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ブログ版 シュプリッターエコー

John von Neumann ジョン・フォン・ノイマン

2015-01-10 06:34:00 | 文化芸術一般
少し前にノーマン・マクレイという経済ジャーナリストの書いた『フォン・ノイマンの生涯』(渡辺正・芦田みどり訳、朝日新聞社)を読んだ。

ノイマンの研究の解説はあまりおぼえていない。読んでいて理解できなかったことも多かったと思う。

数学・物理学・コンピューター科学・経済学…等々、様々な分野で重要な仕事を残した人で、原子爆弾の開発にも携わった。

現在のコンピューターは「ノイマン型コンピューター」と呼ばれる。コンピューター黎明期の、その都度機械的に(それこそ歯車の位置を変えて)プログラムを組み直して、という形ではなく、プログラムをコンピューターに記憶させ、実行させるという仕組み。僕らにとってはそれ以外の形を考えられないぐらい当たり前になっている。

ただ、別の若い学者たちがある程度構想していたのを、ノイマンが明確にまとめあげたというのが経緯らしい。

ノイマンはむしろそうした能力に特に長けていた人のよう。つまりまったく新しいものを創出するというよりは、整理し、明確にし、遠くへ推し進める力。

マンハッタン計画では、長崎に投下されたプルトニウム爆弾の爆縮法の設計で大きな役割を果たした(広島に落とされた爆弾は砲撃法によってウラン235に臨界を起こさせるもの)。

原爆開発以前にノイマンは爆発理論の研究に取り組んでいる。爆弾が炸裂する際、斜行衝撃波というのが最も破壊力をもつのだそうで、最大限に破壊をおこなうには空中で爆発させるのがいいということになる。広島と長崎に投下された原爆も空中で爆発させた。

政治的にはタカ派といわれるノイマンでも、爆弾の研究において彼を衝き動かしていたのは政治信条などではなく、知的探究心、もっと無邪気に、知的好奇心だったろう。また、たとえ一人のノイマンが現われなくとも、同じく探究心と好奇心に駆られた多くの小ノイマンが時間をかけ、結局は成し遂げてしまったろう。

原子爆弾は量子物理学のひとつの成果に他ならない。兵器というのはいつもそんなふうに最先端の科学の産物だった。そして兵器の科学が目指すところを端的にいえば、いかに効率的に多く殺すかということで、そこに何の憎悪や殺意がない場合でもやはりそうなのだという、それはやはり不気味なこと。



みずみずしい愛の歌―福永祥子展

2010-04-06 21:16:00 | 文化芸術一般
 須磨に住む詩人の福永祥子さんが、詩書展「夢爛漫・春」を神戸・三宮のカフェガラリーゆめやで開きました(4月2日~6日)。
 福永さん自身の詩をひとつひとつ書の作品にして並べました。
 時節がら、春をテーマにしたのです。

 サクラはもちろん、野の草花がふんだんにうたわれます。
 いかにも神戸らしく明るい陽射しと明るい海がうたわれます。
 なかでも深くうたれるのが、心のなかに照る光、心のなかで開く花、つまり愛をうたった作品です。
 みずみずしい愛をうたう詩人です。

 ああ、そうか、と思う話を聞きました。
 福永さんは、書をするときは筆を左手で持つそうです。
 きき腕の右手だとなんなく書くことのできる字でも、左手ではそうなめらかにはいきません。
 むしろ全身をぶつけるようにして書かないと、思った形になりません。
 そのことによって、いのちが字に移っていくような、そういう実感があるのでしょう。

 ギャラリーの空間には、ひとびとの笑顔が満開でした。
 見えないものを眺め、聞こえないものを聞き、さわれないものに触れているひとびとの、おだやかな笑顔が満開でした。

島田悦子さんとのお別れの会 7月10日

2009-07-08 12:29:00 | 文化芸術一般
 ギャラリー島田社長の島田誠さんの夫人、悦子さんが1年余りの闘病ののち6月24日に逝去されました。

 お別れの会が7月10日(金)午後1時から神戸・ハンター坂のギャラリー島田でおこなわれます。

 島田社長は文化基金の設立・運営、文化イベントのプロデュース、大学での文化講義、執筆、出版、若手の発掘など、美術ばかりでなく多方面にわたって神戸文化の発展に心身を捧げておられますが、悦子さんは内部からそれをずっと支えてこられました。

、「島田悦子さんとのお別れの会」は次の内容で行われます。
 交遊の広い夫妻ですので、列席者をおおよそ三つにくくって、3回に分けて開かれますが、これはあくまで目安で、参加はどの回も自由です。

 第1回▽午後1時(友人、作家、その他)=珠寶さん(銀閣慈照寺花方)の献花、園田善昭さん(仁川学院長)のお話、グリーンハーモニー北野の合唱、飯山友子さん(ソプラノ)の献歌

 第2回▽午後2時(NPO、NGO,行政、KMC,その他)=三木谷良一さん(神戸大学名誉教授)のお話、伊藤ルミさん(ピアノ)の演奏、飯田美奈子さん(ソプラノ)の献歌

