、幼稚園の民間企業への身売り・払い下げにほかなりません。自治体が民間企業に協定を締結して、自治体の施設・事業を譲渡、時価以下での貸し出しを行うのが公私連携です。

 勝手に当サイトが決めつけているのではありません。法案にそのように疑問や議論の余地のない明文で規定されています。

 【2】 「特例」とあたかも特別の例外的規定のように書いていますが、民間企業の参入の余地を残したなどというやわなものではありません。「譲渡」「時価以下での貸付」という荒っぽいことまで法律で規定し、認めているわけです。「特例」どころか「本筋」「中核」規定としてこの公私連携は位置付けられています。

 これは自治体=役所の解体にも等しい。国は、財政難にあえいでいる自治体に、民間に明け渡せと言っているのです。これは、自治体が財政的に厳しいのでコスト削減のために、安上がりをねらって外部・民間に業務委託する、自治体業務を外注にするというのとも違います。業務委託や外注の場合には、自治体側は企業に対して安値で買いたたくという関係にあります。しかし公私連携では逆です。もっとひどい。自治体は企業にただで譲渡するか時価より安く買って使ってもらう、そのことで出費を節約する、企業の側が自治体の施設や事業を買いたたく、譲り受ける、そういう関係です。まず保育所・幼稚園の施設・事業からそうしろというのが法案(国)の趣旨です。

 【3】 民間企業は、国や自治体が定める認可基準プラス「資金・財産」「経営に必要な知識、経験」「設置者=経営者の社会的信望」さえクリアできれば参入できます。こんなものは企業が大きければ大きいほどお手の物です。これらは民間企業が参入しやすくするためのお題目的な「基準」に過ぎない。自公は「悪質事業者を排除する」などと言っているが、事件や組織的不正が発覚し企業としての権威も失墜するまでは、かのグッドウイル・コムスンだって優良企業ともてはやしてきたのです。

 【4】 ここで声を大にして明らかにしなければならないのは、こうして民間企業に身売り・払い下げ(譲渡・貸付)される保育所・幼稚園でいま働いている職員はどうなるのかという問題です。施設・事業の身売り・払い下げ(譲渡・貸付)で雇用関係が自治体から企業にそのままに承継されることはあり得ません。その施設・事業で仕事を続けたくても、新たに企業に雇用されることなしには続けることはできません。いったんは自治体から解雇されます。企業は自治体で働く職員の場合の賃金・労働条件・雇用形態を切り下げたもっと劣悪な条件をのまない限り採用しません。

 つまり職員(正規・非正規問わず)にとっては、全員解雇、低賃金・不安定雇用・さらなる非正規化(総パート・アルバイト化)の攻撃です。

  いま財界は「40歳定年制」ということまで言い出しています。幼稚園・保育所の職員はパート・アルバイトの若い世代を除けばほとんどが50歳以上、若くても40代、30代です。公私連携幼保連携認定子ども園でひきおこされるのは、総非正規化であり全員クビきり、総パート・アルバイト化、総シフト・総ローテーション勤務化です。大都市圏を中心に認証保育所、認可保育所、認定保育園、自治体の業務委託施設を業界トップでのばしているJPホールディング・日本保育サービスの職員の時給800円~900円の低賃金、月額換算10万円そこそこかそれ以下のスタッフの賃金水準を見てください。JPグループのアスク保育園では園長や主任ですら月給18~22万円の契約社員なのです。

 また、この法案は、既に国会で可決成立させられた労働者派遣法改悪法、今国会で成立させようとしている公務員制度改悪法案と一体です。国と地方の公務員労働者の大量クビきり・総非正規化の突破口として、この新法案がすえられています。

 【5】 保育所・幼稚園では、知識と経験を積んだベテランが子どもたちの命と育ちと学び、成長のために果たしている役割、職員全体のチームプレーで占めている位置にははかりしれない大きさがあります。公私連携幼保連携認定子ども園は、そのすべてを跡形なく一掃します。シフト制・ローテーション制とベテランの一掃、ミーティングもひきつぎもままならない職場環境とダブルジョブ・トリプルジョブでもしなければ生計が維持できない賃金等労働条件・・・このもとで何十人百何十人という子どもたちを見守り、集団的に保育していくということなど不可能です。現状でも、目をかたときも離せない3歳未満児の重大事故が頻々と起きています。法案は保育所と幼稚園の職場の安全崩壊をひきおこし、子どもの命をないがしろにするものです。

 【6】 労働者には労働者としての誇り、人間としての誇りがあります。子どもたちの自由遊びの場として、命と育ちと学び、成長を仕事とする保育所・幼稚園の労働者としての培ってきた確信と生きがいと使命感もあります。その保育所・幼稚園の仕事を一身に担って社会を支えてきた私たちから職場と仕事を奪い、次代を担う子どもたちの明日を台無しにし、かけがえのない子どもたちの命の危険にさらすこの法案を断じて認めることはできません。「命よりカネ儲け」「子どもの命と未来よりカネ(企業のカネ儲けと国と自治体のコスト削減)」、これは原発と同じです。

 幼保職場で働く仲間の皆さん!皆さんもたくさんの人が首相官邸前をはじめとした再稼働反対・原発いらないの集会・デモに参加しているはずです。そこでの勢いを増すばかりの私たちはあきらめないこと、命が大事であり、命を脅かすすべてに反対して闘うこと、つながって闘い続ければ決して負けないことを体で心でつかんできました。そのあきらめない闘いを職場で起こしましょう公私連携幼保連携認定子ども園法案に対して、絶対反対の取り組みを幼保職場、組合、地域で始めましょう。職場での団結こそ武器です。職場を守る闘いを反原発・反幼保法案でまきおこしましょう。声をあげましょう!これは政府財界との戦いです。子どもたちの命と未来がかかった戦争です。

 全国保育集会、自治労の組合大会、全労連の組合大会の時期も近づいています。政府と民自公に、財界に幼保労働者の怒りと抗議と法案絶対反対・撤回・阻止の闘いが、再稼働反対のように必ず燃え上がるということを突きつけてやりましょう。野田をたおして原発とめよう。野田をたおして法案を廃案に追い込みましょう。組合中央が絶対反対で徹底抗戦を訴えないなら、組合中央は野田の回し者、野田の共犯者です。徹底抗戦の闘いを職場・組合で呼びかけましょう。幼保法案を通そうとしている連中こそ、原発を推進し再稼働を推進している連中です。連中に私たちと子どもたちの未来をいいようにされてたまるか。再稼働反対・反原発の空前の高揚に確信を持ちましょう。

たった一人からでも「絶対反対」「ストライキ辞さず闘おう」と声をあげよう!

 絶対反対で闘いましょう!職場末端、組合の分会や支部の末端からたったひとりでも「絶対反対」「断固反対」の声を上げることがすべてを決します。新聞には反原発で「ゼネスト辞さず組合は闘うべき」の投書が載りました。一人ひとりの決意と決起が、みんなの同じ想いを引き出し、決意が決意を呼び、勇気が勇気を呼び、またたく間に十万人、二十万人の大規模抗議に拡大していったのです。幼保新法案絶対反対でたったひとりからでも抗議決議やストライキを求める叫びをいま幼保職場の現場からあげることが、今後の大反乱につながります。立ちあがりましょう!

