しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

映画「マリー・アントワネット」

2007-01-30 05:01:43 | 映画
ファッション・ブランドのコマーシャル・フィルムないしはポップスのプロモーション・ビデオのような映画。じっさい押し寄せる音楽の波、波、波。ちょっと使用過多でゲンナリもする。

映像のインスピレーションありき、といった作品で、美しい、というよりはかわいらしいシーンが続く。たとえば整地されていない湿った草はらを、現代っ子が服が汚れるのを気にするように、ちょっと困りながら歩く大仰なドレスの女性たちとか、徹夜で騒いで、連れだって水のほとりに朝日が昇るのをみにいくとか、まあ、18歳前後の「等身大の」マリー・アントワネットとその周囲を描くという意図だろうが、要するに、宮廷風俗でそのまま十代の女の子たちの青春グラフティをやれば面白いんじゃないかという監督のその感性がかわいらしい。

ストーリーらしいストーリーといえば世継ぎ問題の一点だけ。その一点で無理なぐらいに引っ張る。夫のルイ16世とのあいだになかなか子供ができないで苦しむのだが、え、まだその話つづくの? という。錠前マニアで狩り遊びが大好きというルイ16世役の役者の内向演技もちょっとやりすぎ。

ただ、さわやかなのは終始その二人の仲が良く、国家の真ん中で、与えられたものを疑いなく享受しながら、セックスレスだけど好き合っている若い二人という、本当に二人はそれだけなのに、という一貫した観点はいい(この政略結婚自体、二人には与えられたものだし、妃のささやかな浮気や別邸や、ほどよい距離で描かれているのもまたいい)。これが頭の悪い男の監督だと、どうしても歴史映画の桎梏から逃れることができない。女性的感性でしか撮れない作品というのは確かにある。でたらめではなく、これだけ自由にやるのは、そうは言ってもなかなか難しいことだろう。

そして風俗描写(必ずしも18世紀当時のというわけではなく、この映画では大きく現代のそれなのだが)という点で、これはソフィア・コッポラのようなセレブリティにしか撮れない映画だろう。贅沢を描くというのは贅沢をして生きてきた人間でなければほとんど不可能なことで、お勉強でどうにかなるものでもない。

全体を通してリアリズムというよりは寓意的な手法をとるが、寓意であるにしても、その時代、その人物を描きたいという必然性が弱いと、どうも焦点がぼやけるよう。大詰めのベルサイユに押し寄せる民衆の撮り方が失笑を買うまでに紋切り型なのもそこに要因があるのだろう。

それも蜂起した民衆を描く必然性が監督の中にないからそうならざるを得ないわけで、それまで宮廷人の視点で描いていたところにいきなり民衆の視点、というより完全にどっちつかずの、ありもしない「第三者」の視点を介入させたことでシーンは笑うべきものとなった。さすがセレブ・コッポラ、大衆を撮るのがヘタ…なんて言い方こそ紋切り型で、言ってみただけ。彼女の資産状況なんて知らないもの。

いや、コッポラとしてはマリー・アントワネットの生涯にしても、できればギロチンで首を切られることなんてなく、贅沢な生活を送ってそのまま死んでほしかったろうに。つまり究極的には彼女でなくともよかったわけで。

結んだ焦点のその先に強く作家という人が意識される作品ではないけれど、音楽と色彩、フェティッシュの快楽、強すぎてこちらを疲れさせることのない、適度な快楽を与えてくれる映画。18世紀フランスの宮廷風俗について、へー、こんな感じだったのかと。点数をつけるなど恐れ多い作品がある一方で、70点の点数をつけたくなる作品(いや、80点でもいいのだけど)。見に行くべき映画。 


関西テレビ狂騒曲

2007-01-23 22:46:24 | 報道
 関西テレビの「発掘!あるある大事典Ⅱ」のデータ捏造がまるで特異な事件のように騒がれていますけど、むしろテレビの情報というのはほとんどがかなりいい加減なものだと考えておく方がまともなんじゃないですか。
 どの番組も時間に追われて作ってますからねえ。100パーセントの裏を取るなんて、現実的に無理ですよ。
 逆にテレビの情報を頭から信じて、店頭からアッというまに納豆が消えてしまうというような現象の方がブキミなことではないですか。
 まるでなにか脳のない生き物が、思考力のないまま反射的に暴走しているようじゃないですか。

