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麻雀へ そして講演会へ

2019-01-17 18:13:38 | Weblog

朝麻雀へ行きました。今日は何度か勝てました。まだ計算も出来ないし、沢山ある勝ちの種類も覚え切れていません。駄目だな!時間はすぐ立ってしまいます。もう少し長くやりたいですが。

帰宅後、急いで昼食を食べて、今日は近所にある毎週木曜の午後やっている老人の集いに行きました。今日は行動する杉並の女性ー公民館と原水爆禁止署名運動と言う題の後援会があったからです。まあ沢山の老人が来ていました。90代の方がたくさんおられます。近所のお菓子屋さんの叔母さん、ペンキ屋さんの奥さんと顔見知りの方もいらしていました。

講演は原水爆禁止運動を始めたのは日本で杉並区が一番初めだった事。このことは私も知っていましたが。1954年3月1日米国がビキニ環礁で水爆実験。この時その知らせを受けてなかった多数のマグロ漁船が被災。後に第5福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが半年後に亡くなりました。彼の顔が真黒だったのを覚えています。(しかし久保山さんの死因は核実験の被爆によるのではなく、肝炎だったと言われている)これをきっかけに原水爆禁止運動の声が出始め、杉並区では女性たちが、子供をネンネコで背負って署名運動を始めます。(若い方はご存じないでしょうが、昔は着物をつぶして、大きな丹前みたいな着物で背負った子供にかぶせて歩きました。私も母が着物を潰して作ってくれ、それをかけて、病気の長女を背負って病院に行ったのを覚えています。今みたいに便利な抱き紐セット等なかったです。)こうした婦人たちが子供を背負って署名を集めまわりました。電車の中まで署名を集めに行った女性もいたそうです。この運動は当時の杉並区長、PTA、文化人、知識人に署名運動の参加を呼び掛けて、その年の5月9日に水爆禁止署名運動杉並協議会が結成されて、わずか1か月で区民の7割にあたる26万6千人の署名を集めた。このうち20万を女性たちが集めたと言われています。子どもを背負ってまで署名運動に奔走した女性たちは、多分子供たちの将来を危惧してだったと思います。この頃私は高校生でしたが、魚は危ないと食べなかったのを覚えています。魚やさんやお寿司屋さんは生活が大変だったと思います。何となく今住民である杉並区を誇らしく感じています。

今日はチャロは二階に作ってあげた小屋が昼間は南側に向けてあげているので、日当たりが良く気持ちよさそうに寝ていました。夜は私の2階の部屋の北側の窓側に向きを変えてあげて、ホカロンを入れてあげています。

あれから起き餌を又始めたのに、狸君はやって来ません。薬ももらってあるのよ!今は何処にいるのでしょう?あんなに胴体の毛がほとんどなくては寒いだろうなあ!不憫です。


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