  

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「子どもたちのチェルノブイリ」連載(第44回)地球の生きている華 (第45回) 僕は思い出す

2012年07月09日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修<o:p></o:p>

 抜粋による連載 (第44回)(第45回)<o:p></o:p>

 

【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ 

<o:p></o:p>

・・・【第44回】・・・

地球の生きている花<o:p></o:p>

 
スベトラーナ・シュリャク(女・十三歳)<o:p></o:p>

 第一中等学校六年生 ルニネツ町<o:p></o:p>

 

 人間は宇宙から地球に来たと、時々耳にする。地球は私たちの家である。その地球で生彩を放っているのは、子どもたち。子どもは地球の生きている花である。その彩りのない地球を想像することができるだろうか。いやできない。地球には元始より子どもが生きていくための環境がつくられているのだ。<o:p></o:p>

 

 それぞれの子どもたちにそれぞれの運命があり、それぞれの宿命がある。大切なのは、地球という家によい足跡を残し、両親がくれたよりよいものを、混乱の中で失わないことである。私の生命はつい最近始まった。十三年前に。<o:p></o:p>

 

   私たちの娘 スベトラーナちゃん<o:p></o:p>

 

   あなたは開いたばかりの草の葉っぱ<o:p></o:p>

 

   私たちの愛はあなたと一緒<o:p></o:p>

 

   最初のかわいいお花ちゃん<o:p></o:p>

 

 この未完成の詩は、幼子キリストを抱く聖母マリアのように母が私を胸に抱いている私の最初の写真に、母が書き付けたものだ。これはまるでイコン(※板に書かれた宗教画)のようだ。それは私の最も好きな写真だ。私はその写真を長い間ながめ、すばらしかった幼い日のことを思い出している。その時私はまだ、人生がいかにすばらしいか、よく考えもしなかった。初めて春の地面に咲くか弱い花がやさしい太陽の光に包まれているように、私も両親の抱擁(愛情、優しさ)と愛に包まれていた。<o:p></o:p>

 


<v:shape id="図_x0020_130" alt="002" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_i1025" href="http://suginami.no-blog.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/17/002.jpg" o:button="t" style="width: 165pt; height: 123.75pt; visibility: visible; mso-wrap-style: square;"> <v:fill o:detectmouseclick="t"> <v:imagedata o:title="002" src="file:///C:UsersblueskyAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image003.jpg"> </v:imagedata></v:fill></v:shape>  だが、このか弱い花に、いまいましいチェルノブイリの雨がふりそそいだ。説明できないほどの恐怖と好奇心でいっぱいになり、私は大人たちの話に耳をすまして、彼らの顔や目をじっと見た。特に私をおびえさせたのは、「棺桶代」という言葉だった。私は以前、祖父の葬儀の時にも子のおぞましい言葉を聞いたことがある。私はこのお金でお棺を買い、死ぬのだと思っていた。その当時私は死を少しも恐れず、神様や悪霊やあの世にあるもの全てを見るために死にたいとさえ思っていた。<o:p></o:p>

 

 チェルノブイリの最初の打撃は、今思い出すだけでも、とげのような氷のかけらで私の心臓を貫く。私は学校の式典の途中に気を失い、五分後に意識を取り戻した。母の顔は青ざめ、目は恐怖で琥珀色になっていた。耳にはこれからおこる悲劇を知らせる鐘の音が聞こえてきた。そのとき、私は七歳だった。いつの間にか頭痛があらわれ、関節が痛むようになった。甲状腺炎と診断された。お医者さんたちは「すべてチェルノブイリによってあらわれた、破滅をもたらすニガヨモギの星のせいだ」と結論づけた。<o:p></o:p>

 

 私の明日はどうなるのだろうか。病気になった人は全く別の、全く「特殊な」人になると思う。彼らは世界を違った目で見る。私は今、人生のほこりだらけの道を歩いているような気がする。私は病気のことを考えないことにしている。生命はすばらしい。毎日、新しい、未知のものをいっぱいもたらしてくれる。だが、道はセシウムとストロンチウムのほこりでいっぱいだ。<o:p></o:p>

 

 夕方になると横になって、星をながめるのが好きだ。いつも他の星の同じ年の女の子と出会うのを想像する。私は夢の中で、絶対に彼女に会えると信じている。その時、最初に私が頼みたいのは、地球の子どもに本当の子どもの生活を送れるようにしてほしいということだ。そしていっしょに手をとりあって、私たちの家であるこの地球を飛び回りたい。<o:p></o:p>

 

 分からないように、赤ちゃんたちのところに飛んでいこう。神様は子どもの目を借りてものを言うそうだ。彼らの目に冷淡のままでいられる人はいるだろうか。子どもはみんな、手をとりあい、大人の目を見つめる - 神様が見つめるように。そうしたら地球ではもう誰も決して、自分や子どもたちのために、壊滅的な被害をもたらす放射能など、考え出すことさえもないだろう。悲しみを運ぶ鳥は、その翼で、地球のだれにも触れはしないだろう。そして、永遠に、地球の生きている花は咲き続けるだろう。<o:p></o:p>

 

・・・【第45回】・・・

僕は思い出す<o:p></o:p>

 

ワシーリ―・アゲイチェンコ(男)

 第一四一中等学校八年生 ミンスク市<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

僕は思い出す あの春を

大事な家は すぐ目の前だ

駆けよらずにはいられない

なんて幸せだったことだろう

なんて幸せだったことだろう<o:p></o:p>

 

陽気で朗らかで いたずらだった

今、僕の家は空っぽ

庭は雑草だらけ<o:p></o:p>

 もう誰も魚釣りには行かない<o:p></o:p>

 もう誰も魚釣りには行かない<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

子どもの笑い声も響かない<o:p></o:p>

 春、あの爆発があって<o:p></o:p>

 無数の人が被曝した<o:p></o:p>

 無数の人が被曝した<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

知らないうちに幸せがしぼむ<o:p></o:p>

 またこの手に幸せをつかみたい<o:p></o:p>

 だが、なつかしい麦畑から遠く<o:p></o:p>

 ぼくは今 捕らわれの身<o:p></o:p>

 ぼくは今 捕らわれの身<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

ここはもうまっぴらだ<o:p></o:p>

 病院 お医者さん 看護婦さん<o:p></o:p>

 どうして僕はここへ入れられた<o:p></o:p>

 どうして僕はここに入れられた<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

ぼくは家へ帰りたい<o:p></o:p>

 春に 野原に 湖に 帰りたい<o:p></o:p>

 目に希望を浮かべてるだけでなく<o:p></o:p>

 目に希望を浮かべてるだけでなく<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

看護婦さんが入ってくる<o:p></o:p>

 同時に夢も消えてしまう<o:p></o:p>

 くちびるから 笑みは去り<o:p></o:p>

 残るのは 涙だけ<o:p></o:p>

 感じやすい 青い瞳に<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第43回】わたしはどこから来たの

2012年06月10日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第43回)<o:p></o:p>

 【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ <o:p></o:p>

 

わたしはどこから来たの<o:p></o:p>

 

イリ―ナリア・チェルノバイ(女・十歳)

チェリムスイ中等学校四年生 ブラ―ギン地区<o:p></o:p>

  私のお母さんが「私の運命の中のチェルノブイリ」という作文を書いたノートを見て、チェルノブイリについて知っているの、と私に聞きました。私はとても小さかった頃、ウクライナで原子力発電所が爆発したことは知っていました。それがチェルノブイリ原発という名でした。お母さんの話では、子どもたちは五月になってはじめて、放射能汚染地から遠く離れたところへ連れて行かれたそうです。私たちは夏中、ゴメリ郊外の観光センターにいたそうです。私は、高い松とその松かさを覚えています。

 弟のチ―マは、そのころはまだいませんでした。彼は後で生まれました。彼はとてもかわいかったです。毎年、お父さんとお母さんが努力して私たちを黒海に連れて行ってくれたことをはっきり覚えています。休息し、泳ぎ、日光浴をするためです。列車の窓からは、楽しい、いろんな色の、まだら模様の畑や、煙突のある工場、山のブドウ畑、数多くのおもしろいものがたくさん見えました。しかし、一番よかったのは、海です。夜でも、天気がよくなくても、海に行きました。海の音を聞きに行くのです。天気がいいと、波は音もなく砂を洗い、私のはだしの足をなでてくれます。怒ったネプチューンが自分の娘たちの髪を引き抜くように、岩に海藻がたたきつけられています。そよ風が、夜の鏡のような海から涼しさを運んできます。山には明かりがちらちらしています。ある日、イタリアの船を見ました。それは空に星のように、光っていました。

 人はどこにでも住んでいます。ただ、私の住んでいるブラ―ギン地区だけは、空き家がたくさんあります。窓ガラスはやぶれ、人が長い間住んでいません。人は死んだか、どこかに行ってしまいました。恐ろしいことです。まるごと無人の通りもあります。お父さんが「チェルノブイリの事故までは、手を出すと、そこから風が吹いてきた」と言ったことがあります。私は小さいからなのでしょうか、その意味がよくわかりません。私とチ―マは、お父さんとお母さんといっしょにいるのが大好きです。両親がよく病気をするのが残念です。なぜなら、もうすぐ海へ行くし、私はチ―マに本を読んであげることができないからです。私は目が悪いのでたくさん本を読めません。私はメガネをかけていて、小児眼科専門のサナトリウムに治療に行ったことがあります。<o:p></o:p>

