すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

だまされる身の責任

2014年07月20日 | 読書
 「2014読了」70冊目 ★★★

 『いのちの食べ方』(森達也  角川文庫)


 森達也の書くことには注目している。
 同年代ということもあるし、目のつけどころに共感する部分が多い。世間的にはどうなんだろう、と少し頭をよぎるが…。

 そんなことはともかく、この本は面白かった。

 「昨日の夕食は何だった?」
 という問いかけから始まる。
 第一章は「もしもお肉がなかったら?」と題され、肉の普及とその歴史が語られている。
 改めて、肉に依存している現在の生活、それは食だけでなくいろいろな分野に入り込んでいることに「へえぇぇぇ」と思う。

 そして第二章に登場する「屠場」。

 そういえば以前は「場」と言っていたはずだが、いつの間にか「殺」が抜けている。
 この場所と差別の関わりについてはある程度知っていたが、屠場の実際の仕事の様子については、正直想像してもみなかった。

 それはきっと多くの人も同様ではないだろうか。
 文章でそれを知ったことだけでも貴重だし、映像では強烈すぎるかもしれない。

 そこから差別問題についての記述が続く。

 根深く、安易に触れられないように思うが、そんなふうな気持ちを抱くこと自体、差別意識が入り込んでいることは自覚せねばならない。

 差別の問題から、戦争責任への話題へ移り、引用されている伊丹万作の「だまされることの責任」という文章には、はっとさせられる。

 わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。(中略)つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだと思う。


 かの戦争時の新聞報道等は多くの人に批判、非難されるが、そして当然責任は大きいが、なぜそうなったのかを知らなければ、またぞろ同じ道を歩む可能性が高くなるように思う。

 今、私たちが置かれている立場も似たようなものだ。
 主義主張の違いは簡単にうまるものではない。
 ただ自説を通すために、いろいろな画策がなされて、ずるずると地盤沈下を待つようなやり方には、納得がいかない。生理的に合わない。

 この時代に対する身の置き方としては、もはや一般的になった「スピード化」と反対の思考をすることが大切だと考えるようになってきた。

 スピード化の陰で、きっと大事なものを置き去っている。
 それも多くの場合、後から悔いるという形で思い出し、どうにもならなくなっている現実だけが残っている。

コメントを投稿