しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

関典子…眼球の漂流

2007-03-27 00:20:54 | 舞踊
 関典子さんという若手の現代舞踊家がいます。宝塚市の出身です。神戸のギャラリー島田で開かれた芸術サロン(火曜サロン)でダンスパフォーマンスとトークショーが行われました。

 関さんの神戸登場はちょっとドラマティックなものになりました。去年の秋に兵庫県立美術館でジャコメッティ展が開かれましたが、関さんはこの展覧会に因んで美術館建築そのものの階段や回廊や壁面を使って創作のソロ・ダンス「ジャコメッティ・マニア」を踊り、これがなかなかの反響になったのです。今回の芸術サロンもそんな下地があってのことです。

 さて、かく報告いたしているワタクシ即ちこうべねこは、実をいいますと「ジャコメッティ・マニア」というタイトルから早とちりにもジャコメッティを“なぞる”形のパフォーマンスを想像して、どうせオリジナリティーに欠けるプログラムに違いないと一方的に思い込み、その結果、昨秋の美術館公演はパスしてしまっていたのです。が、今回の島田サロンで一転、これが大きな間違いだったと思い知ることになったのでした。
 
 トークとともにあらためてビデオで紹介された「ジャコメッティ・マニア」の世界は、まったく関さんの舞踊空間そのものでした。これまでにはないタイプの時空を築き上げるダンサーといってもいいでしょう。エッジの切り立つヴィジョンです。潜在力も豊富に見えます。

 なにが特異かといいますと、とりわけ強調したいのは、このダンサーが自らの肉体から特定の部位を切り出そうとするときの、その手つきの鋭さです。わかりにくい言い方になったかも知れませんが、たとえば腕、たとえば手首、たとえば指、たとえば膝(ひざ)、たとえば踝(くるぶし)、たとえば足先、そこに一瞬の意味を付与するときの的確さと敏捷さとまぶしさです。彼女はまるで練達な石工のように自分の肉体から表現の石を切り出してくるのです。
 
 「ジャコメッティ・マニア」で切り出されたのは眼球でした。すさまじいのは、肉体の他の部位がそっくり眼球を運ぶ道具になってしまうということです。いまや眼球が王であり、腕も脚も胴も頭もこの王を運ぶためのしもべです。肉体の上に、そしてその連続的な運動の上に、絶対的な独裁者の帝国が築かれます。眼球の帝国です。この帝国の宿命は、そして使命は、世界を見抜くということです。

 想像してみてください。美術館の回廊を眼球が漂流していくところを。階段を眼球がゆらゆら下っていくところを。壁面に眼球が張り付いているところを…。それが関典子というコンテンポラリー・ダンサー(現代舞踊家)の表現です。

 しかし、それはなんとジャコメッティそのひととの深い切り結びなのでしょう。ジャコメッティもまさしく眼球の彫刻家だったのです。世界を焼き尽くすほどに凝視しつづけた目そのものだったのです。

 正確にはこういうことです。ジャコメッティがジャコメッティの仕方で眼球になったように、関さんは関さんの仕方で眼球になったのです。なぞったのではなく、ふたりの表現者がそこで交差したのです。それが創造の出会いです。

 ですから「ジャコメッティ・マニア」というタイトルもいささかの修正が必要だ、とそんなふうにこうべねこが考えた、とこういうのが今夜の報告のシメなのです。もうすこし舞踊家の独自性・特異性のニュアンスが出たほうが正しいだろうな、と。たとえば「眼球の漂流―ジャコメッティに寄せて」とか。

                  ▽
 なおジャコメッティの彫刻作品そのものについての評はこのブログの姉妹編「Splitterecho」Web版の記事KOBECAT0031に掲示しています。ご参照ください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/


I 'm Kobe Cat. その2

2007-03-25 22:50:45 | 猫の町
 摩耶山のふもとの野崎通3丁目をナワバリにしているシロクロは、マンションの駐車場にねぐらを置いている、まあ、なかなかのイケメンです。
 ここしばらく姿をくらましていたのですが、お彼岸の前にひょっこり駐車場に帰ってきました。

 清水一家のケンカにでもいってきたみたいに、頭のテッペン近くにちょっとした切り傷をシルシにして、しかし1か月近くの旅はやっぱりかなりの消耗ではあったのでしょう、自慢の毛並みもこころもち黒ずんでいるようでありました。

