光の流れと交わったような高貴な時間。
そんな輝かしい時間と出遭うことは幸福なことです。
つらいことの多い毎日ですが、ほんとうはすばらしい世界にぼくらは生きているんだと、そのことを鮮やかに思い出させてくれるのです。
ヴァイオリニストのフランティシェック・ノボトニーさんとピアニストの伊藤ルミさんのコンサートは、そんな珠玉のような時間をぼくらに与えてくれました。(2013年6月22日、神戸新聞松方ホール)
ノボトニーさんはチェコを代表するヴァイオリニストのひとりです。
伊藤さんは神戸を拠点にして日欧で活躍を続けてきたピアニスト。
伊藤さんが初渡欧した1988年に交流が始まったということです。
日本ツアーは今回でもう16回目になるのです。
おそらく今回のこの「デュオ2013」は、たゆまず続けられてきたこの長期シリーズのひとつの頂点ではなかったでしょうか。
ここにきてふたりの心のありようがいよいよくっきりと現われてきたように見えるのです。
くっきりと現われてきたことで、アンサンブルがいっそう水際立ったものになったのです。
円熟のひとつの極点に到達した、とそう言ってもいいでしょう。
ノボトニーさんは、天空を鋭く翔ける精神のようなのです。
いえ、すでに精神そのものです。
高貴な輝きを放つのです。
伊藤さんは、大洋を悠然とめぐる大きな情感の海流です。
温かで豊麗な風をつくります。
高い精神と奥深い情感とが呼応して大きな世界を築くのです。
ヘンデル(ヴァイオリンソナタ第4番)とバッハ(カンタータ147番より「主よ、人の望みの喜びよ」)のプログラムは、この天空の精神と大洋の情感とを堅実な響きのなかに表現しました。
バロックの堅牢な鼓動が、いのちの流れを確かな軌道と無限の広がりのなかで感じさせてくれたのです。
鋭く翔けるものとゆったりとめぐるものの均衡と調和の極致がそれを感じさせてくれたのです。
そして大曲「クロイツェル」(ベートーヴェン「ヴァイオリンソナタ第9番」)では、この均衡と調和が単に表面でかたちづくられただけの風景ではないということ、その内部には確かな空間と大きな沸騰があるということ、そのことがはっきりかたられたのでした。
第一楽章で明快に提示される鋭さ(第一主題)と穏やかさ(第二主題)の対峙、そしてその融合と超克。
その実り豊かな交錯を、ヴァイオリンとピアノの緊密な演奏が、明晰に、揺るぎなく、情熱的に、しかも艶麗に繰り出していったのです。
表の風景の美しさがまさしく構造的に開示された、とそう言っていいでしょう。
しかし真実の相のなかにはいつもなにがしか悲劇への予感があります。
完璧に晴朗な青空には、ときとして雷霆(らいてい)への不安がよぎります。
ラヴェルの「ツィガーヌ」は、じっさい、ぼくたちを稲妻のように撃ったのです。
ふたりの演奏家は、この曲が求める超絶技巧に猛烈な速度と精緻な振動で対応しました。
それは天空に突き立った危険な尾根を微妙なバランスで進んでいく命しらずの冒険家のようでした。
それは、このふたりの演奏家が、実は極限的な数々の瞬間をどんなに大きな勇気で乗り越えてきたか、そのことを如実にあかしもしたのです。
すばらしい均衡と調和には、そうです、いつも恐ろしいクレバスが隠されているのです。
あるいはむしろ、そのすばらしい構造は、無数のクレバスの危険な集積で成っているのかもしれません。
危険こそ、たぶん、均衡と調和の母なのです。
この日、ぼくたちは時間が光になるのを感じました。
演奏者たちがまぶしく輝き、それに呼応してぼくたちも輝きました。
この世界に真実の相があるということ、そのことを確かめることができました。
そんな輝かしい時間と出遭うことは幸福なことです。
つらいことの多い毎日ですが、ほんとうはすばらしい世界にぼくらは生きているんだと、そのことを鮮やかに思い出させてくれるのです。
ヴァイオリニストのフランティシェック・ノボトニーさんとピアニストの伊藤ルミさんのコンサートは、そんな珠玉のような時間をぼくらに与えてくれました。(2013年6月22日、神戸新聞松方ホール)
ノボトニーさんはチェコを代表するヴァイオリニストのひとりです。
伊藤さんは神戸を拠点にして日欧で活躍を続けてきたピアニスト。
伊藤さんが初渡欧した1988年に交流が始まったということです。
日本ツアーは今回でもう16回目になるのです。
おそらく今回のこの「デュオ2013」は、たゆまず続けられてきたこの長期シリーズのひとつの頂点ではなかったでしょうか。
ここにきてふたりの心のありようがいよいよくっきりと現われてきたように見えるのです。
くっきりと現われてきたことで、アンサンブルがいっそう水際立ったものになったのです。
円熟のひとつの極点に到達した、とそう言ってもいいでしょう。
ノボトニーさんは、天空を鋭く翔ける精神のようなのです。
いえ、すでに精神そのものです。
高貴な輝きを放つのです。
伊藤さんは、大洋を悠然とめぐる大きな情感の海流です。
温かで豊麗な風をつくります。
高い精神と奥深い情感とが呼応して大きな世界を築くのです。
ヘンデル(ヴァイオリンソナタ第4番)とバッハ(カンタータ147番より「主よ、人の望みの喜びよ」)のプログラムは、この天空の精神と大洋の情感とを堅実な響きのなかに表現しました。
バロックの堅牢な鼓動が、いのちの流れを確かな軌道と無限の広がりのなかで感じさせてくれたのです。
鋭く翔けるものとゆったりとめぐるものの均衡と調和の極致がそれを感じさせてくれたのです。
そして大曲「クロイツェル」(ベートーヴェン「ヴァイオリンソナタ第9番」)では、この均衡と調和が単に表面でかたちづくられただけの風景ではないということ、その内部には確かな空間と大きな沸騰があるということ、そのことがはっきりかたられたのでした。
第一楽章で明快に提示される鋭さ(第一主題)と穏やかさ(第二主題)の対峙、そしてその融合と超克。
その実り豊かな交錯を、ヴァイオリンとピアノの緊密な演奏が、明晰に、揺るぎなく、情熱的に、しかも艶麗に繰り出していったのです。
表の風景の美しさがまさしく構造的に開示された、とそう言っていいでしょう。
しかし真実の相のなかにはいつもなにがしか悲劇への予感があります。
完璧に晴朗な青空には、ときとして雷霆(らいてい)への不安がよぎります。
ラヴェルの「ツィガーヌ」は、じっさい、ぼくたちを稲妻のように撃ったのです。
ふたりの演奏家は、この曲が求める超絶技巧に猛烈な速度と精緻な振動で対応しました。
それは天空に突き立った危険な尾根を微妙なバランスで進んでいく命しらずの冒険家のようでした。
それは、このふたりの演奏家が、実は極限的な数々の瞬間をどんなに大きな勇気で乗り越えてきたか、そのことを如実にあかしもしたのです。
すばらしい均衡と調和には、そうです、いつも恐ろしいクレバスが隠されているのです。
あるいはむしろ、そのすばらしい構造は、無数のクレバスの危険な集積で成っているのかもしれません。
危険こそ、たぶん、均衡と調和の母なのです。
この日、ぼくたちは時間が光になるのを感じました。
演奏者たちがまぶしく輝き、それに呼応してぼくたちも輝きました。
この世界に真実の相があるということ、そのことを確かめることができました。
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