中国旅行記: スーの「あら!中国」

中国・蘇州を拠点に定年後を楽しむ男が、中国での日常生活や旅行で「あら」「おや」「へー」と感じたことを文章と写真で綴る。

紹興(13) この無神経さ

2009-03-31 08:43:41 | 旅行

  (前の記事の続きです)八字橋に上って、がっかり。前の写真の向って右の階段部分の反対側に、布団がずらりと干してあったのです。せっかくの文化財も台無しです。

  私が行ったのは平日の昼下がりでしたが、数人の観光客が橋の上で記念写真を撮っていました。布団を干したのは近くの住民でしょうが、わざわざ遠くから来る観光客に悪いとか、文化財を物干し竿代わりに使うのは恐れ多いとか、そんな感覚がないのでしょうね。中国人もさまざまですが、無神経で自分勝手な人が多いことは確かです。この悪い感覚が何時よくなることやら……。

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紹興(12) 中国初の立体橋、八字橋

2009-03-31 08:27:11 | 旅行

  写真の橋、「八」の字に見えますよね。それで「八字橋」の呼び名があります。

  向って右の階段部分の反対側にも階段部分があり、左の階段部分の左方向にもう一つの階段部分があります。つまり、この橋は立体的な構造になっているのです。中国初の構造といわれていますが、いまでも、陸橋で立体的なものは中国でも時々見ますが、石の橋で立体的なものを見たことがありません。

  魯迅記念館から東北に1キロ余りのところにかかっています。800年ほど前に創建され、750年ほど前に再建されたといいますから、古い歴史を持っています。周辺は運河沿いに古い住宅が立ち並び、それでいてみやげ物店がなく、観光地化されていない静かな観光スポットです。ところが、……(次の記事へ)。

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紹興(11) 有名な詩の舞台、沈園

2009-03-30 09:10:08 | 旅行

  魯迅記念館から東へ数百メートルのところに沈園という庭園があります(写真)。紹興一の庭園といわれていますが、私にとっては、好きなある漢詩の舞台であることがわかって、庭を観賞する楽しみが増しました。

  「釵頭鳳」という題のその詩(詞)は南宋を代表する詩人、陸游の作です。愛していた妻の唐琬と自分の母との折り合いが悪く、母の意向で離縁させられた陸游が、後年になってこの沈園で唐琬と再会し、切々とした気持ちを詩に表現して、沈園の壁に書き付けた、それを聞いた唐琬もまた返歌を壁に書き付けたという話が伝えられています。

  この庭のどの辺りで二人は再会したのだろう、などと思いをはせながら散策しました。陸游は南宋が北の異民族の国、金に圧迫されていることを悲憤した詩を多く残しています。沈園には陸游記念館もありました。

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紹興(10) 市街地入口の記念碑も古代風

2009-03-29 07:24:07 | 旅行

  高速道路のインターチェンジを下りて10分近く走ると、紹興市街地の入口を示すと思われる大きな記念碑が建っていて、周りがロータリーになっています(写真)。向って右後方にある建物が長距離バスターミナルです。

  この記念碑、古代の越国で使われた祭器のイメージではないかと思いました。前々回に紹介した越国遺跡もそうでしたが、古代王国というと大きく、ごつごつして、力強いイメージになりますね。

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紹興(9) 越王殿の”しゃちほこ”

2009-03-29 07:18:04 | 旅行
  写真は、前回紹介した越王殿の屋根に乗っている”しゃちほこ”です。中国では龍が乗っていることが多いのですが、これは龍より”しゃちほこ”に見えませんか。くるくる巻いている尾っぽを伸ばせば、やはり龍かもしれませんが……。いずれにせよ、珍しい形なので望遠レンズで写して見ました。