 もちろんケンカはケンカでもシロクロのケンカはそのスジのケンカと違って、春の到来を告げる恋のサヤ当てというやつです。
 一夜のフィアンセを探す命がけの旅なのです。
 とくにシロクロにとっては、ことしが一人前になっての初めての春というわけで、まあ首尾よく思いを達したものか、周りをちょとヤキモキさせてもいたのです。

 じっさい、首尾はどうだったのでしょう。

 で、界隈で知る人ぞ知るのネコ通女史のご意見をうかがうことにしたのですが、彼女の託宣によりますと、頭の傷があるというのは、ライバルと正面からぶつかって、そいつを撃破したというアカシで、したがって彼は間違いなく天から授かった自分のギムを果たしたろう、ということでした。

 ハズレだったら、腰のあたりとか尻尾とか、逃げしなにうしろをズバッとやられている、というわけです。
 オメデトウサン、だったのです。

 マンションの規定によりますと彼のねぐらは不法占拠で、ですから赤飯を炊いて祝ってやるというわけにはいかないのですが、さしあたり、カツオブシをひとつかみ、車の陰に置いておくくらいは、大目に見てもらおうか、と思ってます。 
 

I am Kobe Cat.

2007-03-22 23:08:31 | 猫の町
 神戸港の東寄りに開かれた新しい町HAT神戸の高層住宅街を縄張りにしている“女顔役”のシロイチ-ブクロブチアネゴはずいぶんな男好きで、この春も恋のあかしをお腹に宿しているのですが、もともと豊満なうえに三つ子か四つ子に恵まれたのでしょう、ここのところはもうドタリドタリ。

 まあ、あたりの人サマも寛容なので、マイペースで春の日差しをのんびり楽しんでいる毎日なのですが、ただ、からだの手入れにはちょっと苦労しているようなのです。

 きれい好きで、巧みな舌さばきで毛並みも余念なく整えているとはいうものの、さすがに大きなお腹が邪魔になって、シモの方まではどうしても届きません。

 ラッコスタイルにひっくりかえって、あともうすこし、あともうすこし、というところまではいくんですが、いくらからだを折り曲げてもあと1センチがだめなんです。

 この苦行、サクラの咲くころまで続くでしょう。 

金月炤子展ー封じられた赤ちゃん

2007-03-18 20:23:31 | 美術
 現代美術家の金月炤子(しょうこ)さんはコラージュの手法を用いてこんにち最も深い表現に達している作家です。ですからおおむね平面の制作者として知られていますが、レディーメードの箱を巧みに使った立体のシリーズも彼女には大切なジャンルです。今回はそのボックスを中心にした展覧会を神戸・ハンター坂のギャラリー島田で21日まで開いています。
 
 魚を運んだトロ箱や何か小物を収納していたらしい家庭用の小箱など、ごく身近な箱類を生かしての表現で、その中に木切れやガラスや小石などをぎっしり詰めて、暗喩(あんゆ)に満ちた立体空間を作るのです。金月さんの平面作品は精神的な側面(心の問題)を掘り下げる傾向が強いのですが、立体の方はいつもはっきりと社会的な問題とつながっていて、これがこの作家の二つの流れになっています。

 「女は自由を持てたのだろうか」というシリーズは、赤ちゃんの産着(うぶぎ)のような薄い肌着をトロ箱の中に封じて、箱全体に細い鉄製の帯をかけた、ちょっと不気味な作品です。1990年から91年にかけての制作ですが、今日のいわゆる「赤ちゃんポスト」の問題をいちはやく暗示しているようで、ぐいと胸ぐらをつかむのです。

 赤ちゃんをポストに託す母親。彼女は(もちろん父親も)それでほんとうに赤ちゃんから自由になれるのでしょうか。むしろ彼女は赤ちゃんをポストに封じ込めることで、彼女自身をも一生開かれない箱の奥へ封じてしまうのではないでしょうか。彼女は赤ちゃんを手放すことで自分の心を鉄の帯で縛ってしまうのではないでしょうか。母や父がほんとうの自由を目指すには、勇気を持って赤ちゃんと一緒に明日への道を踏み出さないといけないのではないでしょうか。

 それともう一つ、今回の個展でわかったことは、金月さんがボックスの作品で早くから素材に砂を使っていたということです。彼女自身もほとんど無意識で砂にアクセスしていたらしいのですが、こんにち彼女はその砂や土を主体にした独特のコラージュ(平面作品)で、国内外の高い評価を得ています。
 芸術家の心の深化は不思議です。

