神無き月十番目の夜
飯嶋和一
今回は旧作をとりあげている。
今年はひさしぶりに飯嶋和一の新刊「狗賓童子の島」が出た。
なにしろ飯嶋和一という人は寡作として有名で、デビューして四半世紀になるが、作品が単行本で新刊含めて7冊しかなく、そのすべてが傑作と言われている。
新聞広告で飯嶋和一新刊の報をみて、そういえばとずいぶん気になっていながら僕がよんでいなかったのが本書「神無き月十番目の夜」である。
最初の数ページは読んでいたのだが、その後引っ越しのどさくさで本を見失い、そのままにしていた。先日kindleでおとせることを知ってダウンロードしたのである。
江戸時代初期に実際にあったとされるいまは茨城県、かつて常陸の国のとある村でおきた老若男女村民全員虐殺事件が題材になっている。とはいえ、資料は乏しく、不確かなものばかりで、それを著者の丹念な調べと、たぐいまれな想像力、そしてストーリーテーリングで、この事件をあたかもドキュメンタリーのごとくせまっている。
あらすじをごく簡単に言ってしまえば、戦国時代に、常陸の国の小生瀬村という、北と藩境を接するために軍役を担っていた村が、平和な江戸時代となって旧領主が移封されて退き、徳川の直轄地になったことで、これまで軍役のために免除されていた年貢を負うことになってしまい、村人がそれに対して蜂起し、そして徹底的に鎮圧されたという内容である。
書いてしまえばなんてことないけれど、これに至る村側や支配者側の様々な人間ドラマや、小さなほころびが取り返しのつかない大事件になっていく有様が圧巻であり、一方で当時の生活習慣や風俗をていねいに描いていたり、戦の光景も克明で、重厚な映画でもみているような気になる。
サスペンスとしても時代小説としても十分に面白いが、たまたま先ごろ「社内政治の教科書」なんて本を読んでしまったためか、僕はだんだんなんだかサラリーマン小説のような気になってきたのだった。と思ったのは、大量殺戮こそないけれど、こういうことは会社勤めでやはりあるよなあということなのである。
今まで現場と一緒に働いていたような管理職の人が遠くにやられ、まったくなじみのない人が新たな長となって経営層からつかわされてくるとか、現場は現場で自分のところの特殊事情は例外的に認められるんじゃないかとついつい期待してしまうとか。そして、現場からたたき上げであがった中間管理職の人が現場と経営の板挟みに苦しむとか。
とくに例外を認めさせたい現場と標準化を強行したい経営の衝突というのは永遠の課題である。まあ本書は年貢制度という百姓にとって迷惑千万なものでしかない圧政を描くので、どうしたって村側に同情的であり、施政者側は敵役であるから、村のほうに正義はあるように思うし、この村が持つ「例外」についても一理あるように思うが、だがしかし、施政者側、つまりマネジメント側からすれば「例外」というのは面倒なものである。グローバルスタンダードとは、例外なき標準化ということであるし、むしろ「例外」だらけの各所をどう標準化させるのかがそもそも行政というものである、とだって言えるのである。そしてそのギャップを埋めるにあたってはどうしても犠牲が払われる。
それから、冷静に対処しなければならない事態、理性を駆使して究極の均衡状態を保たなければならないときに、誰かが軽率な行いをしてそれをご破算にしてしまう、ということもよくある話である。当人は正義のつもりだったりするのだが、基本的にエゴイズムな行為で、それが綻びの発端となって、事態を悪くさせたりする。こういうのはなかなか防げない。
この小説は、圧政に敷かれそうになった小生瀬村の肝煎(村長みたいなもの)石橋藤九郎が、それでも生き抜くことが大事であるとして恭順の姿勢をとろうとしたにもかかわらず、一村人の軽率な行為からそれがわずかな綻びとなってあらわれる。うそを隠すためにまたうそをつき、発覚を恐れて殺人事件を起こし、またその真実を知るものを殺し、隠すものも隠せなくなって、藤九郎の意思とは関係なく、事態はどんどん悪くなってやがて破滅への道を進むことになる。
マネジメントの観点からみれば、どこかで折り返すことはできなかったか、後戻りできなくなったのはどこか、なども考えるが、ここでひとつ危険なのは人の「やっかみ」という感情だ。やっかみは自尊心を損ない、そして自尊心を得るために自ら余計なことをしてしまう。本人は正義のつもりで、はたから見ればとんでもないことをしでかす例は古今東西いくらでもあるが、やっかみを抱えている人はいつ爆弾になるとも限らない。
というわけで、飯嶋和一の作品にしては、人の暗い面、弱い面があらわになった小説であるともいえる。「始祖鳥記」とか「雷電本紀」とかのさわやか路線と真逆である。ではいよいよ「狗賓童子の島」も読んでみるかな。