一瞬一瞬を大切に!

毎日を大切に楽しく過ごしたい

津田梅子氏

2019-04-09 18:00:51 | Weblog

体操教室へ午後から出かけました。勿論歩いて行きました。バスなら5駅か6駅位の距離の所です。椅子に座ってやります。口腔体操もやります。この体操に出なかったら口腔体操等まずやらないでしょうね。ありがたいです。友人が誘ってくれたのです。1時半から3時半までです。途中15分の休憩と終わって後15分のお茶の時間です。今日は小さな最中とおせんべい2枚、そしてチョコレート1かけに冷たいウーロン茶でした。それで100円です。50人までがリミット。今日は45人でした。早く行った方がいいですね。帰りは友人と歩いて帰宅しました。私の方が遠いので、帰りは善福寺川沿いに歩いてきました。5000歩足りなかったので、家を通り過ぎて、いつもの千ちゃんや黒ちゃんがいる方をまわって歩いてきました。千ちゃんは相変わらず寝ていて顔も見せてくれませんでした。黒ちゃんにも会えなかったです。なんとも寂しい限りです。

 

さて今日新しいお札の顔ぶれが変わると聞きました。5000円札が、樋口一葉から津田梅子に変わるようです。日本女性の自立に向けて生涯を支えた先駆者です。彼女は幕臣だった父津田仙の次女として現在の新宿区南町に明治元年12月3日生まれ。そしてわずか6歳で日本初の女子留学生として他の5人の子女と1870年11月横浜港からサンフランシスコを経由して12月にワシントンへ到着、留学期間は10年と決められていましたが、梅子と山川捨松、永井繁子以外の2人はホームシックにかかり帰国。梅子は色々な家に下宿して、学校へ通い、ラテン語、フランス語、など英文学、自然科学、芸術等学んだ。こんなに幼い子供が、これだけの学業を修めたと言うことは、非凡な才能があったのでしょう。明治14年(1881年)帰国命令が出たが、そのまま留学を延長し、1881年11月に帰国。11年間滞米。帰国した時日本語をほとんど忘れていて、通訳が必要だった程だったそうです。その後再度の留学を経て、最後に女子英学塾(津田塾大学)を東京麹町に開校。梅子は創業期に健康を害し、その後鎌倉の別荘で長期の闘病生活を送り、昭和4年(1929)8月16日64歳で死去、生涯独身を貫いた。墓所は東京都小平市にある津田塾大学の構内。

まだ6歳で遠い外国に1人行き、しかも長期滞在をし、色々な学問を収め、令明元年、5,000円札にその顔を印刷される梅子氏、ご遺族にとっても名誉あることであるし、梅子氏も草葉の陰で喜んでおられるのではないでしょうか?こんな昔、日本でも活躍した女性がいたことに誇りを覚えます。まれにみる才女だったのでしょう。