異文化理解力 相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養
エリン・メイヤー 訳:樋口武志
英知出版
この本は、刊行当時に一度このブログで取り上げている。したがって二度目の投稿ということになる。
先日「論理的思考とは何か」を読んでみて内容に類似性を感じたので、改めてもう一度読みたくなったのである。この本はサブタイトルがやや扇情的なビジネス本を装っていてチープな感じがあるが、実はけっこうよくできているというかいろいろ目ウロコ腹落ちの本なのである。
「論理的思考とは何か」では、アメリカ・フランス・イラン・日本における学校での作文指導から、その国ならではの「論理的思考」というものを各国比較しつつ分析していた。そこにはアメリカ的経済合理性、フランス的哲学の逡巡、イラン的アラーの思し召し、日本的道徳主義があって、これらが各国の「論理的思考」のベースとなっていた。
本書「異文化理解力」はビジネスシーンに注目した各国のそれぞれの傾向と対策だ。グローバルビジネスが盛んな今日において、取引相手だったり社内のグループ内が多国籍になることはさほど珍しくはない。しかし、そうなってくると自国のやり方がいつも通用するとは限らない。ビジネスシーンにおける判断や解釈において、国ごとの違いがある。オランダ人としてよかれと思ってやったことがアメリカ人の相手には侮辱として受け止められたれたり、中国人が非常に気を使ってきたことが実はフランス人の相手になんの意味もないものだったり。
それらのビジネスコミュニケーションのすれ違いには、おおもとに国ごとの文化がある。その意味では「異文化理解力」と「論理的思考とは何か」は根拠を同一するものだと言ってよい。
本書を読んでまずびっくりし、そしてやはりそうだったのかと思うのは、日本という国は諸外国の中でもかなりエキセントリックなのだということだ。会議での意思決定の仕方も、仕事のフィードバックを部下にするときでも、アポの時間の約束の守り方にしても、日本人が「これが良いやり方」と信じてやっていることは諸外国の中でもそうとう「程度」が振り切れている。たとえば会議で誰かが発言した際に、その反論がどのくらい活発に出るかという点でみると、オランダやフランスはかなり活発に反論が上がる。それよりはイギリスやアメリカのほうが大人しい。しかしもっと大人しいのは中国や韓国である。ただし、中国では司会進行役とか上役の人がその人に発言を促せば反論を言うことはやぶさかではない。インドもそうである。で、著者の見立てでは日本がもっとも反論が出ない。そして誰かが彼に発言を促しても、日本人は「その場で求められた発言をする」というのである。つまり予定調和なのである。
我々の肌感覚からすれば、中国やインドのほうがエキセントリックに思えてしまうかもしれないが、さにあらず。本書のカルチャーマップによれば、かなりの項目において日本はほぼ最右翼ないし最左翼に位置づけられる。
言葉で説明するより、グラフを見るのが一目瞭然なので、ここで「異文化理解力 カルチャーマップ 」のGoogle画像検索の結果をリンクしてみる。
我々の先入観や偏見も手伝えば、中国やインドが日本よりもグローバルビジネスのマナーにおいて中庸に近いところにあるのは意外だが、これは2つ仮説が考えらえる。
ひとつはグローバルビジネスに携わっている中国人やインド人は、言わば選抜されたエリート人材なので、同国の平均水準よりもずっとグローバルで渡り合うための教育と教養を身につけて洗練されているからという仮説。反対に言えば、日本のビジネスマンはグローバルでの立ち振る舞いについてナーチャリングが未熟な人でも、どんどん現場に放り込まれているということなのかもしれない。
もうひとつの仮説は、グローバルビジネスチャンスがやはり日本よりもインドや中国のほうに多く訪れているのだ、ということである。現場機会が増えればそのぶんビジネスの実践知はついてくるだろう。グローバル各地に支店やスタッフを展開するような大資本企業は、やはり日本よりもインドや中国に投資するのだ(※この本の刊行は2015年である)。
どちらにせよ、ビジネスシーンにおいて日本の立ち振る舞いは辺境のそれなのだな(少なくともそう扱われちゃっているのは事実なんだな)ということは知っておいたほうがよさそうだ。敵を知り己を知れば百戦危うからず。
