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ソラの記録

このブログは「地球の謎解き」(https://sora.ishikami.jp/)の情報を元に構成しています。

ウクライナ・オン・ファイヤー1、ウクライナで何が起こったのか、地震雲

2023年09月24日 23時59分33秒 | 「地球の謎解き」の情報

ソラのQ&Aより
2023年9月16日
【ウクライナ・オン・ファイヤー】文字化

読者より、文字化してくださいました。

*)「ウクライナ・オン・ファイヤー

・・・・・・・・・・・・・

「初公開:2016年6月16日 監督:Igor Lopatonok プロデューサー :オリバー・ストーン」

2014年、キエフのマイダン独立広場で起こされた暴動は、民主的に選ばれたヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領を追放するために起こされたクーデターだったのです。

西側メディアはヤヌコーヴィチ政権とロシアを加害者として描いています。
しかし、本当にそうだったのでしょうか?

クーデターにより、炎上したウクライナは、2004年のオレンジ革命、2014年の反乱、そしてヤヌコビッチ政権の転覆につながりました。

この悲劇を西側メディアは民主主義の革命として大きく取り上げましたが、実際にはウクライナに戦後生き延びたネオナチ民族主義者と米国務省によって脚本・演出されたクーデターであったことが知られています。

この様なカラー革命は世界中至るところで起こされています。
それは如何にして起こされて来たのでしょうか?

そのテクニックをオリバーストーンは分かりやすく描いています。

調査ジャーナリスト、ロバート・パリーは、80年代以降、アメリカの地政学的アジェンダを海外で推進するCIAの代わりに行動している、NED全米民主主義基金についても語っています。

・・・・・・・・・・・・・

《オープニング》

(進行役)
ここ数日、キエフのマイダン独立広場が本格的な戦場と化しています。

(キャスター女)
ウクライナの首都キエフでさらなる衝突が発生しています。

(目撃者)
スナイパーが狙っていた、絶対に間違いない。
10人の犠牲者を見た。

(ヤヌコーヴィチ)
誰が人を打ったのか、まだ分かっていません。
問題はそれです。

(進行役)
現在、内戦の危機に瀕しておりこれまでに少なくとも70人が死亡し、さらに死者数は増えています。

(ヴィタリー)
繰り返しになりますが、このテクニック(手口)は、他の国で起こらないとは限りません。

(リポーター)
今日ここで見たものは、革命だったのです。

(プーチン)
ウクライナで何が起こったのか知りたいでしょう。

(ヌーランド)
私たちはウクライナを支援する、これらの目標のために50億ドル以上の投資をしています。

(ヴィタリー)
政治の話でも何でもしますよ。金の話でも。

(オリバー)
NATOはロシアの国境付近まで、13か国に拡大しました。13か国です。

(キャスター男)
この危機を、ウクライナとロシアの熱い戦争にさせないことが焦点となります。

(ヤヌコーヴィチ)
これは戦争に関わる非常に危険な話です。
誰も今日を安心して過ごせないはずです。

《本編》

(進行役)
ウクライナ、それは、歴史ある誇り高き日、豊かな歴史を持ち、そして美しさを誇ります。
英雄を崇拝し、多くの犠牲を払ってきました。
ウクライナは、東と西が出会う国境の地です。
これがウクライナの国境です。
青は空を表わしています。
黄金は果てしなく続く麦畑です。
ウクライナの人が栄誉を求めて、ウクライナを目指しました。
そのために多くの血が流されました。

ウクライナは、西側諸国が東側を征服しようとしたときの通り道です。
第一次世界大戦、そして第二次世界大戦で、ウクライナの人々は、この巨大な権力闘争のために最大の代償を払うことになったのです。

