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ブログ版 シュプリッターエコー

花のダンス、魂のダンス―鎌田隆行さんの作品

2009-12-25 22:39:00 | 美術
 京都市のGallery吉象堂で開かれた「丸池'69展」で鎌田隆行さんの作品を見ました(12月1日~6日)。
 1969年に京都市立美術大学の日本画科を卒業した美術家たち8人のグループ展で、今回が11回目です。
 卒業からちょうど40年。
 同窓の画家たちが、ああ、こういうふうにそれぞれの世界を成熟させていくのか、とひとしお感懐に誘われる企画でした。

 鎌田さんの作品は、花のダンスです。
 落ち着いたブルーを背景に、赤やピンクや黄色や白や…、きりっとした花々が咲き乱れているのです。

 プラトンのイデアみたいな、こんなくっきりと澄明な花がこの世界にあったかなあ、と思いながら、なんという種類ですかと尋ねると、やっぱり画家の答えはこうでした。
 「現実にはない花です。いろんな花をデッサンして、その上で心で作り出した花なのです」

 内面で再生された花なのです。
 それがリズムを打つように、ハーモニーを奏でるように、巧みに配されているのです。
 気持ちのいい作品です。

 描いた、というよりも、作曲した、といったほうが近いかもしれません。
 心が共鳴するように踊るのです。

 花のダンスは、そうか、魂のダンスなんだ、とそんなふうに思いました。

 出展者はほかに、池田三郎さん、神野立生さん、木村順子さん、小坂敦子さん、塩山強さん、高崎千歳さん、殿南直也さん。

 なお、鎌田隆行さんの子息は、いま注目の新進彫刻家の鎌田祥平さんです。
 前後して京都で開かれた「鎌田祥平展」の評が本ブログの姉妹ページ「Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」にあります。
 Web版は http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/


幻想とエロス・山本六三の展覧会―兵庫県立美術館

2009-12-05 19:01:00 | 美術
 山本六三(むつみ)さんという画家の展覧会が神戸市の兵庫県立美術館で12月12日から開かれます。
 これは神戸の美術界にとってなかなか衝撃的なニュースです。
 山本六三さんは8年前に61歳で亡くなりましたが、孤高を通した異端の画家です。
 とりわけその精緻(せいち)な銅版画には、エロティシズムと死そして反俗の精神がみなぎります。
 いわば美術の真昼を進むのを本分とする公立の美術館では、採り上げるのにいささかの抵抗があるはずの夜の作家でもあるのです。
 それを兵庫県立美術館がプログラムに入れたのです。
 おっ、やるじゃないか、という感じです。

 なかでも俗臭ぷんぷんたる現代の大衆社会に嫌気(いやけ)がさして反俗・超俗の美世界を求めている誇り高き少数派の人々に、山本六三あり、と知らしめたのは、バタイユの翻訳出版のための挿入画(銅版画)に取り組んだときのことでした。
 これも異端のフランス文学者・生田耕作さん(元京都大学教授)がバタイユの奇書「眼球譚」を翻訳して、山本さんがそれに挿画を描いたのです。
 怪異な幻想文学と照らし合って、そこではエロスのヴィジョンが多様に、精巧に刻まれました。

 今回の出展リストにあるかどうかはまだ確かめていませんが、晩年の山本さんが大切なテーマにしていた「死の踊り」は、死とエロティシズムの親近性をみごとにとらえたシリーズでした。
 大きな首狩りの鎌をかついだ死神が音頭をとって、幾人もの娘たちがエレガントな群舞を繰り広げているのです。
 楽しげでもあり、寂しげでもあり、そして何よりも凛(りん)と美しい作品でした。

 生前に何度かお会いしましたが、その生き方もたぶんダンディスムを貫いた作家です。
 現代にダンディスムを貫くとは、俗から一定の距離をとり、むしろ俗を超えるということです。
 もの静かな喋り芳で、しかし棘(とげ)のある言葉をそっとさしはさむひとでした。
 今回の展覧会開催には、山本さん自身がいちばん驚いているかもしれません。

 「山本六三展―幻想とエロス」展は来年3月14日まで。原則として月曜休館。一般500円、大高生400円、中小生250円。
 http://www.artm.pref.hyogo.jp/
           
 ☆追伸(2月28日)
 「山本六三展」の展覧会評を本ブログの姉妹ページ「Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」に掲示しました。
 http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/


無限宇宙へ広がる視界―藤田佳代リサイタル

2009-12-03 19:26:00 | 舞踊
 神戸を拠点にモダンダンスの活動を続けている藤田佳代さんのリサイタルを神戸文化ホールで見ました(2009年11月3日、第10回藤田佳代作品展)。
 3年に1度ずつ、10回まで開催するという計画で進められてきたリサイタルですが、今年はその10回目になりました。
 毎回深いビジョンを放つ新作が上演され、神戸の文化にさまざまな刺激を与えてきました。
 それだけに、シリーズの終了を惜しむ声もたくさんあります。

 10回目のプログラムは「運ぶ」「日は はや 暮れ」そして「ひびく」の3本でした。
 どれも、藤田さんならではの精神性を凛(りん)とたたえたステージでした。

 「運ぶ」は、美しいマンダラが舞台に繰り広げられるのを見るようでした。
 中心に立ちあがってきた光が、あるいは命が、その周囲で踊るダンサーからダンサーへと伝わって、舞台全体に光が、命が満ちるのです。
 いかにもマンダラは、宇宙の中心に生まれる仏の光(命)が、周りの如来や菩薩によって「運ばれて」、全宇宙へ広がっていく図なのでした。

 「日は はや 暮れ」は、藤田さんのこれまでの創造の、ひとまずの集大成のような作品でした。
 延々と流れていく時間のような透明な群舞が、絶え間なく、ゆっくりと続きます。
 その流れのなかで、創造主のような、あるいは神を象徴するような、ふたりのダンサー、すなわち藤田さんと東仲一矩さん(ゲストダンサー、フラメンキスト)が、暗示的な踊りを繰り広げていくのです。
 世界の誕生と滅び、そして再生のビジョンを見るようでした。

 「ひびく」は、生の世界と死の世界の呼応を踊るようなステージでした。
 音楽は丹生ナオミさんがこの舞台のために作曲した新曲で、ピアノのナマの演奏でダンスも繰り広げられました。
 創作の舞踊と創作の音楽と、そのふたつの「響き合い」にもなったのです。

 目に見える現実の時空を超えて、視界が無限へと広がっていく、それが藤田舞踊の根底を流れる揺るぎのない方向性だと、いまやそう確信していいでしょう。

 これでリサイタルの計画はひとまず完結しましたが、作品はこれからもまだまだ作られるはずですし、さらに深くなっていくでしょう。
 新たな期待が生まれます。



 なお、特に「日は はや 暮れ」に焦点を当てた評論を本ブログの姉妹ページSplitterecho(シュプリッターエコー)Web版に掲載しています。Web版は http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat