読書の記録

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情報パンデミック あなたを惑わすものの正体

2022年12月04日 | ノンフィクション

情報パンデミック あなたを惑わすものの正体

読売新聞大阪支社社会部
中央公論新社


 実は僕、フェイクニュースとかデマとか陰謀論とかに興味がある。
 といってもそういった世界に耽溺するのが好きなのではなくて、人はなぜフェイクニュースとかデマとか陰謀論に惹かれるのか、というメタ目線での興味である。このブログでも過去にいくつかこのテーマの本を掲げている。

 
140字の戦争 SNSが戦場を変えた
フェイクニュースの生態系

 近似する内容としてはここらあたりも含むだろうか。

現代アメリカ政治とメディア
群集心理
輿論と世論 日本的民意の系譜学
ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学
つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

 これらの本を読んで思うのは、ありていに言えば「人は信じたいものを信じる」という脳の本能がある、ということだ。これがベースである。したがって「信じる情報」がたくさんその人に入ってくれば入るほど、「信じる情報」に長い時間接すれば接するほど、その信念はより強固となり、さらなる信じたい情報を呼び込むことになる。このプロセスは極めて排他的であって、「信じたくない情報」は回避し、拒絶し、否定するようになる。時間が経てば経つほど「信じたい情報」が蓄積され、これに反する「信じたくない情報」の拒絶度合いは大きくなる。
 ところがこの過程において、その情報の「程度」というものは、最初のうちは穏当なものなのだが、それを信じて次々と情報をとりこんでいるうち、いつのまにか自分がとりくんでいる情報は穏当どころか、極めて過激で極端なものになっている。しかし本人はそのことに気づかない。どこか、摂取しているうちにだんだんニコチン濃度やアルコール濃度が高まっていく嗜好品に似ている。
 やがて、その人は並の状態ならば思いもよらぬような、極めてエキセントリックな信念に囚われているようなことになる。もちろん当人はそのことに気が付かない。ここに至る過程において、意に反する情報や価値観は排他させられていくから(しかも長じるほどちょっとした差異も受け入れがたくなる)、しばらく時間が経った段階では、彼に蓄積された情報とそれによって形成された信念は、世の平均的思考からは大きく距離が離れたところにいることになる。
 もちろん、現実の生活を、世間一般のレギュレーションで送っている限り、そこまで濃度高い情報にまみれてしまうことはないだろう。この世の中には多様かつ浅い情報がわんさか流通していて、我々はそれらに刹那的に接しながら日々送っているだけである。

 ところが、同じような考えをもつ人間だけと閉鎖的に過ごしたり、同じような中身の情報交換ばかりしているとスパイラル的にこの罠にはまることになる。たとえば、往年の学生運動のセクトがそれにあたる。観念の暴走とまで呼ばれたそれら濃縮された信念はちょっとした差異も許さず、やがて内ゲバが横行することになった。
 近年話題のカルト宗教も、この性質がある。同じ信念を持つ信者の共同生活と外の世界との隔絶が、当初は信じていた情報は穏当なものだったのに、やがて他人から見ればとんでもない情報までを「信じる」ようになっていく。


 とはいえ、あくまで一般に平穏に、常識的な人たちとつきあっていく平凡な生活である限り、そんな情報の麻薬めいた作用に溺れるリスクはない。いや、これまでの時代ならばそんな機会はなかなかなかったのである。これがそうもいかなくなったのがここ数年なのだ。大きな理由は3つある。

 ひとつめの理由はインターネットの世界における技術革新である。フィルターバブルやチェンバーエコーという用語はかなり一般化されるようになった。つまり、ネットで気になる情報を探していると、ネットがもつテクノロジーによって「気になる情報」だけが次々と手元に集まって読めるようになり、「気にならない情報」はどんどん視覚から遠ざかっていくのである。ニュースアプリに掲げられる情報は、自分が気になる情報だらけになる。
 たとえばいま僕のニュースアプリの画面には東京五輪をめぐるゴシップ記事が次々と現れるようになってしまった。興味本位でいくつか読んでみたら、こいつはこのテーマに興味があるとアルゴリズムに判断されてそれ以降、毎日のように高橋某とか電通とかが写真付きで連なるようになった。
 いっぽうで、僕はサッカーにまったく関心がなく、ドイツ戦もスペイン戦もいっさいテレビ視聴をしなかったクチである、もちろんネットの記事もクリックして見たりはしない。すると、あれほど国民の関心一般を巻き込んでいるかのような出来事でも、僕のニュースアプリ上にはいっさいサッカー関係の記事は出てこなくなってしまった。はじめから無いかのようである。
 げに恐ろしきは、フィルターバブルとチェンバーエコーである。サッカー勝ったんだよ、すごいことなんだよ、と言ってくれる家族や友人知人がいることを幸せと思わなければならない。