「歴史は同じように繰り返さないが、韻(いん)を踏む」作家マーク・トウェイン

(1941年)
ウクライナの歴史をよく見ると、多くの韻を踏んでいることに気が付きます。

(2014年)
より強力な力に囲まれているウクライナは、生き残るために多くの狡猾さを必要としてきました。
彼らが長い時間をかけて習得した技は、変化する芸術です。

17世紀中頃、ウクライナの指導者ボグダン・フメルニツキーは、ポーランドとの停戦協定を破棄し、より強力なロシアを味方にしました。

ちょうど50年後、ロシアとスウェーデンの戦争が激化する中、ウクライナの指導者イヴァン・マゼパはロシアとの同盟を破棄し、侵略者のスウェーデンに鞍替えしました。
ウクライナの歴史は、何度も第三者によって描かれました。

ロシアは、革命の成果を何としても維持しようとして、1918年のブレスト・リトフスク条約で屈辱的な条件に同意し、ウクライナをドイツの保護領としたのです。

ウクライナの運命を変えたもう一つの歴史的文書は、1939年のモロトフ・リッベントロップ協定で、ヨーロッパ諸国と台頭するドイツとの間で結ばれた多くの協定のうちの一つです。
ナチスの脅威から国を守ろうとして、ヨシフ・スターリンはアドルフ・ヒトラーと不可侵条約を締結しました。

ソ連とドイツの外相モロトフとリッベントロップは互いに平和を約束しながら、東ヨーロッパの地図を再編成し、ドイツとソ連の勢力圏に分割したのです。
モロトフ・リッベントロップ条約が調印されるやいなや、ポーランドは分裂してしまいました。

そして1939年9月、ポーランド東部はウクライナの西部となり、ソビエト共和国とソビエト連邦の一員となりました。
しかし、この大胆な国土と国家の分割も、避けられない事態を遅らせただけでした。
ドイツはソ連との約束を破りました。

1941年6月22日、ドイツはソ連に侵攻し、世界史上最大の軍事作戦である「バルバロッサ」を開始しました。
「バルバロッサ」は、ペテルブルグ、モスクワ、そして、キエフの重要な三つの目的地侵攻を目指していました。

ウクライナは、豊かな土地と資源を持ち、ソ連にとって重要な産業経済の源泉です。
ソ連から切り離すことは、まさに大打撃となります。
ソ連に含まれるほぼすべての国にとって、第二次世界大戦は自分たちの土地に侵略してきた相手と、戦うためのものだったのですが、ウクライナにとって、そう単純な話ではありません。

実は、ウクライナは一度も統一されたことがない国です。
第二次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部の住民はソ連の支配により、強いられてきたので、ドイツ兵を解放者として迎え、公然とドイツ軍に協力していました。

戦後長い間、その協力の実態は発表されていませんでしたが、現在では、SSガリシア師団、ナハチガル大隊、ローランド大隊など、師団や大隊全体がウクライナ人の協力によって、編成されていたことが分かっています。

戦争が始まったばかりの頃、ガリシーノ地方から8万人以上の人々が、自発的に1か月半でSSガリシア師団に入隊してきました。
ウクライナの領土で、ポーランド人とユダヤ人、そしてロシア人に対する、彼らの極端な残酷さは有名です。

これらの軍事グループのメンバーのほとんどがウクライナ民族主義者組織(OUN)の出身です。
1929年に設立されたこの組織は、純粋に独立した民族的ウクライナとして作ることを究極の目的としており、テロ行為は、その目的を達成するための許容範囲内の手段であると考えられていました。
彼らのオブジェは「黒と赤」大地と血です。
OUNが消滅した後もこの民族主義は、ウクライナの歴史に長く残ることになりました。

1940年初頭、ウクライナ民族主義者組織の最も過激な民族主義者らは、「ステパン・バンデラ」を指導者として選びました。
特に反ユダヤ主義的で反共産主義者であった彼は、1941年にウクライナの独立を宣言しました。

