しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

いい年を!

2007-12-31 22:16:53 | ノンジャンル
 このブログにお立ち寄りいただいている皆さま、2007年はありがとうございました。

 2008年が皆さまにとって、幸運でぎゅうぎゅうに満たされた年になりますよう、心からお祈り申し上げます。

 実生活の上でも精神生活の上でも追い詰められた気持ちに立たされることの多いここ何年かの日々ですが、負けないで進みましょう。
 
 泣くことがあっても、泣きながら進みましょう。

 ポロポロ涙がこぼれても、ポロポロ涙をこぼしながら進みましょう。

 ねっ。

妄語録 1

2007-12-29 12:19:17 | 言葉
 この世の中に分類しきれないくらいいろんな性格の人がいるということ、それはそんなに恐るべきことではありません。
 いずれにしろ、時がたてば慣れるでしょう。

 しかし自分の中に整理しきれないくらいいろんな性格があるということ、これは恐るべきことです。
 気高いものにあこがれる神のような心と、残酷なものにひかれる悪魔のような心とは、同じ自分の体の中にありながら、決して相手に慣れるということがないでしょう。

 ぼくはいったい何万人のぼくなのでしょう。

たった1点の冒険的展覧会

2007-12-26 13:41:53 | 美術
 阪急の三宮駅から北野坂を上っていった右手にGALLERY北野坂があります。
 4階建てのビルに3つの画廊をしつらえた、いわばアート・パレスの趣です。
 主宰の女主人・潘(ばん)やすこさんというかたがずいぶん冒険的な人で、「1点で個展」という思い切った企画を続けて、今年の夏で1年余りが過ぎました。
 画廊の1室に1作家の作品1点だけを1週間展示するという贅沢な個展です。
 年末に、区切りの画集(記録集)が出されました。

 シメテ47人の47作品は壮観です。
 平面、立体、陶、織物、インスタレーションと、作品も多彩なら、むろん人物も多彩です。
 画集の各ページには作品の記録写真と作家の記念写真が並んでいますが、自分の作品とのツーショットに、自信満々の人、はにかんでいる人、しゃっちょこばっている人、カッコつけてる人、放心の人…。

 ギャラリー建築の設計者が安藤忠雄さんですから、空間そのものの意味を意識しないでおれないというのも、この「1点展」の特徴です。
 じっさい、コンクリートの空間と絶妙のバランスをとっていると見える作品がある一方で、ちょっと空間に負けているかなあ、とそんな思いに誘われる作品もありますね。

 しかしおしなべて面白いのは、本物の空間に作品が1点というシチュエーションが、なにか謎めいて見えることです。
 存在の前にじかに立たされたような、微妙なめまいがあるのです。
 ゾクッと訴えてくるものが例外なくあるのです。

 さて、わがシュプリッターエコーの記者のひとりは、今年の2月にここで見た「和」のクリエーター・三木次代さんの着物の謎にとらわれて、その謎解きにほぼ1年を要したあげく、いままさに、ようやく評論の最後の数行を書いている次第です。
 できあがれば、シュプリッターエコーのウェブ版のほうに発表される予定です。
 「1点展」の研ぎ澄まされた雰囲気の一端が、あるいは伝わるかもしれません。

 GALLERY北野坂はhttp://www7.ocn.ne.jp/~kitano/ 

 ――追伸――
 三木次代さんの着物作品についての論評をシュプリッターエコーのウェブ版に掲示しました。お立ち寄りください。(12月30日)
 ウェブ版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/

旧約聖書

2007-12-23 19:28:37 | 引用
 さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。ヨセフは拒んで、主人の妻に言った、「御主人はわたしがいるので家の中の何をも顧みず、その持ち物をみなわたしの手にゆだねられました。この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞き入れず、彼女と寝なかった。(創世記第39章)

 *美男はつらい。このあとヨセフは女の報復・ざん言によって、苦難の日々をおくることになります。

北村美和子 個展 07 -vesper-

2007-12-13 02:13:47 | 美術
会期は明日12/13(木)までである。いや、もう日付も変わってしまった。いずれ当ホームページ「Web版」に別記者による評が掲載される予定であるが、このブログ版の記事をご覧になって一人でも多くの方が会場に足を運ばれることを願う。
北村美和子の絵は、鋭い。それは一種神経的な鋭さである。
わたしたちが何を美しいと感じるか、どんな光景にどうしようもなくひかれるか、これは、どうだろう、果たして「精神」の問題だろうか。
むしろわたしたち各々の感覚器それ自体に備わった傾向、きわめて生理的な傾向にわたしたちの精神があちらへこちらへ連れ回されている、そうではないだろうか。
「わたしは見たものしか描けないんです」と画家は幾分寂しげに話した。これは謙遜だろうか。それとも自嘲だろうか。だが彼女の作品に対してみればわかること。確かに彼女は「見たもの」を描いているのだとしても、しかし彼女は、わたしたちに見えないものを見ている。
いや、見えないというのは正確ではないかもしれない。見ているはずなのに、わたしたちの「精神」がそれを捉え返すときにはもう見えなくなっているもの、受容器としての感官が、何の束縛もなしに浴びるように受けている光、おそらくその光なのだろう、それが北村さんの画布を充たしている。
鈍らされることのない、神経のゲージも振りきれんばかりに享受されている光、しかし北村さんの描く光は、まぶしいというよりは、深い。目をくらます光量でなく、そこにあるのは、確かな光の質量である。そう、目はそうして、光の重さをも捉えているのだろう。
いわゆる「抽象」である北村さんの作品がこんなにわたしたちをゆさぶるのは、それがまさに感官の像だからではないだろうか。
感覚のイデア(原像)に、わたしたちの感官が対面してしまったという驚き。
画材を油絵の具に替えての再出発である。次の作品展が、そしてもう、ただただ待ち遠しい。
最終日12/13は16時まで。場所は神戸市中央区山本通り、ギャラリー島田deux(電話078-262-8058)。




バラの神秘 1

2007-12-08 01:11:37 | 引用
 (ヨーロッパの)中世に入ると、神に捧げる薔薇(ばら)だけが教会や修道院で栽培され、キリスト教の禁欲的道徳観によって一般の人々の薔薇の栽培は禁止された。キリストの血を象徴する赤い薔薇、マリアの象徴である白い薔薇が栽培され、毎朝、祭壇に献花されていた。(蓬田勝之著「薔薇のパルファム」)

旧約聖書

2007-12-07 02:30:42 | 引用
 …ユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。そこでユダは(エルの弟の)オナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。(創世記第38章)

 *注=ここからオナニーの言い回しが出ることになるのです。