読書の記録

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増補版 時刻表昭和史

2020年09月05日 | ノンフィクション
増補版 時刻表昭和史
 
宮脇俊三
角川書店
 
 このブログでは何度か書いているが、僕は宮脇俊三の著作にはかなりディープに接してきた。単行本に収録されたものなら少なくとも1度はすべて読んでいるはずである。
 
 氏の代表作といえばデビュー作の「時刻表20000キロ」(1978年)であり、「最長片道切符の旅」(1979年)であろう。氏を紹介する文章でもこの2つを取り上げられることが多い。
 
 しかし、2020年ともなる今日、日本の鉄道紀行記を代表するこの2作にもさすがに時代のホコリが被るようになってきた。
 それはそうだろう。そもそもこれらが書かれた時代はJRではなくて日本国有鉄道だった。執筆時には現役だった地方のローカル線はことごとく廃止されてしまったし、幹線級の在来線も並行する新幹線の開通で第3セクター経営に移行し、当時のような鉄道のありようとは異なった。著作では頻繁に登場する寝台特急も急行列車も現在では無くなってしまった。青函連絡船も無くなった。彼の旅行記の多くはもはや過去のとある一時代の記録となっていった。当時の鉄道事情や社会風俗を記録する貴重なものではあるが、やはりテーマがテーマなだけにどちらかというとその価値は珍本のそれとなりつつある。この2冊に限らず、彼の多くの著作も同様の運命をたどるように思える。
 
 そんな彼の著作のなかにあって「時刻表昭和史」だけは例外だ。日本の出版史として、あるいは文学史として殿堂入りしたといえる。とうめん全国の公立図書館からも無くならないだろう。この作品だけは執筆時から時代が経てば経つほどむしろその価値が高まっていくように思える。
 
 この「時刻表昭和史」も、他の著作同様「鉄道もの」ではある。
 「鉄道もの」の体ではあるが、旅行記でもなければエッセイでもない。もはや私小説、青春文学といってさしつかえない(本書の解説を書いている奥野健男氏は「ビルディングス・ロマン」と表現している)。
 「時刻表昭和史」は著者宮脇俊三の自叙伝である。昭和8年渋谷駅を舞台にした著者6才のころから始まり、小学生、中学生、高校生そして大学生に至るまでの時期のことを当時の鉄道事情を背景に描く。もちろんこの時代とは大日本帝国の時代であり、太平洋戦争の時代でもある。本書は、戦争の道に突き進む当時の日本を、多感な学生時代をおくった氏の物語なのである。特筆すべきは生前の忠犬ハチ公を目撃し、2.26事件の日は事件現場に近い青山の小学校で「今日は帰れ」と言われ、学徒動員にて三菱の工場で働き(敵性語である英語がまかり通っていたことが証言されている)、東京大空襲では自宅の庭に何本も焼夷弾が落ちたものの奇蹟的にいずれもが不発弾だったために焼失をまぬがれ、そして疎開先で玉音放送を聞く、という昭和史で必ず語られるこれらを生の体験記にしていることだ。
 この「時刻表昭和史」での主役は鉄道ではなく、著者自身の成長にある。ここで出てくる鉄道の情報は、その時代の情勢や雰囲気を伝える「小道具」として扱われる。しかし鉄道においては一角ある宮脇俊三氏だから、当時の記憶、その後の調べもきっちりしていて生半可なノンフィクション作家のものを寄せ付けない説得力がある。
 
 たとえば、昭和17年8月。真珠湾攻撃から8カ月が経ったころ、著者は父親と北海道を旅行する。こんな描写になる。
 
 ”函館発1時25分の稚内桟橋行急行1列車は、二等車でも空席がなかった。立っている人もいないのだが、空いた席もなかった。父と私は隣の二等寝台車へ行った。夜になって寝台がセットされるまでは一般の客でも寝台車に座ってよいことになっていたからである。私たちは午後7時55分着の札幌で下車する予定であった。
 窓を背にソファー・ベッドを並べたような昼間の二等寝台は、普通二等車に坐れなかった人たちがすでに流れこんでいて、ここも空席がなかった。(中略)
 特別室のなかには、きのう見かけた若い陸軍将校と、中年の少佐とが軍刀を股の間に立てて柄の上に肘を置き、ゆったりそ坐っていた。侵しがたい雰囲気であったが、父は容赦なく中に入って、「すこし詰めてください」と言った。寝台であるから四人までは坐れるのである。
「ここは特別室ですぞ」
と若い将校が言った。”
 
 すさまじい情報量であることがおわかりだろうか。「稚内桟橋」という駅が終点であること(樺太への連絡船に接続する)。急行列車に愛称がなく番号で呼ばれていること。等級車両があったこと。座席車と寝台車があること。席の坐り方のルール。窓に背を向けたソファのような座席があること。函館から札幌までは所要6時間半であること。特別室なるものがあること。そして特別室には軍人がいること。映画などでよくみる軍刀を構えた姿勢。そこに遠慮なく入る著者の父。それにこたえる軍人の態度。
 当時の鉄道に関する情報収集力と、著者の経験と記憶と、当時の空気の特徴を的確に描写する文章力があわさってこの文章はできあがる。全編こんな感じである。
 
