読書の記録

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超人ナイチンゲール

2024年01月14日 | ノンフィクション
超人ナイチンゲール
 
栗原康
医学書院
 
 
 世間一般的には、看護師は医者の助手である、という見られ方が多いと思う。医者のほうが看護師よりエライと思っている人はいっぱいいるはずだ。看護師に暴言をはくけど医者にはへこへこするモンスター患者の話題には事欠かない。
 
 しかし、それはとんでもない浅はかであって、医者と看護師は、性質を異にした等価な関係である。そもそものコンセプトが違うのだ。医者が行うのは治療(cue)ないしサイエンスであるのに対し、看護師の役割は「看護」すなわちケア(care)である。この二者は独立した価値を持っており、それがゆえに日本でも世界でも、医大と看護大は歴然と区別される。
 聖路加看護大学の学長であった日野原重明は、その最終講義にて、もう施しようがなくて医者が見捨てた患者も、看護師は絶対に見捨てず、その人生が全うするまで全力で相手をする。これこそが看護師の特権である、と学生に手向けの言葉を送った。
 
 看護という行為の価値を医療と同等に、看護師という地位を医者と同等に成し遂げたのがかのナイチンゲールである。ナースコールも食事配膳用エレベーターもみんなナイチンゲールによって実現したものだ。本書はそのナイチンゲールの生涯と業績をアナーキズムの観点からひも解いている。なぜアナーキズムなのか。僕はまったく知らなかったが著者がその方面の人らしい。文体はかなりアナーキーだ。
 
 アナーキズムのアンチテーゼは「国家」である。よって、ナイチンゲールの業績をアナーキズムで照射するということは、おのずとその対立軸は国家ということになる。現に、ナイチンゲールは母国イギリス政府やイギリス階級社会の前例主義・形式主義・条文主義・教条主義に反旗を翻し、徹底抗戦していった。ナイチンゲールのことを戦場の天使と形容されるが、天使というにはあまりにもマッチョであった。著者の言い方によれば、彼女の提唱する「ケア」はアナーキズムだったのである。すなわち「国家」のテーゼとは何から何まで相反するものであった。
 
 要するにこういうことである。「国家」というのは行政基盤を敷いて民衆をいかにマネジメントするかに腐心する。そのためには平準化と合理性が求められる。民がそれぞれの判断で勝手なことをしていては秩序が保てないし、いちいち個別の事情を汲んでいては一つの国と言えないからだ。そこで憲法とか条例とか制度とか刑法が登場する。これをしなければならない、これをしてはならない、これはこう使え、これをするのはこれになってから、これをやった人はこれとみなす。などなどの線引きを行う。お酒は20才になってから。燃えないゴミを出すのは木曜日。給付金をもらえるのは子供が3人から。こういった線引きのために基準や尺度が生まれる。メートル法もグリニッジ標準時制もみんな共通の基準をもってそこから判断や取捨選択をしていくためなのである。徴税の計算根拠・徴兵の基準はこれらをもとに行われた。国家とは、計測をしたりイエスorノーで区別する仕組みの上に成り立っているといってよいだろう
 
 だが、それでは「ケア」はできないのだ、というのが著者を通じてのナイチンゲールの看護観である。相手が何歳だろうが、どこの国籍だろうが。性別がなんであろうが、経済事情がどうであろうが、社会ステイタスがどうであろうが、敵だろうが味方であろうが、聖人だろうが無礼者であろうが、わけがあろうがなかろうが、目の前に助けを求めている人がいるならば、苦しんでいる人がいるならば、死にかけている人がいるならば、問答無用でケアする。ケアとは無限抱擁なのである。ケアとはとにかく「見捨てない」ことが原則なのだ。区別と排他がつきまとう「国家」とは相いれない。
 
 ナイチンゲールが看護というものに底無しに没入した(仲間が何人も過労死するレベル)ことの背景に、彼女の神秘主義があったと本書では述べている。クリミア戦争に赴いたときは、全長6キロにわたる病棟をカンデラを手に毎晩患者を見舞いに歩いたとか、国の供出費では追い付かないのでポケットマネーで日本円にして億円単位の出費を賄ったとか、病棟の設計や看護学校の設立までやってのけてそれは現代でも通用するとか超人めいたエピソードは事欠かないが、その理屈抜きの猪突猛進は、彼女が天の啓示を受けたという神秘体験にあったとする。天の啓示によって確信したミッション、即ち天職(calling)なのだから、その動きをけん制する諸制度諸習慣諸判断はすべて抵抗勢力なのであった。天職の原語はcallingというんですね。
 
 彼女の場合、すべてをなぎ倒してその決意を実行するだけの超人的な肝っ玉があったわけだが、もちろん精神力だけではなくて、彼女の実家が気が遠くなるほどの金持ちであったことと、そこに由来する上流社交界も功を奏している。むしろ我々人類にとってまことに幸運だったのは、ナイチンゲールにすさまじき資金と人脈があったということ、そういったリソースを惜しげもなく看護というまだ得体の知れないものに投入してくれる人だった、ということだろう。なにしろナイチンゲールの姉や母はそういうことに一切関心がなかったようなのだ。
 
 
 本書では彼女の革新的かつアナーキーな思考傾向を神秘体験による天職観が後押ししたとしていて、何かが憑依した超人としてのナイチンゲールにスポットライトをあてている。一方で統計学を駆使したり、組織行動学を理路整然と語りだすところなどは極めてラジカルだし、案外に策士的な行動や意思決定も多く、単なる取り憑かれたシャーマンではなく、なにか非常に現代に通じる思考フレームを身につけていると僕は思っている。
 
 ナイチンゲールといえば「看護覚書き」である。世界中の看護学生が必ず読まされるバイブルだ。本書ではあまり語られていないが、これによるとケアに必要なのは「知・心・技」すなわち「症状に関心を持つこと」「患者の気持ちに寄り添うこと」「看護の技術を身に付けること」の3要素であった。また、患者の回復力をはかるには「食事」「清潔」「換気」が必要であるとした。ほかにも、看護師が育つには「病院(現場)」と「寄宿舎」と「学校」の3つがいる、などと主張している。
 ナイチンゲールはこのように、三位一体論で話を組み立てることが多い印象がある。三要素の掛け算で理想を実現するのだ。AかBか、是か非かといった西洋論理にありがちな二元論が持つ陥穽こそがケアの大敵であったことを見抜いていたのかもしれない。
 
 
 
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