 よかったこともあります。牧師さんが私たちをドイツに招待してくれたことです。そこにまる二日かかって行きました。私はベラルーシがとても有名だとは知りませんでした。ポーランドの田舎にもベラルーシノ旗がありました。ドイツの出窓もベラルーシの旗の色でぬられていました。私たちは公園で遊ぶのを喜びました。白鳥が川を泳いでいました。ノロ(※シカ科の小動物)が道路の上を走っていました。ドイツ人は動物が大好きです。動物がよく太っています。<o:p></o:p>

  ベラルーシの動物はかわいそうです。森の中では、放射能入りのドングリを食べ、汚染された草を食べています。たぶん、かれらも人間と同じように病気になっていることでしょう。鳥のウソが、長いこと冬になっても飛んできません。ひょうっとしたら、チェルノブイリの嵐が吹き飛ばしたのでしょうか。コウノトリもあまり見かけません。<o:p></o:p>

  私のおじいちゃんとおばあちゃんは、森のそばにある小さな村に住んでいます。とても美しいところです。春にはドニエプル川の水が増えると、動物たちは人家に近い島に集まってきます。彼らは人間がボートで村に運んでくれることを期待しているのです。ウサギだったらいいけど(おじいちゃんは一度助けたことがあるそうです)イノシシだったらどうするのでしょう。ヘラジカは泳ぐのが上手です。ヘラジカは水がひくと、森へ走り去ってしまいます。松林に隠れてしまいます。おばあちゃんと花を摘みにいったとき、一度だけ、赤毛の子ぎつねを見たことがあります。<o:p></o:p>

  私は、たき火で焼いたサーロとドニエプルで捕れた魚をつかったスープが好きです。私はこんなことを書くのが好きです。ここは、私の心のふるさとになるでしょう。自然も人間もここに長く住めるようにしてほしいです。恐ろしい原子キノコが生えないでほしいです。きれいな水を飲みたいです。私の両親は孫ができるまで生きたいと思っています。私が大人になって、私の子どもたちが放射能を気にしないでいいようになってほしいです。<o:p></o:p>

 

 

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第42回】二つのひまわり・・・・二つの太陽

2012年06月04日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第42回)<o:p></o:p>

 

【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ <o:p></o:p>

 

二つのひまわり・・・二つの太陽<o:p></o:p>

 

リリア・アダモ―ワ(女・十六歳)

ピンスク職業技術生徒 織物訓練生<o:p></o:p>

  一九八六年の夏のことだ。夏休みの前に、レニングラードに住んでいるおばさんから電話があった。彼女は興奮し泣きながら、「ベラルーシ人はみんな死ぬんだってことがここでは言われているの。一カ月でもいいから子どもたちを私のところに送りなさい」と言った。父は休暇をとり、私と弟をレニングラードのおばさんのところに連れていった。私たちは近くの同じ年頃の子どもたちとすぐに仲良くなった。そこでの生活は本当に楽しかった。しかし、ある日、弟とボール遊びをしていると、何人かの男の子たちが近づいてきて、私たちを指差して笑いながら言ったのだ。

 「やーい。チェルノブイリの坊主頭。暗闇でも光ってる」

 私たちは彼らと一緒に自分たちを笑うべきか、彼らに腹を立てるべきなのか分からなかった。ただ、私たちの心が傷ついたのは確かだ。私たちは自分の罪が何なのかわからなかったが、自分たちが犯罪人に思えた。そんなことがあって、私たちは外で遊ぶことが少なくなった。家に手紙を書いて、早く私たちを連れて帰ってと頼んだ。<o:p></o:p>

  新学年になると、子どもたちの中に頭痛が始まり、失神したり、気分が悪くなったりするものが出てきた。その原因はただ一つ、放射能だ。<o:p></o:p>

 その一年後、私の家庭に不幸が訪れた。<o:p></o:p>

 母はゴメリ州出身で、親戚はみんなそこに住んでいる。そこのコスチュコフカから、コーリャおじさんが死んだという最初の訃報が届いた。その八ヶ月後、次はダ―シャおばさんが死んだと便りがあった。また放射能が原因であった。ホイニキには母のいとこが住んでいるのだが、彼女から「病気がちなのでホイニキに来てほしい」という手紙が届いた。母は私を連れていくのをためらったが、私が母を説得した。

私たちはホイニキに行った。この町については、たくさん語られ、書かれている。多分、以前は美しい町だったのだろう。今ではあちこちに打ち捨てられた家がある。窓は釘づけにされ、庭はイラクサやアカザの雑草が茂っている。涙なしには見られない。窓を十字に板を打ち付けられた家は「みんなどこにいるの。返って来て。この家に住んで。待っているのよ」と叫んでいるようだった。<o:p></o:p>

 

 もうこの土地では、子どもの笑い声は聞けないのだろうか。疲れた旅人を夏の暑い太陽から守る大きな木は生えてこない。打ち捨てられた一軒の家の雑草の中で二本のひまわりが二つのおひさまのように立っているのが、突然、私の目に飛び込んできた。

二つのひまわりの茎は細く、花は太陽に向かっていた。それはまるで生命に向かって立っているようだった。よりよいものを求める希望の光に見えた。私は確信した。「すべてが失われたわけではないのだ。ここには生命が戻って来た。私も力を取り戻さなくては」と。

母はいとこに、私たちのところに来るように説得した。しかし、おばさんは断った。でも今では、おばさんの子どもたちが夏休みにはうちに来るようになった。

ホイニキには数日しかいなかったが、そこで見たものすべてが忘れられないものになるだろう。

ホイニキには旅の後でさえ、私は、事故が私たちに与えた不幸について完全には認識していなかった。

すべての苦しみ、すべての損失がわかったのは、「チェルノブイリの子どもたち」というテレマラソンを見てからだった。私はテレビのそばを離れることができなかった。恐ろしくなり、枕に顔をうずめ、何も見たくなかった。母は一日中泣いていた。しかし、人間はすぐ慣れてしまう。八年もたつと、そんなに怖くはなくなる。<o:p></o:p>

 人間には、いつも希望が必要である。最後まで残るのが希望である、というのはいいことだ。<o:p></o:p>

 テレビや新聞で、将来はどうなるのかがよく報道される。私は「そうじゃない。命が戻って来ているのを、知っているし、信じている」と大声で叫びたくなる。

私はまだ十六歳だ。私の望みは、まだかなっていない。チェルノブイリの事故の黒い翼が私を襲ったことを考えると恐ろしい。私の人生はこれからだ。私に子どもができる。彼らはどうなるのだろう。私は気分が悪い。いつもめまいがする。でも、私は、人生はとどまることがないことを、希望し、信じて生きる。

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【緊迫する福井・大飯原発再稼働攻防情勢】

 週明け6月4日、細野原発相が福井県庁を訪れる。目的は西川知事との会談だ。、西川福井県知事から「大飯再稼働の地元の了解・同意」を得て、最終的に政府の決定に進むためにだ。西川知事が、地元労働者住民と子どもたちの命を国と原子力ムラ・原子力マフィアに売り渡す「了解・同意」は絶対に許されない。再稼働をめぐる攻防は最大の決戦局面に入った。決めるのは政府でも県知事でもない。福井県民をはじめとする私たちだ。いっさいは私たちの怒りと行動にかかっている。

 

 120603poster

 福井現地では6月3日、上記チラシが呼びかける緊急行動が闘われている。大飯原発再稼働絶対阻止へ全力で闘おう。6・17いのちが大事!今なぜ再稼働?福井でつながろう福井県民集会に集まろう。経産省前、首相官邸前、関電大阪本店前、はじめ全国の地域・職場・キャンパスで大飯再稼働阻止の怒りの声をあげよう。福井現地と連帯して杉並デモ(6月17日:14時、阿佐ヶ谷けやき公園集合)に参加しよう。6月23日(土)18時半杉並産業商工会館3階講堂:すべての原発を廃炉に!フクシマの怒りと思いを一つに!6・23杉並集会に集まろう!

