読書の記録

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ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学

2020年12月21日 | サイエンス
ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学
 
マシュー・O・ジャクソン 訳: 依田光江
早川書房
 
 ずいぶん前に「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」という本を読んだ。人間同士が築く社会ネットワークの効果や影響をシステム的に読み解いた本で実に面白かった。
 この本によれば、自分が行った行動は知ず知らずのうちに自分の知り合いの知り合いにまで影響を及ぼしているそうである。また、逆に自分自身が起こした判断が、実は知り合いの知り合いの行動に影響されている可能性があることなども示唆されている。あなたがダイエットを始めたきっかけをよく思い出してほしい。それは誰かの影響ではなかったか。そうしたら、その誰かもまた別の誰かの影響である可能性が高い。
 ほかにも、ネットワークの指向性として、似た者同士がつながりやすい、すなわち喫煙者なら喫煙者同士、肥満者なら肥満者同士がコミュニティを形成しやすいこと、転じれば幸福感の強い人は幸福感が強い人と知り合いとつながりやすく、逆に不幸感を積もらせやすい人はやはり不幸感のある人とつながりやすい、なんてことも書かれていた。
 
 SNSが世の中で一般化するよりちょっと前に刊行された本(日本版は2008年)だったためか、それほど大きな話題にならなかった。だけれど、この本は明らかに時代を先取りしていた。SNSが発達し、フェイルターバブルとかチェンバーエコーとか呼ばれる現象がささやかれる今日、この本は今一度読まれてよい内容だと思う。絶版はされていないようで、大型書店などにいくとハードカバーのものを今でも見かけるが、文庫本化したほうがいいと思うよ。講談社さん。
 
 
 今回とりあげた表題の本も同様のテーマである。もちろん今日の時代性を鑑みている。
 本書もいろいろな例や研究をとりあげているが(「つながり」と被る事例もある。ジェファーソン高校による学生同士の恋愛(肉体)関係ネットワークの事例は、やはりそうとうインパクトがあるからか、ちょいちょいあちこちで引用される)、本書のベースにあるのは、人が社会ネットワークを形成する上でどうしても働いてしまう「同類性」と「分極化」という力学だ。同類性というのは「似た者同士」。分極化というのは「お互いに疎遠になる」ということ。つまり「似た者同士」がつながりやすく、異質なもの同士は疎遠になりやすい、ということである。
 アメリカ大統領選挙に象徴された「分断」なんてのはまさにこれである。そういう意味では、「同類性」と「分極化」は今日的キーワードともいえるが、本書を読むと、SNS等とは関係なく、これらは古来から人間社会が持つ普遍的な性質なのだというのがよくわかる。だからこそ新約聖書には「富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られる」なんて書かれているし(俗に「マタイ効果」と呼ばれる)、まわりの大多数に影響されて意見が相転移していく現象に対しては昔から「朱に交われば赤くなる」なんて諺が存在してきたのだ。
 人は似たような見た目、似たような経歴、似たような考えを持つ人同士で群れたがり、異質なものとは遠ざかろうとする。これは古来からDNAとして刻み込まれた生物的本能なのであろう。ということは、多様性の確保というのは本能に逆らう行為とも言える。努力と覚悟がないとできないのだ
 
 
 「似た考えの者同士がつながりやすい」という指摘は、言わば神の視点での観察である。我々がここから学ばなければならないのは、では自分はいったいどこからその「考え」をもらったかということだ。
 人は、社会に生きる本能として、まわりの人がどういう言動をとっているかという状況を見ながら判断する。ひづめがあってほっそりした四本足の動物がいる。自分以外の大勢があの動物は馬だと主張していたら、自分もあれは馬なのだろうと信じやすくなる。もしかしたら鹿なんじゃないかと思ったとしても、あまりにもまわりが馬だ馬だとなれば、なかなか鹿と断言するまでの自信は持ちにくい。「馬鹿」という言葉の語源もここに由来する。
 
