貞松・浜田バレエ団の「創作リサイタル32」が神戸文化ホール(中ホール)で開催されました。
上演作品はイリ・キリアン振付「Falling Angels」、コーラ・ボス・クルーセ/ケン・オソラ振付「Of Eden」、森優貴振付「囚われの国のアリス」の三作です。
とりわけ強い印象を残したのはキリアンの「Falling Angels」でした。
8人の女性ダンサーによって踊られる軽妙でユーモラスな雰囲気の作品ですが、不思議と、のっぴきならない≪死≫との戯れ――そんなふうに言い表わしたいものを感じさせられました。
後日「シュプリッターエコー Web版」により詳しいご紹介を掲載したいと考えています。
昨年3月の同バレエ団の「創作リサイタル31」はコロナ・ウィルスの感染拡大の影響を受けて無観客公演となりました。
なかでもアレクサンダー・エクマン振付「CACTI」は鮮烈でした。多くの観客の目に触れ得なかったのは残念なことです。
今年は、まだ座席を一つずつ空けてという形であるにしても、そして感染をめぐる状況はいまだ予断を許さないものだとしても、こうして素晴らしい水準の舞台をじかにみる機会が私たちに解放されたというのは喜ばしいことにちがいありません。
上演作品はイリ・キリアン振付「Falling Angels」、コーラ・ボス・クルーセ/ケン・オソラ振付「Of Eden」、森優貴振付「囚われの国のアリス」の三作です。
とりわけ強い印象を残したのはキリアンの「Falling Angels」でした。
8人の女性ダンサーによって踊られる軽妙でユーモラスな雰囲気の作品ですが、不思議と、のっぴきならない≪死≫との戯れ――そんなふうに言い表わしたいものを感じさせられました。
後日「シュプリッターエコー Web版」により詳しいご紹介を掲載したいと考えています。
昨年3月の同バレエ団の「創作リサイタル31」はコロナ・ウィルスの感染拡大の影響を受けて無観客公演となりました。
なかでもアレクサンダー・エクマン振付「CACTI」は鮮烈でした。多くの観客の目に触れ得なかったのは残念なことです。
今年は、まだ座席を一つずつ空けてという形であるにしても、そして感染をめぐる状況はいまだ予断を許さないものだとしても、こうして素晴らしい水準の舞台をじかにみる機会が私たちに解放されたというのは喜ばしいことにちがいありません。
(takashi.y)
藤田佳代舞踊研究所の第42回目の発表会が神戸文化ホールで開催されました。
42回! たいへんな回数、たいへんな歩みです。
最初のプログラムは藤田佳代さん振付「届ける」。
「東北の地震と津波と原発事故で亡くなった数限りない命たちへ」という副題がつけられています。藤田さんはこの作品を10年上演しつづけるとしています。今年が8年目。
曲は使用せず、「拍踏衆」が手足で打つ拍子と、ダンサーたちが刻むリズムで構成されます。赤い鼻緒の黒塗りの下駄を「手に」履いて、それを打ち鳴らしながら踊るダンサーたち。
作品には小学三年生から参加できるそうですが、年齢が進むにつれて担当するパートが変わっていきます。例えば、はじめ四拍子を踊っていたダンサーが、今は五拍子を担当しているというぐあいに順繰りに踊りが受け継がれていくのです。
幾度か、打ち鳴らされる拍が止み、張りつめた静寂のなかダンサーたちが踊る瞬間が訪れます。そのとき、舞台上の演者と観客、そしてそれを越えて、空間全体を無音の対話が満たす――声なき祈りに満ちる、そんな厳かで神聖な場があらわれるのに私たちは立ち会うのでした。
2本目のプログラムは「ちょっとうれしいことば みつけたよ」。
こちらも藤田佳代さんの振付です。
可愛らしげなタイトルとは裏腹に、時代でいえば、古くは万葉集の大伴家持の長歌の一節(「雨ふらず 日の重なれば…」)から、藤原定家の和歌(「瑠璃の水 にしきの林…」)、与謝蕪村の俳句(「帰る雁 田毎の月の…」)、西脇順三郎の詩(「旅人は待てよ このかすかな泉に…」)など、深い味わいをもった十以上の言葉たちを踊る作品です。
踊りは言葉に近づいたり、離れたり、決して言葉に縛られた踊りではありません。
むしろ、ああ、あの黄色い衣装の小さな女の子みたいに、もう踊りたくて仕方がないという様子の、腕も脚も伸ばせるだけ伸ばし、跳べるだけ高く跳びたい、駆け抜けられるだけ遠くまで駆け抜けたいというあの子たちのために、踊りというのは結局あるんだろうなぁと、こちらも心を躍らせながらみていたのです。
一方で、逆の感想のようですが、菊本千永さん振付の「メリーさんと隠れ家」は、アメリカから送られ、いまは敵国の人形として閉じこめられているメリーさんに、子供たちがお話を語って聞かせるという物語の結構が舞台に求心性をもたらし、とてもうまく作用していると感じさせられました。
ひとたび言葉が与えられれば、私たちはそのように作品をみてしまうのです。そしてそれが(よきにつけあしきにつけ)物語の力というものなのでしょう。
冒頭、槍をもった兵士たちが人形をなぶりものにしようと高く掲げ、取り囲む場面は、そこにはっきりと歴史と物語が交差する象徴的な光景として迫力をもつものでした。
第42回藤田佳代舞踊研究所発表会は2019年10月12日(土)神戸文化ホール(大ホール)で開催されました。
スタッフ 総監督:新田三郎 舞台監督:長島充伸 照明:藤原本子 音響:藤田登 衣装:山下由紀子 藤田啓子 他
今年11月9日(土)には菊本千永さんの「モダンダンスステージⅤ」が東灘区民センター うはらホールで開催されます(17:30開演)。
藤田佳代舞踊研究所のホームページはhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~fkmds
42回! たいへんな回数、たいへんな歩みです。
最初のプログラムは藤田佳代さん振付「届ける」。
「東北の地震と津波と原発事故で亡くなった数限りない命たちへ」という副題がつけられています。藤田さんはこの作品を10年上演しつづけるとしています。今年が8年目。
