すぎなみ民営化反対通信

東京・杉並発。「一人が万人のために、万人がひとりのために」をモットーに本当のことを伝え、共に歩んでいきたいと思います

 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第7回】・・・・ハッカの匂いがした

2011年11月29日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第7回

 

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 

ハッカの匂いがした

 

オリガ・ジェチュック(女・十九歳) 

第二中等学校十一年生 ミンスク市

 

母が医者のところから帰ってきて、私にすべてを話した。論理的にいえば私はそこで泣くという場面だったろう。「ママ!なぜ私が、どうして」と。だが、私の代わりに母がそのことをしてくれたのだ。母は子どものように手の甲で目をこすり、泣き始め、問うのだった。「オリガ!何でお前が。お前が死ななくっちゃいけないの」私はただ唇を結んだまま、だまって途方にくれるだけだった。どうしていいか分からなかった。私はまだ一度だって死んだことがないのだから。

 

どことなく胸がひりひり痛んだ。私はどうしても恐ろしい知らせを理解することも信じることもできず、精神状態が不安定の中で、何度もつぶやいた。「これは何かの間違いだわ。こんなことある訳がない。私は死なない、こんな若さで死ぬことなんてことはないわ!」私はやけっぱちになって叫んだ。「わたしはまだ十九歳なのよ!」と。

 

しかし、見えないハンマーが、重たいばかげた言葉を吐き出させた。あと二年。いや一カ月。残った時間は・・・・・・・」と。いままで私は「残り」時間がどのくらいか、などと考えたことはなかった。

 

私は小さい頃のことをよく覚えている。毎朝、母は私を幼稚園に連れて行ってくれた。いつも寒かった。母はいつも古ぼけた秋用のコートを着ていて、寒さに震えているように見えたので、私は母が寒くないよう風をさえぎるようにくっついて歩いた。私と母は二人で生活していた。父は一緒に住んではおらず、祭日にだけやってきた。いつもキャラメル三個がお土産だった。父は正確さと一貫性が好きで、数字の三も好きだった。今、父には三人の息子がいる。もうキャラメルを持ってくることはない。

 

幼稚園では、私は活発で、明るい女の子だった。遊びながら私は、一緒のグループの男の子全員とキスをしたりしていた。これは「いけない」行為だった。もちろん良いことではない。ある日、母は早めに私を迎えにきた。私は着替えをしていて、女の子たちが走ってくるのが見えた。彼女たちは「オリガちゃん、逃げて、コースチャがキスしに来るわよ」と叫んだ。恥ずかしさで、私は穴にでも入りたい気持ちになった。「どういうことなの」と母は青ざめた顔で静かに私に質問した。私は黙ってしまった。

 

私の幼年期は面白いものだった。少女期はと言うと奇妙だった。私は友達のお兄さんであるアルトゥールを好きになってしまった。彼はやせ気味で背が高かった。私には世界でもっとも美しい男に見えた。神様、私はどんなにか彼を好きだったことでしょう。夜空の星々に、数えきれない彼の笑顔が見えた。彼から電話があれば、すぐさまどこへでも飛んで行くつもりだった。もちろん、彼が電話などするするはずがない。彼は私が恋い焦がれているなんてなんにも知らないのだから。そして、とうとう彼が美しくて華やかなファッションモデルの人と結婚するというニュースが飛び込んできた。彼は幸せだという話を聞いた。その時、私はまだ子どもで、目立たなくて、美しくもなかった。私は泣きじゃくった。ほほを冷たい窓グラスに押しつけ、夜空の星をながめようとした。でも空は雨雲が覆っていた。

 

世間知らずの子どもは大人の男に恋い焦がれる。それはおかしなことだろうか。私は気を取り直してすべてを忘れ、いたたたまれない失恋の痛みを胸の奥底で堪え忍んだ。日常の生活に戻った私は、学校の授業に出るようになった。あまり勉強ができる方ではなかった私は、何日もかかって宿題を機械的に無理に頭に詰め込まなければならなかった。

 

休みになると母と一緒に、ゴメリに住む祖母のところへ出かけた。そこで私の悲劇が始まった。その日、空気にハッカの匂いがした。頭がくらくらするような太陽の日差しが襲ってきて、鳥はまるで正気を失ったかのように鳴いていた。予期しない幸せに、なぜだか突然私は泣きたくなった。私は一日中外にいて、太陽にあたった。一週間後にはじめて、原発が爆発したことを知った。

 

そのあとには、恐怖、パニック、奔走、そして涙があるだけだった。ゴメリから脱出するためのチケットがなかなか手に入らなかった。鉄道にもバスにも、泣きながら頼んだが、だめだった。だれもわれわれのためにチケットをとってくる人はいなかった。そのとき、私は自分の肉体の中で何が起こっているかを知らなかった。つまり、セシウムが骨に蓄積し、筋肉が被曝したということを、何年もたってから、医者へ行ってきた母に、私は末期のガンであると聞いたのだ。

 

どうすればいいのか。私はそれほど頭がいい方ではない。使途は素晴らしいものであると証明するような、何か美しい哲学を考えつくことはできない。そして、私は神も信じない。

 

教会に行ったときのことを思い出す。そこは薄暗く、香と汗のにおいが充満していた。よくとおるテノールの声がひびきわたる。群衆は何度も十字を切り、なにかをぶつぶつ言っている。私のとなりのうつろな目をた女性は、ちょうしのはずれた声でお祈りしている。「神様、お慈悲を。カミ・サーマ・オ・ジヒ・ヲ」子どもたちは、どういうお願いがあるのか分からないが、特徴のある発音で、奴隷の早口言葉を繰り返していた。わたしはいたたまれなくなり、出口に突進した。

 

人は将来への幸福の夢で、現在をなぐさめるために神を考え出した。私は強い。信じないから、なぐさめ入らない。もし神がいるのなら、チェルノブイリの悲劇は起こらなかったはずだ。

 

入院患者用の服を着た幽霊のように青白く、目の下に恐ろしい斑点ができた女の子が、細い指で強く私の手を握り締めながら話した。「おかしいでしょう?」と彼女は言った。彼女は私に何回となく、自分の生い立ちを話すのだった。しかし、わたしはなぜか笑うことができなかった。彼女の目は燃えているようだった。このオーリャは白血病で、あと一カ月の命と宣告されていた。これはまったくおかしいことではない。彼女の笑みは私の胸を痛めつけ、わたしはどなりたくなった。「何で笑っているの。ばかじゃない。死ぬということは、永遠の別れなのよ」と。私の考えに応えるように、彼女は笑うことをやめて窓の方を向き、ゆっくりとこう言った。「しぬということはもちろん怖いことよ。私のことを書いて、お願い。父がそれを読んで、私のことを知るわ。父は一度もここに来たことがないの」彼女は手のひらで、乾いた目をこすった。

 

チェルノブイリが語られるとき、わたしはなぜか巨大な原発、石棺、黒鉛棒の山を連想することもなければ釘付けされた家、野生化した犬、詩と腐敗の匂いのする汚染地区の姿が現れてくることもない。私はただ、死んでいくオーリャを見つめているだけだ。彼女はまるで四六時中詫びているようだった。彼女は死ぬことと、そして、生きてきたことの寛大な処置を乞うのだった。

 

オーリャはお母さんを愛していた。オーリャは生命を愛していた。 

かわいそうなオーリャ。どうしたら、放射能が充満し、神様さえも見離してしまったこの世に生きることが好きになれるの。人間の愚かしさに呪いあれ。チェルノブイリに呪いあれ!<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載【第6回】・・・・・家のそばの花

2011年11月26日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 

-子どもたちのチェルノブイリ-

 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第6回

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 

家のそばの花

 

ナタ―リャ・ヤルモレンコ(女・十六歳) 

ブラ―ギン中等学校十一年生

 

チェルノブイリの灰を 

塵のように 

風が吹き飛ばす 

どこに?

