すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

品のよさは自然体となる

2007年06月18日 | 読書
 坪田耕三先生の著した『素敵な学級づくり 楽しく・優しく』(教育出版)を読んだ。
 実に「自然体」な本であると感じた。
 題名もごく平凡であるし、表紙なども教師と子どもの絵があるシンプルなものだ。
 書棚に並んでいて手にとり、表紙や目次を眺めているだけでは正直そんなに惹きつけられないかもしれない。
 むろん、「坪田耕三」という名前を知っていれば、注意深くページをめくることになると思うが…。

 この本にさりげなく書かれているたくさんのことは、一朝一夕にできるものではないことは、多少の学級担任のキャリアがある者ならすぐにわかるだろう。いや少しぐらいの頑張りでは凡人には手の届かない境地なのかもしれない。

 例えば、給食時間に学級の誰かが牛乳をこぼしたときに、何人もの子どもが雑巾をもってかけつける。
 例えば、母親に「復習しなさい」といわれ、「学校の勉強はみんなでやるんだもの」と「復習」の意味に疑問を投げつける一人の女の子。
 例えば、休み時間に早く外へいくために、教室近くの非常口の側に靴箱を自作する子どもたち…

 いわば毎日の、一時間の教師の言動によって形づくられてきた存在がたしかにそこにあるような気がする。

 坪田先生の授業を何度か見せていただき、自分なりの分析もしたことがあるが、この著書から一つの象徴的な言葉を見つけることができた。

 それは、「品のよさ」である。
 そして、そのことは一番最近の学級を対象としてさりげなく次のように書かれている。

つまるところ「周りを嫌な気持ちにさせないように」ということであり、もっと言えば、いかに「相手の立場に立って過ごせる」かということなのである。自分が三十四年間身につけてきた全てを投入して、なるべく気張らずに授業してきた。

 まさしく名人の域といえよう。

「うたを歌って帰る道」は忘れてはいけない

2007年06月16日 | 教育ノート
 来校者の話を聞いて思い浮かんだ「うたを歌って帰る道」というフレーズが、頭から離れないので書き出した文章だった。
 たくさんの気持ちがうごめいて、なかなかまとまらず少し苦労したのだが、結局学校から出すものは自分たちのやっていることが中心でなければと思い、こんなまとめ方になったが、少し収まりの悪いような文章だなとも思う。
 それでも、このフレーズは忘れられない、忘れてはいけない…


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 7日木曜日のことです。本市のスクールガードリーダーであるSさんがお見えになりました。昨年度から子どもの安全を守る県の事業として市町村ごとに配置され、月に1,2回のペースで下校時など巡回してくださる方です。通学路の安全や地域の方々の活動に対してもいろいろとアドバイスをいただいております。
 その日は今年度初めてだったのでK地区方面へ向かう一年生と一緒に歩いてみたとのこと、様子をお聞きしてみたら、Sさんは
「きちんと帰っていますよ。家の側で働いている人にもあいさつするし…」
という言葉に続けて、笑顔でこんなことを教えてくれたのです。
              
 「Kくんが『うたを歌おう』と言い出して、他の子たちと一緒に歌いながら歩いていくんですよ。最初に『校歌』、次に『若い力』、そして~~~」
 いいなあと思いました。元気のよいKくんが目をくりくりさせながら、他の子たちと一緒に声をだしている姿が思い浮かびました。
 「うたを歌って帰る道」…世の中に幸せな風景は数多くあると思いますが、この下校の様子は文句なくその一つだろうなと思いました。
 もしかしたら自分が小学生の時にもあったかもしれない、いやきっとあったに違いないとそんな気持ちにさせられました。
                
 「うたを歌って帰る道」がなぜ幸せなのか考えてみると、それは充実した時間を過ごしたこと、安全な空間に支えられていることの一つの証明のような気がするのです。
 心に留まる出来事やうたがあり、身近な人と一日の帰りにそれを話し合ったり唱和してみたりする、そしてそういう様子を何気なく見つめ聞いている周囲の環境がある…平凡で些細にみえるその風景は「人間」を形づくっていくうえでもっとも温かな部分を担っているのではないでしょうか。

 今「うたを歌って帰る道」に何か郷愁に似た思いを抱いてしまうのは、時間と空間が少しずつ変わってきたからです。言うまでもなくこの変化は人間が作ったものですが、逆にそうした時代の流れによって「人間」が少しずつ変えられてしまっている印象を持つのは私だけではないでしょう。
                
