読書の記録

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ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい

2020年09月15日 | 経営・組織・企業
ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい
 
トッド・ローズ 訳:小坂恵理
ハヤカワ文庫
 
 
 ぼんやりと思っていたことがここに書いてあった感じである。もっと早く読めばよかった。
 
 たとえば、赤ちゃんが立ち上がって歩くまでのプロセスは、「寝返り」→「はいずり」→「はいはい」→「つかまりだち」→「二足歩行」というのが暗黙の了解になっている。
 
 また、母子手帳には、身長体重曲線のグラフというのがあって、成長にともなう身長や体重の増加はこの範囲内なら健康です、とする。生後何か月目ならこのあたりが妥当、というのがわかる。
 
 育児関連にはこういうものが多い。何歳くらいから喃語をしゃべりだし、何歳にくらいになるとママとかワンワンとか単純な言葉を口にだすようになり、何歳にくらいになると文章をしゃべるようになるとか。
 何歳くらいから丸や線を描くようになり、何歳にくらいなると顔に手足をくっつけたような人物像を書くようになり、何歳くらいになると五体のある人間の絵を書くようになるとか。
 
 これらは、実は「モデル」である。
 たくさんの子どもの成長記録をもとに平均値を割り出して、モデル化する。
 
 
 教育プログラムのベースにもなる。
 
 日本では小学生入学前後あたりでひらがなカタカナを習得し、小学2年生で九九を習う。すなわちこの速度で習熟していくのが普通とされる。
 これに限らず、学校の指導要綱は子供の平均的な学習速度や理解力をもとに組み立てられる。
 
 
 以上は発達心理学だが、社会科学と呼ばれるものはまだまだたくさんある。

 たとえばマズローの5段階欲求というのがある。
 人は(あるいは社会)は、その生活環境の充足具合によって、欲求レベルが5段階あるというものだ。
 
 「生理的欲求」→「安全の欲求」→「社会的欲求」→「承認欲求」→「自己実現の欲求」
 
 したがって、衣食住が満たされ、当面は健康を襲う不安材料もなくなると、人は何かの社会に属したくなる。要するに「ぼっち」でいたくなくなる。
 
 もっとスケールが大きいと、歴史観なんかでもあてはまる。狩猟社会から農業社会へ。農業社会から軽商業社会へ。そして重商業社会、資本主義社会なんてのがそうだ。共産主義に至るマルクス史観もこの例だろう。
 
 
 実社会への応用は、ビジネス分野などでよくみられる。
 たとえば、さいきんはネット通販などECコマースが盛んなわけだが、これ関係のセミナーや教科書を覗くとしばしばフロー図が出てくる。お客さんがサイトでその商品を見つけて買うまでのプロセスである。
 
 「その商品を知る」→「その商品のことを検索する」→「その商品のサイトに行きつく」→「その商品のことをいろいろ調べたり、他と比較したりする」→「その商品を買う」→「さらに関連商品を買う」
 
 みたいなものである。よって各局面に最適なマーケティングを行うことが勧められる。
 
 これらの「モデル」も、多くの人間の行動の平均をとって並べてみるとこんなプロセスになるといったところだ。
 
 
 ここからが本題。こういった社会科学やそれを応用したビジネスモデルは、一見もっともらしいし、むしろそれを常識のように世の中が扱っているからもはや疑いようの余地もないように見える。ところが「そもそもそれ違くね?」と投げかけているのが本書なのである。
 つまり、これら「モデル」は「多くの人が行う立ち振る舞いの平均値を出して、それを並べてモデルにしている」が、この出発点に致命的なミスがある、というのが本書の指摘だ。
 
 あらためて考えてみると、自分の身に置き換えるとあてはまらないことばかりだ。
 Amazonでモノを買うときに、自分そんなプロセスをたどったかなと思う。承認欲求は人並みにあると思うけど、社会的欲求や安全欲求が満たされているかと言われているとどうかなあと思う。コロナ感染の不安は尽きないけれど、自己実現欲求はあるぞ、と言いたくなる。うちの子供は、けっきょくはいはいしないまま立ち上がったし、小1の夏の時点でひらがながまったくおぼつかなかったが、結果的に今はなんの問題もなく生活している。
 