なおこの展覧会のもう少し詳しい評を「Splitterecho」Web版のCahierに掲示しています。ご訪問ください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/

 

名流舞踊の会(第56回)

2007-03-18 13:39:11 | ノンジャンル
 兵庫県の日本舞踊をリードする重鎮や実力派師匠が出演して舞台の美を繰り広げる「名流舞踊の会」が神戸国際会館こくさいホールで開かれました。今年は56回目。主催は兵庫県舞踊文化協会と神戸新聞社です。

 話題はなんといっても神戸を代表する2人の舞踊家、花柳芳五三郎さんと若柳吉金吾さんの顔合わせとなった「角田川」。狂ったように我が子を捜す母親の火のような心の内と、静水のような穏やかさでそれに対応する船頭の心の内。それが、“動の踊り”の吉金吾さんと“静の踊り”の芳五三郎さんによって見事に表現されました。花の咲きほころぶ川辺での2人の姿はさながら錦絵のようでした。

 小寺一登代さんのリンとした「あやめ浴衣」、坂東大蔵さんのしゃだつな「四季の山姥」など目を引き付ける舞台の多い会でしたが、若柳作香さんの「神田祭」はスキッとした踊りで江戸の粋を存分に発揮、藤間莉佳子さんの「文売り」も神経の行き届いた表現で、繊細な美をたんのうさせてくれました。

 花柳吉叟さん、淳叟さん、吉小叟さんによる「鶴亀」も祝儀の曲にふさわしく荘重に、典雅に踊られ、なにか神聖な空気さえ漂いました。

 なおもう少し絞った評をこのブログの姉妹ページ「Splitterecho」Web版でも掲載しています。ご覧ください。
 「Splitterecho」Web版 http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/

藤田佳代舞踊研究所の創作実験劇場を見て

2007-03-12 13:54:21 | ノンジャンル
 ダンスでどこまでのことが表現できるか、ダンサーをしているかぎりはそれをとことんやってみよう。その冒険心と自負心と責任感こそが、藤田佳代舞踊研究所が「創作実験劇場」というユニークな試みをこんなにも忍耐強く続けているエネルギーの源でしょう。この春は西宮の兵庫県立芸術文化センターで行われ、8人の振り付けで10の新しい作品が上演されました。

 舞台の完成度や美しさという基準でみればここで報告するのとはまた違った作品の並べ方になるでしょうが、「実験」という視点からみれば、菊本千永(ちえ)さんの「GIFT」(贈り物)がダントツに際立っているように思えました。
 この感覚の鋭いコレオグラファー(振付家)は、ここのところ、確かに同じ存在でありながらしかし微妙に違う存在である2人の自己、という極めてデリケートな人間の内的構造を浮き彫りにしてきているように読めるのですが、今回はそれがまたいちだんと的確な表現と繊細な陰影に深まっているように見えました。
 人はひとりひとり「運命」というGIFTを贈られてこの世に生まれてくるといいます。でも今のこの私の生き方は、そのGIFT通りのことなのだろうか、もしそうだとしてじゃあ明日にはどんな設計図が潜められているのだろう…。パンドラの箱のような「運命」の箱をめぐって、2人の私が問いかけ合い、希望をかきたて、不安をかきたて、慎重に遠ざかり、衝動的に接近し、そうして舞台はやすみなく緊張を高めていくのです。
 とりわけこの2人の「同じでいながら違う」自己が、限りなく接近しながら完全には重ならない、しかし重ならないながらほとんど重なる、そのえもいえない微妙な境地は、舞踊ならではの最高の美、といわずにおれないものでした。

 鎌倉亜矢子さんの「スパイラルな夜」も、夜のとばりの中でいろんな想念を繰り広げる、いわば夜との踊りを連想させる作品でしたが、語りかけようとすれば語りかけられ、聴き取ろうとすれが聴き取られ、踊ろうとすれば踊らされ、回そうとすれば回され、隠れようとすれば隠される、まるで螺旋構造(二重螺旋!)のような夜の正体がくっきりと見えてきて、いろんな思いを喚起させられるダンスでした。

