わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
-子どもたちのチェルノブイリ-
(梓書院:1995年6月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修)
抜粋による連載(第7回)
【第一章 突然の雨・・・・】<o:p></o:p>
ハッカの匂いがした
オリガ・ジェチュック(女・十九歳)
第二中等学校十一年生 ミンスク市
母が医者のところから帰ってきて、私にすべてを話した。論理的にいえば私はそこで泣くという場面だったろう。「ママ!なぜ私が、どうして」と。だが、私の代わりに母がそのことをしてくれたのだ。母は子どものように手の甲で目をこすり、泣き始め、問うのだった。「オリガ!何でお前が。お前が死ななくっちゃいけないの」私はただ唇を結んだまま、だまって途方にくれるだけだった。どうしていいか分からなかった。私はまだ一度だって死んだことがないのだから。
どことなく胸がひりひり痛んだ。私はどうしても恐ろしい知らせを理解することも信じることもできず、精神状態が不安定の中で、何度もつぶやいた。「これは何かの間違いだわ。こんなことある訳がない。私は死なない、こんな若さで死ぬことなんてことはないわ!」私はやけっぱちになって叫んだ。「わたしはまだ十九歳なのよ!」と。
しかし、見えないハンマーが、重たいばかげた言葉を吐き出させた。あと二年。いや一カ月。残った時間は・・・・・・・」と。いままで私は「残り」時間がどのくらいか、などと考えたことはなかった。
私は小さい頃のことをよく覚えている。毎朝、母は私を幼稚園に連れて行ってくれた。いつも寒かった。母はいつも古ぼけた秋用のコートを着ていて、寒さに震えているように見えたので、私は母が寒くないよう風をさえぎるようにくっついて歩いた。私と母は二人で生活していた。父は一緒に住んではおらず、祭日にだけやってきた。いつもキャラメル三個がお土産だった。父は正確さと一貫性が好きで、数字の三も好きだった。今、父には三人の息子がいる。もうキャラメルを持ってくることはない。
幼稚園では、私は活発で、明るい女の子だった。遊びながら私は、一緒のグループの男の子全員とキスをしたりしていた。これは「いけない」行為だった。もちろん良いことではない。ある日、母は早めに私を迎えにきた。私は着替えをしていて、女の子たちが走ってくるのが見えた。彼女たちは「オリガちゃん、逃げて、コースチャがキスしに来るわよ」と叫んだ。恥ずかしさで、私は穴にでも入りたい気持ちになった。「どういうことなの」と母は青ざめた顔で静かに私に質問した。私は黙ってしまった。
私の幼年期は面白いものだった。少女期はと言うと奇妙だった。私は友達のお兄さんであるアルトゥールを好きになってしまった。彼はやせ気味で背が高かった。私には世界でもっとも美しい男に見えた。神様、私はどんなにか彼を好きだったことでしょう。夜空の星々に、数えきれない彼の笑顔が見えた。彼から電話があれば、すぐさまどこへでも飛んで行くつもりだった。もちろん、彼が電話などするするはずがない。彼は私が恋い焦がれているなんてなんにも知らないのだから。そして、とうとう彼が美しくて華やかなファッションモデルの人と結婚するというニュースが飛び込んできた。彼は幸せだという話を聞いた。その時、私はまだ子どもで、目立たなくて、美しくもなかった。私は泣きじゃくった。ほほを冷たい窓グラスに押しつけ、夜空の星をながめようとした。でも空は雨雲が覆っていた。
世間知らずの子どもは大人の男に恋い焦がれる。それはおかしなことだろうか。私は気を取り直してすべてを忘れ、いたたたまれない失恋の痛みを胸の奥底で堪え忍んだ。日常の生活に戻った私は、学校の授業に出るようになった。あまり勉強ができる方ではなかった私は、何日もかかって宿題を機械的に無理に頭に詰め込まなければならなかった。
休みになると母と一緒に、ゴメリに住む祖母のところへ出かけた。そこで私の悲劇が始まった。その日、空気にハッカの匂いがした。頭がくらくらするような太陽の日差しが襲ってきて、鳥はまるで正気を失ったかのように鳴いていた。予期しない幸せに、なぜだか突然私は泣きたくなった。私は一日中外にいて、太陽にあたった。一週間後にはじめて、原発が爆発したことを知った。
そのあとには、恐怖、パニック、奔走、そして涙があるだけだった。ゴメリから脱出するためのチケットがなかなか手に入らなかった。鉄道にもバスにも、泣きながら頼んだが、だめだった。だれもわれわれのためにチケットをとってくる人はいなかった。そのとき、私は自分の肉体の中で何が起こっているかを知らなかった。つまり、セシウムが骨に蓄積し、筋肉が被曝したということを、何年もたってから、医者へ行ってきた母に、私は末期のガンであると聞いたのだ。
どうすればいいのか。私はそれほど頭がいい方ではない。使途は素晴らしいものであると証明するような、何か美しい哲学を考えつくことはできない。そして、私は神も信じない。
教会に行ったときのことを思い出す。そこは薄暗く、香と汗のにおいが充満していた。よくとおるテノールの声がひびきわたる。群衆は何度も十字を切り、なにかをぶつぶつ言っている。私のとなりのうつろな目をた女性は、ちょうしのはずれた声でお祈りしている。「神様、お慈悲を。カミ・サーマ・オ・ジヒ・ヲ」子どもたちは、どういうお願いがあるのか分からないが、特徴のある発音で、奴隷の早口言葉を繰り返していた。わたしはいたたまれなくなり、出口に突進した。
人は将来への幸福の夢で、現在をなぐさめるために神を考え出した。私は強い。信じないから、なぐさめ入らない。もし神がいるのなら、チェルノブイリの悲劇は起こらなかったはずだ。
入院患者用の服を着た幽霊のように青白く、目の下に恐ろしい斑点ができた女の子が、細い指で強く私の手を握り締めながら話した。「おかしいでしょう?」と彼女は言った。彼女は私に何回となく、自分の生い立ちを話すのだった。しかし、わたしはなぜか笑うことができなかった。彼女の目は燃えているようだった。このオーリャは白血病で、あと一カ月の命と宣告されていた。これはまったくおかしいことではない。彼女の笑みは私の胸を痛めつけ、わたしはどなりたくなった。「何で笑っているの。ばかじゃない。死ぬということは、永遠の別れなのよ」と。私の考えに応えるように、彼女は笑うことをやめて窓の方を向き、ゆっくりとこう言った。「しぬということはもちろん怖いことよ。私のことを書いて、お願い。父がそれを読んで、私のことを知るわ。父は一度もここに来たことがないの」彼女は手のひらで、乾いた目をこすった。
チェルノブイリが語られるとき、わたしはなぜか巨大な原発、石棺、黒鉛棒の山を連想することもなければ釘付けされた家、野生化した犬、詩と腐敗の匂いのする汚染地区の姿が現れてくることもない。私はただ、死んでいくオーリャを見つめているだけだ。彼女はまるで四六時中詫びているようだった。彼女は死ぬことと、そして、生きてきたことの寛大な処置を乞うのだった。
オーリャはお母さんを愛していた。オーリャは生命を愛していた。
かわいそうなオーリャ。どうしたら、放射能が充満し、神様さえも見離してしまったこの世に生きることが好きになれるの。人間の愚かしさに呪いあれ。チェルノブイリに呪いあれ!<o:p></o:p>