 つまり、「すべてが平均」な人など誰もいないのである。どれかが平均並みの立ち振る舞いでも、他のなにかが平均外であったりするから、トータルとしてモデルの枠内にはあてはまらないのだ。
 しかし、「モデル」というのはあたかも一人の人間がこのようなプロセスをたどるように見えてしまうから、ここに錯覚が生じるのである(これを本書では「エルゴード性の罠」と表現している)。まして組織や社会のプロセスにあてはめようとすると矛盾だらけになる。
 
 
 平均値をつかったモデルというのは「観念」でしかない。しかも本書曰く「プラトン的イデアの領域に属する」ものなのだ。現実にはそんなモデルにあてはまる実例はほぼ存在しないのである。
 
 じゃあ、なんでこんなにモデルやシミュレーションや基準がまかり通っているのか、というと、そのほうが社会が効率よくまわるからだ。医者も教育者も政治家も企業の人事担当もマーケティング担当者もそれで仕事になって、それなりに破綻なくこの経済社会がまわっているからである。
 これらのモデルは全部幻想です、本当はひとりひとり何もかも違うのです、その人その人にあわせた発達管理、教育指導、人物評価、商売動線管理をしていきましょう、では日本だけでも1億2000万人いるこの社会は機能しないだろう。めんどくさい以前に機能不全になるのがオチである。
 そもそもガバナンスとかマネジメントというのは平準化とワンセットである。近代社会というのは平準化された社会のことで、であるならばそこは「モデル」が横行する。その「モデル」から逸脱したものは異端として対応しないと社会がまわらない、ということになる。部分最適より全体最適なのだ。
 
 すべてが「モデル」の範囲に収まる人はいないわけだから、みんなどこかしらで「異常値」を出すことになる。成長曲線よりも子どもの身長が低い、言葉の覚えが遅い、3年生になっても九九が怪しい、という育成上の不安から始まり、SPIテストの成績が平均より低いとか、これまでつきあった異性の人間の数が平均よりも少ないとか、収入が同じ年代の人の平均より低いとか、結婚「できない」とか、そういうので自分の価値を見定めていくような感覚をどうするか、ということになる。ほかのみんなはAなのになぜ自分はBなのか」ということに苛まされたことのない人はいないだろう。
 
 かつての親はこれを「よそはよそ、うちはうち」と子どもに諭した。乱暴なまとめ方だと子ども心に思ったが、実はこれは真理なのであった。「よそもよそなりになにか異常値」なのである。
 
 少なくとも、自分の関わる人、組織、社会においては、平均主義に基づいたモデルの尺度でその価値を判断しないようにはしたいと心がけたいが、なにしろ「エルゴード性の罠」というがごとく、近代人たる我々はけっこう骨の髄までこれがしみ込んでいる。ついつい尺度を求めてしまう。それに、この観念をすべてとっぱらって生きていくのは、カルト的というかヒッピー的になりすぎ、社会不適応というもう一方の弊害を生むだろう。ではどうすればいいか。
 
 本書では、「個性」というものを活かすには、
 ①「ばらつき」があることをまず認め(「モデル」に頼らない)
 ②個性とは生来要因でも環境要因でもなくて「If Thenというコンテクストで違いが出る」ものであり、その人のコンテクストがなんであるかを理解し、
 ③「どんな経路をたどってもなんとかなる」ようにすることが大事である。
 
 この要素の詳細こそが本書の白眉なのでここでは省くが、これを教育なり組織なり社会の制度設計の中にいかにとりいれるかが肝要ということで、それがうまくいけば、部分最適と全体最適が一致する。本書ではGoogleやコストコの社員登用の例が出ている。
 以前、タスクベースではなくてヒューマンベースで、という話をとりあげたが、それとも通じる話だ。少なくとも「モデル」からその人なり組織なりを評価できる根拠はない、という前提に立つだけでモノの見方はだいぶかわるだろう。
 
 
 ところで、本書のタイトルは「ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい」だが、現題は「THE END OF AVERAGE」である。日本語版の単行本が出たときは「平均思考は捨てなさい 出る杭を伸ばす個の科学」だったが、文庫化の際に「ハーバードの・・」が冠されたタイトルになった。こうしたほうが売れると出版社は思ったのだろう。この「ハーバードの・・」をつけるのも昨今の流行であり、いわばマーケティングの一貫だが、本書のねらいからすると、その趣旨とは逆のことをしているようにも思える。著者はどう思うのだろうか。
 
 

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