 「この郷を 創るはわれら」…校歌の二番の歌詞にそうあります。何事も私たちが共に考え、作っていくのだという社会の基本は忘れてはならないと思います。「若い力」に一番に宿らせたいのはそういう心だとも言えます。

 本校では、今年の重点の一つとして学級活動を取り上げました。中心として「話合い活動」があります。一人一人が声を出して、それを受け止めあいながら、実行できる結論をだしていく…それは、形を教え、言葉を教え、そして何よりみんなで決める大切さをしっかりと感じ取らせる、未来を作っていくための学習です、と言ってもまんざら大げさではない気がします。
(6/15)
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やはりコミュニケーション能力なのだ

2007年06月15日 | 読書
 陸上競技400mで日本人初のファイナリストになった高野進は、現在コーチとして活躍しているが、最近の雑誌に載ったそのインタビューがなかなか興味深かった。

 ファイナリストとなった91年東京国際陸上の場で、スタートラインに立ったとき、高野は次のことを理解したという。

 自分のために走るアマチュアリズムと他者のために走るプロフェッショナリズムの違い

 走ることを自らの使命と考えた高野は、その後指導者へ進むのだが、次のようなことを語っている。

 指導者に興味は全くなかったし、今でも自分のことを指導者だと思っていません

 高野は、限界の見えていた自分の身体の換わりに、若い選手の体を借りて、自分が追求するスプリントイメージを実践してもらおうと考えたのだった。必然的に自分の考えを押し付けていく形となるその指導に、若い選手がただ従順に従うわけはない。案の定、学生たちに反旗を翻された高野は悩んだ。陸上を辞めようかとも思ったという。

 しかし思い返して選手の立場にたっての指導へ転換…と、普通ならこう展開するのが感動的?なのだが、高野は違っていた。

 でも私は折れなかった。あくまでも自分が指導者としてやりたいのは、自分が理想とする走りの実現、すなわち自己実現だったからです。信じる道を突き進むことに決めました

 そのために様々な工夫をするのだが、いうなれば考えを同じくする、方向性があう者の集団作りという点は否めない。陸上競技であってもチームと考える高野は、「土の入れ替え」というような言葉で賛同する選手たちを集め始めたのである。それも遠方の九州が多かったという(簡単に家へ帰ることができないという理由がまたおもしろい)。

 部員を平等に見たりせず、作戦的に練習メニューや大会参加を考えるという。そうした考えについてよく説明し共通の価値観をもたせてくのが高野の方法だ。
 やはり、そこはチームといっても個人種目が大半である陸上競技という特性が大きいのかもしれない。
 それにしても、考えてみれば他の競技の指導者でも案外このタイプは多いのではないか。いわば自己の信念を強くだし、それに同調する、強く惹かれる選手とともに突き進むタイプである。

 では、平凡か一流かの境目はいったい何なのか…このインタビューから探ってみると、いくつかあるキャッチコピーの一つに結論を見い出す。

 組織作りも選手の育成も
 イメージなしに考えられない
 必要なのはコミュニケーション能力

 指導者がイメージを伝えるために、説明や例え話の重要性は必須であり、それはコミュニケーション能力に他ならない。そしてそれは、実は指導者だけでなく選手にも要求されることだ。

 自己実現だけを目指して指導してきた高野に、「考え方が変わりました」と言わしめたのはあの末續選手であった。
 その事実は、お互いのコミュニケーションによってより高い次元が示されたことを物語っている。

「ふたり読み」はもっと広がっていい

2007年06月14日 | 教育ノート
 家本芳郎先生の著書に刺激をうけて取り組んだ実践がよみがえってきた。
 音読の力を伸ばすための「ふたり読み」は、確かに効果があったし、発展性も感じられる。
 先週の研究協議でふと思い出して意見を述べたが、補記する形で少し文章化した。

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 縷述 「つながる授業17」

 先日の校内研究会で「ふたり読み」ということについて触れたので、少し補足します。
 「ふたり読み」とは、群読の実践家として著名な故家本芳郎先生の命名かと思います。2003年に『ふたり読み』(高文研)という著書を出されています。この本は、それにマッチする詩のアンソロジーなのですが、前書き部分にこのようなことが書かれてあります。

