私の”中国南西部大旅行”の最後は、ありきたりではありますが、香港島セントラル辺りの夜景で締めくくることにします。
今回は5本出稿しました。これで、旅行の報告を終わります。
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洗練された香港の紹介が続いてしまいましたが、古い香港ももちろん残っています。旺角のナザンロードから1,2本東に入った道路では、露店が屋根の高いテントを道一杯に広げ、衣料や装飾品などを売っていました。ほとんどいなくなりましたが、「にせもの。見ていくだけ」と2回声をかけられました。
写真はバスで九龍城地域を通りかかったときに見た工場ビルです。少なくとも手前の二つのビルはマンションやアパートではなく、中小企業が一部屋か二部屋を使っているのです。昔、このようなビルに取材に行ったことがありました。
次の2枚の写真が香港だと思えますか?
上の写真は、たまたま乗った定期バスが香港島北部を東西に走る地下鉄の東の端、柴湾まで行ったので降りてみたら、眼にした光景です。下の写真は貨物の港を見に地下鉄の美浮駅に行ったら、駅と港の間に出来ていた公園を写したものです。
香港と言えば超高層ビルばかりを連想しがちですが、少し離れたところはかなり緑化が進んでいます。写真の地域などはシンガポールのお株を奪うような雰囲気でした。
前の記事につけた写真の歩道橋を渡ってビルにはいると、だいたい高級商店街になっています(写真)。歩道橋でつながれているのはオフィスビルがほとんどですが、オフィスは中層階から上で、下は商店が入っています。
歩道はオープンですから、蒸し暑いときが多いのですが、ビルにはいると空調が効いていてさわやか。華やかな雰囲気を楽しみながら通勤やショッピングができると言うわけです。車を気にする必要がないし、雨の日も濡れません。この状態でかなりの数の大型ビルがつながれているのですから、すばらしい空間です。
香港は7,8年ぶりでしたが、それまでに、ちょっと寄ったときも含めると10回近く来ています。久しぶりの印象は「一段と洗練された」ということでした。
デザインを凝らした新しいビルがたくさん出来ています。メインストリート沿いだけでなく、裏に入った通りの商店街もきれいになりました。バスがほとんど2階建てに統一され、新しいし、よく洗車されていてほこりをかぶっていません。乗用車もきれいです。
洗練されたのは外観だけではありません。住民のマナーが随分よくなったと感じました。気がついた点を列挙します。
・通りにごみがほとんど落ちていない。
・車が信号をよく守る。ただし、人は状況次第。
・バスや地下鉄に乗るときに、ほぼ整列乗車になっている。
・地下鉄のエスカレーターに乗るときに左を空けて急いでいる人を通す。
・歩きながらタバコを吸う人がほとんどいない。たまに見たうちの半分以上 は欧米人だった。
・バスや地下鉄の中で携帯で話す人がさほど多くなく、小声で話す。
失礼ながら、中国人のマナーがこんなによくなるとはびっくりです。植民地時代と違って、返還後は政府が公共的なことをかまうようになったといわれていますが、そのいい面が住民のマナーに反映したのかもしれません。
写真は香港島セントラル辺りのビルをつなぐ歩道橋です。7年前より歩道橋でつながれる地域が広がったと思います。
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写真は深圳の中心にある屋根つき商店街の風景です。広い歩道が、近くの店が陳列した商品で埋まってしまって、客はその間を縫って歩かなければならない状況でした。
中国ではよくある風景です。中国のエネルギーを感じさせる風景でもあります。
今日は3本出稿しました。
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変な見出しをつけた訳から書きます。深圳は1980年に経済特区になりましたが、私はその数年後に訪れたことがあります。そのときの印象が「公園都市シンガポールのような街」でした。今回もさっと見ただけですが、「中国の大都市」「一昔前の香港」という印象になっていました。
今では超高層ビルが林立しています(写真)。空が余り見えなくなりました。それでも、開発当初からある大通りの沿線は緑地が広がり、昔の面影を残していますが、ちょっと裏にはいると雑然とした商店街に変わり、ごみが目立ちます。
昔は深圳特区と他の中国地区との境界が鉄条網で仕切られ、普通の中国人は自由に行き来できなかったのですが、今は当然のことながら、自由に行き来できます。その結果、露店でおもちゃや果物などを売る人が増えました。乞食もたくさんいます。
この変化は当然かもしれません。翻って、シンガポールが華人を中心とする街でありながら、公園都市を維持できたのは政府による強制があったからで、こちらの方が普通ではないのでしょう。蘇州にもシンガポールのような街、工業園区ができていますが、この先どうなるでしょうか。
東莞から南南西へバスで30分ほど走ると、虎門に着きます。珠江の河口にある都市で東莞市を構成する鎮のひとつです。ここはアヘン戦争(1840~1842)の舞台になったところで、砲台が残っています(写真)。
写真の中央左に小さな岬があって塹壕のようなものが写っています。これにも大砲が30基ほど据え付けられていました。このような砲台が虎門一帯に10数箇所もあったといいます。鉄壁と言われた守りでしたが、英国に破れ、香港の割譲、上海など5港の開放を決めた南京条約を結ばされました。
解説には「当時の清朝の優柔不断が敗戦の原因」とありました。それより産業革命を経た欧州との経済力、軍事力の差が大きかったわけで、この敗戦で中国が真剣に反省していたら、近代化がもっと早く始まり、その後の歴史も変わっただろうと、砲台跡を見ながら改めて思いました。
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東莞の人民公園近くのバス停付近で朝8時前、自家用車やタクシーで通学してくる小学生をたくさん見ました。写真の中央に写っている女の子や、その左後ろの男の子が自家用車から降りたところです。お金持ちが多い証拠かなと思って撮りました。
みんな10メートルほど先の角を曲がって行きましたから、その先に小学校があるのでしょう。正門前に車をつけないのは、車通学が禁止されているからではないかと推測しましたが、どうでしょうか。いずれにせよ、一人っ子政策のせいか、子供が甘やかされていることは確かです。
今日は東莞の記事4本を出稿しました。
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この写真は前の記事に書いた金泰工業区のすぐ近くに単独で建っていた比較的大きな工場の敷地内にある宿舎です。男物と思える肌着やシャツなどが干してあります。
工場内に宿舎を建てているところは、東莞から移動する途中でもたくさん見ました。この地域の工場が出稼ぎ労働者に支えられていることを表しています。