この身勝手な行動により、同盟国であるドイツに嫌われることになり、第二次世界大戦中ほぼすべての期間、彼は獄中に置かれることになりました。

バンデラは表舞台に登場しなくても、彼のイデオロギーを広めることに成功していました。
多くの独立系歴史家は、OUNの民兵が、1941年末までドイツ軍が占領していたウクライナ領で、15万から20万人のユダヤ人を虐殺していたと推定しています。

悪名高い非道な虐殺は、1941年9月29日と30日にキエフのバビ・ヤールで行われました。
キエフ市とその近郊のすべてのユダヤ人は、9月29日月曜日の朝8時までに出頭しなければならない。
書類、金品、貴重品、また暖かい衣類、毛布、その他を持参すること。
この命令に従わない者が他の場所で発見された場合、銃殺する。
ナチスとウクライナ民兵によるこの2日間の作戦で33,771人のユダヤ人が殺されました。

ウクライナの反乱軍が行った、もうひとつの非道な行為として、ウクライナ民族主義者組織バンデラ派は、ドイツ占領下のポーランドのヴォリンと東ガリシアで大虐殺を行いました。
このポーランド人の虐殺は、ミコラ・レベドが主導しました。
ヴォリンでは33,000から60,000人が殺害され、東ガリシアでは、25,000から40,000人が殺害されました。
このように大規模な民族浄化作戦が行われたのです。

ドイツ軍の敗北が避けられないと判断したウクライナ民族主義者組織は、かつての同盟国に見切りを付けドイツ軍とソ連軍に対等に戦いを挑むようになりました。

1943年1月、ソ連軍はナチスに反撃を開始して、ウクライナの各地を次々と解放しました。
西ウクライナはドイツ軍が最後に支配した地域で、1944年10月にようやく解放されました。
バンデラたちはソ連に対抗してゲリラ戦を続け、ウクライナの村や町に血なまぐさい襲撃を加え、混乱と犠牲を生んだのです。

このゲリラ戦は1950年代中頃まで続き、最終的にバンデラの協力者は拘束されたり国外に逃亡しました。
1945年5月7日ドイツは連合国に無条件降伏し、ウクライナはソビエト連邦の一部となりました。
第二次世界大戦後の平和も束の間でした。

ナチスを倒すためにイギリスと同盟を結んだアメリカとソ連は、その後に起きた敵対関係により、冷戦がはじまりました。
米ソの政治的・軍事的緊張の時代は45年近く続き、人類は常に核戦争の脅威にさらされ続けました。
この戦いの中でも、米国はウクライナの重要性を見失うことはありませんでした。

アメリカの諜報機関は、ソ連に対する防諜活動として、ウクライナの民族主義的組織を注意深く見守っていました。
つい最近、機密解除されたCIAの公文書では、1946年以来、米国情報機関とウクライナの民族主義者の強い結び付きがあり、ウクライナの民族主義組織やその指導者ステパン・バンデラの正体を把握していたことが、このCIAの報告書から明らかになりました。

1945年9月のOSS(CIAの前身)の報告書によると、バンデラは、第二次世界大戦中、恐怖政治を展開していたことで指導者として高い評価を得ていました。
第二次世界大戦後、バンデラとウクライナのナチス指導者たちは、ヨーロッパに逃れ、CIAが彼らをかくまったのです。
CIAは後に、ステパン・バンデラや他のウクライナ人を隠していたことを移民帰化局(INS)に報告していました。
ウクライナ人が関係したこの作戦はソ連に知られることなく、何年も続けられました。

1945年と1946年のニュルンベルク裁判は、ファシスト・ドイツの政治、経済、軍事の指導者を裁き、ナチズムという怪物の姿と彼らが犯した犯罪を明らかにしました。
しかし、ウクライナのナチスは同じ運命を免れ、中にはCIAから免罪符を与えられた者さえいました。
1954年までに、当局は冷戦の必要性の名の下にOUN(ウクライナ民族主義組織)治安部隊の犯罪行為を免除しました。
1949年、ヴォリンでの虐殺の責任者であるミコラ・レベドは米国に移され、戦争犯罪者として捜査されたり追跡されず1989年に亡くなりました。