「ふたり読み」には、三つの利点があります。
 ①「ふたり読み」は、朗読と群読の中間教材です。
 ②小人数の学級にもふさわしい教材です。
 ③また、家庭でも楽しめます。
 
 最後の③はともかく、「ふたり読み」という手法が音読力を高めるための有効な手立てになりえることを強調されています。
 実際にある期間取り組んだことのある自分も次のようなことを感じました。

 ・伝え合うという形が読む楽しさを引き出す
 ・片方の読み方にもう片方が触発される
 ・工夫のための話し合いによって読みが深まる
 ・分担を換えて読むことで声質等の違いに気づく

 複式解消のために行った極少人数での帯単元授業でしたが、最終的に自分たちで分担を工夫し発表も非常に充実した活動となった記憶があります。手軽に取り組めますし、効果も期待できるはずです。

 今のペアを生かしてもいいでしょうし、それ用に新しいペアを組んでもいいでしょう。「声を届ける」最小単位は二人ですから、その点でのコミュニケーションも新しい視点になるかもしれません。活用の広がりをいろいろと想像できる手法、形態だなあと改めて思いました。

※必修詩・下学年の中に実は最適詩が多く入れていて、「あいうえお」「きりなしうた」「かたつむり」がそれです。
(6/14)
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教育に必要なのはいつもそれ

2007年06月13日 | 読書
 『全国学力テスト、参加しません。』(明石書店)を読んだ。

 犬山市教育委員会の取り組みについて岩波ブックレットで知り興味を深くしたのだが、この本では教委で行っている実際の活動に加え、理念的な事柄がずいぶんと語られている。

 書名そのものが示していることなのだが、この本の趣旨は次の一文にまとめられる。

 私たちのとりくみの状況・成果・課題を整理しながら、全国学力テストが日本の公教育の健全な発展にとって、不要かつ有害であることを明らかにしたいと思います。

 第1章は瀬見井教育長が担当し、その後の章は課長、指導主事が続く。そして教育委員を務める大学教授が最終章を受け持っている。
 執筆者が異なるので、何度か同じような言い回しで主張されている部分もあったようだが、一貫して自分たちの取り組みに自信と責任を持っていて、勢いの感じられる文体が多かった。

 全国学力テストへの参加の有無は、地方教育委員会としての務めを果たすなかで突きつけられた問題ではあるが、それゆえに犬山では「何故、自分たちの道と合わないのか」が真剣に語られた。他の自治体や教委でそこまで真剣に論議を重ねたところがあったのだろうか。それはつまり論議に載せるエネルギーがあったかどうか、なのである。教育に必要なのはいつもそれではないか。

 従ってテスト実施に至るまでの経緯を一番注意深く見守っていたのも、この犬山教委ではないかと思う。その意味で、今回の調査を批判的な視点で分析するためには絶好の書と言えるかもしれない。

 中央での様々な改革が、大きく環境の異なる地方とどう折合いをつけたらいいのか、きわめて切実な問題にもなってくるだろうが、いや現実に進行しているといってよいだろう、そういう視点で教育委員会の在り方は常に問われているだろう。
 自分の周囲でも過疎化、少子化の中で統合、合併への道が進めば進むほど、その役割は重要になっていると感じている。
 回りくどいと思われても、今地方自治とは何か、教育行政の独立性とは何か…改めてそれを正面に据えるべきではないのか。
 その点について犬山は揺ぎ無く実行している。

 公立校では99.96%の参加率があったこの調査に対して、いわば反旗を翻すためにはよほどのリーダーがいなければならない。もちろん教育長もそうではあるが、自治体の長である市長の度量はいかばかりかと思う。
 岩波ブックレットの巻末鼎談で石田市長が発した言葉は、教員であれば誰しも元気付けられ身を引き締めさせられる、真のリーダーとしての発言ではないかと思った。

 教育改革というのは、私は現場の教師がすべてだと思っています。教師たちが、成果がある、と思うことが大事です。保護者、一般の市民はちょっとずれるんでね。つまり時間的ラグがある。それに僕は応えなければいけない。

犬には感じ得ない口惜しさ

2007年06月12日 | 雑記帳
 NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』の感想である。
 もう放映されてから二ヶ月近く経つのだが、盲導犬訓練士・多和田悟の回の放送が今もって心に残っている。
 どうして、その回にこだわっているか自問してみた。
 
