すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

無駄な人生にしないために

2018年12月20日 | 読書
 著者はこの研究を進めるにあたり、「無駄ノート」なるものを作り、日常生活における無駄という言葉の使い方について調べ書き込んでいった。一年間続け、「ムダ・むだ・無駄」の3つに分類したが満足はしていないという。それだけ世の中には膨大な無駄が溢れている。それでもそこから無駄でないことを見つけた。


2018読了117
 『無駄学』(西成活裕  新潮選書)



 無駄を考える上で重要なことが二つある。それは目的期間である。目的が決まっていなければ、無駄かどうか判断できない。期間が定まっていなければ評価はできない。世の中にある仕事全般に言えるが、私的な営みにも言える。従って、昨日記した「人生は無駄だった」という表現は、論理上意味を成さないのだ


 具体的に生活上の「ムダ」「むだ」を少なくするために、印象に残ったヒントがいくつかある。一つは「間を詰める」という考え方。製造における運搬のムダを省く。真面目に掛けた「間締め」と名付けられているらしい。もう一つも運搬に関わることだが、「定量より定時」だ。量より時間で区切っていく効率が高い。


 「見える化」はよくビジネスの世界で使われる。全員が問題や手立てを共有するための有効なキーワードだ。しかし個人にも当てはまり、整理下手な自分などはいつも痛感している。ムダをなくすためには、一目で見わたせる、パッと目につくようにしておくこと。この単純な原則は、生きること全般に当てはまる。


 思いや願いは見えるように、拡散させておくとよい。さて、「人生に無駄なことは一つもない」という言い方もある。それは誰にも未来は見えず、最終的な個の評価に行き着かないからか。そう考えると、究極には「利己主義」「利他主義」という観点が、無駄かどうかの決定に意味を持つ。己に残るものなど、全て無駄だ。

コメントを投稿