私たちはこの世の 

黒い不幸のとりこだ 

                                         ルイゴル・ボロドゥーリン

 

 

 

 あの、四月二十六日の夜が次第に遠ざかっていく。プリピャチの町、その周りの小さな美しい村々、古代からの町チェルノブイリ、ポレーシェを、そして世界を揺るがしたあの夜が・・・・・・。

 

私たちは、今、ようやく、事故の被害や損害の実態を、全体的に知ることができるようになった。しかし、それは、有名な科学者や専門家の予測をはるかに超えるものとなてしまった。事故の直後、人々は黙りこみ、事故について話すことは避けられた。そのため、正確な情報によって事故の真実を知ることは一般の人々には不可能だった。本当の事態が隠され、人々は事故の影響を楽観的に考えていた。住民は放射能汚染の危険性を知らされないまま放置され、貴重な時間が失われていったのである。

 

私たち汚染地区の住民は、浅はかにもすべてを信じ、なにごともなかったかのように生活していた。放射能の雨に濡れ、スタジアムではスポーツ大会が開かれ、戸外ではピロシキを食べ、森を散歩し、大人たちは今までと同じように畑で働いた。けれども、あの年のメーデーに、私の両親は私たち姉妹をデモに連れて行かなかったことを覚えている。今考えてみれば、私たちが少しでも被曝しないように、という直感がそうさせたのだろう。だが、放射能の雨を止めることは誰にもできなかった。

 

あれは日曜日のこと、私が家の周りに花の苗を植えようとしていると、雨が降ってきた。私は、苗を植えるのにちょうどいい雨だと思い、下着まで濡れながら全部の苗を植えてしまった。兄が私を手伝ってくれた。家に入って初めて気がついたのだが、私たちの服と靴に緑色の何かがびっしりとついている。兄はそれを、風と雨が運んできた植物の花粉に違いないと言った。ところが、その時私たちにはわからなかったのだが、それは気味の悪いチェルノブイリの死の灰だったのだ。その灰は、私の服だけではなく、私の体に、血液に、そして私の運命にまで入り込んできた。私は今十六歳で、もう七年間も甲状腺の病気を抱え、ゴメリ腫瘍保健診療所に通っている。病気が悪化しないように、いつも薬を飲んでいなければならない。今が人生の中で一番楽しい時期のはずなのに、私の心は悲しみに沈んでいる。なぜ、私はこんなに苦しまなければならないのだろう。将来、私はどうなるのだろうか。チェルノブイリは、私から健康な体を奪った。そしてそれだけでは足りないとでもいうように、わたしのふるさとをひきいぎり、私の親戚や知人を、遠く離れ離れに暮らさなければならないようにしてしまった。私たち一人一人の魂を堪えがたい苦しみと、片時も忘れることのできないふるさとへの思いが焦がしている。

 

汚染されたプリピャチ川の水、毒された泉、古く美しい森、実り豊かだった畑。そこから永久に別れを告げなければならなくなっても、私の魂は、ふるさとの井戸、納屋、なつかしい私の家にとどまっている。チェルノブイリは、冷酷な核戦争とまったく同じように、子どもも大人も容赦なく次々と新しい犠牲者を生みだしている。原子力発電所の恩恵などほとんどうけなかったような普通の人々が、結局は事故の報いを受け、自らの命や健康、打ち壊された運命などの、最も重いつけを払わされている。放射能汚染地区に住んでいた多くの人々が、ふるさとに永久に別れを告げた。特に大人たちにとって、まったく新しい土地に根を下ろすのがどんなに困難なことかを、私は、祖母やナーシャおばさんの悲しい目の中に見る。彼女らは、住みなれたラファノフ村を追われ、いまではベラルーシの別々の場所に住まなければならなくなった。ラファノフ村のきれいな花々、熟したリンゴや、柳の下の透き通った泉は、突然変異によって人の背丈よりも高くなった、気味の悪いヒレアザミにおおいつくされてしまっている。

 

もう一人の祖母、アレーナおばあちゃんが住んでいたクルグルードガ村も、いまではもう存在しないことを思うと、私の心は痛む。彼女は、一生を過ごした生まれ故郷の村が、どんな恐ろしい運命に見舞われたか、知らずに死んだ。彼女の死後すぐに、クルグルードガ村は村ごと埋められてしまい、今では、水揚げポンプの塔だけが、まるで死んだ集落の墓標のようにそびえている。

 

私たちのブラーギン地区だけでも八つの村が消えてしまった。この世に存在しなくなった村々を追悼する儀式が行われた日のことを思い出すと、私の心臓は苦痛で止まりそうになり、涙がとめどなく流れる。こんなことが、この平和な時代に起こっていいものだろうか。けれども、これが現実なのだ。チェルノブイリは、私が子どもの時にはだしで歩いた美しい小道を、私の両親の家を奪った。このことを私は決して許すことはできない。

 

チェルノブイリは開いた傷のようなものである。事故による犠牲者は数えきれない。こんなつらい現実のなかで、親切な言葉や行動で私たちを支えてくれる人々の存在がどんなに大きな救いとなっていることだろう。彼らは、ベラルーシノ子どもたちを療養のために外国に招待してくれている。不幸に国境はない。私たちの苦しみを黙ってみていることができなかった世界中の人々が、私たちに援助の手を差し伸べてくれていることを、私は地に伏して感謝したい。

 

私たちの国をおそった不幸が、地球に住むすべての人への警鐘となり、同じような不幸が決して繰り返されることのないよう祈りたい。

 

地球上に生きる一人ひとりに、毎日太陽がやさしくほほえみかけ、それが放射能のにごったもやでくもってしまうことがありませんように。そして、未来が暗く、希望のないものに変えられてしまうことがありませんょうに。私たちの地球が永遠でありますように。

ポレーシェに生命が消えてしまうはずがない、というかすかな希望が今でも私の心に燃えている。 

神様お願いします。<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』から抜粋・連載(第5回) 空が急に暗くなった・・・・

2011年11月24日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

抜粋による連載(第5回

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 空が急に暗くなった

オリガ・アントノビッチ(女)

第十中等学校八年生 ゴメリ市

 四月二十六日は、すばらしく明るく美しい日でした。

 あの日、私たち家族の友人が子どもを連れて、私の弟のサーシャの誕生日のお祝いにやってきました。私たちは長い時間、いっしょに公園を散歩したり、ブランコで遊んだりして、みんなとても満足でした。すると突然、空が暗くなり、強い砂嵐が吹いてきたのです。私たちは急いで家にかけこみました。風は弟のパナマ帽を吹き飛ばし、砂は目や鼻や髪に容赦なく吹きつけました。

 メーデーの祭日です。

木や草は威勢よく緑色を増し、栗の木はろうそくの炎のような形の芽をのぞかせていました。しかしその時、誰も危険がどこにでもあることをまだ気づいてはいなかったのです。

私の弟はその時まだ二歳だったので、なんでも口にしたがりました。石でも、小枝でも、この葉でさえもそうです。弟には「だめよ!」といつも言っていました。

その後、子どもたちは放射能から避難するために、よそへ送られました。そして、子どもたちには教師や親が付き添いました。私の祖母は低学年のクラスの教師をしていたので、母と一緒に見送りに行きました。その時、駅にはあふれるばかりの人々が集まっていたのを覚えています。

親たちは一方にならび、子どもたちと先生は列車の側に立っていました。みんなが泣き、お互いに抱き合い、それはもう再び会うことができないかのような光景でした。

祖母が自分のクラスの子と一緒にひと夏を過ごしたのは、北オセチアの地でした。祖母は今でもそこでの出来事を話してくれます。全く知らない人々が出迎えてくれ、手を取って列車から降ろし、家に招待し、果物や花を届けてくれさえもしたそうです。祖母は今でも北オセチアの教師たちと文通しています。今北オセチアでは戦争が起こっており、人々はそこでも苦しんでいるんです。

五月の半ばだったと思いますが、私は母と弟と一緒にモスクワへ行きました。祖父の友人から電話があり「そちらは大変でしょう。こちらに来ませんか」という誘いがあったのです。

私たちはそれほど大きくない二部屋あるアパートの一室に住むことになりました。近所の人々は親切でとても思いやりがありました。

父は私たちと一緒にモスクワへは行きませんでした。父は警察の将校です。彼は三十キロゾーンに派遣され、住民の避難の手助けをしました。ゴメリに戻ったのは八六年八月です。