CIAは、1952年にウクライナの民族主義者ミコラ・レベドを米移民局による犯罪捜査から守るために動いていました。
バンデラがアメリカに利用されなくなったのか、それともKGBのエージェントがCIAを出し抜いたのか、定かでありませんが、1959年、ウクライナ民族主義者のリーダーステパン・バンデラは、ステパン・ポペルの名で潜伏していたところ、ミュンヘンで暗殺されました。

バンデラがウクライナ・ナショナリズムの主要なシンボルになったのは、まったくの偶然です。
彼が唯一の指導者でもなければ、最も強力な指導者ではなかったと言ってよいでしょう。
ドミトロ・ドンツォフは、ウクライナの極右全体主義的教義の父と呼ばれています。
アンドリー・メルニクはOUNの分派リーダーです。
ウクライナ反乱軍の総帥であったロマン・シュケヴィチらも、この運動に大きく貢献していました。

バンデラの危険な思想は、共産主義当局によって弾圧されながらも、外部勢力によって支持され、本当の意味で消えることはありませんでした。
ウクライナのナショナリズムの種は、世代から世代へと受け継がれました。
しかし、残念ながら再び同じことが起こるのは時間の問題でした。

1954年、ソ連の指導者であり自身もウクライナ人であったニキータ・フルシチョフが、クリミアの領土を気前よくウクライナに与えたことでウクライナはさらに拡大しました。
この譲渡の正当性については、歴史家が後年まで議論することになるでしょう。
そして、フルシチョフの贈り物から60年後、クリミアで劇的な新しい出来事が起こることになります。

(キャスター女)
クリミアの危機が続くウクライナに世界の目が注がれています。
クリミアで数十人の重装備の男たちが政府庁舎を占拠しました。

(キャスター男)
ウクライナは、クリミア半島をどうすることもできず、諦めてしまうのですか?

(進行役)
そして、昔の議論が再び熱を帯びることになりました。
冷戦は熱くなったり冷めたりを繰り返しながら、両者は軍事力の増強に余念がありませんでした。

転機となったのは、1980年代中頃にゴルバチョフが新リーダーとなり、ペレストロイカという新しい時代がソ連に訪れたことです。

ペレストロイカとは、自由化・民主化に向けた再編成のことです。
国際情勢に良い影響を与えたことは確かです。

(キャスター男)
驚くべきニュースです。
東ドイツ当局が、「ベルリンの壁は何の意味もない」と発表しました。

(進行役)
しかし、ソ連内部ではクレムリンの支配力が弱まったことで、別の結果をもたらしました。
ウクライナでは、こうした新しい開放性から、1989年に民族主義的な政治組織「ナロードニ・ルーク」が登場します。

(ナロードニ指導者)
私たち全員でこの運動の基盤を築きました。

(進行役)
彼らはソ連からのウクライナ独立を主張し、ウクライナのネオ・ナチズム指導者の育成機関となりました。
1991年、その一人であるオレーフ・チャフニボークは、古き良きバンデラの理念を説く過激な民族主義政党「スヴォボタ」を公然と結成しました。

(スヴォボタ)
我々は訓練し、ロシア人と戦った。
ドイツ人とユダヤ人と戦うのだ。
我々のウクライナを奪おうとする敵がいる。

(進行役)
ウクライナのユダヤ人とロシア人を一掃し、ウクライナ人のためのウクライナにする、といった具合に発言していました。
彼の発言で2012年、サイモン・ウィーゼンタール・センターが発表した。
反ユダヤ主義者世界リーダーのトップテンランキング5位に入りました。

(スヴォボタ)
ウクライナに栄光あれ!英雄に栄光あれ!