 したがって、本書は「鉄道もの」ではあるけれど、メインテーマはこの時代の「わたし」であり、この時代の「日本」というものになる。鉄道は演出のための小道具なのだ。
 
 また、副主人公のように登場するのは著者の父、宮脇長吉だ。彼は政友会代議士であり、反戦を主張する立場だった。この父が没落していく様も痛々しい。当初は羽振りがよく、世界一周の洋行に出向いたりするが、軍国主義が強まるにしたがって軍部の横やりもあって旗色が悪くなり、ついには選挙に落選して失意に沈んでいく。思春期の宮脇少年はそんな父を観察している。このあたりの宮脇長吉の描写も今となっては貴重な記録であろう。
 
 太平洋戦争時の生活や雰囲気を伝える作品はたくさんある。悲劇的なものもあれば淡々としたものもある。そういった中で本書がとくに殿堂入りを果たしたのは、当時の時刻表(著者曰く「第一次資料」)をベースに、美化も歪曲もされずにエビデンスベースでプロットをつくることに成功していることと、なんといっても玉音放送をあつかったエピソードの特異さにあるだろう。このシーンは鉄道ものに限らずに様々なところで引用・言及されることになった。
 昭和20年8月15日。山形県にある米坂線というローカル線の今泉という駅で宮脇少年は父と一緒に玉音放送を聞くことになる。
 
 ”放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
 時は止っていたが汽車は走っていた。
 まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
 けれども、坂町行109列車は入ってきた。 ”
 
 ここで特筆されるのは、全てのものが停止したと回顧される8月15日の正午。実は汽車は動いていた、ということを証言する貴重な記録になっているからだ。茫然自失もせず、職場放棄もせず、機関士も助手も駅員も働いて鉄道はちゃんと動いていた。
 
 ”山々と樹々の優しさはどうだろう。重なり合い茂り合って、懸命に走る汽車を包んでいる。日本の国土があり、山があり、樹が茂り、川は流れ、そして父と私が乗った汽車は、まちがいなく走っていた。”
 
 圧巻なのはここの描写だ。すべてが止まったかのように回顧されるこの日を、蒸気機関車がダイヤ通りに走り、車窓を夏の緑が駆け抜けていく、この国破れて山河ありの情景は涙が出てくる。
 
 
 
 もともと「時刻表昭和史」は、この8月15日の章でもって完結していた。
 ところが後に著者はこんなことを書いている。
 
 昭和五四年秋、「時刻表昭和史」を書きはじめたときは、昭和二〇年八月一五日で終る予定ではなかった。昭和二二年か二三年まで書くつもりだった。(中略)
 ところが、昭和二〇年八月一五日の米坂線の章を書き終えたところで、重いものがストンと落ちてしまい、その先を書きつづける意欲が失せてしまった。やはり私は日本国民だったのだろう。
 
 この「やはり私は日本国民だったのだろう。」という記述は真に迫るものがある。
 しかし、著者のなかでわだかまりは続き、その17年後に戦後篇として5章が新規に書き下ろされて、昭和23年の章をもって完結とした。それが「増補版 時刻表昭和史」となる。
 
 戦後編を継ぎ足すことによって、本書はより著者の成長文学としての色合いを濃くすることになった。
 実際、昭和20年8月15日で終わる「時刻表昭和史」と、昭和22年まで続く「増補版時刻表昭和史」では、読後感がかなり違う。違う作品を読んだかのように味わいが異なる。
 前者を代表するのは、玉音放送があっても動き続ける鉄道とそこから車窓をみる宮脇少年の述懐だ。ここには壮大な感動といったものがある。ただし、これはたしかにドラマチックであるけれど、ここでの本の主役は「日本」であり、時代に翻弄された「鉄道」ということになるであろう。
 
 しかし一方で、この本は戦争中に精神形成期を経た自叙伝でもある。主役は「私」であって、「日本」や「鉄道」は舞台であり、後景であるにすぎない。
 そうすると「戦後編」で出てくる、著者のココロを支配する戦後初期の虚脱感・退廃感・やがて芽生える色気づく気持ちが重要になってくる。「増補版 時刻表昭和史」は宮脇俊三という一人の人間の少年期から青年期までを描く青春文学となる。あまりにもちっぽけなエピソードで終わる最終章最終部分の虚無感は形容しがたい。
 けれど、この突き放すような終わり方が、まさしく精神形成期の終わりなのだろう。ここから宮脇俊三は戦後日本人の「モーレツ」な大人の一人になっていく。(中央公論社に入社し、中公新書や婦人公論などを手掛けながら重役にまで上り詰める)。
 
 「時刻表昭和史」は玉音放送で終わる版をもって世に知られたし、そちらのほうが文学的価値が高いというか人口に膾炙されやすいと思う(もっとも初動はそれほど売れなかったらしい)。だけど僕は名シーンとされる玉音放送の章を途中にしてしまった「増補版」も捨てがたく思っている。「増補」部分は決して蛇足ではなく。成長文学として必要な個所である。どんなに時代や社会がうねりにうねっても、自己をはかるのは自分の中だけなのだ、という大切なメッセージが「増補版」にはある。
 
 

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