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『子どもたちのチェルブィリ』抜粋・連載【第40回】チェルノブイリとは

2012年05月21日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

抜粋による連載(第40回)<o:p></o:p>

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 チェルノブイリとは・・・・・・<o:p></o:p>

 オリガ・セメンチュック(女)第二九中東学校十一年生 ゴメリ市<o:p></o:p>

 わがスラブ民族の大木に 

 チェルノブイリの有刺鉄線が  巻き付けられた<o:p></o:p>

  タイシア・メリチェンコ<o:p></o:p>

  チェルノブイリとは、通学路で見る露に濡れたアスフアルトの道、空、木々、そこで騒いでいる鳥など美しいものすべてが、死にさらされていることを信じないように自分をだまし続けることなのだ。つい最近まで、生命のシンボル、そして天の恵みだった夏の雨が、今では毒され、とても危険なものになったことを。以前は、できるだけたくさん吸うようにと医者がすすめた大気が今は病気と死をもたらすことを。そのうえ、大地とすべての生き物を温めていた黄金の陽光が今では無慈悲にも、放射線を浴びた人間の病気を加速させ致命的な打撃を与えることを。<o:p></o:p>

  チェルノブイリとは、ベラルーシ文学の授業中に、それまでは誰もが知らなかったような作品が読まれることである。これらの作品のすべてが、一つの共通のテーマ・・・・・チェルノブイリの事故でまとめられている。これらの本はすべて、恐ろしい死の現実を鋭く理解させる。<o:p></o:p>

  プレーシャ・アシベンコの「不吉な星」は、心の痛みなしには読めない。ことに、チェルノブイリで致死量の放射能に汚染され、死の静寂が漂っている村から脱出してきたゴメリの詩人の作品は。<o:p></o:p>

  チェルノブイリとは、物理の教科書で、放射能から身を守る方法を読むことである。しかしそこには、「(放射能を帯びた)施設から遠ざかる」ことしか書かれていない。こんなばかばかしい本を読むと、ずたずたに引き破り、この本を作った人の目をのぞき込みたくなる。 

 チェルノブイリとは、恐ろしいほどの苦痛であり、魂の退廃のことである。「施設から遠ざかる」という助言通りに、ロシアにある町に療養に行くとする。そこでは同情や援助ではなく、冷淡な敵意にさえ出会うのだ。そこでは、あなたと同年の子どもの両親たちが、「チェルノブイリの坊主頭」たちが自分たちの一人娘に何か危害を加えるのではないかと恐れている。

 

 チェルノブイリとは、贖罪のゾーンのことである。これは三十キロゾーンといわれるものとは別物である。ベラルーシの大地は長いことゾーンと呼ばれることだろう。私のふるさとの大地はすべて、刻印されてしまったのだ。チェルノブイリの事故のあと、外国人も含め多くの人がベラルーシに来るのを避けるようになった。<o:p></o:p>

 チェルノブイリとは、恐怖、未来に対売るあらゆる恐怖のことである。チェルノブイリの体験は、森やきれいな水や、空までをも疑わせる。いま、医者に行くのが恐い。だって、検査のあとで医者から何を告げられるのか、放射能の目に見えない攻撃は、すぐにはふりかかってこないにしても、確実に続いているからだ。<o:p></o:p>

 チェルノブイリとは、短期間滞在する外国人が、なんとか恐ろしさを隠した顔で、「放射能の数値が通常の何千倍もあるところでどんな暮らしをしていますか」と、質問することである。もちろん彼らが、私たちを理解することはできないだろう。以前、事故の後で、ある政府の幹部が何を考えていたか、私たちが全く理解できないように、彼は言った。「わが国では、自然と人体に対する放射能の影響について、短期間でも長期にわたっても、多くの経験が蓄積され、普遍化されている。ゆえにチェルノブイリには放射能の悪夢は泣く、被害の起こることはないだろう」と。<o:p></o:p>

 チェルノブイリとは、第二次世界大戦よりもっと恐ろしい本当の戦争のことである。人類史上に起こった戦争の中で最大のもの、ベラルーシの大地に冷酷な敵が荒れ狂っている。人殺しは見えないし、いつ彼と出会っているのか感じないし、どう戦っていいのかもわからない。でも、この見えない悲惨な戦闘にも多くの英雄がいる。消防士、飛行士、労働者、職員など、原発事故後のきびしい状況と戦い、自分の健康や生命までも犠牲にして私たちを救ってくれた人々である。 

チェルノブイリとは、絶望や不気味な予感がまるで鋼鉄のペンチのように心を締め付けること。この心の痛みと無力さから、全世界に向かって叫び、髪に憐みを乞いたくなることである。神様、どこにいるのですか。あなたは何の罪でベラルーシの人々にこれほどの苦悩と苦痛を授けられたのですか。

 

チェルノブイリとは、多分、地上で行われたすべてのことへの母なる大地の恐ろしい復讐である。私たちの父や祖父たちの償うことのできぬ罪業、母なる大地への数十年にわたる愚弄、果てしない偽りに向けられたものだ。私おたち自身が七十年も取りつかれたようにチェルノブイリへ向かって歩み続け、原子炉の爆発へとたどり着いた。他でもない、われわれ自身がこの悲劇の罪人なのである。 


  

 それでも私は、チェルノブイリ事故が、わが祖国の歴史の最後の一ページにならないように望んでいる。私には夢がある。いつの日か、せめて私ったいの孫の時代には、川や湖が再び甦り、雨もまた命を与えてくれ、そして、太陽は再び魔法の力で、私の大切な疲れ果てた大地をやさしく暖めてくれるという夢が。私はひたすら夢見ている。それでなければ生きてはいけない。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載 【第39回】鏡さん 話しておくれ  

2012年05月17日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第39回)<o:p></o:p>

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 鏡さん 話しておくれ<o:p></o:p>

 

ビクトリア・ルゴフスカヤ(女・十六歳)
第七中東学校十年生 スルツク町<o:p></o:p>

  

   遮断機のむこうに 雲がたれこめている 

   ニ十世紀は人類の行き止まりなのか

              イーゴリ・シクリャレフスキー<o:p></o:p>

  それは、そうとう前にあったことだが、私は今でもその日のことを覚えている。四月の終わり頃で暑かった。草は青く茂り、乾燥した風が吹いていた。穏やかな春の日、そんな日に誰が死の粒子のことを想像できたろう。全ての生き物を殺し、害を与える物質が私たちのすぐそばの空中に漂っていたなんて。いつものように友だちと一緒に遊んでいた私は、家のそばの草原で、小さな手鏡を見つけた。八歳の女の子にとって、それは何とうれしかったことか。その後、おばあちゃんが、焼きたてのキャベツ入りのピロシキを食べるようにと、私を呼んだ。そのおばあちゃんはもういない。けれどその日見つけた鏡は、今でもカバンに入れて持ち歩いている。私はいつもその鏡をのぞきこみ髪をなおしている。<o:p></o:p>

  太陽、草の鮮やかな緑、ほほ笑むおばあちゃん、キャベツ入りのピロシキ、これらはすべて過去のものになってしまった。「チェルノブイリ」という恐ろしい一語がそれを打ち消してしまったのである。私が、最初にチェルノブイリが本当に恐ろしいものだと理解したのは、隣ンノおばさんの話からだった。おばさんは涙ながらに、彼女の姪の葬式に行った話をした。彼女の妹の小さな娘は病院で白血病のために死んだそうだ。この小さな女の子にこんなに早く死が訪れることを、誰が知っていただろうか。この子が知るはずだった初恋の苦しさと喜び、母親になる幸せ、生きる幸せ、何も知らないで死んでいくとは、この子自身も思いもよらなかっただろうに。<o:p></o:p>

  

  「ママ、お人形さん、買って。べーラちゃんとおなじもの」<o:p></o:p>

 ある日、女の子は母親にこうおだねりしたそうだ。<o:p></o:p>

 かわいそうにその子の母親はこの一人っ子の病気で、すっかりふけ込み、わずかのお金も高価な薬のために使ってしまっていた。こんなことさえなければ、母親はたぶん娘にこう言っただろう。「でも高いのよ」と。けれども病床の娘の欲しがるこの人形が、死の淵にいる子どもに希望を与え、元気づけるのであればと母親はいとしい娘に人形を買い与えた。しかし、そのかいもなく女の子は小さな指で人形を抱きしめたまま死んでいった。<o:p></o:p>