曲は使用せず、「拍踏衆」が手足で打つ拍子と、ダンサーたちが刻むリズムで構成されます。赤い鼻緒の黒塗りの下駄を「手に」履いて、それを打ち鳴らしながら踊るダンサーたち。
作品には小学三年生から参加できるそうですが、年齢が進むにつれて担当するパートが変わっていきます。例えば、はじめ四拍子を踊っていたダンサーが、今は五拍子を担当しているというぐあいに順繰りに踊りが受け継がれていくのです。
幾度か、打ち鳴らされる拍が止み、張りつめた静寂のなかダンサーたちが踊る瞬間が訪れます。そのとき、舞台上の演者と観客、そしてそれを越えて、空間全体を無音の対話が満たす――声なき祈りに満ちる、そんな厳かで神聖な場があらわれるのに私たちは立ち会うのでした。
2本目のプログラムは「ちょっとうれしいことば みつけたよ」。
こちらも藤田佳代さんの振付です。
可愛らしげなタイトルとは裏腹に、時代でいえば、古くは万葉集の大伴家持の長歌の一節(「雨ふらず 日の重なれば…」)から、藤原定家の和歌(「瑠璃の水 にしきの林…」)、与謝蕪村の俳句(「帰る雁 田毎の月の…」)、西脇順三郎の詩(「旅人は待てよ このかすかな泉に…」)など、深い味わいをもった十以上の言葉たちを踊る作品です。
踊りは言葉に近づいたり、離れたり、決して言葉に縛られた踊りではありません。
むしろ、ああ、あの黄色い衣装の小さな女の子みたいに、もう踊りたくて仕方がないという様子の、腕も脚も伸ばせるだけ伸ばし、跳べるだけ高く跳びたい、駆け抜けられるだけ遠くまで駆け抜けたいというあの子たちのために、踊りというのは結局あるんだろうなぁと、こちらも心を躍らせながらみていたのです。
一方で、逆の感想のようですが、菊本千永さん振付の「メリーさんと隠れ家」は、アメリカから送られ、いまは敵国の人形として閉じこめられているメリーさんに、子供たちがお話を語って聞かせるという物語の結構が舞台に求心性をもたらし、とてもうまく作用していると感じさせられました。
ひとたび言葉が与えられれば、私たちはそのように作品をみてしまうのです。そしてそれが(よきにつけあしきにつけ)物語の力というものなのでしょう。
冒頭、槍をもった兵士たちが人形をなぶりものにしようと高く掲げ、取り囲む場面は、そこにはっきりと歴史と物語が交差する象徴的な光景として迫力をもつものでした。
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第42回藤田佳代舞踊研究所発表会は2019年10月12日(土)神戸文化ホール(大ホール)で開催されました。
スタッフ 総監督:新田三郎 舞台監督:長島充伸 照明:藤原本子 音響:藤田登 衣装:山下由紀子 藤田啓子 他
今年11月9日(土)には菊本千永さんの「モダンダンスステージⅤ」が東灘区民センター うはらホールで開催されます(17:30開演)。
藤田佳代舞踊研究所のホームページはhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~fkmds
(キヌガワ/takashi.y)
向井華奈子さんの「モダンダンスリサイタルⅠ」を新神戸オリエンタル劇場で見ました。(2012年11月10日)
向井さんは藤田佳代舞踊研究所(神戸市)に所属するダンサーです。
藤田研究所ではソリストたちが年に一回、自分たちのオリジナルな振り付け作品を中心にして、本格的なリサイタルを開いています。
向井さんにとっては、今回が初めてのリサイタルでした。
「柘榴」「虚空の底へ」「Phenomenon―私たちという現象」の三本が彼女のオリジナルな作品で、これに加えてほかのダンサーとの共作(オムニバス形式)による「SAND LOT」、そして研究所主宰・藤田佳代さん振り付けの作品「開く」が上演されました。
「柘榴」(ざくろ)についてはこのブログですでに採り上げたことがありますので、「虚空の底へ」と「Phenomenonn」(フェノメノン)について書いておきたいと思います。
あえて順序を逆にしますが、まず「Phenomenon」から。
出演者は、向井さんのほかに、貞松・浜田バレエ団から堤悠輔さん、Kobe Ballet Studioから文山絵真さんが加わって、合わせて三人になりました。
いくつもの山の切り立った尾根筋を微妙なバランスで縫(ぬ)っていくような、ひじょうにデリケートな作品でした。
三人のダンサーが舞台の上で出会うということ、それは出会ったその瞬間から三人の間にある強い関係が生まれるということです。
「Phenomenon」では、その相互の関係が転々と変化を続けていくのです。
三という数のもつ性格からいえば、そこに現われる関係は、あるいは男女の愛憎の物語かと想像されるかもしれません。
しかし向井さんの作品は、そのような常套的(じょうとうてき)な舞踊作法を軽々と超えていました。
むろん男女の関係もそこには含まれるでしょうが、作品の主題はもっと深いところにあるように見えたのです。
人間とはどのような存在なのか、その根源的なありかたにまで下りていこうという強い意図が見えました。
それでは人間の根源へ下りていこうとするそのダンスが、なぜそんなにデリケートな肌ざわりをもっているのか、ということになりますが、それはこういうわけなのです。
一口に言って、とても輻輳的(ふくそうてき)なのです。
観客にとっては最後のある一点に向かって一直線に進んでいく作品のほうが理解もしやすいのですが、「Phenomenon」はそれとは反対に、互いに対立する要素が休みなく現われてきて、はじめは観客をすこし混乱に誘います。
三人が親しい隣人のように踊るシーンが現われます。
そこにはやわらかな空気が流れます。
すると次には三人がそれぞれの孤独に陥っているような、そのような対極的な表現が、とくにこれといった前触れもなく始まります。
一転、寂しい空気が流れます。
そのような輻輳的な構造がさまざまなバリエーションで展開します。
