しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

トラ連勝

2007-05-31 22:35:10 | スポーツ、オリンピック
 タイガースがライオンズに連勝。
 相手も不調だけに、これで上昇を確信するというわけにはいきませんが、まあ、とにかく…。
 たのむで、もう。

 6月になって、ツキも変わる?
 変われ!
 変わらな。
 変わってくれ!
 変わってえな。
 なっ。
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VALUESTAR恨み節

2007-05-30 12:15:07 | パソコン
 NECのパソコン機種のVALUESTARを使っているんですがね、調子悪いですねえ。
 2年目からもうガタガタしはじめて、最近も2003のソフトをCDでインストールしなおしてみたんですがね、やっぱりダメですね。
 文章を作っている最中に不意にコンピューターがエンスト起こして、パーということもしょっちゅう。
 これがいちばん困りもんですねえ。
 危ないからずいぶんこまめに上書きしながらやるんですが、それでもこっちのわずかなスキを突いて、文を壊しにくるんですよ。
 箱の中で悪魔が笑っているみたい。

 ぼくの機械運が悪いのか、欠陥をもったまま商品が市場に出たのか。
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ある球団のある監督のインタビュー 2

2007-05-28 22:13:57 | スポーツ、オリンピック
 ―交流戦に向けてわざわざド派手なユニフォームを作って、これ以上ないカッコつけて、けどカッコばっかりで、かんじんの試合はさっぱり勝てませんね。
 「なんてゆうか、ねえ、どゆたらええか」
 ―道頓堀のチンドンみたいな、どうも過剰なユニフォームで、それで打てんし、走れんし、守れんし、ドタバタの漫才みたいですね。
 「なんていうか、どゆうてええか、ねえ、どゆうたらええか」
 ―コーチも評論家みたいなことはいっぱいおっしゃってるようですが、選手はぜんぜん踊りませんねえ。これもどうもカッコばっかりのようで。
 「どゆうたらええか、ねえ、なんていうか、ねえ、いつもゆうてることやんか、いつもおんなじやんか」
 ―交流戦をこのテイタラクで終わるようなら、責任とって辞任されるご意志はありませんか。辞任というのがカゲキなら、いわば、その、休養とか…
 「なんていうか、ねえ、どゆうたらええか」
 ―まだがんばられますか?
 「(このときばかりはキッパリと)優勝めざしてがんばります。忘れ物をしてますから。日本一を達成します」
 ―と、おっしゃっておられます。以上、監督インタビューでした。
 
 
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白鵬優勝! おスモウも地球時代

2007-05-27 20:29:21 | スポーツ、オリンピック
 大相撲の夏場所で白鵬が優勝しました。
 全勝ですよ。
 どれも完璧な勝ち方でしょう。
 すごいですねえ。
 これで来場所から朝青龍とふたり横綱。
 ふたりのモンゴル人チャンピオン。

 でも、相撲も国際化時代ってのは、おもしろいですね。
 あと10年もしたら、世界中の力持ちがみんな日本に集まるかもしれませんねえ。
 そうなると幕内の土俵入りっていうときの迫力たるやスゴいですよ。
 なにせ、何十億もの人類の中からわずか50人ほどにしぼられた超ド級の男ばかりがそこにズラッと並ぶんですから。
 そうなると世界中のテレビ局がリアルタイムで中継することになりますね。
 地上最強のジャイアント・スモウ・パフォーマー。 
 もうサッカーどころじゃないですね。
 
 日本人だけでチマチマやってるお相撲なんて、そんなケチな時代はもうちょっとでオサラバですね。
 
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ある球団のある監督のインタビュー

2007-05-26 19:05:09 | スポーツ、オリンピック
 「なんてゆうか、ねえ、どゆうたらええか、ねえ、だから、やっぱり、ねえ、あそこは、ねえ、やっぱり」
 ―で、監督、この苦境を脱する手立ては?
 「だから、ねえ、やっぱり、ねえ、どゆうたらええか、ねえ、いつもゆうてることで、ねえ」
 ―で、いつもどういうふうに言ってらっしゃるんですか?
 「だから、ねえ、なんていうか、どゆうたらええか、ねえ、いつもゆうてるとおりで」
 ―できればもう少し具体的におっしゃっていただけないかと…
 「だから、ねえ、やっぱり、いつもゆうてるとおりやんか、いつもおんなじことやんか」
 ―どうも、監督、ありがとうございました。次の試合がんばってください。
 「ども」
 ―以上、監督インタビューを終わります。
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カウンセリングって?(1)

2007-05-26 01:48:22 | 心理学・精神科学
この時代「カウンセリング」という言葉は
すっかり定着して、
コスメ売り場の店員もカウンセラー、
アチラの相性が良くない夫婦を
精力剤で何とかするのもカウンセラー、
誰かが「一億総カウンセラー」と言ってましたが
まさにその通りです。

