
対馬は現在は南部の下島と北部の上島の2つの島に分かれています。しかし20世紀の初めまでは、対馬は南北82キロの一続きの島だったそうです。1901年に旧帝国海軍が、日露戦争に備えて上島と下島を結ぶ地峡を開削してから対馬は現在の2島になったのだそうです。上島と下島の間には浅茅湾という波の静かな内海があって、船舶にとって良い停泊場になっています。この浅茅湾から対馬の東海岸に出るには島の南端をぐるりと回っていかなければならず大層不便だったそうです。お隣の壱岐まで行くより遠かったのだそうです。古代の遣唐使の時代には船を大勢で持ち上げて地峡を運んだこともあったとか。水道の開削でずいぶん便利になったことは確かです。
上の写真は、その時に開削された「万関瀬戸」(下の写真です)に架かる「万関橋」です。その3年後に勃発した日露戦争では、実際に旧海軍の水雷艇がこの瀬戸を通って外海へ出撃したそうです。