(進行役)
しかし悲しいかな、多くの人々を引き寄せたのです。
ドミトリー・ヤロシは、1994年に別の極右組織「トリズブ・トライデント」を設立しました。

2013年4月、ヤロシは野党ウダールの国会議員補佐官に就任しました。
同年、ウクライナで最も過激なナチスグループである「右派セクター」の一員となりました。
アンドレイ・パルビイは、すぐにでもナショナリスト戦士全体を先導するのではないかと思わせます。
トーチの行進は再びウクライナの市街地を照らしました。

1991年8月、ソビエト連邦が事実上消滅して、世界は大きく変わりました。
世界地図は多くの新参者を迎えました。
ウクライナもその一つです。
近代史において、ウクライナが真に独立したのは初めてのことです。

(キャスター女)
ゴルバチョフ大統領が辞任し、70年にわたるソビエト連邦の共産主義支配に終止符を打ち、今夜、クレムリンの赤い旗が降ろされました。

(進行役)
ソ連連邦崩壊後の数年間は、ソ連邦すべての地域でクレイジー90年代と呼ばれるようになりました。

(レポーター男)
彼は悲惨な経済と不確かな未来だけを共有する独立した15の国家を残そうとしています。

(進行役)
政府の管理下にあった経済は、自由市場によって取引のルールを劇的に変化させました。
新しいビジネスが瞬時に生まれ、一夜にして最初のオリガルヒ(財閥)が誕生したのです。
そして、国内の体系が突然、差別化され、選ばれた一部の人だけが豊かになり、残された人々は、きびしい条件の下で、生き残るしかなかったのです。

(プーチン)
ウクライナが独立した直後から、乱暴な民営化と国有財産の公然たる強奪が始まりました。
世界水準はたちまち低下しました。
そして、政権交代が繰り返される最中にも、一般のウクライナ人には何の変化もありませんでした。
それは、ウクライナ人に対する一貫した強奪行為でした。
もちろん、人々は結局、この権力の乱用と異常な腐敗に嫌気がさしたのです。

(進行役)
国民の不満が高まったことで、ウクライナは、外部勢力に対する力が弱くなり、「カラー革命」という今まで知られていなかった新しい戦争に直面したのです。

(リポーター男)
デモ隊が警察と衝突して、数十万人が選挙結果に抗議し、再投票を要求しています。

(進行役)
ウクライナは独立以来、24年間で、二度のカラー革命がありました。
2004年、キエフに群衆が押し寄せ、「オレンジ革命」が勃発しました。
その時、ウクライナは再び二大勢力であるロシアと西側政府の争いの場となりました。

この紛争の頂点は、2004年11月の大統領選挙中に起こりました。
西側が支持するヴィクトル・ユシチェンコとロシア寄りのヴィクトル・ヤヌコーヴィチという二大候補が、ウクライナ人の票をほぼ均等に分け合ったのです。

ところで、ヴィクトル・ユシチェンコの背後に、「欧米がついている」と言われるのは、決して大げさではありません。
妻のカテリーナ・ユシチェンコは、元米国国務省の職員で、レーガン政権時代には、ホワイトハウスで働いていました。
分割は地理的な線に沿っていました。

伝統的にロシア東部ウクライナはヤヌコーヴィチに投票し、西部ウクライナはユシチェンコを選びました。
結果では、ヴィクトル・ユシチェンコは、親露のヴィクトル・ヤヌコーヴィチに負けましたが、何千人もの人々がそれに納得せず、11月22日にキエフ中央広場に集まりました。
この状況は大きく報道されることになりました。

(キャスター女)
同国の選挙管理委員会は不正選挙の報告を無視し、クレムリンの支持するヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏が勝ったと宣言しました。

(進行役)
キエフに、前NATO事務総長のハビエル・ソラナ氏など国際政治家が頻繁に滞在し、当事者間の交渉を開始しました。

(ソラナ)
皆さんの力でこの困難を乗り越えられることを強く願っています。

(進行役)
しかし、交渉の結果は机上の空論となりました。
したがって、ユシチェンコは彼の支持者にキエフで占拠している政府の建物の封鎖を止めさせようとしませんでした。
そのため、この非暴力的なオレンジカラーの抗議行動は1か月間続き、その間に大規模な汚職にまみれた前回の選挙結果は無効とされました。