  私の母は隣のおばさんを長い間なぐさめて、薬酒を飲ませた。それから母は私に部屋から出るように言った。<o:p></o:p>

  この日、私ははじめてチェルノブイリの意味がわかった。それは放射能であり、白血病であり、ガンである。子どもたちはそれによって死んでいく。何の罪でこうなるのか。このような子どもはどれだけいるのか。私の知り合いが、悲しいことに有名になってしまったミンスクのボロブリャン(腫瘍学研究所があるところ)で実習をしたときのこときことを話してくれた。<o:p></o:p>

 「病院を駆け回っている子どもたちはまるで宇宙人のようだ。髪はなく、まつげもなく、顔には目だけ。ある男の子は骨に皮がついているだけ。体は灰色だった。最初は避けていたが、あとでは慣れてしまった」<o:p></o:p>

 慣れた・・・・。私たち皆が慣れてしまったら、この先どうなるのだろう。誰かの怠慢で原発が爆発し、海や川や空気を汚し、人が死んでいくのに慣れてしまうとしたらどうなるのだろうか。<o:p></o:p>

 十七世紀 殺された人

 三三〇万人<o:p></o:p>

 十八世紀に殺された人<o:p></o:p>

 五二〇万人<o:p></o:p>

 十九世紀に殺された人<o:p></o:p>

 五五〇万人

十世紀 四〇〇万人以上<o:p></o:p>

 ヨーロッパだけで<o:p></o:p>

  モギリョフ出身の詩人イーゴリ・シクリャレフスキーがこの詩を書いた。(詩集『平和についての言葉』)一九八四年)。彼は、この恐ろしい数字にどれだけの人命が加えられるか知らなかった。四千万人もの尊い生命が。<o:p></o:p>

  何人がガンで死んだのだろう。何人が白血病で死んだのだろう。このそっけない統計のうちには何があるのだろうか。何千、何百万人という人々が不幸で打ちひしがれた。学校の物理の授業で先生がチェルノブイリ原発事故の被害について話してくれた時、私は先生の話にショックを受けて、ノートに絵を書き遺した。八本足の馬、尾が二つのキツネ、巨大なトマト・・・・・。その頃の私にとっては、たぶん、それはすべて空想によるものでしかなかった。だが、つい最近、雑誌の『アガニョ―ク』の古い号をパラパラめくっていた時、私は突然凍りついてしまった。これは何だ。やせこけた青白い顔に大きな苦痛の目をした子どもの写真。日本の九州の、生まれつき手のない盲目の小さな女の子の写真だった。この子の母親は原爆病で死んだそうだ。ああ、いつの日か、私の愛するベラルーシの子のこんなふうにうつろで懇願する目に、雑誌の中で出会うことになるのだろうか。<o:p></o:p>

  もっと恐ろしいことがある。ある種の人たちは他人の不幸をしり目に金儲けをしている。ある者は汚染ゾーンから持ってきたトマトを市場で売り、またある者は異常にきれいで、熟した、大きいリンゴをバケツごと売りつけている。家と財産を放り出して逃げだした人々がいる一方で、トラックでその家に乗りつけ、家具、じゅうたん、クリスタルガラスの花瓶を盗み出しては、町で売りさばいている者がいる。こんなふうにチェルノブイリの闇商売は続いているのだ。このような不道徳な心ないことが起こる原因はどこにあるのだろうか。飢えや貧困がこの人々を罪の道に走らせるのではあるまいか。<o:p></o:p>

 「人の良心は清くあるべきだ」詩人ボズネセンスキーのこの訴えは、今の私たちにこそ必要なものだ。人々の良心は、恐ろしい戦争中でさえ申し分なく残っていた。当時は、自己犠牲の崇高な精神や、私心のない禁欲主義が要求され、それが発揮されたものだった。他人の不幸で金儲けするこの成金たちはどこから現れてくるのだろう。この寄生虫どもを人間と呼んでいいものだろうか。「人であるということは、自分自身の義務を意識することである」とフランス人のサン・テグジュペリが言った。その通りだ。危険に直面するとき人の無責任と弱点は、全人類に災害や事故や滅亡をもたらす。まだ遅くない。踏みとどまって、ツルゲーネフの小説に出てくるバザーロフのように行動しよう。「自分は寺院ではない。作業場である。人はそこの働き手だ」と。何年間、人はこのような「働き手」だったのだろうか。有名なポーランドの批評家スタニスラフ・エジ・レッツが言ったことを思いだしてみよう。「人類の手にすべてがある。だからこそよく手を洗うことだ」と。<o:p></o:p>

 

 チェルノブイリ。現実と、そして私の想像。すべてが混じり合って、区別がつかない。穂が焼けこがれた畑、鉛色の雨雲でおおわれた重苦しい空、鋭い叫びで静寂を破って旋回する孤独のカラス。チェルノブイリ・・・・。ずいぶん昔だった・・・・。昔だろうか。残念ながら、チェルノブイリの悲劇は続いている。それをいつも思い起こさせるのが、、小さく丸い鏡。それを見つけたのが、あの忌まわしい日、一九八六年四月二十六日。<o:p></o:p>

                        <o:p></o:p>

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載 【第38回】ゾ―リカ・ベネーラのうた

2012年05月14日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第38回)<o:p></o:p>

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 

ゾ―リカ・ベネーラのうた<o:p></o:p>

 オレグ・ポノマリョフ(男・十一歳) ゴールキ町第一中東学校七年生

 

  

 僕が住んでいるゴールキは、モギリョフ地方の西にある緑の多い快適な町です。このあたりには、チェルノブイリの悲劇はそんなにありませんでした。しかし、チェルノブイリの悲劇が全ベラルーシ人をおそっていることはよく知っています。原発が爆発し、ベラルーシに苦痛が居座ってしまったとき、僕は四歳でした。被災者の不幸や痛みを少しだけでも理解できるようになったのは、学校に入学し、読み書きができ、歌を歌うようになってからです。祖父は放射能汚染地図を見せてくれ、何千人もの人が子どもと一緒に脱出したと話してくれました。<o:p></o:p>

  僕の学校にアリョーシャ・ポリセンコという女の子がいます。彼女は両親と一緒にブラ―ギン地区のコルマリンという町に住んでいました。そこはチェルノブイリ原発から三十二キロのところにあります。事故のとき、アリョーシャは妹と一緒に外にいたそうです。放射能はベラルーシに向かって飛んできました。アリョーシャのママはすぐに姉妹を連れ出し、その日のうちにおばあちゃんの住むゴールキに連れていきました。ゴールキは汚染されていなかったので、彼女たちを不幸と死から遠ざけるためにはとても賢明な判断でした。しかし、彼女のママは、放射能でいっぱいのコルマリンに戻ったのです。そのために治らない病気や死に脅かされることになりました。<o:p></o:p>

  アリョーシャと妹はおばあちゃんのところに残りました。彼女はママやパパに、早くここに来るようにと手紙をたくさん書いたそうです。アリョーシャは、ママから頭をやさしくなでてもらい、両手で静かにあやしてもらうのが大好きでした。そして、ママの笑顔がとても好きでした。しかし、原発事故の後、ママの笑顔が少なくなりました。ママに会うこともめったになくなり、寂しくてしかたがありませんでした。<o:p></o:p>

  アリョーシャの両親は、ちょうど一年間ゾーンに住んでいましたが、ついに脱出する決心をしました。ママの姉妹がグルジアに住んでいたので、家族全員でそこへ引っ越したのです。しかし、そこでの生活も長くは続きませんでした。というのは戦争が始まったからです。銃撃や人殺しが始まり、子どもたちも殺されました。外に出ることもできません。アリョーシャの家族は恐怖と涙の日々を送っていましたが、やはりがまんできず、ゴールキに帰ることになりました。パパは郊外のコルホーズに就職が決まり、そこの寮に住むことになりました。それは彼にとっても苦しいことでした。いったいいつになったら、あたりまえの生活に戻れるのでしょう。だれがそのことを保証してくれるのでしょう。<o:p></o:p>