調和のあとに疎外が来ます。
平衡のあとに崩落が来ます。
希望のあとに絶望が来るのです。
むろんその逆も起こります。
疎外のあとに調和が来ます。
崩落のあとに平衡が来ます。
絶望のあとに希望がやって来るのです。
それも、常にたんたんと。
あるいはこのように時系列的に書きとめるのは、あまり親切な案内とは言えないかもしれません。
むしろそれらの対立項は同時並行的に起こっていると言ったほうが実際の舞台の空気に近いような気もします。
調和と疎外が同時に来ます。
平衡と崩落が同時に来ます。
希望と絶望が同時にやって来るのです。
そのように同時並行的、つまり重層的に見ることで、舞踊家の洞察にいっそう近づくように思えます。
わたしたち人間は、じっさい、対立的な要素を重層的に持ち合わせている存在ではないかということです。
調和に生きながら疎外に生き、平衡を保ちながら崩落を続けていて、希望を育てながら絶望へ落ちていく(ということはつまり同時に、疎外に生きながら調和に生き、崩落を続けながら平衡を保っていて、絶望へ落ちながら希望を育てている…)、そのような存在ではないか、ということです。
いささか厄介な両義的存在だということです。
これをさらに突き詰めていけば、生きながら死んでいる(死にながら生きている)というデモーニッシュなヴィジョンにまで行きつくことになるでしょう。
さて、ではこれをどう乗り超えるかというところに、実は次の作品「虚空の底へ」がほとんどぴったりと、奇跡のように嵌(は)まるのです。
「虚空の底へ」は、十一人のダンサーで踊られました。
初めから終わりまでとても美しい作品でした。
ここで美しいというのは、踊りに現われる肉体の形そのものが美しいということです。
人間がこの世界で採る形には、歩く、走る、跳ぶ、泳ぐ、つかむ、食べる…、ともう無数の類型がありますが、その中でいちばん美しい形は何かといえば、それは祈りの形ではないでしょうか。
祈りの対象は神であったり、仏であったり、宇宙であったり、大地であったり、これは民族や地域によって多彩な変化がありますが、祈りの姿そのものには共通して美しい形(ここでは物理的な体の形のことを言っています)が現われます。
「虚空の底へ」には、一貫してその祈りの形を思わせるフォルムがつづられていくのです。
むろん舞踊には舞踊の言語がありますから、そこにある祈りは宗教的な表現とは完全に別のものです。
それどころか、宗教的な祈りの形からは最も遠いところにあるといっていいでしょう。
むしろ宗教が世俗化するに従って、宗教的な祈りには夾雑(きょうざつ)な要素が避けがたく混じり込んできましたが、それら濁りを帯びた祈りの隙間に残っているなお純粋な祈りの形、それが舞踊のなかに掬(すく)い取られているように思えます。
宗教が失いかけているものが、舞踊の中に甦っているのです。
では、どうしてその純粋な祈りの形が、厄介な人間の両義性を超えることになるのでしょう。
それは、おそらく、純粋な祈りの姿が全宇宙との対話の形だからではないでしょうか。
祈りによって人間は自己を全宇宙へ開くのです。
そして、全宇宙というのは、あらゆる対立項をすべて肯定的に受け入れる無限の空間にほかなりません。
宇宙はどのような局面にも、それでよし、と肯定的な回答を出すのです。
調和と疎外の双方に、それでよし、と答えます。
平衡と崩落の双方に、それでよし、と答えます。
希望と絶望の双方に、それでよし、と答えます。
人間のすべての面に、それでよし、と告げるのです。
この世界では引き裂かれ続ける人間ですが、宇宙の前では統合された存在になるのです。
人はそこであるがままの人間の姿を回復します。
「虚空の底へ」は救いを求める人間の姿が祈りの形で現われますが、もうそれは、すでに救われている人間の姿を表しているように見えるのです。
向井さんは第一回のリサイタルとは思えないほど、深いビジョンをわたしたちに示しました。
先が楽しみな舞踊家です。(了)
向井さんは藤田佳代舞踊研究所(神戸市)に所属するダンサーです。
藤田研究所ではソリストたちが年に一回、自分たちのオリジナルな振り付け作品を中心にして、本格的なリサイタルを開いています。
向井さんにとっては、今回が初めてのリサイタルでした。
「柘榴」「虚空の底へ」「Phenomenon―私たちという現象」の三本が彼女のオリジナルな作品で、これに加えてほかのダンサーとの共作(オムニバス形式)による「SAND LOT」、そして研究所主宰・藤田佳代さん振り付けの作品「開く」が上演されました。
「柘榴」(ざくろ)についてはこのブログですでに採り上げたことがありますので、「虚空の底へ」と「Phenomenonn」(フェノメノン)について書いておきたいと思います。
あえて順序を逆にしますが、まず「Phenomenon」から。
出演者は、向井さんのほかに、貞松・浜田バレエ団から堤悠輔さん、Kobe Ballet Studioから文山絵真さんが加わって、合わせて三人になりました。
いくつもの山の切り立った尾根筋を微妙なバランスで縫(ぬ)っていくような、ひじょうにデリケートな作品でした。
三人のダンサーが舞台の上で出会うということ、それは出会ったその瞬間から三人の間にある強い関係が生まれるということです。
「Phenomenon」では、その相互の関係が転々と変化を続けていくのです。
三という数のもつ性格からいえば、そこに現われる関係は、あるいは男女の愛憎の物語かと想像されるかもしれません。
しかし向井さんの作品は、そのような常套的(じょうとうてき)な舞踊作法を軽々と超えていました。
むろん男女の関係もそこには含まれるでしょうが、作品の主題はもっと深いところにあるように見えたのです。
人間とはどのような存在なのか、その根源的なありかたにまで下りていこうという強い意図が見えました。
それでは人間の根源へ下りていこうとするそのダンスが、なぜそんなにデリケートな肌ざわりをもっているのか、ということになりますが、それはこういうわけなのです。