 一つは、犬の訓練という仕事と教育との共通性について考えたからであろう。

 ハーネスを犬が取りにいくように仕向けることのできない訓練生に換わって、多和田が見本を見せたときの、周到なステップとテンポに納得がいった。
 犬の興味を惹きつけながら、次第に目的であるハーネスに近づけていく指導(調教と呼ぶべきか)は見事の一言だった。
 また「グッド」と声をかけるタイミングのこと。これは犬が行動を起こそうと動き始めたときにすかさず誉めるという。行動より心を誉めるという、これも示唆にとむ考えである。人を育てる場においても、ある段階でとても重要なことではないだろうか。

 そしてもう一つは、犬の訓練と、訓練生への指導との違いについてである。
 もちろん、そんなもの端から違うといえばそれまでだが、犬に寄り添う指導を続けている多和田だけに、生徒への接し方の厳しさが余計に際立つような気がした。
 
 課題を与え、突き放し、悩ませる。
 そして何より人間と犬がパートナーになるための最善の配慮をし、たとえもうすぐ訓練終了といった場面であっても、容赦なくストップをかける。
 そこには、犬の訓練とは明らかに違う信念に基づいた教育を感じた。

 犬には感じ得ないこと、理解しがたいこと。そんなところに人間の教育の本質を垣間見た気がする。
 途中でストップをかけられた女性訓練生が涙を見せた場面で、ナレーターが発したメッセージは、たしかこんな言葉だった。

 口惜しさだけが 人を磨く

内にためた力を何で発揮するか

2007年06月11日 | 教育ノート
 昨年の今頃はちょうど腰痛がひどい時期で応援にいけなかったが、今年はたっぷりと陸上競技大会を観戦できた。
 集団競技とはまた違う一人一人の緊張感が見てとれるこの雰囲気が好きだなあと改めて思った(そうはいっても一番の見所はリレーなのだが)。
 ふと頭に浮かんだ「跳」を調べたら、今さらながらに「挑」と共通性に気がつく。
 「内にためた力」を足で発揮するか、手で発揮するかの違いなのである。いずれにしてもその心意気は持ちたいものだ。


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 陸上競技の走り幅跳びや高跳び、また跳び箱運動などに使われるこの字ですが、「飛ぶ」とは少し意味が違います。
 足偏に兆と書きますが、この兆は「亀の甲にできたひび割れの形」からできたと言われています。その形を使って占いをしたことから「まえぶれ・きざし」という意味を表すようです。
 それから発展し「内にたまった力」という意味も含んだのでしょう。足をつかって内にためた力を激しく外にあらわす、つまり激しく躍り上がるようにとぶことが「跳」です。

 スポーツに限らず、跳躍するためには日頃の力の蓄えが大事です。
 助走や準備をしっかりすることも欠かせません。
 それらが揃ったときに、より高くより遠くが実現するのです。
(6/7)
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「見て見ないふり」をしない教育の実践

2007年06月08日 | 読書
 先日読んだ藤原和博氏の著書と似た題名の本が、日本標準から発刊されている。

 『校長になろう!』(金山泰博著)

 わずか60ページあまりのブックレットではあるが、なかなか内容が詰まっている。小学校を対象としているだけにより直接的に感じたということもあろう。
 小学校教諭を経て教委へ入り、そして校長職その後また教委へという経歴のある金山氏の考えには、共感できる部分が多かった。行政に携わっていたのでともすれば政策迎合的な見方をしがちではないか、と予想してしまうところだが、現場感覚に根づいていることが次の一言に強く感じられた。

 「本校では徹底して漢字力と計算力と合唱力をつけます」と保護者に話しています
 
 具体的な例として、漢字学習ではその学年にもっともまちがえやすい、覚えにくい漢字を10字程度選び一年間徹底して教え込むという。こうした抽出の作業において、職員は徹底した話し合いをするだろうし、そうした焦点のあて方は一朝一夕にできるものではない。
 全員に保障していくべき内容を打ちだし、なぜそうなのか明確に説明できることは自分たちの実践の自信の表われだとも思う。
 それゆえ、履修制である義務教育における「『見て見ないふり』をしない教育の実践」という言葉を、かなり重く受けとめることができた。