私たちはチェルノブイリの災害から逃れようとしましたが、それは私たちを逃しはしませんでした。

チェルノブイリ、私はこの言葉に苦い味を感じる。それは歯にはさまり、舌の上で転がり、のどにつかえる。

チェルノブイリ、お前は家族の喜びを台なしにし、母の明るい笑い声を奪い、母の瞳から喜びの色を消し去ってしまった。

お母さん。私はあなたの本当の幸せをもう見ることはないでしょう。あの日からです。ミンスクの放射線医学センターで、弟が甲状腺を病んでいることを知らされ、泣き崩れてしまった。どうしようもない不安が両親の心に居座った。それから弟の病気を治すために、地獄の苦しみを味わうことになるのです。母は自分の手で弟を手術台に運びました。二回の手術、長い苦しい治療、全面的な検査が・・・・・。

私の弟は、チェルノブイリの最初の犠牲者のひとりになってしまいました。ベラルーシ全体ではどのくらいいるのでしょうか。

町に「悲運の子どもたち」という組織がつくられました。血液や甲状腺の病気の子ども、チェルノブイリ原発の事故で苦しむ子どもをもった家族が手を結んでできたのです。ドイツ、イタリア、オーストリア、その他の国の普通の人々が、子どもたちへの援助をしてくれています。彼らはその子どもたちを、家庭に招き、暖かく、優しくもてなしてくれています。

サーシャが病気の子どもたちと一緒にドイツに行った時、私もついていったことがあります。そのグループの中にカーチャという明るく感じのいい少女がいました。彼女の病気がそんなに重いとは誰も信じませんでした。春にドイツに一緒に行ったのですが、秋にはカーチャが死んでしまったことを知りました。 サーシャの机の上には折り鶴がのっています。ミンスクの病院を訪問した日本の医者がサーシャにくれたものです。遠いヒロシマの女の子のことを聞いてサーシャが泣きだしたことを覚えています。しかし、彼女も不幸から逃れることはできませんでした。そして、折り鶴も最後まで折ることは。

ヒロシマ、チェルノブイリ・・・・・・。私たちは、こんなに小さい星に生きているのに。

 この恐ろしい悲劇の灰は、決して心の中で冷たくなることはない。<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載(第4回) チェルノブイリの黄色い砂 

2011年11月21日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

-子どもたちのチェルノブイリ-

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

抜粋による連載(第4回

第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

 

チェルノブイリの黄色い砂

エレーナ・ドロッジャ(女・十六歳)

アタレズ中等学校十年生 スタルブツオフ地区

<o:p></o:p>

<o:p></o:p>

暗黒の言葉が まるで黒い太陽のように

冷酷に べラルーシの大空に のぼった 

それは あたかも黒い日食のごとくに

ものみなを黒く汚しつくした 

緑の草も 澄んだ水も 青い空も。

 

           ヤンカ・シパコフ

 

 「私は十六歳です。チェルノブイリの悲劇のなかを生き続けるすべての人と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまったこのようです。一九八六年四月二十六日以前、そしてそのあとに。

 

 私たちはチェルノブイリからそう遠くない所に住んでいました。母はよく原発の町からおいしいものを買ってきては、私たちに、電気を供給してくれる原発の話をしてくれました。

 

 ある日、村に発電所で爆発があったといううわさが広まりました。この村からチェルノブイリ原発に働きに行っている人の口からです。でも、誰もそれが大変なこととは思いませんでした。 

 次の日、ソホーズの競技場で、地区対抗サッカー大会が開かれました。私は両親と兄と一緒に、一日のほとんどをそこで過ごしました。突然雨が降りだしました。私たちはその雨を手のひらで受けながらはしゃぎまわっていたのです。その生暖かい雨が何を含んだものなのかをまったく知らずに、そして待ちに待ったメーデーの祝日がやってきました。競技場は音楽や歌が流れ、大変なにぎわいでした。人々はメーデーを祝い、緑あふれる季節を楽しんでいました。

 

 けれどついに不安が村を襲ったのです。母はとても心配そうに、昼間ちょっとだけ家により、私たちは外に出ないようにと告げました。プリピャチに向かう国道を何日も何日もいろいろな車の列が延々と続いていました。 

 五月六日になり、親戚の人が来て、兄と私たちを連れて帰りました。それまでは私は親と離れて暮らしたことが一度もなかったので、一日もたつと、もう帰りたくてたまらなくなりました。「ストレリチェボには帰ってはいけない、良心は今とても忙しいんだから。でも心配することは何もないよ」と説明されました。私はその時はまだ、何カ月も家に帰れなくなったり、ボロブリャニの病院に入院しなければならなくなるなんて、そしてボリソフ地区のピオネールキャンプに行くことになるなんて、想像もできませんでした。

 

 それでも私は、八月の終わりに自分の村に戻ることができました。本当に嬉しかった。でもここで一体何が起こったのか、不思議でたまりませんでした。景色は去年と変わらず、とても美しかった。ただ、菜園ではなぜか花が刈りとられていました。学校の周りもすっかり居心地が悪くなっていました。植え込みや花壇はもう元の姿はなく、黄色い砂の覆われていました。まもなく私たちは、毎日十二時間学校にいなければならなくなりました。道路や競技場や森は危険地帯とわかったからです。私たちが放射能に被ばくしないようにと、政府が出した命令だったのです。

 

 そしてまた旅が始まりました。私たち低学年の子どもは、アナパに療養に行くことになったのです。私たちのために南部の方から知らない先生が来ました。とても親切で優しい先生たちで、黒海の話や、私たちがこれから行くサナトリウムが、とても美しくて素敵なところということを教えてくれました。でも私たちはそれどころではなかったのです。両親と離れ、心の中は心配や不安でいっぱいでした。今すぐ引き返したいと、心いっぱい願っていました。

 

黒海の海岸ですごし、勉強したり遠足に出かけたりしました。デモ心の中は故郷のことが心配で、毎日寂しくてたまりませんでした。そんなある日、母が訪ねて来てくれたのです。母を見つけ駆けだした時の喜びは、一生涯忘れることはないでしょう。私だけではなく、私たちの学校の生徒もみんな駆けてきました。みんな、親戚や知人のことを聞きたかったのです。母はみんなにキャンディを配りました。みんな自分のお母さんからもらったみたいに喜んでいました。私は最高に幸せでした。 

でも母はすぐ村に戻らなければなりませんでした。大変な仕事が待っているからです。母はコルホーズの責任者をしていました。母は頬笑みながら、私に元気を出すようにと言いました。でもその母自身も、私以上につらそうに見えました。

 

一九八九年、兄がひどい病気になりました。両親は引っ越すことを考え始めました。両親が私たちに引っ越しを告げた時のことは、決して忘れられません。兄は何度も何度も両親に頼みました。「ママ、パパ、どこにも行かないで。僕はすぐ良くなるんだから。もしみんなが引っ越しても、僕はここでおじいちゃんといっしょに暮らす」と。私たちは引っ越しをやめました。兄はずっと病気で、何度も入院を繰り返しました。両親も病気がちになりました。

 

ストレリチェボでは、石造り二階建ての、新しい街の建設が続いていました。でも誰がそこに住むのでしょうか。以前母は、「ここは安全だ」と言っていた政府の幹部や科学者を無条件に信用していましたが、今それに疑問を抱きはじめ、絶望と不安の表情で「チェルノブイリゾーンに暮らすのは危険だ」と訴える人の声に耳を傾けるようになりました。 

「ゴメリスカヤ・プラウダ」や「家族」などの新聞に、母の論文が載りました。そして、ミンスクで開かれた子ども基金の総会で母が行った「チェルノブイリの子どもたち」と題する演説がラジオで流されました。それは自分の子どもだけではなく、チェルノブイリの放射能によって命と健康が冒されている全ての子どもたちのことを心配する、母親の魂の叫びでした。

 

