龍門石窟の隣に唐を代表する詩人の一人、白楽天(白居易)の墓があります。小さな山の上に墓があり、周囲が公園になっています(写真)。
白楽天は蘇州の長官をしたことがあり、太湖石を大変気に入って、都に帰るときに大きな太湖石5個を持ち帰ったという話が残っています。しかし、この公園の池の周りに使われている石は太湖石ではありませんでした。
(今日は5本の記事を出稿しました)
龍門石窟の隣に唐を代表する詩人の一人、白楽天(白居易)の墓があります。小さな山の上に墓があり、周囲が公園になっています(写真)。
白楽天は蘇州の長官をしたことがあり、太湖石を大変気に入って、都に帰るときに大きな太湖石5個を持ち帰ったという話が残っています。しかし、この公園の池の周りに使われている石は太湖石ではありませんでした。
(今日は5本の記事を出稿しました)
龍門石窟で一番オヤッと思ったのは、顔や手をそぎ落とされている仏像が非常に多いことです。風化で崩れるとか、盗掘で持ち帰られた仏像もあるようですが、明らかに破損目的の仕業と分かるものがたくさんあります(写真)。
この石窟のどこかに説明がないか探しましたが見当たりません。帰ってからインターネットで調べると、日本人、中国人のブログなど私的な文章の中に、文化大革命で多くの仏像が破壊されたという記述がたくさんありました。
「JANJAN 市民の市民による市民のメディア」というWebにあった07年5月28日付の投稿の中に次のようなくだりがあります。「旅行社の人に聞いたところ『白馬寺が文革初期に紅衛兵によって破壊された直後に、当時の洛陽市の共産党トップが大学生を龍門石窟に派遣して守らせたために、大きな被害を受けなかった』と説明を受けた。しかし、90年代初めに訪れた知人は『文革によって大きな被害を受けた』と聞かされていた」
私が問題にしたいのは、中国語で「龍門石窟、破損、文化大革命」と入れて検索しても、少なくとも初めの方には公式なコメントが出てこない、洛陽市の公式ホームページに龍門石窟のかなり詳しい説明がありますが、その中でもこの破損については何も触れていない点です。
文化大革命は毛沢東、つまり当時の共産党が指導した。その負の部分に触れることはタブーというのでしょうか。共産党に都合のいい歴史だけをアピールする姿勢はどうもいただけません。
洛陽に到着してまず訪れたのは龍門石窟です。鮮卑族の北魏が平城から洛陽に遷都した494年から唐代まで約400年にわたって彫り続けられ、中国三大石窟の一つとされています。
洛陽駅からバスで約50分、黄河の支流である伊水河の両岸1キロにわたって、玄武岩の崖に大小15万体といわれる仏像が彫られている様は、壮大というほかありません。いろいろな民族の融和を願って彫り始められたといわれますが、その願いは成就したのかどうか。
龍門石窟についてはいい解説がいくらでもありますので、数枚の写真と気づいた点を紹介するだけにとどめます。まずは、龍門石窟を代表する磨崖仏です。則天武后をモデルにしたといわれる中央の仏様だけでなく、周りの仏像もみんな迫力がありました。
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