アコースティックナイトinCOSMO

2007-01-22 07:19:40 | 音楽
『太田裕美は稀代のシンガーソングライターだ!!』
と改めて思った夜だった。

今回のライヴは太田裕美・伊勢正三(元「風」「かぐや姫」)・
大野真澄(元「ガロ」)の3人による
「懐かしの青春ヒットメドレー」的。
たまたま私の家の隣町であったので
太田裕美大ファンに加えて、正やんに大野さんとくれば
行くっきゃない。

年齢層メチャ高い。私は若い方(精神年齢が老けてる?)。

構成は3人→大野・伊勢→大野ソロ→太田ソロ→太田・伊勢
→伊勢ソロ→3人でヒット曲ゆう感じ。

一番カンゲキは後半の3人で歌う「なごり雪」
(オリジナルアレンジ)
この歌を作った正やんに太田裕美と大野真澄との
コーラスが最高だった。

名曲はやっぱり名曲だった。

『カラマーゾフの兄弟』

2007-01-15 14:22:45 | 本、文学、古書店
ドストエフスキーは心理を閉め出している。実際そのほかの言葉で作品は溢れ返っていて、心理に関するもの言いの入り込む余地がないというのか、とにかくここでは心理が必要とされていない。

「わたしはあの商売女にたいする憎しみのために、あの人に腹を立てたんですわ!」

あるとしたらこんなものだろう。これは心理についての分析的記述とは言いがたい。作家だけが知っている人間心理の最奥の秘密、などというものではまったくない。逆にもっとも単純化され、誰にでも理解できる、ほとんど進行上の口実ともいうべきもので、「外では雨が降っていた」といった文句と何も変わるところがない。

とりわけ「カラマーゾフ」ではその大詰め、父殺しの嫌疑をかけられたドミートリィの裁判で、心理分析のいかがわしさについて相当ストレートに言われている。検事の論告に反論する弁護士が、心理解剖などというのはどうとでも言えるものだと述べたてるのだが、その姿勢は作品全体の文体にこそ示されている。

同じドストエフスキーでも、老婆殺しの動機に「複雑な」心理のある『罪と罰』などは、そのせいでかえって物足りなさを感じさせる。殺人に到る心理の緊密な連なりがあったとしても、それが必然性の印象を与え、小説的な迫力をもたらしているかというと、必ずしもそうではない。

彼らの複雑かつ微妙なる心理には何ら関心を払わず、しかし彼らカラマーゾフの兄弟たちについて書くべきことが作家にはまだ多くあった。作家の死に阻まれ書かれることのなかった続編が、読みたかった。



クラリネットとサクソフォンによるWinter Concert/滋賀県立芸術劇場「びわ湖ホール(小ホール)」

2007-01-13 00:41:05 | 音楽
まだ荒削りだが未来を予感させる
新進気鋭の演奏家の演奏は
当然多少の不満はあるものの、
なかなか収穫多い音楽会だった。

クラリネット・八段(はったん)悠子と
サクソフォン・千葉雅世が
クラシックからミュージカルナンバーまでをプログラミング。
クラシック専門ながら若い感覚の息吹も伝わる
考えられたプログラムだ。

八段と千葉は対照的な演奏家だ。
八段は堅固な基本技能に裏付けられた端正な演奏、
千葉は歌心にたけた感性にしみ入る演奏。

しかしソロではそうだが、
アンサンブルとなると、
シングルリード系木管楽器が持つ
特有の音が重なり合って豊穣な響きが劇場に鳴り渡る。
それはムソルグスキー『展覧会の絵』の「キエフの大門」で
頂点に達した。
クラリネットとサクソフォンと
ピアノから放たれる堂々たる音響。

今まで八段と千葉のことばかり書いたが
ピアノも特筆に値する。
池田弥生のカッチーニ「アウ゛ェ・マリア」での
千葉とのデュオでは繊細な音色が楽しめた。
もう一人のピアノ・仲香織もよく健闘。
加えてベーゼンドルファー社のピアノが
穏やかで落ち着いた柔らかな音であったことも
演奏に素晴らしい華を持たせた。


八段の
サン=サーンス「クラリネットとピアノのためのソナタ」は、
ケアレスミスはあったが、
全体に安定したブレス・コントロールと
それに裏付けられたフィンガリングや
タンギングの技術は非常に良かった。
また低音域の響きが非常に豊かで、
それは安定した高音域、
ムラのない低音域から高音域への
美しいスケールへも当然派生していた。

千葉の
『展覧会の絵』の「プロムナード」のアルト・サクソフォン、
「古城」のバリトン・サクソフォンのソロは
タンギングの不具合などはあったものの、
千葉の魅力を非常に表出した演奏。
また千葉の歌心ある表現は、
ややモダンな旋律に向いている感覚を
持ったのは私だけだろうか?