一九九〇年四月の頃、三か月にわたって、私の学校の生徒は全員、ゲレンジックに連れてこられました。そこで私は、チェルノブイリの悲劇をテレマラソンのテレビ番組に出演していた母を見て、とても誇りに思いました。母はそこでもストレリチエボの学校の生徒たちが直面している、困難で危険な状況を語りました。放射能の値が一五から四十キュリー以上もあるのです。(※キュリー:放射性物質の量{放射能の強さ}を示す単位。一秒間に三百七十億個の原子核が崩壊して出す放射能の強さが1キュリー。新しい国際単位ではベクレルを用いる)チェルノブイリは戦争に匹敵するほどの大惨事なのです。私は長い時間この番組を一生懸命見ました。

 

私がゲレンジックから帰った先は、故郷の村ではなくて、新しい土地、ストルフシチナでした。私たちの新しい家は、村のはずれの、森のそばにありました。周りのものすべてが知らないものばかりで、なじめませんでした。

気づかないうちに夏が終わっていました。九月一日に新学期が始まります。七年生になった私は、新しい学校で泣きじゃくりました。先生やクラスメートたちは、私をなぐさめようと努力してくれました。彼らは、私が故郷の学校や友だちから離れ、とても寂しく泣いていることを理解できたからです。 

でも時がたち、私たちは少しずつ、新しい生活に慣れてきました。両親はここの名前を、間違えて前の地名で言うこともなくなりました。私はここで新しい友だちができました。 

私たちが苦しかったとき、優しいことばや思いやりで私たちを助けてくれ、今も、苦しいときも楽しいときも一緒にいてくれる、この村の人たちに感謝しています。両親も、いっしょに働いている人たちが、とても親切にしてくれるといいます。でも、」夢の中に出てくるのは、アターレジではなく、ストレリチェボです。故郷はなにものにも替えがたいものなのです。

 

今これを書きながら、私の眼には涙があふれています。七十になる私のおばあちゃんが紙切れに書いた言葉を思い出します。「本当のことを言うと家に帰りたい」と。 

誰がおばあちゃんを救ってくれるのでしょうか。誰が、ゆがめられた運命を背負わされた何千もの人々を救うのでしょうか。誰が、数百年ももとにもどることのない放射能汚染という病に冒されたこの大地を救うのでしょうか。

 

母は小さい頃から私たち兄弟に、正直な人になるようにと教えてきました。ベラルーシの国民が国家の重要ポストに選び、私たちの運命を託してきた人たちは、親からどんな教育を受けたのでしょうか。誰が彼らを選んだのでしょうか。誰が彼らに嘘をつき真実を隠す権利を与えのでしょうか。私は彼らの名前を知らないから、ここに挙げることはできません。でも、高い地位はないけれど善良な心を持っていて、困難な現実の中で自分の意思で義務を果たしている科学者や医者や文学者の名前を挙げることはできます。 

私たちの学校に来た、作家のウラジーミル・リ―プスキーさんとワシーり・ヤコベンコさんに感謝します。私たちは彼らと会って、自分の運命が、とても大切な意味を持っていることを知りました。そして彼らの論文を新聞で読み、子どもながらに、彼らがあれほど情熱的に書くのは、私たちの運命が彼らを奮い立たせたからだと感じました。 

悲劇のホイニキの大地が、ボリス・サチェンコ、ミコラ・メトリッキーを育てたのです。現在の彼らの作品には、故郷の苦痛が描かれています。放射能は、イワン・シャミャーキンの故郷もよけては通りませんでした。彼はポレーシェの人々の性格や習慣、こまごまとしたことまでよく知りつくしているので、チェルノブイリの悲劇を書かずにはおれなかったのです。小説「不吉な星」を家族全員で読みました。父は「全て本当のことだ。フイクションではなくて、ドキュメンタリー作品だ。まるで私が、不幸の始まりの日々のできごとを彼に話したみたいだ」と言いました。

 

今私たちに書く順番が回ってきました。忘れてはならないことを書きましょう。将来のベラルーシのために、ベラルーシ国民の繁栄のために。そしていつかまた大きな災難が国民をおそったとき、誰も「なんでもなかった」とか「放射能では死なないし、病気にもならない」などとはいえないように。忘れてはならないのです。こんなことは、もう二度とくりかえされてはならないのです。」<o:p></o:p>

 

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 『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋による連載(第3回) 母のもとに六人残った

2011年11月16日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

-子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

 (梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 

抜粋による連載(第3回<o:p></o:p>

 第一章 突然の雨・・・・<o:p></o:p>

母のもとに六人残った  

 

エレーナ・メリニチェンコ(女・十七歳)

   専門学校生 ジェルジェンスク町


 

 「私の人生は、幼いあの日以来、悲しくて、不幸なものとなった。あのとき私は小学二年生だった。それ以来、人々の苦悩や悲しみを、否応なくこの目で見てきた。そして私自身も、家族と共にそれに耐えてきた。

 

 私のうちは大家族で、事故がおこったときは私たちはポゴンノエ村に住んでいた。

 

 今、四月のあの日の朝を思い出す。天気がよく、とても暖かくおだやかな日だった。大人たちは仕事に、子どもたちは学校にでかけた。外の空気は新鮮で、緑はあざやかに萌え、鳥たちも楽しそうにさえずっていた。木々には若葉が芽を出し始め、太陽は次第に日差しを強めていた。

 

 学校に行ってまもなくすると、机に座っているのがたまらなくなってきた。他の子どもたちも、目がまわるとか、目に激痛がはしるとか、体がだるいとか、眠気がするとか訴えるようになった。何がおこったかわからなかったが、とにかく普通ではなかった。

 

 村全体をおびやかす恐ろしいことが起こっていることを、誰も推測できなかった。そして数日すると、避難することになった。それは今思い出しても胸が痛む光景であった。子どもは泣き叫び、心に深い傷を負ったお年寄りは、自分の家、ふるさとを置いたまま別れ、知らないところにいってしまうのがとてもつらく、なかなか動けなかった。

 数日分の必要なものをもって避難するようにと言われた。ある人は持っていき、ある人はなにも持たずに出て行ってしまい、またある人はたたずむだけだった。なぜなら、そんなことは経験したこともない出来事だったからだ。

 

 そこには狼狽と絶望だけがあった。どれだけの涙が流されたことか。

 

 私たちはゴメリに連れて行かれ、放射能の測定をされた。服と靴の汚染の値が大きかったので、それらは焼却のために全部脱ぎ捨てなければならなかった。また、検査のために病院にも入れられた。検査のあと、母と四年生になる兄のピョートル、また十一カ月の小さい弟と私はミンスクトラクター工場のサナトリウムに送られた。年上の兄や姉たちがどこに送られたかは分からなかった。母は非常に心配したが、親切な医者のおかげで、ピチェブ州シュミリノにある労働休暇キャンプにいることがわかった。父はミンスク郊外のペトコビッチ村で組立工場の職に就くことができ、そこの寮に住むことになった。しばらくして上の兄と姉たちから手紙が送られてきたが、その手紙には、親元から離れて生活するのはつらく、環境も非衛生的だと書いてあった。そこで父は兄たちを引き取るためにキャンプにでかけ、一緒に住むようになったのだが、三人に一つのベッドしかない父の寮には長くは住めなかった。私たちのサナトリウムも修理で閉鎖されることになり、父はアパートを見つけ、私たちを引き取った。みんな元の家に戻りたいと気はせくばかりだった。けれども、そのとき初めて聞いたのだが、私たちの村は有刺鉄線で囲まれ、もう誰もそこには住んでいなかった。村の人々はちりぢりになってしまったのだ。

 

「数日後、ジェルジンスクにまた引っ越した。そこのアパートの部屋は二つに分かれており、そこに二家族で住んだ。私たちは九人家族、となりは余人家族だった。私たちは中学校に通い始めた。生活は大変で、秋になっても暖房も入らず、その上、ふとんも毛布もないまま、床に寝るしかなかった。