紹興(8) 越の遺跡

2009-03-29 06:53:53 | 旅行

  魯迅記念館から西北へ1,5キロほどのところに府山という低い山があり、その一角が越国遺跡になっています。入口の越王台、奥の越王殿(写真)とも後世に建てたものですが、大きくどっしりとした建物が古代の雰囲気を伝えています。中国の古い遺跡につきものではないかと思われるヒノキで全体が覆われ、厳粛な空気を漂わせていました。

  越王台、越王殿には越時代の故事を解説する展示がしてあり、西施や越王らその時代に活躍した人物の姿を線で描いた石板の写真がたくさんありました。いつ、どういう資料に基づいて描いたものか分かりませんが、絶世の美女といわれた西施はどのような顔をしていたのか、興味深くながめました。ただし、西施にしても楊貴妃にしても、その姿を描いたものを見ると、だいたいは期待はずれ。今回も「当時はこれが美人だったのかな」という印象でした。

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紹興(7) 周恩来の祖父の家も立派

2009-03-28 08:45:42 | 旅行

  魯迅記念館から北へ1キロ余りのところに周恩来が少年時代の一時期を過ごした祖父の家が残っています。その前に周恩来記念館がありました。

  展示物は写真や新聞記事のコピー、それも当時の共産党の活躍ぶりを紹介するものが多く、周恩来記念館というより共産党の教育施設といった感じでした。これで18元(1元は約14円)もとるのはいかがなものかと思いました。

  私が興味を持ったのは祖父の家の立派さ(写真は応接間)。周恩来にいたるまでの21代に及ぶ家系図が掲示されており、昔は大臣クラスの官僚を出した由緒ある家柄のようです。

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紹興(6) 秋瑾の実家の裏庭

2009-03-28 08:29:22 | 旅行

  秋瑾の実家が非常に裕福だったことが、屋敷の大きさもさることながら、裏庭の立派なことでも分かりました(写真。塀の向こうは塔山公園)。

  次に紹介する周恩来の祖父の家も立派です。つまり、虐げられた労働者や農民の解放を指導した革命家の多くは、実は富裕層の出身者なのです。マルクスやレーニンもそうだったと記憶しています。毛沢東も農民ですが豪農の生まれです。

  私は若いころの一時期、上記のような事実が不思議だったことがありました。今では当然のことと思います。革命思想を持つには、かなり系統だった思考が必要で、裕福な家庭の子女でなければ、そのような余裕もないでしょう。


紹興(5) 秋瑾の実家の書斎

2009-03-28 08:22:40 | 旅行
  写真は秋瑾の実家の書斎です。興味を持ったのは向って左の壁にあるタンスのようなもの。引き出しの部分に「宋史」「明史」などと書かれており、書棚に違いありません。書棚全体の半分以上が中国歴代の王朝の歴史で占められているようです。

紹興(4) 革命の先駆けとなった女傑

2009-03-28 07:46:55 | 旅行

  魯迅記念館から南西へ500メートルほどの塔山の南山麓に秋瑾の実家跡があります。さらに、都心の大きな三叉路の真ん中に秋瑾の記念碑と像が建っています。魯迅が秋瑾のことを「革命の先駆け」として小説に書いて、全国的に有名になったようです。ただ、私はこれまで全く知りませんでした。

  清末の1874年生まれ、大財閥の息子に嫁ぐが、革命思想に目覚め、日本に留学。日本で孫文や宋教仁の薫陶を受け、中国革命同盟会の浙江省分会長として故郷へ帰り、女性教育の学校創立といった活動をしていたが、武装蜂起計画がばれて1907年に処刑された――これが秋瑾の略歴です。

  この写真は秋瑾が実家の自室で机に向っているところ。人形は秋瑾を模して作られており、なかなかの美人です。男勝りに育てられ、剣舞がうまく、弁舌もさわやか。中国の武侠小説にはいつも女性の剣豪が登場しますが、まさにそういう女傑のイメージだったのでしょう。日本留学時代に日本髪を結い和服を着た秋瑾の写真も残っていました。

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