すぎなみ民営化反対通信

東京・杉並発。「一人が万人のために、万人がひとりのために」をモットーに本当のことを伝え、共に歩んでいきたいと思います

『子どもたちのチェルノブイリ』連載【第50回】わたしたちの涙で雪だるまが溶けた

2012年09月18日 | 『子どもたちのチェルノブイリ』連載
 >今日が抜粋連載(50回シリーズ)の最終回になります。この今回抜粋した作文の表題「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」が、抜粋・転載した本のタイトル『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた(副題ー子どもたちのチェルノブイリー)』となっています。抜粋・転載しながら思ったことは、チェルノブイリとは文字通り、今日明日の、また数年後、10年後、20年後、25年後・・・のフクシマであることであり、また数年後、10年後、20年後、25年後・・・のフクシマとは既に現れているチェルノブイリだということです。フクシマが直面・対峙している現実と未来に、フクシマを共有して立ち向かわねばなりません。原発・核は絶対になくさなくてはなりません。涙が流れて止まらない、その涙を振り払って私たちが固く誓い、約束し、立ち向かい果たさねばならないことは、この責任です。

 この重い現実と切迫した課題が眼前にありながら、本当に許しがたい事態が政府財界によって引き起こされています。野田政権が「脱原発」「2030年代原発ゼロ社会をめざす」と言いながら、「原子力規制委員会で安全性が確認された原発はすみやかに再稼働する」「新規増設はしないが建設中の大間・東通・島根原発は建設を再開する」「もんじゅは継続する」「核燃サイクルは継続する」としていることです。「革新的エネルギー・環境戦略」とは、性懲りもなく再稼働を積極的に推進し、原発推進の原子力政策をとことん進めるというものです。これが3・11福島原発事故をひきおこした政府財界が進めようとしていることです。被曝労働でどれだけの労働者を殺すことになろうが、放射能でどれだけの子どもたちが今後何十年にもわたって殺され続け、病に襲われ続け、未来を奪われ続けようが、「いのちより原発」「命よりカネ」「命より原子力・安全保障」が第一だというのです。絶対に許すことはできません。命の叫びを「音」としか感じず、無視してよしとする政府は、労働者を先頭とした命の反乱によって倒されなくてはなりません。チェルノブイリはソ連崩壊の導火線となった。怒りのフクシマと人々の命の反乱は原子力(原発と核)を命に勝る国策とするこの国を必ずや瓦解・崩壊させるものになります。そうしなければなりません。



 ★連載(最終回)★  

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
-子どもたちのチェルノブイリ-


梓書院:1995年6月初版一刷発行。菊川憲司訳。チェルノブイリ支援運動・九州監修

抜粋による連載(第50回

【 第六章   森よ、河よ、草原よ・・・ 】

私たちの涙で雪だるまが溶けた

        イ―ゴリ・マローズ(男)第四中等学校十一年生 シュクロフ町

 
祖母の住むマリノフカが汚染のひどいところだということを、当時はまだ誰も知らなかった。そこにはずっと昔から、野生のナシの木があった。いつごろからあったのか誰も知らなかったが、それは祖母の庭に生えていた。

その夏、マリノフカには、すでに放射能が舞い降りていた。しかし人々は、これから恐ろしい不幸が起こるなどとは予期していなかったし、誰もこの古い大木にも死の兆候があらわれているなど、思ってもみなかった。

その木は、庭のほとんど三分の一を日影にするので、村の人たちは何度もこの木を切り倒すよう祖母に助言した。しかしその都度、祖母は断り、こう言った。「そんなことしちゃだめなんだよ。その昔、この木の下に、罪のない女の子の血が流されたんだから」と。

遠い昔の農奴の悲しい死の伝説を知っている人はたくさんいたけれど、みんながそれを本当のことだと信じていたわけではない。だけど私の祖母は信じていた。この驚くべき古木は、祖母にとっては聖なるものなのである。

僕のいとこのナジェージュダは、このナシの木が好きだった。その年の夏休みにも彼女は祖母のところにやって来た。その夏は、蒸し暑く、沈んだ雰囲気だった。でもおばあちゃんのいるマリノフカは、とても美しかったし、広々としていた。ナジェージュダは夏中、祖母の菜園に滞在し、種蒔きなどの手伝いをした。また彼女は森へ行って、イチゴやキノコを集めたり、近くの川で日光浴や水遊びをしたりもした。

ある日、地区の何だかえらい人が来て、「村の土や水や空気はとてもきれいであります。ここには安心して住んでいただきたい」と言って帰って行った。だから村人たちは安心して住み続けた。