   苦しんでいる人々をどうしたらいやしてあげられるのでしょう。ろうそくの灯のような希望でもいいから与えることができたらと思っています。もしかしたら、歌なら少しの間だけでも苦しみを忘れさせることができるのではないでしょうか。僕は舞台で歌っているときはいつもこのことを考えています。<o:p></o:p>

  母の話では、僕はまだおしゃべりもまともにできない、一歳半のときにはもう歌っていたそうです。幼稚園では、朝の集会のとき、合唱に参加していました。その後、音楽学校に入学し、尊敬するアレクサンドル・パシャリーモフ先生から音楽や歌を教わりました。そして彼と一緒にシュクロフ、ミンスク、ポロツク、ドリーピンの町にコンサートのために出かけました。サンクト・ペテルブルグで開かれた子ども軽音楽国際コンクールでは、ベラルーシの名誉をかけて参加し、二位に入賞することができました。<o:p></o:p>

  特に感動したのは、ミンスクでの慈善コンサートでした。そのコンサートは孤児、障害を持つ子ども、大家族の子ども、チェルノブイリから移住してきた子どもたちのために開かれたものでした。僕は、歌を歌うときには、力いっぱい、心から歌うようにしています。その時も、そうしました。観客が少しでも喜びと希望を持てるように願って歌いました。僕はこのようなコンサートをもっと開いてほしいと思います。不幸な子どもたちの心は、コンサートの時だけでも暖かくなるでしょう。コンサートではお金が集められ、子どもたちの衣服や食料を買うために使われます。彼らは生活に困っています。たぶん多くの子どもたちの病気は完治しないでしょう。誰が悪いのでしょうか。原発でしょうか。それとも無責任な大人でしょうか。<o:p></o:p>

  ミンスクで開かれた第一回ベラルーシ語再生の日の記念コンサートのときです。そこで僕は、「ゾ―リカ・ベネーラ(空を焼く明星)」の歌を歌いました。歌い終わったあと、拍手が鳴りやみませんでした。舞台から退場すると、白髪の背の高い男性が近づいてきて、僕の小さな手を握りしめました。その男の人は目にいっぱい涙を浮かべ、目をしばたいていました。。その人は詩人のニ―ル・ギレビッチさんでした。僕の愛するこの抒情的な歌に彼は感動したのです。僕はこのことに強い感銘を受けました。この時のコンサートを想いだすと、僕の目の前に見えてくるものがあります。チェルノブイリの原発の上に出現した黒い雨雲が、僕の祖国ベラルーシを次第に覆い尽くしています。でもその上には明星(ベネーラ)が輝き始めたのです。その暖かくやさしい光は、雨雲を貫き、大地のすみずみを照らし、人々の心を満たしてくれます。チェルノブイリの雨雲のため、暗黒に身を沈めていた全ての人が突然よみがえり、天を仰ぐようになりました。そこにはもう雨雲などありません。夕焼けの空には、明星が堂々と輝いています。僕はこのようになってほしいと切に願っています。このようなことはただの願望で終わってしまうかもしれません。しかし、僕は何度も何度も歌い続けます。歌をきくことによって、人々が少しでも楽になり、大きな不幸から抜け出すことができたらと思っています。<o:p></o:p>

 ///////////////////////////////////////// ////////// トピックス    //////////////////////////////////

復帰40年5・15県民大会に 『怒 福島隊』の幟

 福島から国分俊樹さんが沖縄ー福島の連帯訴え

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5月13日沖縄県宜野湾海浜公園野外劇場前

  1972年5・15沖縄「施政権返還」から40年。5月13日復帰40年県民大会が、5・15平和行進実行委員会と平和運動センターの主催で平和行進3コース6000人を先頭に宜野湾海浜公園野外劇場前を埋め尽くす大結集で開催されました。  

 

  県民大会では、発言に立った衆議院議員の照屋寛徳さんは、「今年の県民大会の特徴は反原発、脱原発の言葉が掲げられたこと、『怒 福島隊』ののぼりも見えています」と福島からの参加を紹介し、会場全体から大きな拍手が湧き起りました。

 

  平和行進の南コースの本土代表として平和行進の最先頭に立った国分俊樹さん(福島県平和運動センター事務局長、福島県教組)は、「何から何まで真っ暗闇で筋の通らぬことばかり・・・・どこに福島の夢がある・・・・」と思いを込めて鶴田浩二の歌(『傷だらけの人生』)を歌いました。そして「福島と沖縄を苦しめていることの根っこはひとつ。違いは沖縄の地はまだまだ人間の手でなくせるが、福島の放射能は人間の手ではなくせないということ。この社会に風穴を開けるために沖縄から基地をなくしましょう。それが社会を変えていく福島の支援になる」と呼びかけました。

 

 県民大会実行委員長の崎山嗣幸さんは「全国で共闘の輪を広げ、国策で押し付けられた基地を沖縄からなくし、原発のない日本を目指していくことが重要だ」と訴えました

                           

 国の沖縄売渡しと米軍基地押しつけのもとで苦しみながら闘い生き抜いてきた沖縄、国の原発政策と福島原発事故以来の棄民化政策と放射能の危険のもとで苦悩し生き抜くために懸命に闘っている福島、この沖縄と福島の怒りがひとつになった瞬間でした。基地と人民は共存できない!原発(核)と人民(人類)は相いれない!これは命と未来をめぐる闘いです。「基地はいらない!沖縄を返せ」「原発はいらない!ふるさとを返せ」。「死すべきは基地だ!労働者は死んではならない」「なくすべきは原発だ!労働者住民は死んではならない」。

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載 【第37回】永久に続くのだろうか 

2012年05月12日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第37回)<o:p></o:p>

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 永久に続くのだろうか<o:p></o:p>

 タチアーナ・オクチォノック(女) ラドシコビッチ第一中東学校九年生<o:p></o:p>

 

 ふるさとの家、ふるさとの村、ふるさとの町、そして祖国。生まれた土地への愛着が芽生えるのは、いつの頃からだろう。それはおそらく、音や音楽、そして匂いなどのイメージなどを感じ始める幼い頃だろう。<o:p></o:p>

  ふるさとの思い出は、苦しいときに人を慰め力づけてくれる。どこにいても、どこに住んでいても、幸せだった子どもの頃の思い出は、夢の中でさえ人を裏切りはしない。私はよくキノコ狩りや木々の下のやまどりの夢を見る。夢の中でもキノコを注意深く採って、やさしく小かごに入れるのだ。<o:p></o:p>

 今私はふるさとの森へ行くと、たまらない懐かしさとともに、正反対の感情が湧いてくる。なぜなら、森はチェルノブイリの死の影に侵されているのだから。私はチェルノブイリをテーマに詩を書いた。<o:p></o:p>

 チェルノブイリ 原子のパ―ティ

私のふるさとへの 死の贈り物

汚染地図には おまえの残した爪痕が見える

学校のノ―トに書いた地図には

真っ白なページに 無数のしみがついている

どこをめくっても 死に絶えた川ばかり

どこをめくっても 破壊された森ばかり

そして だれも いなくなってしまった村

独り身の老婆たちの もの悲しい泣き声

こんなことが 永久に続くのだろうか

この不幸からの救済はないのだろうか<o:p></o:p>

  チェルノブイリの悲劇、それは偶然の事故ではなく、私たちの生きてきた過去の当然の結果。善も悪もすべて人から始まる。爆発の原因を調査した専門家もこう結論付けた。そして人の存在は技術と切り離してはありえない。原子炉の導入を実現させたアカデミー会員も、原子力発電所を経済的に設計し、建設した人も、そして四月の夜に実験を行った人も。<o:p></o:p>

   人が発明したもので、放射能より恐いものはないだろう。考え始めると本当に恐ろしくなる。私たちが歩き呼吸している大地には、健康に対し致命的なほど危険なチェルノブイリの毒がすっかり染み込んでいるのだ。汚染に区の人々は、放射能という大蛇にとってのウサギのようなものだ。<o:p></o:p>

