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「大人のいじめ」が普通な訳

2020年02月08日 | 教育ノート
 NHKクローズアップ現代で「大人のいじめ」と題された放送があった。神戸で教員による「いじめ」が大きく報道され、話題になった一件を前半に取り上げ、他の職場事例へつなげていた。コメンテイターの一人が「学校文化」という言葉を使いその背景を説明した。ある程度納得できたが、後からふっと思い直す。


 辞書は広義だが、「いじめ」の定義は文科省から学校の指導に関する文言と受け止めていた。その範囲がどんどん広がり児童生徒だけでなく教員、そして学校組織のみならず、一般の職場やコミュニティまで浸透した。「学校の社会化」に対し「社会の学校化」が進んでいるという論が以前からあるが、まさにその通りだ。


 最も本質的だと感じたのは、加害者として語った女性の一言だ。「生き物として必要だからいじめる。プチカーストみたいな感じ。」…ひとまず、これを受け入れるべきだ。集団で暮らす以上、多かれ少なかれそういう感情が湧き上がり、言動に表れるのは当然だ。そのうえでどう向き合っていくか。不幸な道の進行をどう防ぐか。


 困難な事態への対処方法を考えるだけより、真っ当な向かい方こそ肝心と今さらながら感じたのは、コメンテイターの石井が語った少年院の例だった。「美徳カード」というものを配り「『きょうどれだけ美徳をしましたか』ということを評価基準にする」という。言動についての積極的な働きかけこそ、原理原則であるはすだ。


 甘っちょろい手立てと笑われそうだ。しかし世間が「大人のいじめ」を普通と捉えることは、「大人」自体の意味を弱くする。それは「小人」の頃から、その場しのぎの現場だけを見て育ったからとは言えまいか。いい事をしようという正論をど真ん中に据えて学校が成立しなければ、社会が成熟するわけはないだろう。