同じ滋賀県立石山高等学校音楽科出身の二人の息は
テクニックではなく、
信頼と友情で心よく合っていた。
それは『展覧会の絵』の「殻をつけた雛鳥の踊り」での
千葉の可愛らしいぬいぐるみを使ったパフォーマンス、
アンコールのポケット・サクソフォンのデュオによる
ご愛敬の演奏、
そして最後の寺嶋民哉『ゲド戦記・テルーの唄』の
温かさに顕著ににじみ出ていた
(この曲を一瞬、海援隊「思えば遠くへ来たもんだ」かと
思ったのは私だけだろうか(笑))。

まだまだ演奏家としての課題は山積みな八段と千葉だが、
これを契機により高い次元での勉強と演奏活動を
期待したく、また期待させる音楽会だった。


【データ】
2007年1月13日(土)18:30開演
滋賀県立芸術劇場「びわ湖ホール(小ホール)」

[プログラム]
○W.Aモーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』より
        「恋とはどんなものかしら」
 クラリネット+サクソフォン
○C.サン=サーンス:クラリネットとピアノのためのソナタ
 クラリネット+ピアノ
○P.ボノー:カプリス
 無伴奏テナー・サクソフォン
  (休憩)
○A.ロイド・ウェーバー:『オペラ座の怪人』より
 「THE PHANTOM OF THE OPERA」
 「THE MUSIC OF THE NIGHT」
 「ALL I ASK YOU」
 「MASQUERADE」
 クラリネット+サクソフォン+ピアノ
○E.ジョン:『ライオンキング』より
 「愛を感じて」
 クラリネット+ピアノ
○G.カッチーニ:アヴェ・マリア
 アルト・サクソフォン+ピアノ
○M.ムソルグスキー(長生淳編):『展覧会の絵』より
 「プロムナード」
 「こびと」
 「古城」
 「テュイルリー(遊んだ後の口げんが」
 「ビドロ」
 「殻をつけた雛鳥の踊り」 
 「キエフの大門」
 クラリネット+アルト・サクソフォン/バリトン・サクソフォン
 +ピアノ
 
(アンコール)
○エーデルワイス
 ポケット・サクソフォンのデュオ
○寺嶋民哉:映画『ゲド戦記』より「テルーの唄」
 クラリネット+アルト・サクソフォン

[出演者紹介]
■千葉雅世(サクソフォーン)
 滋賀県立石山高校音楽科→大阪音大卒
 第9回KOBE国際学生コンクール優秀賞
 陣内亜紀子、篠原康浩、小村由美子各氏に師事
■八段(はったん)悠子(クラリネット)
 滋賀県立石山高校音楽科→京都市立芸大卒
 音楽学部賞受賞
 第21回日本管打楽器コンクール第1位
 梅田俊明指揮/東京交響楽団と
 モーツァルト「クラリネット協奏曲」共演
 山川すみ男、高橋知己各氏に師事
■池田弥生(ピアノ)
 大阪音大・同専攻科修了
 堺ピアノコンクール奨励賞
 ウィーンにて
 インゴマー・ライナー、アボ・コーユーミジャン氏の
 レッスン受講
 伊藤勝氏に師事
 神戸音楽家協会会員
■仲香織(ピアノ)
 兵庫県立西宮高校音楽科→京都市立芸大・同大学院修了
 第3回堺国際ピアノコンクール一般部門第3位
 第15回京都芸術祭京都市長賞受賞
 2004年ソロリサイタル開催




未来ある子どもたちに出来ることは?

2007-01-12 18:00:58 | 文化芸術一般
今日ボランティアで保育園の餅つきをした。
明らかに知的障害や自閉症の子どもや
発達障害(学習障害、注意欠陥多動性障害)の
子どもが沢山いた。

文部科学省によると、1クラスの約6~7%の子どもが
発達障害児だという。
勉強のことは学校の先生たちにお任せするとして

果たして私たち芸術文化に携わる者は
この未来ある子どもたちに何が出来るのだろうか?

