私は疑似科学とかオカルティックな言説に辛口な物の言い方をするせいか、「あなたは科学は万能だと思っているのか」と聞かれることがあります。そういう質問をされると「えっ」と思います。そもそも科学とは自然界や人間社会に関する「分からないこと」を分かるようにするための方法、手続き、手順のことですから、「方法が万能」とか、「手続きが万能」とか、「手順が万能」とかいう表現が適切とは思えません。科学者が間違うことだって沢山あります(N線とかポリウォーターとか、比較的最近では常温核融合とか)。
大体、自然界や人間社会について分からないことが沢山あるから科学は進歩するのであって、分からないことが何もない状態に到達するとすれば、科学はもうそこから先へは進歩しないことになります。ですから科学は万能でないから進歩するのだとも言える訳です。ですから冒頭のような質問を受けた場合は、私は以上のように答えます。
そこでふと思ったことは「分からないことが何もない状態に到達する」ということが未来に実際に起こるだろうかということです。物理学者の中には、そういうふうに考える方もおられるようです。自然界の物理法則を簡潔に一つの仕方で表現する方法が見出されれば、科学の進歩は終わりという考え方です。その一方でゲーデルの不完全性定理のような考え方もあるので「分からないことが何もない状態に到達する」のは原理的に不可能という考え方もあります。それに日本では十年少し前から流行した複雑系の考え方もあります。
最近読了した若手SF作家の小川一水さんの「フリーランチの時代」(ハヤカワ文庫JA)という短編があります。この物語は近未来に人類が火星表面でETの超知性体に遭遇する話なのです。そのETの超知性体は(上記のような)「物理法則は知性を持った存在であれば誰でもいずれ思いつく、それよりも知性を持ったものが形成した唯一無二の個性や、長い長い時間をかけて形成された個別の生物種の方が興味を惹く」ということを人類に向かって語ります。まあ確かに、稀少な(知性の)個性だの、特別な種だのといった反復可能性の乏しい事象は科学研究の対象にしにくいので最後まで研究対象として残るような気はします。
分からないことが多いということは調べる楽しさを享受できる機会でもあります。科学が万能でないということは喜ばしいことなのです。
大体、自然界や人間社会について分からないことが沢山あるから科学は進歩するのであって、分からないことが何もない状態に到達するとすれば、科学はもうそこから先へは進歩しないことになります。ですから科学は万能でないから進歩するのだとも言える訳です。ですから冒頭のような質問を受けた場合は、私は以上のように答えます。
そこでふと思ったことは「分からないことが何もない状態に到達する」ということが未来に実際に起こるだろうかということです。物理学者の中には、そういうふうに考える方もおられるようです。自然界の物理法則を簡潔に一つの仕方で表現する方法が見出されれば、科学の進歩は終わりという考え方です。その一方でゲーデルの不完全性定理のような考え方もあるので「分からないことが何もない状態に到達する」のは原理的に不可能という考え方もあります。それに日本では十年少し前から流行した複雑系の考え方もあります。
最近読了した若手SF作家の小川一水さんの「フリーランチの時代」(ハヤカワ文庫JA)という短編があります。この物語は近未来に人類が火星表面でETの超知性体に遭遇する話なのです。そのETの超知性体は(上記のような)「物理法則は知性を持った存在であれば誰でもいずれ思いつく、それよりも知性を持ったものが形成した唯一無二の個性や、長い長い時間をかけて形成された個別の生物種の方が興味を惹く」ということを人類に向かって語ります。まあ確かに、稀少な(知性の)個性だの、特別な種だのといった反復可能性の乏しい事象は科学研究の対象にしにくいので最後まで研究対象として残るような気はします。
分からないことが多いということは調べる楽しさを享受できる機会でもあります。科学が万能でないということは喜ばしいことなのです。