 それと向井華奈子さんの「ばらはだんだん咲かなくなった」。この人の踊りには何かに憑かれているような凄みがあって、コンセプトや観念やイデーを超えて、直接感覚に訴えてくるデモーニッシュなエネルギーがあります。舞踊が舞踊の原点で勝負しているようで、見るほうもいきなり骨が揺すられます。


 なお藤田佳代舞踊研究所の公演については、これまでの作品評を本ブログの姉妹ページ「Splitterecho」Web版のKOBECAT0004,0008,0010、およびCahierなどに掲示しています。ご参照ください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/


ビデオ・アートのビル・ヴィオラ展

2007-03-10 19:40:33 | 美術
 ビル・ヴィオラ展に行かれましたか?
 ビデオ・アートの超大物作家です。
 神戸港の東寄りにある兵庫県立美術館で3月21日までやっています。 
 
 1951年ニューヨーク生まれの作家ですから、ことし56歳。
 ますますアブラがのってきたところでしょう。

 2002年に同じ美術館で行われた開館記念展で、デモーニッシュなあの「ミレニアムの五天使」が紹介された作家ですから、ああそうか、と思い出すかたもあるでしょう。
 水中に沈んでいく男を超スローモーションで映し出した、神秘で幻想的で、むしろ不気味でさえあった、深い映像!
 今回は9本の作品をそろえて、初めての全容紹介です。

 その「ミレニアムの五天使」を見たときに、なにか能の表現に近いようなものを感じていたんですが、ヴィオラはやっぱり若いときに日本の文化と精神に出会っていて、それがきっかけで今日の独自の世界を切り開いたらしいんですね。
 展覧会の副題にも採っている「はつゆめ」は、そのときに日本で撮った映像です。

 お勧めは、まず「クロッシング」。男がこっちに目を据えてひたすら歩いてくる作品です。歩く以外になにもしない。歩いて、歩いて、歩いて、歩いて…。ただそれだけ。それがいい。ただそれだけなのがとてもいい。
 それから「グリーティング/挨拶」。これは三人の女たちの街角の立ち話。これも簡単な挨拶と立ち話だけ。ストーリーはなにもない。けれど、なんのストーリーもないということは、無限にストーリーがあることだな、とそんなことを、ズシリと考えさせられます。

 ただタイトル作品の「はつゆめ」は、ヴィオラを研究する上ではメモリアルな作品だけど、なにせまだ若作りで、時間がなければほかの8本を優先すべし。新幹線に間に合わない時刻なら、できるだけほかの作品に時間をかけて、これは割愛してもいい。

 兵庫県立美術館は078.262.0901

 なお展覧会の詳しい評論はこのブログと姉妹関係にある「Splitterecho」Web版に掲示しています。興味がおありだったら、訪ねてください。http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/  

 

東大入学?

2007-03-08 12:00:36 | 都市
昨日東京大学(本郷キャンパス)に「入学」した。
いや、ただ単にドイツのオペラ座の
DMG(芸術総監督)を務めるマエストロ上岡敏之氏の
シンポジウムが東大であっただけである。
その話は止めて、軽く東大レポを。

1.携帯が入らない!
 東大は昔の建物で壁が厚い。
 ちょっと奥まった所に入ると
 携帯の電波が入らない。

2.アカデミック?
 何処の大学にでもあるように
 東大にもカフェがあった。
 名前が「コミュニケーション・プラザ」。
 何か権威的(笑)

3.その一方で…
 東大構内にはスタバもある。
 せっかく東大に来たから、
 構内でお茶をと思ったが、
 何で東大来てまでスタバに
 入らなあかんねんと思って止めた。

4.当たり前だけど
 時間がなくて立ち寄れなかったが
 東大周辺は本屋・古書店が多い。
 t氏などウハウハだと思う。

5.赤門
 あえて正門から入らず
 赤門から入った。
 ミーハー?
 

浮田要三個展/2/24(土)~-3/7(水) ギャラリー島田

2007-03-07 00:54:39 | 美術
打ちのめされた…、「ピンク」の悪魔に。

クリーム色の下地に北西方向に
弧を描く四分の「ピンク」の円弧という
牧歌的にさえ捉えられる作品にさえ私の心は侵蝕された。
一般にプリティなイメージの象徴であるピンク色を
デモーニッシュに感じた私。色盲にでもなったか?