餅つきをしながら一瞬そんなことを考えた。

野平一郎特別演奏会(吹田メイシアター)

2007-01-11 23:23:25 | 音楽
現代音楽の音楽会で、初めて涙がにじみ出てきて、
泣きそうになった。

   「美」に対する畏敬の涙。

今日の野平一郎のピアノは不協和音はもとより、
汚れているもの、壊れているものさえも美しかった。

   「澄みきった夜空の、星々のまたたき」

野平の演奏を一言で形容するならばこう言えよう。
劇場は宇宙となり、ビッグバンを起こした
まだ星にもならない塵たちがピアノから放散される。

しかし塵たちはすぐに様々な色や形の星となって、
劇場という宇宙に散らばっていく。
そしてある曲の最後の星は彗星となって、
劇場を突き抜けて行った。
   
     何処へ?


えらく情緒的な文章になりすぎた。
もう少し客観的(主観的?)な文章を。

この音楽会の正式な名称は長い(笑)
『[実験劇場パート18]
ニューイヤーコンサート 現代音楽の夕べ
野平一郎特別演奏会&
吹田音楽コンクール作曲部門受賞者記念演奏会』

前半は1990年から始まった吹田音楽コンクールの
歴代の1位受賞者の楽曲の演奏。
後半は審査委員の一人の野平一郎氏のピアノ独奏。

前半は5人の「新進気鋭」の作曲家の楽曲が続く。
  拷問…
念のため言っておくが、楽曲自体が著しく悪いわけではない。
誤解を恐れずに言うならば
特に気に入った楽曲は無かったが
日本の現代音楽の潮流の一端を感じることが出来て
意義のある体験だった。
また16回も続いているこのコンクールは素晴らしい。
加えて”ゲンダイオンガク”が
ニューイヤーコンサートであることも特筆に価する。

なぜ「拷問」?
それは『演奏家』である。
”ゲンダイオンガク”でもクラシック音楽の範疇に入る以上、
即興性や偶然性がある音楽でも
その基本は「再現音楽」である。
モダンジャズの全くの即興演奏とは違う。
『演奏家』の技術や音楽性が余りにも低すぎた。
楽曲をどれだけ「再現」出来ていたのかはなはだ疑問である。

演奏家に関しての唯一の収穫は
フランスのヴァイオリンの巨匠・ジュラール・ブーレ氏の
生演奏が聴けたことである。
しかし楽曲への不満と
悲しいかな、学ぶ点は多くあるが、
決して全盛期とは言えなくなったブーレ氏の演奏が
残念だった。


後半の野平さんの演奏は「タケミツへのオマージュ」を
テーマとしたプログラミング。
曲目のみ示しておく。
感想は冒頭に散々書いたので。

タケミツの最小限の紹介。
武満徹(たけみつとおる)。今年没後10年となる
日本を代表する作曲家。


武満徹/ピアノ・ディスタンス(1961)
野平一郎/間奏曲第1番「ある原風景」(1992)
野平一郎/間奏曲第2番「イン・メモリアムT」(1998)
リンドベルイ(フィンランド)/トゥワイン(1988)
ナッセン(イギリス)/祈りの鐘 素描 作品29(1997)
武満徹/閉じた眼Ⅱ(1988)


タケミツ以外は今も旺盛な活動をしていることを
付け足しておく。


硫黄島からの手紙

2007-01-11 16:28:55 | 映画
ある者は自ら死にに行くのにが死なない。

またある者は何度も死に直面しながら死なない。

クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』は
全く戦記物でもなければ、家族の絆を描いた作品でもない。


人生の「不条理」である。


米軍の海上から大船団が迫ってくるシーンは
一瞬、本作品で製作を務めるスティーヴン・スピルバーグの
『プライベート・ライアン』を想起させる。
しかし『硫黄島からの手紙』には『プライベート・ライアン』で
20分余りも繰り広げられた兵隊の上陸シーンはない。
それどころか米軍の大船団は
日本兵が洞窟や望遠鏡でほんの少し覗くに過ぎない。
大船団は遙か向こうに「ある」かのように見える。

米軍の大船団は「模型」だ。

戦争末期の硫黄島の日本軍にとっての
米軍は「無感覚なもの」、
せいぜい「来訪者」、
「形式的」な存在に過ぎない。
それより食糧も水も援軍もない中で
ある者はどうやって最期を迎えるか、
ある者はどうやって生き延びるか、
真っ暗な迷路のような洞窟で
自己の迷路的思考を働かせている。

