一瞬一瞬を大切に!

毎日を大切に楽しく過ごしたい

昨日のベス

2011-10-30 18:48:58 | Weblog
いつものように陽が射しはじめて、ベスはいつもの場所でノンビリ眠っていました。
かなり暖かくて私も半そでいた位です。
お使いに行くときにふと見たらベスがいつもの場所にいないので、どうしたのかとよく見たら何とちゃんと奥の日陰にいました。
長生きしている野ラちゃんは凄い!
またまた感激です。
ベスは用心深いし、お利口さんです。


なまずって本当に凄い能力を持っているのだ!

2011-10-28 10:47:35 | Weblog
昨日知り合いの方が坊ちゃんと見えて伺った話です。
彼は付属の小学校六年生です。
あの3月11日は何処にいたのと言う話になりました。
彼の話によると、学校で飼っているなまずが凄い勢いで何度も水から飛び出ようとジャンプをしていたのを生徒の一人が気づいて、これは地震がくるのかも知れないと騒ぎ出し、先生もそうだ今日は皆早く帰宅した方がいいと言う事になり、授業も中止、下校になったのです。彼も皆と一緒に走って駅に行き電車に乗り帰宅すると同時に揺れ出したと言います。
何といいタイミングだったでしょう。
なまずに気づいた生徒さんも立派。
そして生徒たちを素早く帰宅させた先生も立派だったではありませんか。
それにしてもなまずの話って本当なのですね。
なまずに敬服!

ピッピとベス

2011-10-27 21:35:00 | Weblog
今日は昼間は穏やかに晴れていい一日でしたね。
朝晩はめっきり寒くなりましたけれど、お日さまが出てくるとベスは巣から出てきて、このいつものお気に入りの場所で日向ぼっこです。彼女もこの前一度吐いていましたが、それでも最近は落ち着いているようで一安心です。
ピッピはやはり前足が弱ったらしく、散歩でも急いで歩くとケンケンします。
仕方ないですね。
でもご飯はびっくりするくらい二人とも沢山食べるようになりました。
夏の頃には思いもしなかったですのに。
嬉しいです。
元気で二人とも寒い冬も乗り切ってね!








やがて来たる者へ

2011-10-22 17:50:56 | Weblog
岩波ホールで鑑賞しました。

1944年9月29日未明から10月5日までの7日間、北イタリアのボローニャ近郊、モンテ・ソーレの山村で起きたドイツ、ナチス軍によるイタリア国内最大の住民虐殺事件だった。
これは事実に基づいて描かれた映画。

実際第二次大戦は独、伊、日の同盟国と米、英、仏、ソ等の連合国間に起きた戦争だった。ではなぜドイツが同盟国のイタリアに攻め入ったのか?
1943年7月に連合軍がシチリア島に上陸、イタリアとの地上戦に入った。この事態にイタリア側は連合軍との休戦協定を結び、イタリア軍隊は混乱し解体状態になった。
連合軍側はナポリ南方を占領下においた。
一方ドイツ軍はナポリから北の全地域を占領した。
ドイツ軍に救出されたムッソリーニは、北イタリアのガルダ湖畔サロ(ミラノとヴェネチツィアの中間に位置する)にイタリア社会共和国を新たに樹立し、ドイツ軍と共に北、中部イタリア地域を統治した。
一方これとは別に、反ファシズムを掲げる諸政党がイタリア再建を目指して国民開放委員会を結成、地下活動を始める。
これには政治活動家、元兵士、一般人などが参加、パルティザン部隊を作り、ドイツ占領軍と新ファシスト軍に対するレジスタンスが始まった。

この映画はこのパルティザンとモンテ・ソーレの村人達の話だ。
8歳の少女マルティーナ。自分の腕の中で弟が死んで以来言葉を失ったのだ。
彼女の目を通してドイツ軍とパルチザンとの戦いが展開される。
自分にパンを分けてくれたドイツ兵が、パルチザンに捕われ墓を掘らされて銃で撃たれ穴の中に落ちていく姿を垣間見たマルティーナ。
彼女の母は再び男の子を産むがドイツ軍に捕まり撃ち殺される。
弟を森に隠して、自宅に帰って食べ物を必死に探す彼女。
結局父親もドイツ軍に撃ち殺される。
最後に赤ん坊とマルティーナは神父一家に救われ難を逃れるのだが、村人達がドイツ軍に虐殺されるシーンは目を背けたくなる。

この犠牲者は771人以上
12歳以下の少年、少女、幼児189人
12歳から18歳が30人
18歳から60歳男性161人
同女性が315人
60歳以上の老人76人
このうちパルチザンとみなされるのはたった50人程だった。
この時の事件は三村で、このうちの一つの村の名マルザボットからマルボットの虐殺と呼ばれている。
イタリアではこの村だけでなく、他の村々でも同じようなドイツ軍による村人達の虐殺があったがこのマルボット村が一番沢山の犠牲者が出ていると言う。

この映画には殆ど音楽が流れない。
牛の鳴き声や人々の会話の声、そして銃の音だけだ。
ただ最後にマルティーナが赤ちゃんを抱きながら歌う子守唄が小さく流れる。
彼女が丸太に座って弟を抱いて歌う子守唄を後ろ姿で映し出して終わる。
マルティーナに声が戻ったのだ。この場面が唯一心温まるシーンだった。

未だに戦争が世界の国々でおきている。
あのベトナム戦争だって、ベトナムでは未だに沢山の奇形児が産まれ、枯葉剤を撒いたアメリカ軍も故国に帰って枯葉剤の毒に悩まされているではないか。
戦争は負けた側は勿論、勝った側にも多くの犠牲が伴うものだ。
この世から戦争と言う名の争いが無くなる日が来る事を祈りながら見た映画だった。