 ところがここに落とし穴がある。本当に自分以外の人はみんな心底あれは馬であると納得し、他人に証明できるのかとなれば、必ずしもそんなことはなかったりする。ここにネットワーク効果のいたずらがあるのだ。要するに「他の人があれを馬というから、自分も馬と思った」に過ぎないのである。
 あの動物は馬だという情報を最初に発した人は何人くらいいたのか。これが必ずしも多数者ではないことは往々にしてある。しかし、あの人がそういうのなら馬なのだろう、という連鎖が連鎖をよんで、「あの動物は馬」というのが常識のように見えてくる。当初は馬という意見と鹿という意見は少数者同士のほぼ拮抗で、それ以外の人はどちらの意見も持たなかったのだが(もしかしたら鹿という意見のほうがちょっと多かったかもしれない)、ちょっとしたゆらぎの違いでその後の増幅効果に差がついてしまい、あたかも馬以外にありえないように膨らんでしまうことが多いのである。
 
 本書では、この少数者の情報のはずだったものがいつのまにか主流意見のようにしてあなたの耳に届くようになる現象について「ダブルカウンティング現象」とか「エコー現象」として説明している。
 ダブルカウンティング現象というのは、あなたが2人から「あれは馬だね」と同じ意見をきいたとき、まるで2人がその意見を持っているように思うが、実はその2人は共通のとある知人である(仮にKさんとする)からもらった意見を語っているにすぎない場合を指す。つまり、本当はKさんただ一人が「あれは馬だ」という意見なのに、Kさんが2人に伝え、その2人が別々にあなたに「あれは馬だよ」と伝えたためにあたかも主流の意見に見えるということだ。
 エコー現象というのは、あなたが「あれは馬なんじゃないかな」という意見をLさんに話し、LさんがそれをMさんとNさんに話し、MさんとNさんがあなたににあの動物は馬ですね」という意見を伝えてくる現象だ。あたかもあなたは自分の意見「あの動物は馬である」というのは同意見者が多くて正しかったように錯覚する現象だ。実際は、あなたの意見がただ戻ってきたにすぎない。
 フィルターバブルやチェンバーエコーという現象は、こういう力学がSNSという非常にネットワーク性を発揮しやすいプラットフォームによって先鋭化したものである。
 
 こういったネットワーク効果による情報価値の肥大化に踊らされないようにするには、逆説的だがよりネットワークをまめに張り巡らせることだ、というのが本書の主張である。
 重要なのはネットワークの張り方だ。その要諦は「異質なもの」と相互ネットワークするということだ。これが同類性と分極化に端を発するダブルカウンティングやエコーを防ぐことになる。
 そもそも、社会の秩序とか持続可能性という観点からいうと、同類性と分極化を突き進むことはリスクなのである。本書では、孤立主義が戦争を引き起こしやすいということを証明しているし、有名な心理実験であるスタンフォード監獄実験は、同類性と分極化が人の心理と行動に何を与えるかを顕かにしたものともいえる。アメリカの「分断」はまさに社会不安や騒動を招いている
 反対から言えば、ガバナンスが良くなかったり不安がある社会は同類性と分極化が進んでいるということでもある。
 施政者があえてそのようなネットワークを築いている場合もあり、これは独裁の温床となる。本書で紹介されているメディチ家のネットワークの作り方は、メディチ家をハブとし、情報ノードをスポークのように伸ばしたものだった。すべての家系はメディチ家とつながっていたが、メディティ家以外の家系が横同士につながらないように巧みにコントロールした。メディチ家にとってはこれが繁栄の基礎になったが、それ以外の家系にとってはメディチ家の独走に抗うことができなかった。
 
 したがって、自分に影響を与えそうなコミュニティ、情報ソース、いつも自分がチェックしているSNSやインフルエンサーをいまいちど点検したほうがよい。それが「似た者同士(組織・年齢・地域・コミュニティなど)」ならば、あなたにくる情報はダブルカウンティングやエコーによって肥大化されていることを疑ったほうがよい。そして自分とは異質な人々とのつながりを意識して確保したほうがよいだろう。ハブとノードによる情報支配の一形態にパノプティコン型と呼ばれるガバナンス体制があるが、これに対抗するには横同士の情報共有が不可欠である

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