  昔から受け継がれてきた、この地区の生活文化は断たれてしまった。汚染された土地では安全な作物は獲れない。だからその土地は、すべて森や茂みとなる運命にある。でも安全な餌がなければ、安全なミルクや肉はいったいどこから手に入れるのだろうか。このようにすべてが関係しあい、つながっているのだから。<o:p></o:p>

 現在では科学が、放射能と白血病や甲状腺ガン、肺ガンとのあいだの因果関係を明らかにしている。このことは科学者がラットの実験で証明した。<o:p></o:p>

 放射能の被害は、食品汚染という形でベラルーシに拡大しているという。でも共和国の人々は、汚染地区で生産されたものを食べている。私たちが今まで気づかなかったようなことが、秘かに行われていたのだ。でも今多くの人は、このことに気づき始めた。(最近、テレビ番組『真夜中の前と後』で確認された。)<o:p></o:p>

 ベラルーシにあるいくつかの食品加工工場は、以前はラベルに住所を印刷していたが、今では、あいまいな「アグロプロム(農工複合生産)」という文字に置き換えられてしまった。また、あからさまな偽造の場合もある。たとえばゴメリで生産されているマヨネーズの缶に、モスクワ製と印刷したラベルを貼っている。今ベラルーシの人は、自分たちが食べる食品を選択することができなくなっている。チェルノブイリ事故が招いた恐ろしい結果について、新たなことを見たり聞いたりするたびに心が痛む。<o:p></o:p>

 この作文を書いている今は春だが、私は秋の庭の情景を思い浮かべている。枝にたわわに実る大粒でみずみずしいリンゴは、キラキラとばら色に輝いている。でもそれは、ただ地に落ちるだけの運命なのだ。このリンゴには、ストロンチウムやプルトニウムがいっぱい詰まっているのだから。<o:p></o:p>

 自分たちの土地が汚染地区とわかった人たちは、どんなに辛かったことだろう。年老いた人の多くは、死ぬまで村に居残ることを決め、それ以外の人たちは、子どものために移住を決断した。詩人のアントニ―ナ・ホテンコは、チェルノブイリの悲劇を書いた詩の中で、人々の悲嘆にくれた感情をこう表している。<o:p></o:p>

  老婆のもの言わぬ手が スカーフを握りしめる

 白い大地の上には 白血病の悪魔が潜む<o:p></o:p>

 あの悲劇の四月の朝から、八年が過ぎた。国家最高ソビエトは、チェルノブイリ事故被災者保護の法律を採択した。全世界の事前組織や親切な人々が、わが共和国に大きな援助をしてくれている。でもチェルノブイリの悲劇は、人々の心を痛めつけている。人々は神経質で怒りっぽくなっている。<o:p></o:p>

 人々の心が優しくなり、お互いに助け合うようになってほしい。共和国の指導者が食品の品質管理を行い、安全な食べ物が店の棚に並ぶようにしてほしい。放射能に汚染された場所でも安全に仕事ができる方法を紹介するエコロジーセンターを設立しなければならない。このセンターによって、国家的な規模で、発病の最新の予防法が広く伝えられなければならない。そしてセンターが人々に助言を与え、永く生き延びる手助けをしてもらいたい。<o:p></o:p>

 チェルノブイリの死の灰が、私たちの胸をえぐる。この灰は、私たちの痛みであり、歴史であり、忘れてはならない記憶なのだ。<o:p></o:p>

 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第36回】聖なる大殉教者 ★転載:福島に診療所を

2012年05月03日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

 抜粋による連載(第36回)

 第五章    時限爆弾 <o:p></o:p>

 

聖なる大殉教者

  ビクトリア・コズロ―ワ(女)

第一中東学校十年生 モズィリ市

 

ポレーシェの大地に

ミンスクに

モギリョフに

誰かが わざと

不幸を なしたのか

            ウラジミール・パブロフ<o:p></o:p>

  聖書に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と書かれています。プリビャチ川上流の核爆発の恐ろしい事実は、被災地区の住民にはすぐ明らかにされませんでした。明らかになったのは、その暗黒の日から数年たってからでした。人々は、子どもや家族の運命への苦悩と不安でいっぱいになり、放射能のばらまかれた土地に、一日でも、いえ、たった数分でも住んではいけないことを、ようやく認識しました。しかし、この恐ろしい真理を認識しても、ポレーシェの人々は自由にはなりませんでした。<o:p></o:p>

  チェルノブイリでの突然の事故は、一瞬にして未来を全部消し去り、鉛のような重さで人々を抑えつけました。ここ数年、子どもが甲状腺腫瘍の病気にかかる割合がこれまでにない高さで記録されています。二十二倍の高さです。このただそっけない統計の影に、どれだけの具体的な苦しみがあるのか想像できますか。

  あるポレーシェの小さな女の子の短い人生についてお話しましょう。彼女の父親は、モスクワの病院で骨髄移植手術の失敗後すぐに死にました。彼はミチノ墓地に埋められました。その数日後には、彼の隣りに名前のない娘が埋められました。彼女は父の死後、モスクワの病院で生まれたのでした。年取った助産婦は赤ちゃんの状態を見て絶望し、言ってはいけないことを口走ってしまいました。「生きてなくてよかった」と。赤ちゃんは実際長くは苦しみませんでした。名前をもらう時間さえなく、姓だけ記されました。母親の胎内で、四月ン十六日、放射能の洗礼を受けたのでした。この名もない赤ちゃん、聖なる大殉教者は苦悩以外は何も経験せず、罪のないチェルノブイリの犠牲者のための祭壇の、父親の隣りに永遠の眠りについたのでした。<o:p></o:p>

  ポレーシェの子どもたちは、今でも汚染された土の上を走りまわっています。彼らの多くが、今述べた小さな殉教者と同じように、新郎にも新婦にもなれず、自分の子どもの誕生の喜びもその神秘性も感ずることができず、赤ちゃんの第一声も聞けないでしょう。<o:p></o:p>

  何と多くの人々の目の前で、ロウソクの火のようにゆっくりと彼らの親類の命が消えていったことでしょう。この思い出にはどれだけの不幸と苦悩があることか!<o:p></o:p>

  ある日、雨の後、草や花を何か鮮やかな白いものが覆っていました。姉が私を呼び、「見てごらん。銀の雨よ」と言いました。その日は暖かかったので、姉は袖なしの胸の開いたワンピースを着ていました。二年後、姉は乳腺ガンで死にました。死の直前まで、彼女は、両親に病名を隠し続けました。<o:p></o:p>

 家族のものが死ぬと、自分のまわりの世界が崩されるような気がします。だけど、そういう気がするだけで、実際には、生きているものを心配する人がいる限り、生命は続くものなのです。しかし、ゾーンは違います。<o:p></o:p>

そこでは悲しい村々があわれな音をたて

そこは 夜ごと 哀愁がうなる<o:p></o:p>

 カッコウの涙が物悲しげに

毎朝 草原で 光っている

笑いが忘れ去られ 冗談も忘れられた

小道には草が生い茂る

そのどこか目に見えないところに

土の上に

魂が張り付いている<o:p></o:p>

  打ち捨てられた農家の窓は忘れ去られたように見えます。身の回りの物を整理しながら、人はすぐ戻って来られると信じたので、必要なものだけを持って行きました。これにつけこんだのがよそから来た泥棒です。短い間に貴重なものがすべて盗まれてしまいました。人の不幸が、他人の利益になってしまったのです。このように悪魔が舞踏会で楽しむことは、キリスト教徒にふさわしいことでしょうか。このような財産は、決して幸福をもたらしはしないはずです。<o:p></o:p>

  地獄の炎に身を投げ出し、家族に別れもできなかった英雄たちの行為をどうして無視できましょうか。彼らは、この作業をすることによって自分たちがどうなるかをよく知っていました。しかし、彼らは怒り狂う核のクレーターの上で、ためらわずに、自分の身を、そして未来を、貢ぎ物のようにその貪欲な胃袋に向かって投げだしました。彼らは、私たちのために、自己犠牲の炎で自らを焼いたのです。<o:p></o:p>