 第3回▽午後3時(教会、商業関係者、その他)=白井進さん(神戸栄光教会牧師)のお話、智内威雄さん(ピアノ)の演奏。

 なお、香典、供花は断られるということです。
 服装も平服でお願いしますということです。

 ギャラリー島田は078.262.8058 http://www.gallery-shimada.com/

がんばれ!若い芸術家たち―亀井純子文化基金15年

2007-07-28 23:45:50 | 文化芸術一般
 神戸で市民の中から生まれたユニークな芸術家応援システム「亀井純子文化基金」が創立から15年目を迎えました。
 15周年を祝う記念パーティーが8月3日午後6時半から神戸・元町商店街の神戸凮月堂本店・地下ホールで開かれます。

 この基金は、厳しい条件にもへこたれないで自分の道を切り開いている若いアーティストたちを市民の力で支援しようと1992年に設立されました。大震災の3年前のことでした。
 芸術を志している人ならだれでも申し込めるオープンなシステムで、委員会が活動の内容を審査して、一人(もしくは一団体)当たり20万円から10万円が完全に無償で贈られます。この15年間は、年に5件ないし6件が対象になってきました。

 さかのぼれば若くして亡くなったひとりの女性の熱い思いが、この運動の大きな礎(いしずえ)になりました。
 その女性とは、オランダの神戸領事館のスタッフだった亀井純子さんです。
 純子さんは芸術に深い愛情を持っていて、オランダの美術家を日本に紹介するなど文化交流にも情熱を傾けていましたが、ゆくゆくはもっと幅広く芸術の発展に力を尽くしたいという夢をはぐくんでいたのです。
 コツコツと資金も蓄え、“芸術通帳”はいつしか1000万円にもなりました。
 けれど、まだ40歳だというのに夢半ばで病魔に命を奪われることになったのです。

 遺志を継いだのは夫の健さんでした。
 妻の思いをなんとか生かしたいと考えた健さんは、芸術に造詣(ぞうけい)の深い画廊主・島田誠さん(ギャラリー島田社長)に相談を持ちかけて、島田さんや文化プロデューサーの中島淳さんらの奔走で、純子さんの夢はやがて正式な「基金」として形に現れることになりました。
 純子さんの夢に動かされた男たちが、バトンをつないだというわけです。
 基金の創設に当たっては、趣旨に共感したたくさんの市民が協力を申し出て、ほかの都市では例のなかった芸術の「市民メセナ」がスタートすることになったのでした。
 美術に、音楽に、あるいは舞踊に、そして思いがけない方向としては芸術批評に、基金の活動は文化のいろんな分野を刺激して、その波及効果はますます拡大しています。

 妻の夢を実現した健さんもすでに亡くなってしまいましたが、記念のパーティーではその純子さん・健さんを偲びながら、芸術神戸の来し方行く末を語り合います。楽しい“芸術的演出”もはさんで交流を深め、これを機会にまたいちだんと大きな夢に進みます。会食はビュッフェスタイルで、会費5000円。事務局は090.1914.4907(中島淳さん)

未来ある子どもたちに出来ることは?

2007-01-12 18:00:58 | 文化芸術一般
今日ボランティアで保育園の餅つきをした。
明らかに知的障害や自閉症の子どもや
発達障害(学習障害、注意欠陥多動性障害)の
子どもが沢山いた。

文部科学省によると、1クラスの約6~7%の子どもが
発達障害児だという。
勉強のことは学校の先生たちにお任せするとして

果たして私たち芸術文化に携わる者は
この未来ある子どもたちに何が出来るのだろうか?

餅つきをしながら一瞬そんなことを考えた。

アートマネジメント

2006-11-10 03:42:15 | 文化芸術一般
今某大学で「アートマネジメント」なる学問を勉強している。
当然外国から入ってきたものだが、アメリカ・ドイツ・フランス・イギリスで
その定義や内容は微妙に違う。
ただ、共通してかつ思いっきり単純化していうと、
「アートを通してまちづくりをするための学問」である。

確かに時代の流れでアートも単に表現するだけでなく、
コミュニティづくり、まちづくりという役を担わざるを得ないのだろう。
一方では確かに納得する。
現代美術のビエンナーレ・トリエンナーレなどはその筆頭だろう。

しかし一方で文化芸術は別に直接的に目に見える形で
社会に貢献する必要があるのだろうかという疑問も生まれる。
例えばある時観た舞台に対する感情や思いは
極めて極私的なものであっていいのではと。
いや古代ギリシャの時代はともかく
近代以降作家の自己表現であり、
その表現を鑑賞者が様々な思いで受け止める。
それでその鑑賞者の心が動けばそれでいいのでは、と。
しかしそれは目には見えず、数字にも出来ない。

どちらがいい悪いという問題ではないとは思う。
しかし近年の極端なアートマネジメント論者、
アウトサイダーアート(エイブルアート)擁護者、
文化行政を見ていると
「社会貢献」という名の呪縛さえ感じる。

アートはもっと私的なものでいいのではないのだろうか?