 町の人たちみんなが私たちの悲しみや痛みを理解してくれたとは言えない。彼らは用心深く私たちに接し、私たちをよそ者として扱った。大人も子どもも同じだった。

 一九八七年三月、ここジェルジンスク地区のペトコビッチ村の一戸建の家が提供され、私たちは大喜びした。その美しい大きい家に引っ越し、そこから村の学校に通った。しかし、その喜びも長続きはしなかった。私たちはつぎつぎに病気になり、授業にも出られなくなった。兄弟全員が放射線医学診療所に検査のために行くことになった。それから私たちは毎年検査に通っている。

 あるとき検査で父の血液分析の結果がよくなかった。その三ヵ月後に父は死んだ。一九八八年六月のことだった。

 悲しみと痛みは私たちを襲い続けた。同じ年に祖母と叔母が亡くなった。強く恐ろしい衝撃だった。そして、母のもとに私たち六人の子どもが残った。母は一人で家族を支えなくてはいけなくなった。

 その悲しい出来事のあと、母はよく病気をするようになったが、不幸や困難を克服しようと、私たちをあたたかさと、そのやさしい愛で包んでくれた。そして、私たちは母の涙と苦しみが少しでも減るように、母を理解するようつとめた。

 何年かが過ぎ去った。生活は少しだけ変わってきた。私たちの心の痛みや悲しみも少しはおさまってきている。

 私たちは今もペトコビッチ村に住んでいる。数年のあいだに、二人の姉と上の兄が結婚した。二番目の兄は軍隊に入り、私は専門学校で勉強している。一番下の弟は三年生になった。ふるさとの村の大部分の人たちは、ジロービン地区に住んでいて、兄は今、そのジロービンで仕事をしている。私は彼のところに行って、もとの村の人たちに会ってみたかった。私は母といっしょにジロービン地区のキーロボ村に行き、同級生に会った。彼女とは、いっしょに遊び、学び、とても仲良しだったのだ。でも八年たった今、顔を合わせても、お互いにわからなかった。お互いに成長し、変わったのだから仕方がないけれど、新たに知り合いになったという感じだった。私の心には、喜びと腹立たしさの感情が同時にわいてきた。同級生や友だちに会えたという喜びと、いまいましいチェルノブイリのせいで、一緒にいられたものが長い間会うことできなかった腹立たしさと痛みだ。私はその村から帰りたくなかった。

私は帰りながら、多くの悲しみや不幸を自分の肩に背負わざるをえなかった母のことを考えた。そしてチェルノブイリによって、破壊され、不幸にされた多くの人々の運命について考えた。とくに罪のない子どもたちが、いまでも苦しんでいる。しかも彼らは、自分たちの幸せと健康を奪い去ったものが何者かさえ知らないでいるのだ。

これから先何年たっても、この悲劇は、社会生活、多くの人々の運命、すべての世代の記憶に消し去ることのできない痕跡を残すだろう。

おぼえておいて みなさん

原子力のある限り 平和も秩序も守れない

地球から汚れを一掃しよう

核の狂宴のあとを 残さないようにしよう<o:p></o:p>

 

  ※サナトリウム:療養のための施設 

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋連載(第2回) 喜びは幼年期に置いてきた

2011年11月14日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

-子どもたちのチェルノブイリ- 

(梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)

 

抜粋による連載(第2回 

第一章 突然の雨・・・・

 

喜びは幼年期に置いてきた

 

タチヤーナ・クラコフスカヤ(女十七歳) 

   第一中等学校十年生 バラーノビチ町

 

  セシウムが崩壊すると 

  厳しい不幸に追い立てる運命が! 

  太陽の下には居場所を 

  僕は見つけられない 

              ミコフ・メトリッツキー

 

「その日、私は八歳の誕生日を迎えていた。あたりが暗くなって庭にもどってきた母は、手に白樺の枝を持っていた。その枝についた茶色の丸い実は美しく輝き、心地よい春の香りをただよわせていた。母は、私の誕生日を祝って喜びに満ちあふれた顔をし、白樺の枝をそっとプレゼントしてくれたのである。

 

だが、この毎年きまってやってきた美しくて輝く自然の躍動は、四月二十六日の夜、巨大な目に見えない恐ろしいものによって、奪われてしまった。それまでは、緑の豊かな自然が、人々に喜びと幸せをもたらすと教えられてきた。しかし、今では花や枝を手で摘むのもいけないと注意されるようになってしまった。母はもう、私に誕生日のプレゼントもできなくなってしまったのだ。こんなになってしまった世界に親しみを感じることはできない。私たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。

 

事故のあった前の日の夕方、私と弟のワーニャは父に連れられて、おばあちゃんの住むオラビッチ村へ、車で向かった。農園のじゃがいも植えを手伝いに行ったのだった。その村はホイニキの南側にあった。私は、その日のことをよく覚えている。陽が沈む前、まわりの景色はとても美しく、私と弟は、はしゃいでいた。父が遠くまで連れて行ってくれることがうれしかったのだ。私たちは、後ろの座席で笑い声をあげて喜び騒いでいた。父は運転しながら静かで楽しそうなメロデイを口ずさんでいる。それはいつもの父のくせだった。おばあちゃんの家に着いたのは、すっかり遅くなってからだった。首を長くして待っていてくれた彼女は、絞りたての牛乳を飲ませてくれた。私たちは、暖かな喜びを感じながら、眠りについた。しかし、その眠りの間に、幸せは、永遠に私たちの心から逃げてしまうことになったのである。

 

あの恐ろしい夕方から八年間が過ぎた。私はもう十七歳になった。私の心は空っぽのままである。幸せは四月二十六日から、無限の荒野をさまよったまま元に戻っては来ない。私の心が、現実を受け入れることができないからだ。

 

いつだったか、クラスノボーリエ村から遠くない所で釣りをしていた漁師が、その恐ろしい夜の話をしてくれたことがある。彼らは、火の柱を見た。それは、天まで届きそうに垂直に立ち、黄色、白、茜色の光が同時に鮮やかに光っていたそうである。その後、火の柱は、大地を照らしながら、ブラ―ギンの東の方向に消えていった。その日の柱は、大地に肉体的な痛みを与えなかったが、健康を害し、命をも奪う種をばらまいてしまったのである。この大地がうずいている間は、私の心に幸せはやってこないだろう。大地のうずきはいつ消えるのか、私は知らない。私が生きている間、いつまでもこのままなのだろうか。

 

祖母の村オラビッチは、いや正確にいえば、過去にそこにあった村は、ウクライナのヤノフ村から二十七キロの地点にあった。ヤノフ村の向こう側に原発職員の町プリピャチと原発が建設された。そこから十五キロ離れたところにあった小さな集落チェルノブイリの名を使うことになったのである。誰が名付けたのか。それは、ウクライナのヨモギ草の名前ではなく、昔、そこに人々を苦しめる痛みがあったからそういう地名になったのだと思う。最近まで緑に埋もれていたチェルノブイリの町は死んでしまった。祖母のオラビッチ村も死んでしまった。人間の生活が裕に花開いていた土地に、いまいましい原発を建設しようと考えついた人が、今、生きていれば、呪いたい。

 

朝とは何だろうか。それは、昇ってくる太陽に向かって、自然が背伸びをし、鳥のよろこぶさえずりが空に満ちる時である。しかし、その日の朝はひっそりしていた。不自然な静けさが、危険を知らせた。人々も自然も、それに聞き入った。放射能という名の怪物が村の遠くに現れた。その忌まわしい翼は、目に見えない毒とふるさとの消失、それに苦しみと涙を運んで来た。その朝はまだ、プリピャチ川近くの草原に緑のビロードが敷き詰められているようだった。ライ麦畑は、宝石のように輝いて見えた。でももう、この美しさが、私たちに喜びをもたらすことはなかった。

 

日曜日の夕方になって、ホイニキの家に帰り着くと、街の通りは、死んだように人の気配がなかった。家のそばの白樺の木の下に、隣の人が方針したようにたたずんでいるのが見えた。二日あとにメーデーがやってきた。とても暑い日だった。多くの人々が子どもたちと一緒に、行進を待って昼まで外で立ち続けていた。その間でさえも、小さな子どもの体に、幾レムの放射能が蓄積するかなど、誰も考えつかなかった。翌五月二日は、南の風が気味悪い雨雲を運んで来た。どしゃぶりの雨だった。雨粒はとても大きく、インゲンマメほどの大きさほどもあった。私たち子どもは、母が呼びに来るまでアンズの木の下で遊んでいて、ずぶ濡れになっていた。