  ミンスクのフィルハーモニー劇場で、画家のM.サビツキ―のチェルノブイリをテーマにした絵の展覧会がありました。長い年月がたっても絵はいつも人類にチェルノブイリの惨劇を思い起こさせるものになるでしょう。私たちの子孫の誰かが、「チェルノブイリのマドンナ」のまるで生きているかのような苦痛でいっぱいの目を見て、次のような質問をするでしょう。<o:p></o:p>

 「遠い二十世紀に起こったチェルノブイリの事故とは何だったのか。どうして私たちの先祖はこのようなことを引き起こしたのだろうか」と。

 

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原発も核もない社会の実現を、子どもたちの命と未来を守る!5月5日(子どもの日)に誓い、必ずこの誓いを果たそう

 (1) 5月5日夜、この国の原発すべてがとまり、ひとつも動いていない時が訪れようとしています。そのまま、ずっと原発を止め続け、日本中のすべての原発をなくす、世界中から原発と核をなくす、これはヒロシマ、ナガサキ、ビキニを体験し、スリーマイル、チェルノブイリを経験し、2012年3・11フクシマを体験した人類(人間社会)が生き続けるために何としても実現しなければならない、人類が自らに課した責任であり、人類の後史を開く世界史的使命を担う労働者階級の責務です。原子力(核と原発)と人類(人間社会)はいっさい相いれないのです。
 (2) わけても今の子どもたち、今後生まれてくる将来世代に対する大人と労働者階級の責任であり、絶対的な倫理と言い切るべき責任です。
 3・11福島原発事故によって既に起きた、そして拡大し続けている放射線被曝と放射能汚染の影響は深甚のものがあります。数年後、十年後、二十年後、・・・・私たち大人は、子どもたちや孫たちから「なぜ原発(核)などというものをつくらせてしまったのか、なぜすぐなくせなかったのか」「あのとき反対したのか、どう闘ったのか」と問われてどう答えられるでしょうか。子や孫たちには何の「罪」も責任もないのです。大江健三郎さんはじめたくさんの方々が集会で原発・核の全廃を訴える時に退路を断って闘うことをこう呼びかけました。そして3・11福島原発事故以来、被災地・福島のお父さんたち、お母さんたちが苦難・苦悩と試練の中でいっさいの価値観、選択肢に優先して「かけがえのない子どもの命をまもるためにはすべてを投げ出す」を第一義とした人間的決意です。 
  (3)5月5日・子どもの日、「運転原発ゼロ」の日に誓いましょう。
  私たちは何よりも反原発・脱原発の実現のために全力で闘い、闘いをそれを実現し得るにたる巨大な輪に広げなければなりません。いっさい退くことなくまっすぐに全原発の停止から全原発の廃炉へーこの闘いはその実現まで終わることのない、止めることのできない闘いです。地球を何十回も吹き飛ばし、もの皆砕け散り、廃墟とするだけの原発と核兵器を人類はつくりだしてしまいました。そして私たちが生き延び、生き続けるためには、そのすべてを廃絶する以外にないことが突きつけられたのです。たとえ長い険しい闘いとなろうと一刻を争う闘いです。
 
  原発・原子炉の廃炉には三十年、四十年という歳月がかかります。原発が抱える放射能と既に排出され、ばらまかれた膨大な放射性物質の影響が減退し、消失するまでには何百年、何千年、何万年という想像を絶する時間がかかります。しかし、いま生きている私たちが生きてはいない遠い未来のその実現も、いま、私たちが私たちの責任において全原発を停止させ、全原発を廃炉にすることぬきにはかなえられません。そればかりか、その実現なしにはチェルノブイリやフクシマはいつ起きてもおかしくない危険の真っただ中に、今私たちはいるのです。全原発廃炉・全核兵器廃絶には、私たちと私たちの子どもたち、孫たちの直接の命と健康、未来がかかっているとともに、人間社会の存続がかかっています。
子どもたちの命と健康を守るために私たちには何ができるか
  (4) 私たちが同時に誓い、直ちに具体的に取り組まねばならない切実な喫緊の課題もあります。一刻を争う課題として、放射能から私たちと子どもたちの命と未来、とりわけ子どもたちの命と健康を守る闘いに、私たち自身の力で取り組むこと、その開始です。
  ヒロシマ、ナガサキ、ビキニ、スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマが示していること、このかんの研究が明らかにしていることは、大人よりも子どものほうが放射能から受ける影響が大人の場合の数十倍も大きいということであり、数年後、十年後、二十年後、さらには五十年後という経過を経てから被曝が原因でガンをはじめとした発症が後を絶たないということです。どの程度の放射線量を浴びたら危険でどの程度なら安全だというような閾(しきい)はありません。高線量はもとより危険だが、低線量でも被曝すれば、身体に呼吸や飲食を通して体内にとりこまれた放射能は生命を脅かし身体組織を破壊し続けるのです。
  そして重大なことは、誠に怒りに堪えないことですが、原発推進と核武装準備を国策とする国は、こうした被曝を原因とする病気の発症を認めず、被曝医療の切実な必要性を徹底的に無視・抹殺していることです。原発事故による放射能に被曝したことが原因であることが明白な福島の子どもたちの鼻血や高熱も「精神的ストレス」や「インフルエンザ」のせいだとされ、甲状腺検査結果、過半に認められた腫れやしこりについても「健康に影響はない」と無視しています。福島では、また全国の避難先・疎開先でも既存の医療機関は、国の通達・指導によって、福島で被曝した子どもたちの不安や症状について、原発事故との関係、被曝を原因とした症状をことごとく切断し、被曝医療として関わることを放棄し、無視し切り捨てています。被曝した子どもたちのお父さん、お母さんは子どもに起きている症状について責任ある説明を受けることもそれに対してどうすればいいのかの助言や治療を受けることもできない状況に置かれています。不安と危険に対してどうすればよいのか、その治療も相談も、よりどころがありません。
  (5) 福島の子どもたち(とそのお母さん、お父さんたち)に生命と健康と心の拠り所として診療所が絶対に必要です。反原発・脱原発の私たちの闘いとして、福島の子どもたちの命と健康と心に一生寄り添う闘いとして、医療機関、情報センター、相談センターを兼ね備えた診療所を福島の地に建設しましょう。
  福島診療所の建設をはじめとして、子どもたちの命と健康を守るためにやるべきことは山のようにあります。その山のような課題に福島診療所建設を皮切りに福島と全国であらゆる知恵と力を合わせて取り組んでいきましょう。どんなささやかなことでも福島との連帯、福島の子どもたちの命と健康を守るために役立てていきましょう。福島と全国の分断、福島の人々と子どもたちの孤立化を許さず、私たち自身の力で人間社会の共同性を取り戻す闘いです。
 (6) この取り組みは労働者階級の闘いにかかっています。労働者は資本に対して、クビきりや賃下げや不当な労働強化や労災に対してそれをはねかえすためには団結して闘うしかありません。働く仲間・労働者の拠り所として労働組合をつくり、仲間同士が結束して資本に対抗します。仲間の団結で敵に立ち向かうとともに、助け合い、支えあい、励ましあって、共に闘う中で、かけがえのない紐帯、共同性を培います。万人(仲間)が一人のために、一人が万人(仲間)のために、という・・・・。
 目には見えない放射能による私たちと子どもたちへの脅威と危険、生命と健康と心身に対する侵襲に対しても、私たちと子どもたちには拠り所が必要です。国と資本は私たちをバラバラにし孤立させ真実を隠して私たちと子どもたちを危険と不安の中にとじこめようとしています。放射能から子どもたちと私たちの命と健康を守り、生き抜くためにも、一緒に生きるための団結と連帯が最大の力になります。福島診療所建設をはじめとした取り組みは私たち自身がみんなで共に生き抜くという人間社会の本来の共同性を取り戻す闘いです。
 
 以下は、福島診療所建設委員会のリーフレットです。

007_2

(福島診療所建設委員会 2012.3.11 SunRise 
No.1 から

同委員会のサイトは下記

http://www.clinic-fukushima.jp/

 

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「子どもたちのために何かしたい・・・・・」

     フクシマ診療所へ支援の輪広ろがる

     東日本大震災救援対策本部 ニュース285号(2012.5.2)から転載

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 下記PDFのワンクリックでニュース紙面はごらんになれます。

http://www.geocities.jp/shinsaikyuenhonbu/honbu285.pdf




       



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