打ちひしがれる思いでギャラリーを後にして、
その後所用でギャラリーを出て神戸市役所に向かう途中の
神戸マルイのウィンドウディスプレイのピンク色の
何て陳腐なことか…、落胆。

氏は10年前後程前はフィンランドに居を構えていて、
フィンランド時代の作品の写真を
観る機会に恵まれたのだが、
その当時にフィンランドで催された作品展には
全く「ピンク」は存在しない。

ところが現在の作品は極限まで削ぎ落とされた
型のような形式的なかたちの中に「ピンク」の奴が
そこら中に咲き誇っていやがる。

ピンク色ならぬ「ピンク」で氏は何を感じ、
語ろうとしているのであろうか?
反語や皮肉と言ったものともいささか違うように感じる。

フィンランドから日本に居を戻す10年前後程の間は
国際社会・日本社会が
激動に見舞われた時期であるのは言わずもがなだ。
そう言った社会情勢と「ピンク」が
全く無関係とまでは断言しない。
現実と反対の牧歌的世界を空想する
作家の心象かも知れない。

でもそれだけではない何かを私は感受してしまった。
「ピンク」の正体は、
私の中では今のところピンク色の軽やかさと正反対の
ズシッとしたアンカー(錨)のようなもので
それに私は縛りつけられたまま街を彷徨している、
それだけが数少ない判明している「事実」である。

氏はかつては「具体」のメンバー。
しかし作家として円熟期に入ろうとしている頃に
約20年間創作活動を中断していたそうである。
しかしシニア世代になって復活。
それまでの長い休憩時間を取り戻すかのような
旺盛な創作活動を80歳を越えた現在も続けている。

余談だが、偶然おられた浮田さんとお話が出来た。
お父様が但馬の山東町(現朝来市山東町)ご出身で
幼少期は里帰りでよく円山川で遊ばれたそうである。




香りを飲む

2007-03-06 02:08:28 | ノンジャンル
職場の後輩が今朝コーヒーをいれてくれた。なんでも勤め先で余ったものを貰ってきたという友だちからのお裾分けなのだそうだ。

いつも乱暴な言動で職場のおじちゃま方を驚かせてくれる彼女。普段から賞味期限にも無頓着で、油のまわったようなすごい臭いを放つスナック菓子でも平気で食べてしまう。そのあまりの臭いに危険を感じて廃棄するよう説得したことも度々あるのだが、そんな彼女がいれてくれたコーヒーなのである。一瞬「どうしたものか」と思った。が、せっかくいれてくれたのだからと勇気を出し、カップから立ちのぼる湯気に恐る恐る鼻を近付けてみた。すると意外なことに、まろやかな甘さに心地よい苦さをプラスしたコーヒー豆の豊かな薫りがした。「美味しそう」なのである。そして薫りに誘われるまま一口すすると、私が以前まで気に入って通っていた喫茶店のコーヒーによく似た旨味が、口の中に広がったのである。後味も残っているのはほどよい苦みと甘みだけで、不味いコーヒーにありがちな不快な酸味は全く残らなかった。「コーヒーいれるの得意なの?」と尋ねると「普段はインスタントしか飲まないから適当にいれたけど」と返ってきた。

幼い頃、いつも祖父が土産に持たせてくれたのは某菓子メーカーの商品だった。特にピーナッツチョコの徳用大袋が私の大好物で、一粒ずつキャンディ包みになっている包装と芳ばしく煎ってあるピーナッツの味が恋しくて、時にはお小遣いをはたいて自分で購入していたくらい思い入れ深いお菓子だった。
しかし、そんな思い入れを裏切るような事件(消費期限切れの材料を使用した生洋菓子の販売などずさんな衛生管理)が発覚した。その後も異物混入など次々と発覚し直ちに全ての商品が売り場から撤去された。
そして先日、パン業界大手の製パン会社支援のもと、一部の商品から製造を再開することとなり手始めにメーカーを代表するマスコットを型どった焼き菓子が復活した。販売当日、売り場には長蛇の列が出来ていたらしい。近いうちにあのピーナッツチョコの製造も再開されるのだろう。だが何か釈然としない。私はそんなに簡単に許すことはできない。恐らく二度とあのピーナッツチョコを買うことはないだろう。新聞の記事を読みながらそう考えていた。

今朝のコーヒーは飲み終えたあともカップから甘い薫りが漂っていた。名残惜しくカップを手に眺めているとそれは取っ手まできれいに洗ってある「清潔なカップ」だった。