大きく枝を張り、葉を茂らせたナシの木の下で、ナジェージュダは水彩画を描いた。彼女は画家になることを夢見て、美術研究所で勉強していた。彼女はその夏、とても美しくなった。十五歳だった。少女からレディになった。彼女は日記を書き始め、そこには秘密の想いや印象を書き残した。しかし、この日記には、その後腫瘍専門病院での苦しみが書かれることになる。彼女の日記に書かれたことは全て、言葉では言い表せられないほど、僕を揺り動かした。とりわけ最後の十日間分の内容はそうだった。何という希望、生への渇望、人間的な尊厳だろうか。何という悲劇、取り返しのつかない災いを感じていたのだろうか。今、この日記は僕の手元にある。僕はこの勇気と真の崇高さが記されたナジェージュダの日記の、最後の数日分をここに紹介したい。

三月一日 
 第十二号室の男の子たちが、春のお祝いを言いにやって来た。病室には、もうすぐ春が来るというのに、不幸な私や男の子たちがいた。通りにはまだ雪が残っていて、彼らは雪だるまを作り、病院の大きなお盆にのせて私たちの病棟に持って来てくれた。雪だるまは素晴らしかった。それをつくったのは、と―リャに違いない。彼は彫刻家を夢見ていて、いつも粘土で何かを作っているから、彼は化学治療のあと、ベッドから起きることを今日ゆるされたばかりだ。トーリャは、みんなの気分を盛り上げようとしたのだ。「だって、春が始まったんだから!」その雪だるまのそばにはメッセージがあった。「女の子たちへ。みなさんにとって最後の雪です!」と。「なぜ最後なの?本当に最後なの?」私たちは、ひとりまたひとりと泣きながらたずねた。 雪だるまは少しずつ溶けた。それは私たちの涙で溶けてしまったように思えた。

三月二日
 今日おばあちゃんが来てくれた。大好きな、大切なおばあちゃんだ。彼女は私の病気の原因が自分にあると思っている。おばあちゃんに大きなナシの木の伝説を話してとお願いした。その大木の下で空想するのが好きだった。だけど、そこはチェルノブイリ事故の後は大きな原子炉になったみたいだった。
 絵に描くためにおばあちゃんの話を細かいところまで漏らさないように聞いた。おばあちゃんは静かに穏やかに話し始めた。
  「昔々、農奴制があったころのことでした。金持ちの領主が、貧しいけれど美しい娘を好きになりました。そして力づくで娘を城に連れてきたのです。マリイカは―この娘の名前ですが―ずーっと城の中で泣き悲しんでいました。ある日、この悲しい娘は、鍵番の青年の手助けで、彼と一緒に城の領主のもとから逃げることができました。しかし、領主の使用人たちは、隠れるところのない草原に彼らを追い詰めました。無慈悲な領主は激怒して叫びました。『おまえが俺のものにならないというのなら、誰のものでもなくしてやる』と。領主はサーベルで娘に切りつけると、その不幸な逃亡者は大地に崩れるように倒れました、その罪のないマリイカの血が流れたところに、美しい野生のナシの木が生えたと言われています。・・・・・・これが私がずっとナシの木を守って来た理由なのよ。でも今はな、ナジェージュダちゃん、もうこのナシの木はなくなってしまったの。どこからかクレーン車が来て、このナシの木を根っこから引き抜いてしまったの。ナシの木があったところには、セメントが流し込まれ、何かのマークがつけられたの。
 もうみんな村から出ていってしまったわ。私たちのマリノフカは、空っぽになってしまったの。死んでしまったのよ」
 おばあちゃんが帰るとき、私には頼みたかったことがあった。私が死んだら、墓地には埋めないでほしい。それが心配だ。美しい草原か白樺林がいい。お墓のそばにはリンゴかナシの木を植えてほしい。でもそんなことを考えるのは嫌だ!草にはなりたくない。生きなければならない。生き続ける!病気に打ち克つ力が充分にある。そう感じる!

三月三日
 できるかぎり痛みをこらえている。おばあちゃんの肖像画が完成した。お母さんが、この絵を見て感動し、「ナジェージュダ、おまえにはすばらしい才能があるんだね!」と言った。主治医のタチアナ先生は、私に勇気があったから治療も成功したと言ってくれた。元気づけられた。神様お願いします。持ちこたえ、生き続ける力をお与えください。お願いします。