一口に言って、とても輻輳的(ふくそうてき)なのです。
観客にとっては最後のある一点に向かって一直線に進んでいく作品のほうが理解もしやすいのですが、「Phenomenon」はそれとは反対に、互いに対立する要素が休みなく現われてきて、はじめは観客をすこし混乱に誘います。
三人が親しい隣人のように踊るシーンが現われます。
そこにはやわらかな空気が流れます。
すると次には三人がそれぞれの孤独に陥っているような、そのような対極的な表現が、とくにこれといった前触れもなく始まります。
一転、寂しい空気が流れます。
そのような輻輳的な構造がさまざまなバリエーションで展開します。
調和のあとに疎外が来ます。
平衡のあとに崩落が来ます。
希望のあとに絶望が来るのです。
むろんその逆も起こります。
疎外のあとに調和が来ます。
崩落のあとに平衡が来ます。
絶望のあとに希望がやって来るのです。
それも、常にたんたんと。
あるいはこのように時系列的に書きとめるのは、あまり親切な案内とは言えないかもしれません。
むしろそれらの対立項は同時並行的に起こっていると言ったほうが実際の舞台の空気に近いような気もします。
調和と疎外が同時に来ます。
平衡と崩落が同時に来ます。
希望と絶望が同時にやって来るのです。
そのように同時並行的、つまり重層的に見ることで、舞踊家の洞察にいっそう近づくように思えます。
わたしたち人間は、じっさい、対立的な要素を重層的に持ち合わせている存在ではないかということです。
調和に生きながら疎外に生き、平衡を保ちながら崩落を続けていて、希望を育てながら絶望へ落ちていく(ということはつまり同時に、疎外に生きながら調和に生き、崩落を続けながら平衡を保っていて、絶望へ落ちながら希望を育てている…)、そのような存在ではないか、ということです。
いささか厄介な両義的存在だということです。
これをさらに突き詰めていけば、生きながら死んでいる(死にながら生きている)というデモーニッシュなヴィジョンにまで行きつくことになるでしょう。
さて、ではこれをどう乗り超えるかというところに、実は次の作品「虚空の底へ」がほとんどぴったりと、奇跡のように嵌(は)まるのです。
「虚空の底へ」は、十一人のダンサーで踊られました。
初めから終わりまでとても美しい作品でした。
ここで美しいというのは、踊りに現われる肉体の形そのものが美しいということです。
人間がこの世界で採る形には、歩く、走る、跳ぶ、泳ぐ、つかむ、食べる…、ともう無数の類型がありますが、その中でいちばん美しい形は何かといえば、それは祈りの形ではないでしょうか。
祈りの対象は神であったり、仏であったり、宇宙であったり、大地であったり、これは民族や地域によって多彩な変化がありますが、祈りの姿そのものには共通して美しい形(ここでは物理的な体の形のことを言っています)が現われます。
「虚空の底へ」には、一貫してその祈りの形を思わせるフォルムがつづられていくのです。
むろん舞踊には舞踊の言語がありますから、そこにある祈りは宗教的な表現とは完全に別のものです。
それどころか、宗教的な祈りの形からは最も遠いところにあるといっていいでしょう。
むしろ宗教が世俗化するに従って、宗教的な祈りには夾雑(きょうざつ)な要素が避けがたく混じり込んできましたが、それら濁りを帯びた祈りの隙間に残っているなお純粋な祈りの形、それが舞踊のなかに掬(すく)い取られているように思えます。
宗教が失いかけているものが、舞踊の中に甦っているのです。
では、どうしてその純粋な祈りの形が、厄介な人間の両義性を超えることになるのでしょう。
それは、おそらく、純粋な祈りの姿が全宇宙との対話の形だからではないでしょうか。
祈りによって人間は自己を全宇宙へ開くのです。
そして、全宇宙というのは、あらゆる対立項をすべて肯定的に受け入れる無限の空間にほかなりません。
宇宙はどのような局面にも、それでよし、と肯定的な回答を出すのです。
調和と疎外の双方に、それでよし、と答えます。
平衡と崩落の双方に、それでよし、と答えます。
希望と絶望の双方に、それでよし、と答えます。
人間のすべての面に、それでよし、と告げるのです。
この世界では引き裂かれ続ける人間ですが、宇宙の前では統合された存在になるのです。
人はそこであるがままの人間の姿を回復します。
「虚空の底へ」は救いを求める人間の姿が祈りの形で現われますが、もうそれは、すでに救われている人間の姿を表しているように見えるのです。
向井さんは第一回のリサイタルとは思えないほど、深いビジョンをわたしたちに示しました。
先が楽しみな舞踊家です。(了)
貞松・浜田バレエ団の全幕公演「白鳥の湖」が尼崎市のあましんアルカイックホールで行われました。(2012年9月22日)
バレエ団の精神的な深さを代表する一人といっていいでしょう、瀬島五月さんがオデット姫を踊り、オーストラリアからこの神戸のバレエ団へやってきて今や舞踊界の人気者になっているアンドリュー・エルフィンストンさんがジークフリート王子を踊りました。
いうまでもなくバレエは肉体で表現する芸術です。
体の美しさ、そして技術の卓抜さが命です。
しかし、鍛練されたその体を通して、そこに精神のみずみずさと深さが現われるとき、バレエは最高の喜びに達します。
ふたりはみごとにそのような舞台を創造しました。
むしろ、もう肉体が見えなくなって精神そのものがそこで踊る、そういう瞬間さえあったといっていいでしょう。
第一幕の終わりは、夕暮れの憂愁が舞台いっぱいに満ちてくる場面です。
成年式を終えたジークフリート王子は、もう自由を満喫した青春と別れなければなりません。
あすはとうとう列国の王女たちを舞踏会に迎えて、そこから妃を選ぶことになったのです。
人生の曲がり角に立っている不安もあります。
どうしても心が沈んでいくのです。
エルフィンストンのジークフリートはその内面の憂鬱をあますところなく表現しました。