だから『戦場としての「硫黄島」』には
戦闘・対戦は存在しない。
日本側の視点から描いたこの作品では
死が確実な、戦争末期の、”戦場”の硫黄島で、
日本人という人間が
どう生きていっているかを
観客をタイムスリップさせて、
現在進行形的に描いているのだ。

「手紙」はその媒介、
うがった見方をすれば、
興行のためのヒューマニズムのために
使われているに過ぎないとさえ見える。
少なくとも私にとっては手紙は大した意味を持たなかった。

上映時間の都合だろうが、
編集にかなり無理があり、
必ずしも「いい作品」とは言い切れない。
特に渡辺謙演じる栗林中将の描き方など。
しかし素材としてはいいものがかなりある。
ディレクターズ・カット版を望みたい。




歓びと努力

2007-01-07 00:25:36 | 音楽
舞台上には、カットソーやセーター、シャツなどを白に統一してこの日の衣装にした若き演奏者たちが並ぶ。無事演奏を終えた彼らの表情は自信に溢れ、カーテンコールにはそのかわいらしい笑顔を観客たちに向けていた。

お稽古ごとをはじめる時「誰に何を習うのか」はとても重要である。例えば一口に舞踊といってもバレエにはクラシックやモダンがあるし、他にも社交ダンス、フラメンコ、フラダンス…など素人の私が知っているだけでも多彩に教室が存在する。それに指導者との相性もあるのだから慎重に選ばなくてはならない。場合によっては習う前に嫌いになるというような不幸な出会いもありうるからだ。だから目的にあった教室を見付けるためには情報収集のための時間を惜しんではならない。とはいうものの手始めに何を基準に選べばいいのか…という方にはその教室の発表会を見学するのもひとつの方法だろうと思う。

昨年の12月10日。芦屋ラポルテホールにて第3回ブライスファンが開催された。主役はこのピアノ教室「ミュージックブライス」に通う子供たちだ。第一部ではピアノの連弾で「ジングルベル」や「きよしこの夜」などの定番曲を。そして第二部ではクリスマスを楽しみしている動物たちのお話「コーギビルのいちばん楽しい日」にのせてドラム、ベース、サックスをいれたカルテットでの演奏(以上、プログラム案内文より抜粋)が披露された。
このブライスファンは私がイメージしていた発表会とは全く違っていた。スクリーンに映し出された絵と司会者によるナレーションに合わせて、子供たちが(ピアノの単独演奏ではなく)プロのミュージシャンと共演するといった構成にも驚いたのだが、演奏者である子供たちも始めから終りまで観客として会を楽しんでいたのだ。なるほど、プログラムのあいさつ文にもこう書いてあった。

…ブライスファンは、私たちミュージックブライスがめざす「音楽を楽しむ力をつけてほしい」というコンセプトを形にしたミュージックパーティーです。…

そう、ミュージックパーティー。子供たちはいままでの練習成果を披露すると同時に演奏を聴くことも楽しんでいたのである。あとで指導者にお話を伺うと、こうおっしゃっていた。
「会で子供たちが演奏した曲はこれまでの会で演奏された曲のどれとも重複していません。だから子供たちは、この曲は前にわたしが弾いた曲だわ、ということがないのです。」
だから彼らは初めて聴く演奏に興味津々だったのだ。
しかし、ということはあれである。指導者は、会の構成を考えると同時に子供ひとりひとりのレベルに合わせて何十曲、何百曲と演奏する曲の候補を考え、さらに演奏に適した楽譜も探してらしたということだ。それはとても多くの時間と手間を必要とする作業に違いない。楽しそうに笑って私に話してくださったお顔からはそんな苦労は少しも感じられなかった。

指導者が自ら努力を惜しまないこの教室なら生徒たちも音楽を楽しむための何かを学ぶに違いない、そう思った。

障害者施設に行って

2007-01-01 02:29:08 | 社会
先日友人が勤める知的障害者施設のクリスマス会で出張音楽会をした。過去の仕事柄このような施設はよく知ってるつもりだった。しかしほんの少し覗いただけだが深く考えさせられる事があった。それは「におい」と「ひかり」である。施設のメインエントランスがとてもアンモニア臭がする。そして真昼なのに暗い。利用者や職員はこの臭いや暗さに馴れてしまっているのだろう。失禁した排泄物を十分に処理する手がないのも分かる。しかしこれが障害者「だから」これで健康で文化的な生活をする場とされてしまっている事にどうしても違和感を感じる。これでいいのか?