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桜と絵本と豆乳と

棒を担いでいきたい

2011年12月31日 | 雑記帳
 3.11は私的にも個としても大きい出来事ではあったが、その多くを公的な部分で振り返られることは、同じ東北に在ってもひどく幸せなことなのだと改めて思う。

 学校の仕事にかかわって、3月震災以降、4月の余震時、自ら判断するべきことが多くあった。被災地の方々に比べれば微々たる経験であるが、緊張を強いられたいくつかの物事を忘れないことが、自分にとって震災と向き合うことだと肝に銘じたい。
 多くのアクションがある。自分も何かの棒を担いでいきたい。

 経営や実践上のことで、いくつか新しく始めたことがある。スタート時の研修、学習形態、はがき新聞、15分授業…まずまずの形で進んでいるとはいえ、勝負?は三学期に持ち越すことになるだろう。

 問題意識として浮かびあがってきたものを記しておく。
 教育と行政の関わり~もはや最大の課題といっていい。これは11月に宴席で野口芳宏先生と隣り合わせることが出来、その折に不躾にも質問させていただいた。座が盛り上がっていて中断したのが残念である。
 「技術」と「あり方」~授業づくりネットワーク関連のメルマガで取り上げられていた。これは自分にとって若い頃からの継続的な課題でもあった。これをもう一度掘り下げたいと考えている。


 さて、私的なこととして、私以外の家族はともに大きな変化(決断や準備や踏ん切りや…)があった年だった。その結果はいずれ来年以降のこととなり、自分が支える部分も多くなるだろう。
 地震並みに大雪、雪害のことも忘れられない。雪国に暮らす宿命のようなことを感じるし、それが齢を重ねていくに従って重くなっているのは確かだ。ただ、出来ること出来ないことを工夫して判断するなど、自分なりの前向きの視点も残っていることが救いだ。

 このブログの中心になっている「読書」であるが、読了112冊だった。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/hondana.html
 まずまずだろう。
 最高ランクをつけた本が三冊あり、再読した『悪人』と、『奇跡のりんご』そして『残酷人生論』だった。

 もちろんどれも印象深いが、特に『残酷人生論』の冒頭は風呂の中で何度繰り返し、文字を追ったことか。
 池田晶子の著書であり、それは意味の塊のような文章なのだろうが、なぜ繰り返し読まざるを得なかったか、いや読みたくなったかは、意味とはまた別の、文章の肌触りとかリズムとかメロディーのようなイメージが大きいように感じる。
 読書についてまた違う切り口を見た感じがしている。

 絲山秋子という作家が、ある雑誌表紙に筆蹟を残している。その言葉はこうだ。
 
 意味がないっていうのは、つくづくいい。

 なんとなく、その意味がわかってきたか…いや、そう考えるのは意味があるっていうことだし、その境地に達するには、まだまだ意味にこだわることも大切ではないか。
 
 傍からみれば、意味のない繰り言のようにみえるこのブログも、本当にたくさんの人に訪れていただき、やはりそのことに励まされ続いている。
 今年もありがとうございました。
 良いお年をお迎えください。

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