イチジク

2011-10-21 16:26:17 | Weblog


お隣になったイチジクです。お隣は嫌いだそうで毎年そのまま朽ちていました。
可哀そうに折角実がついたのに実を取らないなんて、美味しそうなのに勿体ない、許可を得て取って食しました。
ちょっと癖があるので誰でも好きと言うわけにはいかないでしょう。
でもすごく栄養豊富、なにせアダムとイブの時代からある木。すごい生命力です。
私もスタミナが付いたかしら?
毎朝少しずつ頂いています。

ベス元気です。
時々くしゃみみたいな咳をしていますが、ご飯は少しながら食べ、足りないと催促します。
ピッピ、耳は全く聞こえないです。
前足も片方痛いのか時々ケンケンします。
お互い歳だもの仕方ないわね。


今日も三人でやって来ました!

2011-10-14 10:37:56 | Weblog
お目当てはまたたびです。
散々ひっくり返ったり、転げまわったりして一時を楽しんで帰って行きました。
面白い三人組みですね。

ベスはしらけたのか遠くから見ていました。
後で見たら朝の陽を浴びて寛いでいました。
お利口さんね!










ロンに左頬をやられたのね






ホームへ

2011-10-12 15:58:31 | Weblog
一昨日の10日ホームに息子夫婦、義妹の弟と行きました。
相変わらず家に帰りたいの連発です。
そして悪い事に5~6年もあった事のない彼女の従兄弟夫婦が前日見舞いに来て、その痩せぶりにびっくりし、こんなところにいたら殺される、肺専門の病院に入院せよと言ったらしいのです。無責任な!今までの事情も知らずこんな事言われたら、今まで周りで世話してきた人達にとっては本当に本当にいい迷惑な助言です。久しぶりに見舞いに行く時は親族にどういう様子か尋ねてから行くべきだと教えられました。病院は2つとも彼女の我儘と認知症で騒いだため断わられているのです。
私は彼女の息子に帰ったら即刻お礼を兼ねて電話し、状況を説明しなさいと言っておきました。
それでも入居金を入れるための銀行の用紙にはすんなりサインしました。
昨日嫁が銀行に行き、実際本人が承諾したのか聞くため銀行から彼女に直接電話を入れたら、これもすんなり行って、すべての手続きが終わったと安堵していました。
親を見るのも大変な事です。

彼女のいた家は今は誰もいないので、今まで窓から見えた電気も消えていて楽ではあっても寂しいものですね。
ピッピもいつもおばちゃんからおやつをもらっていたのを覚えていて、今でも玄関のドアーをカリカリして催促しているのです。彼も変だなあと思っているでしょう。

ピッピすっかり耳は聞こえていないし、前足の関節が弱っているのか家の中でも、散歩の時でもケンケンしています。
皆歳をとると同じですね。
ベスは盛んにくしゃみをしていますが、これって咳なんだそうです。
心臓あるいは肺でも病んでいるのかしら?
病院にもつれて行けず、申し訳ない気持ちです。
それでも今日も昼間かなり暖かいのに巣の中で寝ていました。
餌も前より食べるようになりました。
食べていれば力もつくしいいかしら。






例の銀目です

ピッピとベスたち

2011-10-11 16:23:53 | Weblog
深夜帰国し心配でベスの小屋を見ました。
元気でいたかなと思って覗いたら、ベスがニャーゴと応えてくれました。
可愛いです。
翌日は眠くて午前中ぐっすり寝て、午後遅くにピッピを獣医さんへ迎えに行きました。
まあ!変な声で泣く事泣く事、ウーウーウヮン、ニャンニャン、ワン変な泣き方です。
でも私に文句を言っているのだけは確実です。感情豊かなピッピだな!
ああ悪かった!悪かった!ごめんね!ピッピ。
確り抱きしめて頬ずりしてあげました。

昨夜物凄い猫の鳴き声です。ベスではないのは確かです。
外に出てみましたが、誰の声かわかりませんでした。
今朝ベティとフクがやって来ました。
ベティのホッペのあたりが赤く血がにじんでいました。
ああ!ベティの声だったんだ!
痛かっただろうに。
相手は絶対銀目(ルルって言う飼い猫らしいのです)です。
家出したらしく飼い主が捜しているのになかなか捕まらないらしいようですが。
ベティにはまたたびをあげました。いくらか楽になるかもしれないでしょうから。
悪い銀目だ!

雲にょん宮へ

2011-10-10 19:10:21 | Weblog
最終日は夜遅くの飛行機だったので、昼間充分時間が使えました。
朝鮮王朝最後の王純宗の祖父、(高宗の父だった)大院君の住まいだった場所へ出かけました。
仁寺洞(インサドン)の近くにあります。
高宗が12歳迄育った場所でもあります。
昔は朝廷に劣らぬほどの広さと、家来の数だったと言われています。
ドラマ明成皇后に詳しく描かれています。
王妃ミンシが花嫁修業を受けた場所でもあり、又高宗と明成王后が結婚式をあげたところでもありました。
当時を偲ぶ唯一の建物で必見です。
大院君はこの建物から宮廷に輿で出かけていたのですね。
かなり近かったと思います。
大院君はこの邸の老安堂で78歳の生涯を終えています。












大院君の使っていた筆やすずり
蘭の花を描くのが得意だったそうです



代院君の写真 かなり頑固そうで、明成皇后との軋轢が想像できます


帰りはホテルでお茶をして、秋の日差しが部屋の奥迄差し込み、ティカップを美しく照らす様に心和んで、思い出の深い旅になりました