気品に満ちた体は決して大仰な動きに出ることはありませんが、ちょっとしたそぶりの中に心の揺らぎが鋭く表れてくるのです。
いましも哀愁を誘うオーボエの響きが白鳥の主題を奏でています。
はっと夕空を見上げる王子。
白鳥たちの群れが森を越えて、湖に向かおうとしています。
その美しい鳥たちが王子の内部を横切っていく、そのさまがぼくたちにありありと見えたのです。
悲劇の予感が忍び寄ってくるのです。
悲劇のクライマックスは第四幕、湖のほとりでジークフリートとオデットが再会するシーンです。
ここでは瀬島五月の決然とした表現がぼくたちを圧倒します。
悪魔の罠にかかってしまったふたりには、もう絶望しかありません。
オデットはついに命を断つ決断をするのです。
「死にます」
けれど、それは絶望だけからではありません。
瀬島の踊りの奥深さ、それはまさしくそこにもうひとつのエレメントが含まれていることから醸(かも)されてくるのです。
もうひとつの決意が沈黙の中に響きます。
「わたしはわたしの愛を貫きます」
絶望のすぐ裏にゆるぎない希望が生まれているのです。
その二重の表現にぼくらは圧倒されるのです。
そして、この恋人たちの悲劇をいっそう深くしてみせた第三の主役、ロットバルト。
川村康二の存在も書かないではいられません。
かれはここにきてかれ自身のロットバルト像を創り上げたように思えます。
それは単に世界に不幸を持ち込んで陰鬱な笑いを浮かべる自己充足的な悪魔ではないのです。
悪魔として生きなければならない自己の運命に哀しみを感じている悪魔でもあるのです。
かれは結局、オデットとジークフリートの愛の力で敗北しますが、ぼくたちにはその悪の滅びにすぐには快哉を送れない、複雑で微妙な感情が残るのです。
ロットバルトはおそらくオデットを愛してしまったのではないでしょうか。
かれの死は、あるいはオデットへの愛に破れた悲しい悪魔の、遠回りの自殺だったのではないでしょうか。
川村康二のロットバルトはそんな余韻をぼくらの心に残すのです。
肉体が精神の表現に変わるとき、バレエには言葉(セリフ)がないだけ、よりいっそう純粋な表現になるのです。
ぼくたちはこの夜、みずみずしい心のふるえを目のあたりにしたのです。
(注)貞松・浜田バレエ団「白鳥の湖」は、演出=貞松融・浜田蓉子、振り付け=貞松正一郎。演奏は江原功指揮びわ湖の風オーケストラ。
バレエ団の精神的な深さを代表する一人といっていいでしょう、瀬島五月さんがオデット姫を踊り、オーストラリアからこの神戸のバレエ団へやってきて今や舞踊界の人気者になっているアンドリュー・エルフィンストンさんがジークフリート王子を踊りました。
いうまでもなくバレエは肉体で表現する芸術です。
体の美しさ、そして技術の卓抜さが命です。
しかし、鍛練されたその体を通して、そこに精神のみずみずさと深さが現われるとき、バレエは最高の喜びに達します。
ふたりはみごとにそのような舞台を創造しました。
むしろ、もう肉体が見えなくなって精神そのものがそこで踊る、そういう瞬間さえあったといっていいでしょう。
第一幕の終わりは、夕暮れの憂愁が舞台いっぱいに満ちてくる場面です。
成年式を終えたジークフリート王子は、もう自由を満喫した青春と別れなければなりません。
あすはとうとう列国の王女たちを舞踏会に迎えて、そこから妃を選ぶことになったのです。
人生の曲がり角に立っている不安もあります。
どうしても心が沈んでいくのです。
エルフィンストンのジークフリートはその内面の憂鬱をあますところなく表現しました。
気品に満ちた体は決して大仰な動きに出ることはありませんが、ちょっとしたそぶりの中に心の揺らぎが鋭く表れてくるのです。
いましも哀愁を誘うオーボエの響きが白鳥の主題を奏でています。
はっと夕空を見上げる王子。
白鳥たちの群れが森を越えて、湖に向かおうとしています。
その美しい鳥たちが王子の内部を横切っていく、そのさまがぼくたちにありありと見えたのです。
悲劇の予感が忍び寄ってくるのです。
悲劇のクライマックスは第四幕、湖のほとりでジークフリートとオデットが再会するシーンです。
ここでは瀬島五月の決然とした表現がぼくたちを圧倒します。
悪魔の罠にかかってしまったふたりには、もう絶望しかありません。
オデットはついに命を断つ決断をするのです。
「死にます」
けれど、それは絶望だけからではありません。
瀬島の踊りの奥深さ、それはまさしくそこにもうひとつのエレメントが含まれていることから醸(かも)されてくるのです。
もうひとつの決意が沈黙の中に響きます。
「わたしはわたしの愛を貫きます」
絶望のすぐ裏にゆるぎない希望が生まれているのです。
その二重の表現にぼくらは圧倒されるのです。
そして、この恋人たちの悲劇をいっそう深くしてみせた第三の主役、ロットバルト。
川村康二の存在も書かないではいられません。
かれはここにきてかれ自身のロットバルト像を創り上げたように思えます。
それは単に世界に不幸を持ち込んで陰鬱な笑いを浮かべる自己充足的な悪魔ではないのです。
悪魔として生きなければならない自己の運命に哀しみを感じている悪魔でもあるのです。
かれは結局、オデットとジークフリートの愛の力で敗北しますが、ぼくたちにはその悪の滅びにすぐには快哉を送れない、複雑で微妙な感情が残るのです。
ロットバルトはおそらくオデットを愛してしまったのではないでしょうか。
かれの死は、あるいはオデットへの愛に破れた悲しい悪魔の、遠回りの自殺だったのではないでしょうか。
川村康二のロットバルトはそんな余韻をぼくらの心に残すのです。
肉体が精神の表現に変わるとき、バレエには言葉(セリフ)がないだけ、よりいっそう純粋な表現になるのです。
ぼくたちはこの夜、みずみずしい心のふるえを目のあたりにしたのです。
(注)貞松・浜田バレエ団「白鳥の湖」は、演出=貞松融・浜田蓉子、振り付け=貞松正一郎。演奏は江原功指揮びわ湖の風オーケストラ。
