読書の記録

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入門 世界システム分析

2019年09月30日 | 歴史・考古学

入門 世界システム分析

著:イマニュエル・ウォーラーステイン 訳:山下範久
藤原書店


 先月ウォーラーステインの訃報が流れた。まだ生きていたんだというのが正直な感想で、それくらい神話化された人物である。

 ウォーラーステインといえば「近代世界システム論」である。これまで山川の世界史の教科書とか、河北稔氏の著作などでその片鱗には触れていたが、ちゃんとこの理論を俯瞰したことはなかった。というより、専門家でもないのにあんな重厚長大な研究を知ろうというのは無謀である。

 ということでウォーラーステイン自身が晩年に記したという「入門」を読んでみることにした。
 
 しかし「入門」とはいってもなかなか骨のある内容だ。じっくり読んでいけばそれほど難解なことは言っておらず、むしろ論理は明快なのだけれど、なまじ「入門」であるだけにすべての範囲にわたって概要が語られている。しかもすべてが伏線がはられているかのごとく関係してくるので油断できない。まさしく「システム」である。ここでこんな切り口の話がでてくるのは、あとでここにつながるためだったのかという具合である。だから本当は短時間で集中的に読破するほうがよいのだが、仕事や生活の合間合間にメモもとらずに読み進めたため、どこまで把握できたのかは正直いって自信がない。以下はそんな僕の覚書である。


 「世界システム」というのは、地域の個別事情に根差した史事に拘るのではなく、この地球上の世界は大きなひとつの社会であると巨視的にみなし、その内部の力学の変遷・変容をとらえようとする世界観である。この見立ての背景には、世界の時空を、西洋・東洋・第3世界とみなす歴史学・東洋学・文化人類学というアカデミズムへの批判、さらにアメリカの世界戦略に利用されるアカデミズムへの批判などがある。ことアメリカにおける「開発論」、地域ごとの差異を段階論と見なし、「開発(development)」というビジョンで統合させたというウォーラーステイン氏の見解にはなんか納得するものがある。

 「世界システム」はシステムだから、どんなに複雑怪奇で多種多様な人間社会の歴史においても、システムの根幹を成すひとつの原則に帰するように考察する。それが「生産活動」と「余剰の分配」である。本質的に人間社会というのは「生産活動」と「余剰の分配」が経済活動におけるもっともコアなのだ。社会単位もこれに準じて構成される(ここに「家計世帯」というくくりも出てくる)。
 で、この経済活動が支配する社会での生存競争において必然的に帰結するのが「資本」を蓄積したものが勝つということである。

 ではいかして「資本」は蓄積されるか。それは世界システムの中に存在する、あるエネルギー源を用いる。そのエネルギー源とは「差」である。
 どの時空においても、水が上から下に必ず流れるように、不均衡とでもいうべき需要と供給の「差」があってこの傾斜をつかってモノ・カネ・ヒト・情報は流れていく。水力発電が水位の高低差を利用してタービンを回して発電するように、いずれの時空においても社会はこの「差」をつかって仕組みを維持しているのだ。近代世界システム論で最も有名な「中核」「半周辺」「周辺」という区分けは、この「差の仕組み」である。この「差」の維持と拡大と解消が、言わば作用と反作用が連鎖していくように推移して、これが歴史となる。よくしたもので、資本家が労働者から収奪しすぎると、労働者の購買力が衰えてモノが売れなくなり、資本家にとってダメージとなる。そこにフィードバックがある。これらをシステムと称す。この傾斜を最も有利に操ったものが「覇権(ヘゲモニー)」である。
 「資本」をめぐるゲームにおいてやがて一つの方向に収斂されたのが近代における「国家」という枠組みであり、それを構成する「国民」というとらえかたである。これが近代世界システムである。主権とか国境とか植民地などの概念もここから派生する。「国家」や「国民」は地域や人民の線引きを現すから、ここに包摂と排他の概念も誕生する。


 しかし、近代世界システムは永久機関ではないのである。システム内の「差」をエネルギー源として資本をつくりだす仕組みだから、エントロピーの法則と同じように最終的に「差」は均質化していく。廃棄物の処理、第1次原料の再生、インフラの整備維持を託せる空間、経済学でいうところの「外部コスト」を託せるところがこの世界から無くなっていく。そうすると動態は停滞する。

 1968年の「世界革命」をひとつの目安として、近代世界システムは終焉にむかっているというのがウォーラーステインの見解である。つまり「差」が維持できなくなったということだ。また、これによって「国家」や「国民」から排他ないし軽視されてきた存在が主張を始める。
 現状の世界は1968年以前のエネルギーの余熱で動いている、と言える。

 日本においては「1968年」というのは歴史のメルクマールとしてはあまり意識されない。全共闘の大学紛争があったのがだいたいこのあたりだが、その後に社会の在り方が変わったかというとそんな手ごたえもなく、高度経済成長は続いていたので歴史認識としては目立っていない。経済史的には石油ショックのあった1973年なんかのほうが大きくとりあげられる。
 しかし、1968年というのは、世界各地において「国家」や「国民」という枠組みに関係なく、いわば「100匹目の猿」のように同時多発的に同じようなイデオロギーが吹き荒れた節目であった。脱国家主義・脱資本主義・脱家父長主義とでもいうべきものだ。人種や民族差別の撤廃、性差別の撤廃、年齢主義の撤廃、地域差別の撤廃という、言わば今につながるSDGsの原点みたいなものがここで登場する。不均衡な「差」の中で役割を固定化されていた者たちである。

 ただし、現代の世界は本当に「近代世界システム」の余熱で動いているだけなのかどうかは議論を要する。そもそも「世界システム論」もこの世の中の「見立て」に過ぎないといえばそこまでであるし、今日的には「世界システム論」は旗色が悪いという解説を読んだこともある。
 ただまあ、ウォーラーステインの説を是としたとしても、「近代」世界システムをという資本を媒介としたゲームがたそがれているだけで、「世界システム」そのものは存在し続けると言える。この地球に生きる人間の数は近々100億人に達すると言われている。そしてこの100億人の生命を維持し、生存していくためには「生産」と「余剰の分配」はなくならない。「近代」はこれを司るのが資本というものだった。そうすると人間社会は今度は何を「差」としてエネルギー源にするのだろうか。

 

 


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