 ふたつめの理由として、このようなネット環境においては、「いかに注目されるか」がネットビジネスにおいて最重要になってきたということである。これをアテンションエコノミーという。要するに注目されればされるほど稼げるということだ。バナーやアファリエイトならばクリック数、動画ならば再生数。業者から支払われる報酬は単純にクリック数や再生数と単価の掛け算である。ということはなるべく煽情的なもののほうが注目されやすくなる。正確だけどつまらない情報より、少々根拠が怪しくても血沸き肉躍る情報のほうがアテンションを稼ぐことができる。隣があんな言い方で注目を集めているのならば、こっちはこんな言い方でもっとビュー数を稼いでやる。こうやって語り口はどんどん過激になっていく。

 このようなからくりがあるから、ネットで「信じたい情報」を探す癖がある人は本当に気をつけなければならない。ニュースアプリならばまだテキスト情報だが、さらにやっかいなのがYouTubeをはじめとする動画だ。動画はテキスト以上に情感に訴えて情報を送り届ける。つまり説得力抜群になる。気になったユーチューバーのご高説を最後まで聞いてしまうと、「おすすめ」欄に次々とそのユーチューバーの他のコンテンツが表れてくる。たぐりよせてみているうちに、冒頭に述べたような状況にとらわれてしまうことになる。オンラインセミナーなんかで人気のユーチューバーのカルト的な支持をみるとむべなるかなと思う。

 しかしそういうのにはまっていくのは、一部の特殊な状況に置かれた人の場合ではないか。なにか信じたい情報を探したいというよすがを求める人の話ではないか。「信じたい情報を探す」という動機がなければそんなものに捕まらないように思える。そんなに自分のアイデンティティを脅かすような「信じたい情報を探す」ことがそう発生するだろうか。

 それがもうひとつの理由だ。昨今になってフェイクニュースやデマや陰謀論が盛んになった背景、いうまでもなく「コロナ」である。
 そもそもデマは、社会情勢が不穏なときに発生しやすいとされてきた。戦争や天災は代表例である。コロナもそうだ。
 コロナによって不条理にも、不安な状況に陥ってしまった人はたくさんいる。休業を強いられた飲食店業の人、業績悪化にともなって解雇された人、交友関係が途切れてしまった人、痛いワクチンをややこしい手続きはらって撃たなければならなくなった人、不快でめんどうくさいマスクをしなければならなくなった人。自分には何の落ち度もないのになぜこんな不条理な状況に追い込まれてしまったのか。のうのうとしている人だってたくさんいるのになぜ自分だけが。
 この「なぜ自分だけが」という明日への不安と社会不信が理由をもとめて「信じたい情報」を探す。そうすると、そこに自分の疑問に答えてくれる言説が待ち構えている。「ワクチンは危険だからうってはいけない」「コロナは陰謀であってそんなものは存在しない」「マスクに意味はない」。そうだそうだ。情報をたぐりよせてみていくうちに自分の置かれた不条理に理由をつけてくれるおすすめ動画が次々と紹介される。SNSにいけば、同じような考えの同志がたくさんいるではないか。自分だけではない。やがて、間違っているのは世の中のほうと確信していく。この自分に意見する奴は敵に見えてくる。思想の異なるものは滅しなければならない。この衝動もまた古来から人間が持つ本能だ。

 本書を読むと、フェイクニュースにのめりこんだり、陰謀論を固く信じ込む人の特徴として「マスメディアの情報はウソばかりで、ネットの情報こそが真実だ」と思っている人が次々出てくる。本書自身が読売新聞社の記者の手によるものだし、出版社も大手出版社なので、マスメディア側のバイアスがかかっていることには注意しなければならないが、「マスメディアは真実を語らない。ネットは真実を語る」という見立てが横行しているのは興味深い。むしろ校正・校閲・ファクトチェックをネットのほうがマスメディアよりも行っているとはどうも考えにくい(わざわざやらなければならないインセンティブがない)。せいぜいが「ネットもマスメディアも、情報のいい加減度はどっこいどっこい」なんじゃないのかな、なんて思う。そもそも事実と現実と真実の境は曖昧なものかもしれないなんて気もしている。

 それにしても驚く。本書を読むと、陰謀論に動かされたのはコロナ前は本当にただの平凡な主婦や学生や会社員である。それが家族とも従来の友人とも断絶してしまい、同じ信念を持つ仲間と徒党を組み、街をシュプレヒコールし、ビラ紙を無差別に投函し、あまつさえワクチン接種会場に乗り込んだり、市役所に矢継ぎ早にクレームの電話をかけるようになる。陰謀論には前頭葉を変形させるくらいの力があるのかとまで思ってしまう。


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