 

その後私はどうなったのか。放射能を逃れ治療を求めて、まさに放浪の旅だった。ホーニキ、モロジェーチコ、ゴメリ、ォルシャ、ベルグラード、ドネストロフスク、ドウボサールイ、ボリソフ、ビレイカ、ソリゴールスク、スベトロゴールスク、ミンスクなどの土地を転々とした。放射能の悪魔が、私たちを引き回したのである。

 

そして最後に、一九九〇年、私たちは家族全員で、バラノビッチに引っ越した。今では、母の顔に悲しげな、今にも泣き出しそうな表情しか見ることはできない。引越しの日、荷造りを終えて、私は表に出た。あの白樺の木の下に行った。人間にとってもっとも大切な場所、私が幼年期を過ごした場所をよく覚えておくためだった。あの頃が、もう二度と帰って来ないと思うと、胸がしめつけられるようだった。

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 生活は今でも続いている。夜になると、幸せだった子どもの頃を思い出してしまう。あの時は、すべてが輝いていた。しかし、それはもう遠い昔のことになってしまった。悲しみで心がうずく、それでも生きていかなければならない。

 

これからの私の人生で、満足や喜びを充分に感じることはできないだろう。それは、幼い頃の楽しい思い出が途切れたあの恐ろしい日に、置いてきてしまったのだから。」<o:p></o:p>

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『子どもたちのチェルノブイリ』抜粋・連載第1回 わたしたちを助けてください 神様

2011年11月13日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載

 

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた<o:p></o:p>

 -子どもたちのチェルノブイリ-<o:p></o:p>

梓書院:19956月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)<o:p></o:p>

 抜粋による連載(第1回)<o:p></o:p>

 

第一章 突然の雨・・・・・<o:p></o:p>

わたしたちを助けてください 神様



          タチヤーナ・アクレービッチ(女・16歳)<o:p></o:p>

             カリンコビッチ第六中等学校十年生<o:p></o:p>

 神様。もしあなたが天にいらっしゃるのなら私の祈りを聞いてください。私の魂がいたく悲しんでいるのです。心がとても苦しいのです。

教えてください神様。どうしてあなたはたくさんの苦しみを味わった国、私たちのベラルーシをきびしく罰したのですか。あなたに対して何か罪をおかしたのですか。<o:p></o:p>

  神様、私はあなたに訴えます。あの日、私は母と一緒に野菜畑を耕していました。庭は花で埋もれ、カリンコビッチ村の空は真っ青、そしてその空に太陽がやさしく照り輝き、大地は喜びにみちあふれていたかのようでした。 

 私は思い出します。そう、あの日を。

 神様、何で言ってくれなかったのですか。太陽も、空も、空気もすべて既にチェルノブイリの灰で毒されていたことを。

 

 敬愛する全能の神様、五月一日、私と母はきれいな小旗をもってメーデーの行進に参加しました。その時も、なぜあなたは警告するのを忘れたのですか。空からは目に見えない放射能が私たちに降り注いでいたのですよ。

 

 今となってはこのことを思い出すだけでぞっとします。ストロンチウムやセシウムの中で生き続けるなんて背筋の寒くなる思いです。

 

 でも神様、私は感謝いたします。あなたは人の心を動かし、私や私と似た境遇のたくさんお人々を療養キャンプに行けるようにしてくださいました。そのキャンプでは私は体調もよかった。だけど放射能に汚染された土地には、私の親戚や知人が残っていました。なぜだれもそのような人たちのことを考えてあげないのですか。彼らは何か悪いことをしたのですか。

 

 答えてください、神様。 

 アンドリューシャ・ポリープニコフちゃんの手術のために私たちは世界中からお金を集めました。彼はいったい何の罪をおかしたというのでしょう。それに私の先生の十四歳の息子のアンドレイカ・コルチェイ君に、あなたはどうして怒っているのですか。

 

神様、もう私には悲しみでふさぎこんでいる先生や、座ってくれる生徒を待っている九年A組の空いた席を見る気力もありません。

 

アンドレイカ君を助けてください。全能の神様。だって彼は妹が大好きで、いつも二部授業が終わると妹を迎えに行っていたんですよ。その子は暗いのがこわいからです。そして、彼は母親の手伝いが大好きです。先生はよく働き、疲れやすいからです。アンドレイカ君が生きられるよう助けてください。

 

神様、病気でうちのめされ、もうあなたに頼るしかない全ての人々が生きられるよう助けてください。

 

神様、あなたが私の家族の命を放射能の悪影響から守ってくださっていることに感謝します。私はまだ十六歳なんです。知人が苦しんでいたり、ふるさとの大地が事故のことで人々から嘲笑を受けたり、かつてのような青さがなくなった空を見上げたり・・・・・そんな中で生きていくことは、つらくてしかたがないのです。

 

鳥が以前のようにさえずり、放射能のない暖かい雨が大地をうるおし、近所の年金生活の人たちがまた祖母の家のそばのベンチに夜ごと集って好きな歌をうたえるようにしてください。私の友人や知人の中にチェルノブイリの次の犠牲者を数えたりすることの代わりに・・・・・。

 

 

神様。私は、愛し尊敬するすべての人のために毎日お祈りすることを誓います。お願いですから私の魂のなげきを聞き届け、私の大地と祖国を救ってください。昼も夜もあなたの子どもである私たちを見守り、真理の道へと導き、誘惑から遠ざけ、生きる力と智恵を与え、そしてあなたの御名が照り輝きますように。私たちをお救いください。神様。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ストロンチウム:ストロンチウム90は核実験における「死の灰」及び原子炉における核分裂で生成される。半減期は28年。カルシウムと混じって骨に沈着し、骨髄被曝による白血病の原因となる。

※セシウム:セシウム137は原爆や原子炉によって生成される核分裂生成物。半減期は30年。体内では血液に入り込み、筋肉などに集まり、ガンや腫瘍の原因となる。生殖腺被曝は深刻で遺伝に影響を及ぼす。

 

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逃れることができない試練 この地上からすべての原発をなくすために闘おう!

2011年11月12日 | 世界史的テーマ=フクシマ・原発

政府、12日に福島第一原発事故敷地内をマスコミに公開

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(11月12日の公開された福島第一原発の外観を報じるニュース映像:3号機建屋)

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(同上:4号機タービン建屋)

 今回の事故原発敷地内公開は、福島第一原発の事故からの「収束」作業の「前進」を印象付けるために行われた政府の人為的演出に過ぎない。敷地内公開でもあくまで原子炉建屋外からの事故原発の外観の公開に過ぎない。公開に立ち会えたのも記者クラブに限られており、フリーのジャーナリストや自由報道協会は排除されている。こんな「公開」に一体何の意味があるか?そもそも公開された事故原発の外観から受ける印象でさえも、およそ「収束」とは程遠い現状であることが確認できるだけだ(前掲ニュース映像参照。誰がこの外観をみて「収束」だの「安定」だの「前進」だのと思えるか)。

 第一原発事故から8カ月。政府・財界は、原子力事災害史上未曽有の人災として福島第一原発事故をひきおこしながら、そして、いま福島事故原発の内部が一体どのような状態になっているのかすら何人にもわからない現状にあり、誰の目にも「事故の収束」の「見通し」など何一つ立ちえない状況下にあるにもかかわらず、一方的に「冷温停止状態」による「収束工程表」の前倒し達成を確認し、「廃炉まで30年以上」と発表した。福島第一原発1・2・3・4号機中、1・2・3号機がメルトダウン、メルトスル-し、1・2・3・4号機の使用済み燃料棒貯蔵プールがすべて青天井になり砕け散った機材・炉材でおびただしい損壊状況にあり、建屋内や建屋を覆うシールドの中は大量の高濃度放射性物質と汚染水があふれかえっており、いまなお大量の放射性物質を大気中や地下水に拡散し続けている。「手のつけられない巨大な放射能の要塞」「地獄の底から吐き出すように死の灰、猛毒を放ち続けるボロボロ、グチャグチャに瓦解しつくした原子力設備」、それが福島第一原発の現状というものだ。にもかかわらず、政府・東電は、クロをシロといいくるめ、この現状を「事故収束への前進」とごまかしている。「ごまかし」という表現にはおよそおさまらないほどに天人ともに許さざることが、政府がいまやっていることだ。

 政府・財界・電力会社は、ベトナムへの原発の輸出を政府間で調印し、点検や定期検査で停止中の全国の原発の再稼働をあくまで推進しようとしており、新規原発の建設についても追求しようとしている。何の根拠も見通しもない「福島第一原発事故の収束への前進」をコトバだけ独り歩きさせようとしているのも一点、こうした原発推進政策の護持のためだ。

ここには人類の未来、私たちと子どもたちの命が懸っている!生き延び生き抜くためには何が何でも全原発を即時停止・廃炉しなければならない!