もっともあながち間違っている訳ではない。
「カウンセリング」は日本語に訳すと「相談学」、
つまり相談事は平たく言えば全てカウンセリング。
日本カウンセリング学会だって
かつては日本相談学学会という名前でしたから。

でも学問的に「カウンセリング」というと、
やはり「こころ」に問題・課題がある人を
改善して直すことをいいます。

最近「こころ」関係に関わらざるを得なかった
生活を続けていた、現在も続けているので
「カウンセリング」をベースに
「こころ」とそれを取り巻く現状を書いていきますね。



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フロイト つぶやく理性

2007-05-25 02:29:14 | 引用
「知性が欲動生活に較べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺された後、結局は聞き入れられるのである。」(『ある幻想の未来』、『フロイト著作集3』所収、人文書院、p.402)[柄谷行人「死とナショナリズム 第1部 フロイト」(「批評空間」Ⅱ-15、太田出版、p.38)より孫引き]
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あかつき書房、森鴎外『伊沢蘭軒』

2007-05-20 03:17:27 | 本、文学、古書店
友人との待ち合わせまでの時間、古本屋をのぞいた。

森鴎外の『伊沢蘭軒』(ちくま文庫)上下二冊を買った。三宮センター街(神戸市)のあかつき書房。ここはだけど垢のついた本など一冊もなく本当にきれいな本ばかりそろえてある。人文科学系の専門書も多いし、二階の文庫の棚は特に岩波文庫が充実している。

「伊沢蘭軒」とは江戸の医者で儒学者。やはり鴎外が伝記を書いた渋江抽斎の医術の師匠に当たる。さて鴎外の書く伝記は、学校の図書室にある「エジソン伝」みたいな教養のための「実用書」ではなく、やっぱり文学と言うべきものだろう。実用的見地からすればほとんどまったく「役に立たない」という意味で。

起伏のあるプロットが小説作品の面白味だとすると、鴎外の伝記作品は、面白くない。伊沢蘭軒も渋江抽斎もその生涯がとりたてて波乱に富んでいたというわけではない。そこを鴎外は記録を渉猟して編年的に細かく人物の人生をたどっていく。『伊沢蘭軒』はまたやたらと長い。

じゃあ何で面白くないものを買うんだと聞かれれば、ちくま文庫の「鴎外全集」の前巻までをもっていたからとか二冊揃いで安かったからとかあるけれど、やっぱり鴎外が好きだからということになる。何で好きなんだと聞かれれば……何でですかね。

それはもしかすると上に書いた「役に立たない」ものの強烈な魅力かもしれない、とも思う。作家自身「役に立ってなんかやるものか」と凄んでるのか拗ねてるのかわからないそういう態度を意識的にとっていたということがあるだろうけど、単に鴎外の個人的な開きなおりや反抗心なら誰もそんなものに付き合いはしないはずで。

「わたくしの作品は概してdionysisch[ディオニュソス的]でなくって、apollonisch[アポロン的]なのだ。わたくしはまだ作品をdionysischにしようとして努力したことはない。」と書いている小論「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」なんかは何だか鴎外のつぶやきを耳もとに聞くみたいで感動的なほど率直さの伝わってくる作品なんだけれど、さあ、鴎外の伝記作品に表われている問題の本質は、ディオニュソス的・アポロン的の対立や、歴史の「自然」というところにあるのでもないような気がする。

鴎外作品に漂う歴史的緊張感。それも「日本史」とか「近代」という水準の問題じゃなく、芸術固有の歴史的危機感。そういうものが鴎外作品にはあるのじゃないか。アドルノ(ドイツの哲学者)が、芸術作品というのは交換の原理に台無しにされることのなかったものの代理なんだと言っている。つまり交換に乗っからないような非実用的・無用のものだと。最近また数十億円の超高値で絵画が取り引きされたりしてるけど、そういうニュースに僕らが感じる違和感は、貧乏人のやっかみだけじゃなく、やっぱりそんな形で絵画が「不当に」扱われているということに居心地の悪さを感じているのじゃないかしら。

明治・大正期の芸術シーンがどうだったかというのは、ヨーロッパの文物がどっと押し寄せみんなびっくり、ぐらいにしか不勉強で知らないのだけれど、「日本的・漢文学的」とか「ヨーロッパ的」といった水準の問題というよりは、アドルノの言うような、無用なものと有用なもの、芸術と芸術でないものという問題、あるいは、作品として読めるものと読めないもの、その境界を行く緊張、そういうものに鴎外の「面白くない」作品は触れていると思う。これは文学・芸術にとっては、その生命に関わる、いつでも重大な問題だろうし、とりわけ拝金主義のいきわたった現在には重大な問題にちがいない。