もう半年も前のこと、それどころかすでに去年の暮れのことなのに、おりにつけ鮮やかに思い出す舞台があります。
バレリーナの上村未香(うえむら・みか)さんが出演した「くるみ割り人形」の舞台です。(2011年12月24日 神戸文化ホール)
上村さんは神戸を拠点にしている貞松・浜田バレエ団のプリマです。
ヒロインのクララを踊りました。
踊りが透明だったのです。
空気の精のようでした。
生身のひとが踊っているとは、もうほとんど感じられませんでした。
どのシーンを挙げるのがいいでしょう。
むしろ、どんなつかの間のエピソードにも目をそそぐ値打ちがあるでしょう。
ネズミの王様の大暴れにひやひやしているところでも、いきなり王子が現われてまだびっくりが続いているところでも、王子といっしょにお伽(とぎ)の国へ旅立っていくところでも。
どのような細部でも、かの女はいつも瑞々(みずみず)しく、繊細で、軽やかです。
まったく驚くべきことに、かの女の跳躍にはほとんど音が立ちません(ぼくは実際かの女のトウシューズの響きを一回も聴いたことがないのです)。
舞台を横切っていく風なのです。
微風です。
くるみ割りの王子とドロッセルマイヤーが不思議な空気で対峙(たいじ)するラストの場面。
少女クララは、王子の腕の中からまるで投げ出されるようにして、ドロッセルマイヤーの腕の中へ返されます。
未香さんのクララは、なんと軽々と空中に浮かんだことでしょう。
重力が消えてしまったようでした。(続)
バレリーナの上村未香(うえむら・みか)さんが出演した「くるみ割り人形」の舞台です。(2011年12月24日 神戸文化ホール)
上村さんは神戸を拠点にしている貞松・浜田バレエ団のプリマです。
ヒロインのクララを踊りました。
踊りが透明だったのです。
空気の精のようでした。
生身のひとが踊っているとは、もうほとんど感じられませんでした。
どのシーンを挙げるのがいいでしょう。
むしろ、どんなつかの間のエピソードにも目をそそぐ値打ちがあるでしょう。
ネズミの王様の大暴れにひやひやしているところでも、いきなり王子が現われてまだびっくりが続いているところでも、王子といっしょにお伽(とぎ)の国へ旅立っていくところでも。
どのような細部でも、かの女はいつも瑞々(みずみず)しく、繊細で、軽やかです。
まったく驚くべきことに、かの女の跳躍にはほとんど音が立ちません(ぼくは実際かの女のトウシューズの響きを一回も聴いたことがないのです)。
舞台を横切っていく風なのです。
微風です。
くるみ割りの王子とドロッセルマイヤーが不思議な空気で対峙(たいじ)するラストの場面。
少女クララは、王子の腕の中からまるで投げ出されるようにして、ドロッセルマイヤーの腕の中へ返されます。
未香さんのクララは、なんと軽々と空中に浮かんだことでしょう。
重力が消えてしまったようでした。(続)
一昨日は藤田佳代舞踊研究所のモダンダンス公演(創作実験劇場=2012年2月25日、神戸・うはらホール)で上演された藤田佳代さんの新作「海」について書きましたが、藤田作品のほかにも印象に残るプログラムが二つ三つありましたので、今日はそれについて語っておきます。
1 向井華奈子「柘榴」
まず向井華奈子さんのソロダンス「柘榴(ざくろ)」。
裾に赤い染めを散らした衣装もめざましい効果となって、観客のぼくらに牙をむくような向井さんの強いダンスは、まるで舞台に血をぶちまけるようでした。
プログラムのコメントを読んだのはダンスが終わってからのことでしたが、そこにはボッテチェリの「柘榴の聖母」に触発されてこの作品を作ったと、そう説明がありました。
向井さんはその絵に受難と復活のビジョンを読んだのです。
なるほどなあ、と思いましたが、舞台の間、実はぼくは時代をぐんぐんさかのぼって、ギリシャ神話へと駆られていました。
柘榴は狂乱の神ディオニソスの流した血から生まれたという言い伝えがあるからです。
死の国に降りたペルセポネがそこで柘榴の実を食べて、それで地上に帰れなくなったという話もあります。
いずれにしても柘榴は生と死が交錯するとても危険な実なのです。
エロス(生)とタナトス(死)とサクレ(聖性)の果実だと、そう言っていいかもしれません。
ときにエキセントリックな動きで見る者を幻想へ誘う向井さんの独自のダンスは、その厚い重層構造をみごとに踊りきったと思います。
2 かじのり子「わたしに似た人」
さて、向井さんの作品が血をぶちまけたようなステージなら、次のこれは心臓をえぐり出すような舞台です。
かじのり子さんの「わたしに似た人」です。
舞台の中央に現われた舞踊家は、腰を屈め、クモのように身を低くして、じいいっと客席をにらみます。
暗い目で何かを捜している気配です。
これはコメントを幕間に読んでいましたから、そうか、とすぐに想像がつきました。
彼女は鏡を覗き込むように、客席の闇の中に自分の分身を探し求めているのです。
もっと正確に言えば、自分と自分の分身と自分に似たあの人の三つの像をそこに見つめているのです。
あの人というのは、二人の幼児をマンションの部屋に置き去りにして餓死するにまかせた、あの女性のことなのです。
舞踊家は、事件が明るみに出たあと、「わたしもあの人に似ているかもしれない」と感じた母親が大勢いることに大きな衝撃を受けたようです。
じつは舞踊家自身がすでに同じ感情を隠し持っていたからです。
隠し通したかったものが、多くの母親がそうなのだと知ったときから、隠し通せなくなったのです。
それが舞踊という表現に噴出することになったのです。
ならざるをえなかった、というのがたぶん本当なのでしょう。
舞踊家は、この作品のなかで繰り返し片方の目を手で塞いで踊ります。
恐るべき着想です。
塞がれた目の中にどんなに深い闇を見つめているか、それがぼくらにもまざまざと見えたのです。
ぼくもあの人に似ているかもしれない、そう思わないではいられなくなったのです。
3 灰谷留理子「Flow」