 人類史上最悪の放射線被曝・放射能汚染が、3・11福島第一原発事故によってひきおこされている、それは過去形で括れるような事態ではまったくなく子子孫孫何代にもわたって影響する事態がひきおこされ、いまなお事故原発本体において進行中の事態だということだ。

 放射線被曝・放射能汚染の危険のもとで避難地・疎開地から戻り得ないという現実、逃れることもできずその地で生きるしかないという現実、このいずれもが福島200万県民と子どもたちには厳存する。政府は事も無げに「事故収束への前進」「30年以上かかって廃炉」というが、「30年」という年月がいかほどの苦しみの歳月なのか、そのように言ってのける政府の人々はわかって言っているのか?!しかも「30年以上」経ても元通りになるわけではない恐るべき事態が原発事故でひきおこされている事態だ。なぜなら、福島200万県民、とりわけ福島の子どもたち、さらにはホットスポットとして次々と放射線被曝・放射能汚染の危険地域の住民とりわけ子どもたちにいかなる甚大な被害・犠牲がもたらされているのかが明らかになるのは、まさにこれからだからである。福島第一原発事故、そのもたらす全容について、いま分析したり予測することは出来ないからである。しかし、それは場合によっては起きない被害・犠牲に関する希望的観測という意味ではなく、確実に起きることが明らかな想像を絶する被害・犠牲の規模・レベルに対して向き合わねばならないという意味において、そうなのである。自分の意志に関係なく福島原発事故で放射線を浴び何がおきたかもわからなかった子どもたちが、今後被曝が自らにもたらしたものを病苦や症状で知る。その発症がない場合もいつ発現するかわからない苦悩と不安を抱えて5年、10年、20年、30年、40年・・・と被曝による苦しみと苦難を抱えながら生き抜かねばならない。原発とその事故が何をもたらしているか。目をそむけることはもうできない。いますぐすべての原発を停止・廃炉しなければならない。同時に、20年、30年、40年、・・・と超長期にわたる闘いとなることも明確にしなければならない。これは人間が人間として生きることができる社会、幸せになれる社会をつくれるかどうか、の闘いである。

 この険しさをこえて進むために必要なのは何か。福島の人々の怒り、苦悩の真っただ中にあってあくまで生き抜く「負げねど」、「原発(放射能)に未来を奪われてたまるか」の闘いである。この福島の人々と心を共にし、怒りを共にして、すべての原発をこの地上から一基も残さず廃絶する闘いである。原発(核)あるかぎり必ず行き着く先を福島第一原発事故は日本中、世界中、地球上のすべての人々に衝撃的かつ根底的に明らかにした。ヒロシマ、ナガサキ、ビキニで、スリーマイル島、チェルノブィリで明らかなことだった。だがそのことも含めて、原発(核)をめぐる一切合財、そのすべてを、私たちが後ろをみたとき、もはやそこには後はないもの(このままではこの先には人類に未来はないこと)として突きつけたのがフクシマ(福島原発事故)なのである。だから全国全世界で原発廃絶を求める運動が嵐のようにまきおこっている。この原発廃絶の闘いは、原発をカネ儲けの打ち出の小槌とし核武装を必要な国策として原子力にしがみつくほんのひとにぎりの支配階級とその政府を除くすべての人々がやり通さねばならない闘いであり、すべての人々が手を携え、団結すればできる闘いである。

 遼原の火のように燃え広がりつつあるこの反原発・脱原発の闘いの炎をもっともっと大きくし、実際に全国全世界の99%、いな99・9%の声と運動にまで燃えさかるところにまで、発展させよう。「99%、いな99・9%の声と運動」と強調するのは、まさにこの運動には人類の未来が懸っているからだ。

『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた -子どもたちのチェルノブィリ-』(※)からの抜粋による連載を始めます。

  ※梓書院:菊川憲司訳:チェルノブイリ支援・九州監修

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 ネット上である方のサイトから、この本を知り、購入し、ぜひ皆さんにこの本に載っているチェルノブィリ原発爆発事故で被曝した子どもたちの作文を読んでいただきたい、知っていただきたいと思い、当サイトでも抜粋または全文を転載で連載していくことにしました。

 この本にはチェルノブイリ原発爆発事故が起きた1986年4月26日当時幼かったベラルーシの子どもたちが、事故後約8年後(1994年3~4月)に「私の運命の中のチェルノブィリ」をテーマとする作文コンクールに寄せた500編をこえる作文のうち50編の日本語訳とイラストや絵が載っています。ベラルーシにはチェルノブィリ原発爆発による放射能の7割が死の灰として降り注ぎました。当時まだ幼かった子どもたちには何が起きたのか正確に理解できませんでした。そんな子どもたちに襲いかかった苦悩と悲しみがひとり一人の体験として綴られています。ベラルーシでは寄せられた500編から100編を収録し『黒い雨の跡』という単行本として発行され、ロシア語版、ドイツ語版も出版されることになりました。前掲のタイトルのこの本(日本語版)はその内50編を収録したものです。1995年6月初版1刷発行の日本語版のこの本が発行された当時も作文を書いた子どもたちは放射線被曝にさらされ続けています。

 この本の帯には、以下の二人の作文の一部が抜粋されています。

*私は16歳です。チェルノブィリの悲劇の中を生き続けるすべての人々と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまいました。1986年4月26日以前とその後に(エレーナ・ドロッジャ)

 

*私はゴメリの病院に送られた。病室の4人は全員白血病患者だった。うち二人はいまわしい死をやがて迎え、私とオーリャの二人が残った。真夜中、夢の中で恐ろしい叫び声と医者の声がしたが、目をさますことができなかった。朝になるとべ度が一つ空になっており、私の中で何かが崩れた(ジアナ・バルイコ)

 この本の「はじめに」で編集プロジェクトは次のように強調しています。

だが絶望や悲しみだけではない。取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまった無責任な大人たちを鋭く告発しながらも、自分たちとこれからの世代に希望をつないでいる。そしてなによりも、愛してやまないポレーシェの大地が再び実り豊かな大地として蘇ることを夢みているのだ。

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 当サイトの連載では、作品50編の抜粋または全文の転載でお伝えしていきます。記事に当サイトとしてのコメントは付しません。ベラルーシの子どもたちの作文が、またそれに接して読んでくださった方々の想いが原発廃絶へ99・9%の声と運動に連なっていくことを確信しています。当サイトのカテゴリーでは『子どもたちのチェルノブイリ』連載と表記します。

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11月6日日比谷野音大集会  怒りの福島と結び5950名が不退転の決意で戦いを宣言

2011年11月06日 | 福島に連帯、放射能から子ども守れ

 

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(11・6日比谷大集会:5950名が怒りと戦いの決意のこぶし)

 11月6日、私たちは5950名が日比谷野外音楽堂に結集し、この地球上からすべての原発を一基残らずなくすまで、人間(労働者人民)の命よりカネがすべての1%の支配階級とその政府をうちたおし、私たち99%の労働者人民が幸せに生きることができる社会にするまで、徹底して闘いぬくこと、この未来を切り開くために後戻りすることのない徹底した闘いをおしすすめることを固く堅く誓いあいました。