重要な意味は、選挙結果が発表される3か月前に、ヴィクトル・ユシチェンコが謎の中毒事件の犠牲者となり、未だに未解決であるということです。
そして、彼はこの新たな選挙で、何の障壁もなく勝利しました。
しかし、民意だけで勝利していないことがすぐに分かります。
この平和的な革命とその指導者は、国際社会から温かく迎え入れられましたが、その幸福感は長く続きませんでした。

ユシチェンコ政権は改革で完全に失敗し、民主主義を確立する機会を失い、そして争いに陥りました。
ヴィクトル・ユシチェンコは2期目の再選を果たせませんでしたが、大統領職の終わりに、ウクライナ西部の支持者に最後の贈り物をする機会がありました。

(ユシチェンコ)最後に、何百万人ものウクライナの愛国者たちが、何年も待ち望んでいたことを言いたいと思います。
私は法令に署名しました。
ウクライナ独立のための戦いにおいて、不滅の精神で自己を犠牲にし勇敢な行動をした、ステパン・バンデラ氏に、私は国家勲章とウクライナの英雄の地位を与えます。
ウクライナに栄光あれ!

(進行役)
英雄として、ステパン・バンデラの地位は短いものでした。
2010年、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に選出されました。
今回、国際社会は選挙の正当性に疑いは持ちませんでした。

2011年1月、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチはバンデラの英雄の称号を廃止しました。
大統領就任から約4年で、ウクライナは再び革命に見舞われました。
残念ながら、この革命は平和的とは言い難いものでした。

(オリバー)
Mr.ヤヌコーヴィチ、私はアメリカ人です。
私はこの状況の部外者です。
何と言ったらいいか、難しいですが、映画制作者として2013年11月のあの瞬間に飛び込んでみたいですね。

あなたはウクライナの大統領でした。
3年間大統領として努めました。
この国は経済状態が悪い、とても悪いのです。
ロシアと貿易協定を結び、その次はEU、欧州連合とより良い協定を作ろうと交渉していたのですね。
あなたはその時、何を考えていましたか?

(ヤヌコーヴィチ)
2013年は、ウクライナにとって非常に複雑な時期であり、問題の解決策を見つけなければなりませんでした。
二つのパートナーがいました。

まず第一に、私たちはIMF(国際通貨基金)を頼りにしました。
年中、交渉を重ねていましたが、IMFは我々に受け入れがたい解決策を提案したのです。
電力と天然ガスを中心とした公共料金の大幅な値上げです。
そうすると、国民の出費が増えることになります。
収入は変わらないのに、それは受け入れられません。
我々は他の解決策をIMFに提案しましたが、2013年11月、正式に拒否されました。

そうなると、残るはロシアです。
ロシアは、我が国にも利益を考慮するなら、パートナーシップを結ぶ用意があると言ってくれたのです。

(プーチン)
ウクライナとロシアが一体となった経済が出現したのです。
というのも、私たちは非常にユニークで特別な経済的関係を築いていたからです。
ロシア市場は、ウクライナの農産物に広く門戸を開いていました。
カスタム・ボーダー(税関国境)も同様です。
しかし、そうなるとEUは交渉なしに、すべての商品を、我々の市場に参入することになってしまうのです。

(ヤヌコーヴィチ)
市場のバランスシートを計算し始めてから、私たちは、ヨーロッパがウクライナに提示した協定に問題があることに気付きました。
それは必要不可欠な経済的費用の負担が大きく、欧州はその損失補填は行わず、その間にロシア市場は大幅に制限され、あるいは閉鎖されることになりかねません。

