ある雑誌を読んでいたら,こんな一文が目についた。
「うどんか蕎麦か」と聞かれた時,「蕎麦で」とやんわり応じるのが最近の傾向だ。
なるほど,言われてみればそんな返答の仕方はよく聞く。もしかしたら自分も使っているかもしれない。
この文章は「助詞」の使い方について書かれてあり,その例の最初として,二つが並べられてあった。
蕎麦でお願いします VS 蕎麦をお願いします。
結論として,「『を』で意思を明確に」ということが添えられていた。
そもそも,「を」と「で」では役割が違うのに,どうしてそういう傾向が出てきたのだろう,というのが自分の問いだ。
「で」の代表的な意味は「動作の行われる所・時・場合」「手段・方法・道具・材料」である。
「を」の意味する「願望・意志」「対象」との違いは明らかだが,その混同が始まっているということなのかもしれない。
「蕎麦を」に続く言葉の拡大を考えれば,「食べたい」「欲しい」が出てくる。
しかし「蕎麦で」ならば,「いいです」「時間をつぶしましょう(これはオーバーか)」などになってしまう。
こうしたことを考えていくと,この手の「で」は例題に挙げられている選択場面によく使われていることに改めて気づいた。
「右か左か」「手動か自動か」「電話かメールか」「徒歩か電車か」…こうした問いが発せられるときの様々な場面を考えて想像し,その心持ちを考えてみる。無理やりこじつければ,これは「所期の目的に対する接し方」による差なのかなという感じがする。
つまり,「で」の方が「とりあえず」「どちらかというと」という感覚が強くなる。ぼかす言い回しに近いということだ。
これ自体は別に責められることではない。何を選んでも不透明な世の中,また常に目の前の選択が目的化することもどうかと思う。そんな心理が,「で」を多用させていると言えなくもない。
唐突に,「を」の生き方,「で」の生き方,そんな連想が働く。
仕事や職業に当てはめてみれば,究極の?選択肢となる。
農業を生きる 農業で生きる
漁師を生きる 漁師で生きる
教員を生きる 教員で生きる
国語を生きる 国語で生きる
そんな熱く問われても困りますよ,という自分のような輩は「で」が精一杯とも言えるが,もう一つ広角的に想像すると,「で」の方が対象や生き方そのものを小さくとらえていることがわかる。
どういう場面であれ,結果的にどうあれ,対象への尊敬は自分の生き方にも関わるだろう。
やはり,どんな些細な選択であっても,「を」と言える方が喜びに近いのではないだろうか。
「うどんか蕎麦か」と聞かれた時,「蕎麦で」とやんわり応じるのが最近の傾向だ。
なるほど,言われてみればそんな返答の仕方はよく聞く。もしかしたら自分も使っているかもしれない。
この文章は「助詞」の使い方について書かれてあり,その例の最初として,二つが並べられてあった。
蕎麦でお願いします VS 蕎麦をお願いします。
結論として,「『を』で意思を明確に」ということが添えられていた。
そもそも,「を」と「で」では役割が違うのに,どうしてそういう傾向が出てきたのだろう,というのが自分の問いだ。
「で」の代表的な意味は「動作の行われる所・時・場合」「手段・方法・道具・材料」である。
「を」の意味する「願望・意志」「対象」との違いは明らかだが,その混同が始まっているということなのかもしれない。
「蕎麦を」に続く言葉の拡大を考えれば,「食べたい」「欲しい」が出てくる。
しかし「蕎麦で」ならば,「いいです」「時間をつぶしましょう(これはオーバーか)」などになってしまう。
こうしたことを考えていくと,この手の「で」は例題に挙げられている選択場面によく使われていることに改めて気づいた。
「右か左か」「手動か自動か」「電話かメールか」「徒歩か電車か」…こうした問いが発せられるときの様々な場面を考えて想像し,その心持ちを考えてみる。無理やりこじつければ,これは「所期の目的に対する接し方」による差なのかなという感じがする。
つまり,「で」の方が「とりあえず」「どちらかというと」という感覚が強くなる。ぼかす言い回しに近いということだ。
これ自体は別に責められることではない。何を選んでも不透明な世の中,また常に目の前の選択が目的化することもどうかと思う。そんな心理が,「で」を多用させていると言えなくもない。
唐突に,「を」の生き方,「で」の生き方,そんな連想が働く。
仕事や職業に当てはめてみれば,究極の?選択肢となる。
農業を生きる 農業で生きる
漁師を生きる 漁師で生きる
教員を生きる 教員で生きる
国語を生きる 国語で生きる
そんな熱く問われても困りますよ,という自分のような輩は「で」が精一杯とも言えるが,もう一つ広角的に想像すると,「で」の方が対象や生き方そのものを小さくとらえていることがわかる。
どういう場面であれ,結果的にどうあれ,対象への尊敬は自分の生き方にも関わるだろう。
やはり,どんな些細な選択であっても,「を」と言える方が喜びに近いのではないだろうか。