福島の人々と心をひとつにして

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(写真は当サイト読者が送ってくださったもの:「福島の女たちに続け!全国の女たち」の11月4日のデモ。10月27日から29日の3日間、「原発いらない福島の女たち」は「ついに・・・女たちは立ちあがり、座り込む」の経産省前座り込みを決行し、その闘いは「全国の女たち」の5日までの座り込みにひきつがれた)

 私たちは何よりも福島の人々の怒りと訴えに応え共に闘うことを誓いあいました。集会には参加していない人々もぜひ以下の発言を聴いてください。子どもたちの未来を賭けて、人類の明日を賭けて、すでに戦いは始まっています。以下、11・6当日のyoutube動画転載を中心に集会報告とします。

 【11・6日比谷大集会での福島からの発言】

元福島県教組委員長・清野和彦さんの発言

http://www.youtube.com/watch?v=i8gkC66cI_U

子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク・中手聖一さんの発言

http://www.youtube.com/watch?v=RuFQh5ahawk

子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク・佐藤幸子さんの発言

http://www.youtube.com/watch?v=6xUJElhozRM

子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク・椎名千恵子さんの発言

http://www.youtube.com/watch?v=tLBjZ9peIwY

 全世界と結んで

 日比谷大集会には、韓米FTA締結に反対し国会構内突入が闘われた韓国から民主労総が、オークランドで全港湾・銀行を封鎖・シャットダウンに追い込む11・2ゼネストをその先頭で闘い抜いたILWU(国際港湾倉庫労働組合)からローカル21が、世界で反原発・全原発停止の先頭で闘っているドイツから職場・組合・社会運動フオーラムの代表が参加し国際連帯アピールを行いました。

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 集会では滞日・在日外国人労働者が登壇し、難民支援と国際連帯を訴えました。

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 集会には、アメリカ航空機整備工労組(AMFA)本部委員長、ロサンゼルス統一教組(UTLA)、アメリカCAMS(学校の軍事化と闘う連合)、ドイツ・ゴアレーベン核廃棄物最終処分場に反対するリュヒョー・ダネンベルグ環境保護市民運動、フィリピン航空従業者組合(PALEA)、トルコ国際労働者連帯協会(UID-DER)、オーストリアGKK(グループ・階級闘争)からメッセージが寄せられています。

 集会には徳島刑務所に無実の身で獄中に37年間にわたって閉じ込められている1971年11月沖縄返還協定批准阻止闘争の星野文昭さんからのメッセージが寄せられている。星野さんは「労働者人民としての人間史を開く主人公としての存在と力に確信を持ち、すべての闘いを通して、その存在と力をひとつにし団結して取り戻し、強め勝利しよう」と呼びかけている。11月27日には獄中37年を打ち破ろう星野再審全国集会が予定されている。現在、星野さんの不屈の闘いと獄外の闘いの結びつきを断つために「洗面器の置き場所」や「新聞閲読中の投薬」を口実に徳島刑務所はためにする理不尽な処分を加え、星野さんの友人との自由な面会を拒否する暴挙に出ています。その獄中弾圧をはねかえして星野さんから寄せられた反原発・反失業闘争への連帯と檄です。

労働運動の変革へ、全国の職場、地域から闘う労働組合運動をよみがえらせよう

 大集会を呼びかけた全日建運輸連帯労組関西地区生コン支部から高英男副委員長は「私たちの闘いはいまだ少数。しかし、少数でも闘い方によっては社会を変える力を持っていることを示した。生コン産業ゼネストのような闘いを多くの地域、職場でつくりだすことができれば、大企業を優遇し、労働者を苦しめる社会を変える力となる」と訴えました。

 同じく呼びかけ団体の全国金属機械労働組合港合同からは、中村吉晴副委員長が「どんな強大な敵であっても必ず弱点はある。弱点を探し出し、追及し攻撃を加え、労働者が主人公の社会をつくろう」と呼びかけました。

 同じく呼びかけ団体であり、JR東の鉄道業務外注化の攻撃に対して10月構内業務外注化の実施をストライキで阻止した国鉄千葉動力車労働組合からは田中康宏委員長が、11月5日から基地大再編・組合組織破壊攻撃に対しる指名ストライキに入ったことが報告され「労働運動の変革」「闘う労働組合の再生」が訴えられました。

国鉄千葉動力車労働組合委員長・田中康宏さんの発言】

http://www.youtube.com/watch?v=sVYhSGdMp1s

 

 呼びかけ団体の国鉄分割・民営化に反対し、1047名解雇撤回闘争を支援する全国運動からは呼びかけ人の伊藤晃さんが「『国民は一体、がんばろう日本』のスローガンは3・11以後、被災地の人々の生命と生活の根源を守る闘い、それに呼応する闘いを地の底に埋め込み、バラバラに孤立させるためのスローガン。私たちはこれに対抗して広く運動の連帯をつくりだし、世界の労働者民衆と合流しようとしている。この闘いを前進、拡大させよう。最大の課題が労働運動の再建だ」と訴えました。 

 闘いの最前線から、三里塚芝山連合空港反対同盟、憲法と人権の日弁連をめざす会、原発とたたかう全国の医師たち、とめよう戦争への道!百万人署名運動、沖縄行動団、すべての原発いますぐなくそう全国会議(NAZEN)の発言、そして国鉄千葉動力車労働組合、国鉄水戸動力車労働組合の青年労働者の報告と決意、郵政非正規ユニオンはじめ全国の青年労働者の決意表明が一人1分のリレーで行われました。リレー決意表明ではNAZEN東京西部の先頭で闘っている東京西部ユニオンの鈴木コンクリート工業分会も組合員への不当処分との徹底的な闘いの決意を表明しました。

原発再稼働阻止!12月10日さようなら原発・日比谷野音大集会・12月11日反原発全国統一行動にたちあがろう

【11・6日比谷集会でのNAZEN事務局長の織田陽介さんの発言】

 http://www.youtube.com/watch?v=Uc88NWcUJMY

 

 織田な全事務局長は、全国の職場・地域での労働組合の再生と全国の大学での学生自治会の再建を強く訴えるとともに、福島の女たちは経産省前に座りこんだ、全国の学生たちは文科省に対する行動を開始した、被曝医療が焦点になる中で厚労省への闘いが求められている、農民はTPPで農水省を占拠し、弁護士は法務省を焼き尽くすような怒りの闘い、国会、首相官邸、霞が関を占拠する、そういう闘いにたちあがっていく、12月10日のさようなら原発・日比谷野外音楽堂大集会と12・11反原発全国統一行動に全力で決起しようと呼びかけました。

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!!!!!!  杉並でも小学校で高放射線量・・・・・・・杉並区発表

//////////////////毎日新聞報道から////////////////////////////////////////////////////////////////////////

放射性物質:東京・杉並の小学校で高線量 ビニールシートにたい積か

 東京都杉並区は4日、区立堀之内小学校の体育館棟外側に置かれた芝生の上に敷くビニールの「養生シート」から高さ1センチで、毎時3・95マイクロシーベルトの放射線量が検出されたと発表した。

 区によると、シートは霜害を避ける目的。福島第1原発事故が起きる前から、校庭の芝生(1890平方メートル)の上に敷かれていた。シートは折りたたまれた状態で保管されたため、放射性物質が1カ所にたまり、高い線量になったとみられる。

 シートを撤去したところ、線量は地上1センチで毎時0・13マイクロシーベルトに下がった。シートが置かれていた場所の周辺は、普段から児童は立ち入り禁止となっていた。【吉住遊】

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(10・23高円寺デモ)

 原発推進の田中杉並区政による高円寺中央公園使用不許可をはねかえして10・23反原発高円寺デモを闘いとったNAZEN東京西部にとっても杉並での重大情勢です。反原発闘争は、文字通り首都圏でも「子どもたちを放射能から守れ」の決戦的な大運動になります。全杉並の運動にしよう。杉並の職場、地域で闘いをおこそう。田中区政の足下=杉並区職で職員(正規・非正規)の決起をつくりだそう。

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