モダンダンスの身体表現の、とくに物理的な側面について興味深かったのが、「Flow」を踊った灰谷(はいや)留理子さんです。
灰谷さんはもともとクラシックバレエの舞踊家です。
バレリーナとして活動しながら、それと並行に藤田研究所に入門して、 モダンダンスにも研鑽(けんさん)を深めているのです。
クラシックバレエは強固な型の世界ですから、最初のころはモダンダンスの表現に入ろうとしても、やはりクラシックの常套的(じょうとうてき)なスタイルが表面に出てきていました。
それが彼女の表現を一定のワクの中に縛っているように見えました。
しかし、今回の「Flow」はとても自由なダンスになっていました。
とうとうと流れる時の流れが見えました。
彼女が表現したいと思っているそのことが、彼女の体に見えました。
つまり、舞踊家が自分の肉体を取り戻しているように見えました。
おそらくこのようにモダンの奥へ進むことで、クラシックの表現もそれだけ深く、それだけ幅広くなったのではないでしょうか。
彼女にとっては、大きな飛躍の舞台になったのではないかと思います。
1 向井華奈子「柘榴」
まず向井華奈子さんのソロダンス「柘榴(ざくろ)」。
裾に赤い染めを散らした衣装もめざましい効果となって、観客のぼくらに牙をむくような向井さんの強いダンスは、まるで舞台に血をぶちまけるようでした。
プログラムのコメントを読んだのはダンスが終わってからのことでしたが、そこにはボッテチェリの「柘榴の聖母」に触発されてこの作品を作ったと、そう説明がありました。
向井さんはその絵に受難と復活のビジョンを読んだのです。
なるほどなあ、と思いましたが、舞台の間、実はぼくは時代をぐんぐんさかのぼって、ギリシャ神話へと駆られていました。
柘榴は狂乱の神ディオニソスの流した血から生まれたという言い伝えがあるからです。
死の国に降りたペルセポネがそこで柘榴の実を食べて、それで地上に帰れなくなったという話もあります。
いずれにしても柘榴は生と死が交錯するとても危険な実なのです。
エロス(生)とタナトス(死)とサクレ(聖性)の果実だと、そう言っていいかもしれません。
ときにエキセントリックな動きで見る者を幻想へ誘う向井さんの独自のダンスは、その厚い重層構造をみごとに踊りきったと思います。
2 かじのり子「わたしに似た人」
さて、向井さんの作品が血をぶちまけたようなステージなら、次のこれは心臓をえぐり出すような舞台です。
かじのり子さんの「わたしに似た人」です。
舞台の中央に現われた舞踊家は、腰を屈め、クモのように身を低くして、じいいっと客席をにらみます。
暗い目で何かを捜している気配です。
これはコメントを幕間に読んでいましたから、そうか、とすぐに想像がつきました。
彼女は鏡を覗き込むように、客席の闇の中に自分の分身を探し求めているのです。
もっと正確に言えば、自分と自分の分身と自分に似たあの人の三つの像をそこに見つめているのです。
あの人というのは、二人の幼児をマンションの部屋に置き去りにして餓死するにまかせた、あの女性のことなのです。
舞踊家は、事件が明るみに出たあと、「わたしもあの人に似ているかもしれない」と感じた母親が大勢いることに大きな衝撃を受けたようです。
じつは舞踊家自身がすでに同じ感情を隠し持っていたからです。
隠し通したかったものが、多くの母親がそうなのだと知ったときから、隠し通せなくなったのです。
それが舞踊という表現に噴出することになったのです。
ならざるをえなかった、というのがたぶん本当なのでしょう。
舞踊家は、この作品のなかで繰り返し片方の目を手で塞いで踊ります。
恐るべき着想です。
塞がれた目の中にどんなに深い闇を見つめているか、それがぼくらにもまざまざと見えたのです。
ぼくもあの人に似ているかもしれない、そう思わないではいられなくなったのです。
3 灰谷留理子「Flow」
モダンダンスの身体表現の、とくに物理的な側面について興味深かったのが、「Flow」を踊った灰谷(はいや)留理子さんです。
灰谷さんはもともとクラシックバレエの舞踊家です。
バレリーナとして活動しながら、それと並行に藤田研究所に入門して、 モダンダンスにも研鑽(けんさん)を深めているのです。
クラシックバレエは強固な型の世界ですから、最初のころはモダンダンスの表現に入ろうとしても、やはりクラシックの常套的(じょうとうてき)なスタイルが表面に出てきていました。
それが彼女の表現を一定のワクの中に縛っているように見えました。
しかし、今回の「Flow」はとても自由なダンスになっていました。
とうとうと流れる時の流れが見えました。
彼女が表現したいと思っているそのことが、彼女の体に見えました。
つまり、舞踊家が自分の肉体を取り戻しているように見えました。
おそらくこのようにモダンの奥へ進むことで、クラシックの表現もそれだけ深く、それだけ幅広くなったのではないでしょうか。
彼女にとっては、大きな飛躍の舞台になったのではないかと思います。
藤田佳代舞踊研究所の公演「創作実験劇場」をJR住吉駅南のうはらホールで見ました(2012年2月25日)。
藤田研究所は神戸に拠点を置くモダンダンス・カンパニーで、毎年、春に先駆けて研究所のメンバーたちがオリジナルな振り付け作品を上演します。
今年は主宰の藤田さんが、珍しく最初から最後まで文字通り独りで踊る完全なソロ作品「海」を発表、これがやはり圧巻でした。
音楽は千秋次郎さんのシンセサイザー曲「海―記憶と希望」。
藤田・千秋のコンビネーションもひさびさです。
ひとまず音楽のほうに触れておきますと、この「海」は、海底から海面へ、そして空へ、海を垂直方向に上昇していくように聴き取れました。
すぐにドビュッシーと宮城道雄の海の曲を連想しましたが、千秋作品の新しさは格別です。
構造的に違うのです。
ドビュッシーも宮城も海を平面としてとらえています。
千秋さんはそこに深さ(深度)を加え、海を二次元平面から三次元立体へ構造化したのです。