 「合唱」を取り上げることに関しては、身体、声、そうした点への着目が学ぶ意欲との関わりが強く出ているはずだ。文章には多く出てこないが間違いないと思う。
「学習アドバイザー制度」「どらえもんルーム」等のユニークな発想にも感心させられる。

 こうして並べ挙げてみると、藤原氏の和田中学校の経営と似通っているものが多いことに気づく。
 それは、一人一人の学力の保障のためにどんな策を講ずるか、従来のやり方の継続では立ち行かなくなってきていることに正対している姿であり、具体的には重点を明確化した内部システムづくりと校長自ら学校のメッセンジャー、スポークスマン的な役割を果たすことの二つに集約されると言ってよい。

 ぶれのない校長像がそこにある。

挨拶はしっかりやらなくてはいけません

2007年06月07日 | 雑記帳
 M先生の葬儀に参列した。
 ちょうど一年前まで市の教育長をしておられた。直接教えを受けたわけではないが、高校生のときに同学年の学級担任もなさっていた縁もある。

 昨年4月、年度初めの会でお会いすることがあった。
 着任の挨拶をしたら、「どうですか」と感想を求められた。
 職場内外のセレモニー的な挨拶の多さに少し辟易していた自分は、こんなことを言った。
 「ええ、挨拶挨拶でたいへんです。こんなに何度もしなくてはいけないと思うと…」
 その言葉を遮るように、M先生はこうおっしゃった。

 「挨拶は、しっかりやらなくてはいけません。それが仕事です。」

 トレードマークともいうべき大きく太い眼鏡の奥の目が鋭かった。
 すぐに柔らかな表情にもどり、「じゃ、がんばって」と席を離れたM先生。
 思えば、それが私にとっては最後の姿となった。

 自分の役割を全うせよ、と諭された気がする。仕事の価値を考えることに早くも慣れ始めた心を戒められたのだ。

 M先生のご専門が社会教育であることは知っていたが、若い自分にも県庁にお勤めになられ、全国に先駆けて生涯学習センターの設立に奔走なされたことを、弔辞によって初めて知った。
 当時の同志による別れの言葉が心に沁みた。
 合掌。

「つながりそうだ」という感覚で評価する

2007年06月05日 | 教育ノート
 日常化している活動であればあるほど、何のためにということを振り返る必要があると思う。
 活動を続けていく意味づけを持っているかどうかは、活動の質を規定していくはずである。具体的なこととして、子どもにどんな言葉をかけられるかに表れているだろう…そんなことを考えながら、書いてみた。

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「縷述 つながる授業16」
 
 各学級で音読や暗唱に熱が入っているようです。音読集会での発表や、学級ごとの指導の工夫が生きているような気がします。7年部などの校内人材もどんどん活用して、今後も子どもたちの意欲が高まるようにしたいものです。

 必修の音読詩文集配布から本格的になった活動ですが、ここでもう一度そのねらいをおさらいしてみたいと思いました。
 いったい何のための音読か、暗唱にはどんな意義があるのか、時々振り返っておかないと形だけが先行して、育っていく力に無頓着になりがちです。
 ねらいや効果と実際の様子と重ねあわせて見ていくべきことですし、学級の実態によって一部を強調したりする必要なども出てくるかもしれません。随時確かめながら進んでいきたいものです。

 たまたま書店で見つけた『古文・漢文・文語詩の暗唱50選』(東洋館出版社)に編者の大越和孝氏が以下のような5つの効果を書いていました。よくまとまってあると思ったので紹介します。要約です。

 ◇自分の思いを声に出して音声化することで、こころの開放をもたらす
 ◇きちんとした発音・発声による暗唱は、しっかりした声で話すことにつながっていく
 ◇聞き手に伝わるかという姿勢で読みとるようになり、言語に対する感性が豊かになる
 ◇叙述の細部に気をつけるようになり、自分の表現にも生かそうとする
 ◇作品のものの見方、感じ方、考え方に接し続けることによって、人間的な成長をもたらす

 ずいぶん大きな目標ともいえますし、すぐ目に見えて効果がでる類とは言えないでしょう。ただ指導者が意識しつづけることは大事だなあと思います。

 子どもの些細な変化をとらえ、「つながっていくかもしれない」「つながりそうだ」という感覚で評価してやることが、何よりの指導ともいえるのではないでしょうか。
(6/4)
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