読書の記録

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現代アメリカ政治とメディア

2019年11月09日 | 政治・公共

現代アメリカ政治とメディア

前島和弘・山脇岳志・津山恵子
東洋経済新報社

 「フェイクニュース」や「ポスト真実」というものに興味を持ったのはもともと「140字の戦争」という本を読んだからなのだが、そうなってくるといよいよ来年に米大統領選をひかえるトランプ大統領に関心がいく。そもそもトランプ大統領を輩出してしまったアメリカの事情というのもまた気になるところだ。アメリカが抱える矛盾やうっ憤&メディアやデジタルテクノロジー技術の向上&トランプの個人的資質といったものが複合的に掛け算されて現在の状況に至ったと言える。ということは来年の大統領選はますます拍車がかかりそうだ。前回の大統領選ではロシアの介入疑惑がささやかれているが、今度は習近平国家主席率いる中国もなにかしら工作してくるんじゃないかという気もする。テクノロジーの進展はさらに突き進んでいる。

 トランプ支持者が主張する「公正中立を掲げる報道メディアそのものが中道というよりはリベラル寄り」という指摘は確かにその通りかもしれない。本書の指摘ではニューヨークタイムズもBBCもハフィントンポストもワシントンポストもMSNBCもCNNも「左側」なのである。「右側」なのはFOXだけである。「中道」というのは大衆のイデオロギー気分の平均値のことを指すのか、超絶的に絶対的基準として存在するものなのかも議論だろう。後者だとすれば、じゃあだれがその基準を判断するのかという問題になる。

 我々はどうやって世の中の「真実」を知りえるかといえば、それはメディアを通じて(SNSもメディアである)ということになるが、メディア自体が中道の座標点に存在しえない以上、「真実」は常に相対的なものにならざるを得ない。本書によればかつてのアメリカには報道メディアに対して中道として自制するための法規制があったのだが(一方の陣営へのメディア露出があれば反対陣営の露出時間も同じだけ確保しなければならないなど)、時代が進むにつれてどんどん緩和されていく方向にある。この規制緩和が資本主義や利益至上主義を呼び込む。より人々の関心を感情レベルで誘い込み、囲い込むメディアになっていく。そして人々の間で「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」によってその人なりの「真実」が定着していく。

 アメリカでは政治家の発言が嘘か本当かをチェックするNPOがあるそうだ。その結果が本書にも紹介されている。嘘にもいろいろなレベルがあって「誇張」とか「あえて歪曲した解釈」とか「真っ赤なウソ」とかあるのだが、トランプの「嘘」の量はやはり他の政治家を抜きん出でているらしい。
 ただし、このデータからは他の政治家ーーオバマにもヒラリーにも多かれ少なかれ「嘘」の発言があったことを示している。道義的にはこういうのは昔から「五十歩百歩」という言い方がある。
 つまり、政治家の発言は「嘘」があるのだ。そんなことは百も承知であろう。我が日本の政治家の発言だって「嘘」ばかりだ。

 もちろんこういった問題は、良識ある人々は百も承知で、だからこそ事実チェックのNPOやAI技術開発に取り組まれたり、真のジャーナリズムを目指した組織がつくられたりする。
 ただし、それさえも「真実」かどうかはわからない。個別の小さな「嘘」は見抜けるかもしれないが、こういった事実チェックの動機そのものが、右なら左から、左なら右からのけん制行為であることがほとんどである(そのことは本書でも指摘されている)。右も左も関係ない。とにかく事実だけを明らかにするのだ、というのは本当に可能なのだろうか。また、それを実現できたとして、そこにあらわれる世の中とはどんな世の中なのだろうか。これはもはや思考実験の域である。

 

 こういった観点とは別に、あらためて考えてみると、人間というのは「嘘」をつく動物である。最初の人類であるアダムもイブも、その長男であるカインも嘘をついたではないか。
 これは心の底の底のほうでは「真実なんてどうでもいい」という人間の生来的な心理なのではないかと思う。大事なのは真実ではなく、真実はこれということにしておこうやというみんなの「握り」である。社会はそれでできている。サピエンス全史ではこれを「虚構」とか「物語」と表わしている。

 したがって、かつての時代も「フェイクニュース」や「ポスト真実」はあったのだと思う。程度の差はあっても「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」という現象は起こっていた。いわばこれは人間の本性であり、人間社会の必然ともいえるのである。たとえば本書は東洋経済からの出版だが執筆陣は朝日新聞関係者が多い。つまり、本書さえも、朝日新聞社そして新聞というメディアのバイアスが蓋然性として存在することになる。完全に無色透明な中立という「真実」は存在しえないという哲学的な問題もまた明らかである。良識派の本音は、たんに肥大化してきた今日の状況をせめてもう少し前の穏当な頃に戻したい、というところだろう。
 するとそれは「事実チェック」を徹底すればいいという問題ではないのだと思う。あえてヒントになりそうなのはスマートニュースがやろうとしているような、イデオロギーの強制的な交流(混戦)かもしれない。しかしこれとて対処療法という気もする。あとは右左を飲み込む「大イデオロギー」(むかしは「大きな物語」と言っていた。けっきょくこれだってフェイクニュースなのである)」の出現かもしれない。

 

 そもそも、真実を追求する態度、すなわち科学的態度は、安直に逃げる人間の反省から始まっているとも言える。「真実なんてどうでもいい」というイージーモードからあえて自らを律し、真実を追求しなければならないのだといばらの道を選ぶことが近代的人間の態度となった。科学的態度を突き進むこそが真に平和で幸福な人間社会を招来すると信じて疑わなかった。

 しかし、科学的態度による真実の追及こそが理想的な社会に至らしめるのだという進歩史観そのものがもはや色あせつつある。ここにきてトランプのような大統領が出現するアメリカを進歩史上の「退化」とみなすこともできるが、アメリカに限った話ではない。あれだけ経済が発展しながらもいっこうに民主化する気配をみせない中国、破壊と殺戮の歴史の果てに平和的団結を見せたEUからのイギリスの離脱、世俗化から離れていくトルコ、一党独裁化して不都合なものにはどんどん蓋をされていく日本などみていると、進歩史なんてものがそもそもなかったんだと言いたくなる。「真実なんてどうでもいい」人間の本性はむしろ顕わになってきている。これまで「真理の追及」によって抑制された分、暴発してきたように思う。

 僕個人の考えとしては「フェイクニュース」も「ポスト真実」も、むろん大歓迎などではなく多いに問題ありと思っているが、世の常・歴史の必然として必要悪的に存在してきたとも思っている。嘘をただすだけではなく、嘘は嘘としてこういった情報時代におけるサバイバルの仕方は何かというのを考えるのがいよいよ大事であろう。


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