ところで、今日買った『伊沢蘭軒』もそのシリーズである、ちくま文庫の「森鴎外全集」、これが全然「全集」ではない。翻訳作品は「ファウスト」と「即興詩人」ぐらいしか入っていない。えらく恣意的な全集だ。何でこれを「全集」と言っちゃうんだろう? まあこちらも、『伊沢蘭軒』にせよ有難がって隅から隅まで読むつもりはないんだけど。それにしても、何だかずっと気持ち悪くて。
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京の古本屋

2007-05-18 01:25:22 | 本、文学、古書店
久しぶりに京都の街を歩く機会にめぐまれ、今出川通りから白川通りにかけて何軒か古本屋をめぐることができた。

古本屋に並ぶ本の傾向にも確かに地域性はあって、それは供給者の問題でありニーズの問題であり、やはり京都は大学の街ということで刺激的なラインナップだ。その街を底で支えている知の力は、古書店に噴出口をみつけてあらわれる。

地元の神戸にもいい古書店はあるけれど、たびたび立ちよる中ですこしずつ商品が入れ替わっているのをみる楽しみはそれとして、たまに京都や神保町へ行って、うずたかく積まれた質・量ともに巨大な本の森へ分け入っていくのには特別の喜びがある。

といって、すべてが新しいかというと、あの数万円する原書のシェリング全集は十年以上前からあそこに積まれたままだなあとか、学生時代の無為の時間がふとよみがえるような光景に立ち会い、不思議な感慨を感じたりする。

いつもさがしている本が何冊かあるけれど、最近特に意識していたのは誰でもタイトルを知っている作品。新書でも買える。

モンテーニュの『随想録(エセー)』。

もし知らなかったなら、スノビズムの足りないあなたも悪いけど、何よりいまは時代が悪いのでしょう。

これは抄訳が何冊が出ている。全訳も岩波文庫で手に入るようだし、白水社からすこしずつ新訳が刊行されてるけど、岩波のは「ワイド版」というやつで本が不細工、白水社の新訳を全部集める気もない。河出書房の「世界の大思想」シリーズで昔出ていたのを、確か震災のすぐあと後藤書店(神戸・三宮)でみかけたことがあって、あれとまた出会えないものかなあとずっとさがしていたのだけど、まったく何であのとき買わなかったのか。すごく安かったのに。

で、京都の一軒で、やっぱり白水社から60年代に出ている三巻組みの全訳(関根秀雄訳)をみかけて手に取ってみたら、いくらだったかな、一万円ぐらい。よいしょと棚に戻してまた歩きだした。

ところが別の店でウインドーに並べてあったのが、二千円。しかも新品同様。支払いをしながら、何でこんなに値段がちがうんですかとたずねると、あそこは昔の値段だから、と。

結論。取材や営業と同様、古本の探索も足で稼ぐ(?)ものである。

とはいえ、である。いまの値段が二千円ならいまの値段の方がありがたいのだけど、昔の値段というのは本への敬意を表現した値段のことだろうか。

幸運な出会いの喜びと、ちょっとした罪の意識を胸の底に、重たい本を抱えて夕暮れの京の街をぶらつくのだった。
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崩壊寸前タイガース

2007-05-17 18:38:51 | スポーツ、オリンピック
 無残でしたねえ、昨夜の対カープ10回戦。
 ピッチャーは四球を出して打たれる。
 キャッチャーはパスボールをする。
 野手は落球する。
 主軸バッターはチャンスに打てない。
 それぞれ勝手にプレーして、失策してももうハラを立てることもなく、みんな他人事みたい。
 チームとしての連携が消えてしまったようですね。

 それに、岡田監督の言い分がふるってますよ。
 「いつも後手後手や。いつもいっしょや」
 後手って、だれが後手に回ってるんでしょうね。
 作戦を立てるのは監督でしょう?
 指揮するのは監督でしょう?
 だったら、自分が後手を踏んでるんじゃないですか。
 それをまるで選手の失敗みたいに。

 負けたのは選手の責任で、勝つときは自分の才覚だと言いたいんでしょうかね。

 もうタイガースは求心力を失ってますね、無念ですが。
 去年までは金本が元気で、彼が大きな求心力を持っていて、終盤には藤川の涙でチームにまとまりができましたが、今シーズンは金本がもうひとつで、それに伴ってバラバラになってしまっているのです。
 本当はここで監督が力を発揮せんといかんのですが…。

 まもなくパ・リーグとの交流戦が始まりますが、このままではコテンパンにやられますね。
 そして秋には、5位? 6位?
 暗い夏が始まりますね。
 アーァ。
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