平面的・情緒的な表現からなかなか前へ進めないシンセサイザーで、これを成し遂げたということも特筆すべきことなのです。
さて、ソロダンサーとしての藤田さんは、美しい水死体のように現われました。
あえて「美しい」といったのは、そこでの水底は、闇に閉ざされた墓場のイメージでは全くなくて、淡いとはいえむしろ透明な光に満ちた再生の場所のように見えたからです。
舞踊家はゆっくりと動きます。
水死体がゆっくりと上昇を始めます。
モダンダンスは過去一世紀に渡ってとにかく素早い運動を追い続けてきましたが、そんな潮流の中で、この人だけはひたすらにむしろ不動への道を求めてきました。
その孤独な追求が、この作品では存分に生きました。
素早い動きには、いくらふりほどこうとしても、ますます重力がからんできますが、ゆっくりとした彼女の動きは、かえって重力から解き放たれ、むしろ無重力の遊泳です。
水死体が光へと昇ります。
少しずつ生に染まっていくのです。
この舞踊家が見事なのは、海の中のその上昇を、ある時点を境にして、無限の底から無限の天空への上昇にくっきりと変えることができることです。
限られた運動が無限の運動に変わります。
肉体の運動が宇宙の運動とつながります。
これは、たぶん、天性のものですが…。
かつて水死体であったものが、いまは生命の光に満ちて、天空をめざしています。
魚族の仲間であったものが鳥類の仲間になったのです。
なんと光に満ちた生のダンス。
藤田研究所は神戸に拠点を置くモダンダンス・カンパニーで、毎年、春に先駆けて研究所のメンバーたちがオリジナルな振り付け作品を上演します。
今年は主宰の藤田さんが、珍しく最初から最後まで文字通り独りで踊る完全なソロ作品「海」を発表、これがやはり圧巻でした。
音楽は千秋次郎さんのシンセサイザー曲「海―記憶と希望」。
藤田・千秋のコンビネーションもひさびさです。
ひとまず音楽のほうに触れておきますと、この「海」は、海底から海面へ、そして空へ、海を垂直方向に上昇していくように聴き取れました。
すぐにドビュッシーと宮城道雄の海の曲を連想しましたが、千秋作品の新しさは格別です。
構造的に違うのです。
ドビュッシーも宮城も海を平面としてとらえています。
千秋さんはそこに深さ(深度)を加え、海を二次元平面から三次元立体へ構造化したのです。
平面的・情緒的な表現からなかなか前へ進めないシンセサイザーで、これを成し遂げたということも特筆すべきことなのです。
さて、ソロダンサーとしての藤田さんは、美しい水死体のように現われました。
あえて「美しい」といったのは、そこでの水底は、闇に閉ざされた墓場のイメージでは全くなくて、淡いとはいえむしろ透明な光に満ちた再生の場所のように見えたからです。
舞踊家はゆっくりと動きます。
水死体がゆっくりと上昇を始めます。
モダンダンスは過去一世紀に渡ってとにかく素早い運動を追い続けてきましたが、そんな潮流の中で、この人だけはひたすらにむしろ不動への道を求めてきました。
その孤独な追求が、この作品では存分に生きました。
素早い動きには、いくらふりほどこうとしても、ますます重力がからんできますが、ゆっくりとした彼女の動きは、かえって重力から解き放たれ、むしろ無重力の遊泳です。
水死体が光へと昇ります。
少しずつ生に染まっていくのです。
この舞踊家が見事なのは、海の中のその上昇を、ある時点を境にして、無限の底から無限の天空への上昇にくっきりと変えることができることです。
限られた運動が無限の運動に変わります。
肉体の運動が宇宙の運動とつながります。
これは、たぶん、天性のものですが…。
かつて水死体であったものが、いまは生命の光に満ちて、天空をめざしています。
魚族の仲間であったものが鳥類の仲間になったのです。
なんと光に満ちた生のダンス。
上月倫子バレエスクールの発表会を神戸文化ホールで見ました(5月21日)。
今年が27回目ということですから、もうずいぶんな歴史です。
ショパンの曲に振り付けられた「ショピニアーナ」、クラシックバレエの有名な曲の一つ「コッペリア」の第3幕、そして名曲のグラン・パ・ド・ドゥを集めた「バレエ コンサート」、最後が日本の歌曲や童謡、民謡をバレエにした「ホリデイ イン ニッポン」というプログラムでした。
上月スクールの特長は、どの舞台も基本をしっかりとおさえて、とても上品に仕上げられるということです。
これは上月先生のお人柄でもあるのでしょう。
古典に忠実なばかりでなく創作も大事にされていて、そのつどオリジナルなダンスが発表されるのも、大きな楽しみの要素です。
今回もその特長はじゅうぶん発揮されていました。
上月先生は谷桃子バレエ団で活躍したのち、神戸に戻ってずっと後進の指導にあたってこられました。
神戸は洋舞・邦舞ふくめて舞踊のとても盛んな都市ですが、それは上月先生のような熱心な指導者がおられるからにほかなりません。
これからの発展も楽しみなスクールです。
今年が27回目ということですから、もうずいぶんな歴史です。
ショパンの曲に振り付けられた「ショピニアーナ」、クラシックバレエの有名な曲の一つ「コッペリア」の第3幕、そして名曲のグラン・パ・ド・ドゥを集めた「バレエ コンサート」、最後が日本の歌曲や童謡、民謡をバレエにした「ホリデイ イン ニッポン」というプログラムでした。
上月スクールの特長は、どの舞台も基本をしっかりとおさえて、とても上品に仕上げられるということです。
これは上月先生のお人柄でもあるのでしょう。
古典に忠実なばかりでなく創作も大事にされていて、そのつどオリジナルなダンスが発表されるのも、大きな楽しみの要素です。
今回もその特長はじゅうぶん発揮されていました。
上月先生は谷桃子バレエ団で活躍したのち、神戸に戻ってずっと後進の指導にあたってこられました。
神戸は洋舞・邦舞ふくめて舞踊のとても盛んな都市ですが、それは上月先生のような熱心な指導者がおられるからにほかなりません。
これからの発展も楽しみなスクールです。