三月四日
 医者はよくなっているというのに、どうして体力が落ちているのだろう。どうして急に病棟が騒がしくなったのだろう。点滴のあと、この日記を付けている。どうしてほとんど良くなっていないのだろう。同じ病気の友だち、ガーリャ、ピーカ、ジ―マが私を見るとき、何か悲しそうな目をする。今まで以上に同情してくれているのがわかる。彼女たちも同じような境遇なのに。わかった、誰も人間の苦悩を見たくないからだ。だがどうしようもない。ここの病棟は満員になっている。タチアナ先生の話では、三年前には、入院患者はほとんどいなかったそうだ。これらのことは全て、チェルノブイリ事故によるものなのだ。この不幸をもたらした犯人を、ここに連れて来て、この病棟にしばらくいさせたいものだ。自分のやったことの結果を見せつけたい。
 アンナ・アフマートバを読み始めた。「私は最後のときを生きている」というテーマで絵を書きたくなった。

三月五日
 一〇号室のワ―ニャちゃんが死んだ。大きな青い目をした金髪の男の子で、病棟のみんなから愛されていた。まだ七歳だった。彼はここに来る前に、ドイツに治療に行ったこともある。昨日、ワーニャちゃんは自分の誕生日のお祝いだからと、全員にキャラメルを配ってくれた。私たちもお祝いに病室に行ったら、とても喜んでくれたのに。神様、あなたはなぜ、みんなに平等に親切ではないのですか。どうしてワ―ニャちゃんが・・・・・・。何の罪もないのに。

  三月六日
 どんな痛みでも我慢できるようになった。お母さんがその方法を教えてくれた。私の胸に、病室の入り口に立ちつくす母親たちの姿を焼きつけることを考えついた。母親たちは、私たちより苦しんでいる。彼女たちを見ていると、我慢しなければと思い、希望を持たなければと思う。
 不幸を共にする仲間が、どんなに痛みと闘っているかを見たことがある。それは十五歳のボーバのことだ。母親は医者のところに走り、医者は彼に痛み止めの注射をする。薬の効く間だけ苦しみのうめきは止まり、泣き声はやむ。今後この少年はどうなるのだろう。私たちはどうなるのだろう。
 私が思うには、チェルノブイリの惨事は、人間の理解を超えたものの一つである。これは人間存在の合理性をおびやかし、その信頼を無理やり奪い去るものにほかならない。

三月七日
 今日、デンマークの人道的支援組織の人が来た。この病室にも、ふわっとした金髪の女性が入ってきた。とても美しく、魅力的な人だった。私のそばに座り私の頭をなでると、彼女の目に涙があふれてきた。通訳の人の話では、数年前、彼女のひとり娘が交通事故で突然亡くなったそうである。この外国のお客さんは、身につけていた十字架のネックレスをはずし、私の首にかけてくれた。子どもに対する純粋な愛は世界中の母親、みな同じであることを感じた。

三月八日
 今日は祝日。机には、オレンジ、バナナ、ミモザ、アカシアの花束が置いてある。それには、詩が書いてある美しい絵はがきが添えてあった。
   望みは何かというと
   あなたがよくなりますように
   あなたに太陽が輝きますように
   あなたの心が愛されますように
   あなたのすべての災難と不幸が
   勝利にかわりますように
 私たちはいつも健康と幸福を望んでいる。ただ勝利だけを。恐ろしい病気に打ち克とう。幸福はあなたのものだ。
 病院の講堂で国際婦人デーの集会が開かれた。トーリャと一緒に踊った。でもそれは少しだけ。すぐに目がまわりはじめるからだ。友だちが私たちは美しいペアと言ってくれた。

三月九日
 おとぎ話は終わった。再び悪くなった。こんなにひどくなったことは今までなかった。朝から虚脱感がひどく、けいれんが止まらないが、薬はもう効かなくなった。最も恐ろしいことは、髪だ。髪が束で抜ける。私の頭からなくなっていく。
 回診の時にタチアナ先生は、治療はもう完了したので、あとは自宅で体力を回復させなさいと言った。私は先生の目をのぞきこんだ。そして理解した。全てのことを。

三月一〇日
 おかあさんは私の好きなコートを持ってきてくれた。それを着れば私だってまだこんなにかわいいのに!私はやっと歩いて、病棟のみんなに別れを告げて回った。さようなら、みんな、私を忘れないでね!私もみんなのこと忘れないから!
 ナジェージュダは三月の終わりに死んだ。日記の最後はラテン語の「ViXi(生きた)」で結んであった。彼女は自分の人生で何ができたのだろうか。彼女は何を残したのだろうか。何枚かの風景画とスケッチと肖像画、それと大地に残る輝かしい足跡だ。
 みなさん。子どもたちの無言の叫びを聞いてください。援助に来て下さい。髪も悪魔もいらない。ただ人間の理性と優しい心だけが、痛み、苦しみぬいている大地を救うことができるのです。みんなで一緒になって初めて、チェルノブイリの恐ろしい被害を克服することができるのです。

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