もっとも、誤解してはいけないのはどちらかが優れていてどちらかが劣っている、というわけではないことである。日本のグローバルでのビジネスマナーは確かにエキセントリックだが、それが悪いというわけではない。そのことを踏まえた上でコミュニケーションをチューニングすればよい。相手も何国人であれ、日本とビジネスをしたいのならばそこは斟酌してくれるだろう。
僕自身はあいもかわらずのまったくドメスティックであって、日本資本の会社に勤め、部下も全員日本人で、クライアントも日本の会社である。なので本書で得た知見を活用してグローバルバリバリでやるようなことはないのであるが、とはいえ本書の情報を文化人類学的にとらえれば、わが身のチューニングとしてたいへん役に立つ。
たとえば、本書を読んでの最大の収穫は「大文字の決断・小文字の決断」というものであった。 「大文字の決断」というのは、決断をするまでに議論や検討で十分に時間がかかり、そして一度決断されたものはもう覆らない。というものである。「決断」とは重たいものなのだ。北欧やドイツやオランダといった北海に面したヨーロッパ国にこれは顕著だそうだ。
一方で「小文字の決断」というのは充分な検討時間をとらずにどんどん決断してしまう。しかし、決断された内容はその後も簡単に覆ったり変更したりされる、というものだ、アメリカがその代表だがロシアや中国はアメリカ以上にその傾向が強いそうである。トランプ大統領とかプーチン大統領があんなにスパスパと大事なことを(しかもツッコミどころありまくりなのに)発表しちゃって大丈夫なのか、とか思っちゃうが彼らはその後に決断を変更することになんのためらいもないらしい。なんだか無責任だなあと思いたくなるが、この「小文字の決断」派の国々の言い分は、事態は時々刻々と変化していくのであり、決断のために延々と検討している間に、議論の前提自体が変化していって、ようやく決断したときはもうまったく違う状況になっちゃっていることはよくあるし、しかもその決断内容は変えられない、なんてのは馬鹿げているということなのである。だから、アメリカやロシアや中国の人は、えらい人が何か決断しても、どうせまたすぐ変わるよ、というところまでが織り込み済みになっている。ただどんどん決断して実行面に移していかないと話が先に進まないから「小文字の決断」でいいのだ。
「大文字の決断」がドイツやオランダなど北海に面した国に多いと書いたが、実はもっとも「大文字の決断」文化を持っている国は、著者の見立てだと日本だそうである(ここでもエキセントリックなのだ)。日本は、決断までに非常に長い時間を要し、そして一度決まった決断はもう覆らない、というところが特徴的なのだそうだ。リニア新幹線を含む全国整備新幹線計画とか見ていると本当にそうだなあと思うけれど、どこかに「一度決断した内容をひっくり返すのは美しくない」という美意識を持っているのは確かだ。朝令暮改という慣用句だってある。
僕も立場上、何かの決断を迫られることがあって、うんうん考えてあーでもないこーでもないと逡巡したあげく、ようやくえいやと決めてしまうことがある。そして決めてしまったものはもう後戻りできない、と思ってしまう。
が、本書を読んで、それは狭視野的であったことを知ったのである。どんどん即決で決断して、そして新しい情報が加わったり、状況が変われば、また新たな決断をしていけばいいのである。これは僕にとってはなはだ精神衛生的に良い効果を生んだ。
また、この人はずいぶん無礼な物言いするなとか、あの人はずいぶん慎重だなと思うことがあっても、それが彼の人徳や品位とは関係がないのだということも本書で学べたことである。わざと無礼なのではなく、彼はフレンドリーさを示したかったのかもしれない。慎重なのは、ていねいさを大事にしていたからかもしれない。もし彼がこのやり方で、少なくとも今までのビジネス人生でなんの破綻も支障もなくやってこれたのだとすれば、それではそれでひとつのやり方だったのであり、彼からみれば僕はむしろよそよそしくて、しかも拙速な人に思われた可能性もあるということだ。
本書を読んで、違う流儀の人がやってきても、ああこの人はこういう文化の人なんだなと一拍置けるようになったのは大きな収穫である。