(プーチン)
もちろん、ウクライナがこの決断を下したのであれば、それはウクライナの選択であり、我々はその選択を尊重するが、その代償を私たちは支払うつもりはないと言いました。

(ヤヌコーヴィチ)
結局、欧州との交渉がうまくいかず、一旦休止することにしました。

(キャスター女)
激しい衝突が発生しました。
ウクライナの首都キエフでは、EUとの連合協定の延期を決定した政府に対して10万人以上の人々が抗議しています。

(オリバー)
ヴィタリイさん、この時期にあなたは、ウクライナの内務大臣で本来は警察署長だったんですよね。
11月から2月にかけて行われた抗議行動について何があったのか、あなたの考えを聞かせてください。

(ヴィタリイ)
とにかく大規模な抗議活動が事前に計画され、2015年から始まるはずだったという情報がありました。
反対派は「内閣と大統領が、EUとの連合協定の締結を中断した」という事実を利用しました。

(進行役)
野党「祖国」の党首、アルセニー・ヤツェニュク氏。
野党の民族主義極右急進党「スヴォボダ」のリーダー、オレーフ・チャフニボーク氏。
野党「ヴィダール」党首のヴィタリ・クリチコ氏。

(キャスター男)
EUとウクライナの両方の当局者は、木曜日に述べました。
この2日間の会合で、一時中断していた関係強化のための協議が復活する可能性があります。
しかし、当局者は、この取引は今のところ見送られたと述べています。

(メルケル)
私たちは、もっと期待していたんですよ。

(ヤヌコーヴィチ)
私の話を聞いてください。
3年半の間、私はこの問題について1対1で、、、とても強いロシアと一緒に考えてきました。

(キャスター男)
キエフ街頭での親EUのデモは2日目に突入しました。
約千人のデモ隊に、反対派のリーダーであるボクシングの世界チャンピオン、ヴィタリ・クリチコ氏が加わりました。
彼はデモ参加者に、政府がEUとの主要な貿易協定に署名しないと決定したことに対して、政府に抗議の圧力をかけ続けるよう呼びかけました。

(オリバー)
抗議が相次ぐ中、メルケルとの会談の翌日に、あなたはキエフに戻りますね。
その頃のことを教えてください。

(ヤヌコーヴィチ)
当初、それが平和的な抗議活動であることを明確に理解していました。
平和的な抗議活動には対話が必要であり、私はその準備ができていました。

ー革命を起こすレシピ「金」ー

(ヴィタリー)
11月から2月のデモについて話しますと、事実上、抗議行動のずっと前に、下準備がされていたのです。
海外から資金援助を受けているNGOもたくさんありました。
多くのジャーナリストが、金のためにやっていました。

(進行役)
ロバート・パリー氏は、ワシントンDCを拠点とする長年の調査報道記者で、1980年のイラン・コントラ疑惑に関する主要な情報開示で良く知られています。
Consortiumnewsの創設者です。
ウクライナの危機とその背後にある勢力について幅広く報道しています。

(パリー)
NGOとは、非政府組織のことです。
現在、多くのNGOは極めて合法的な存在です。
ある国の人々の食糧を支援したり、水の問題を解決したり、さまざまな社会問題を解決するとして、正当な理由を掲げています。

しかし、NGOの中には、政府機関から資金提供を受けているものがあります。
表向きは国民のために働いているのですが、実際には政府機関のために働いているのです。
1980年代には、中央情報局(CIA)の信用はほとんど失墜していました。
なぜなら、1970年代に発覚したスキャンダルのせいです。

(キャスター男)
CIAは15年前から、全米学生協会の海外活動に密かに資金援助をしていました。
しかし、とてつもなく張り巡らせたCIAの極秘の行動が明るみに出たのです。

(パリー)
だからレーガン政権が誕生したとき、CIAのコンセプトは、今までと違う形として現れ、ターゲットとなる国のメディアとNGO、そして、さまざまな政治活動へ資金を提供しています。

それは1983年に設立された全米民主主義基金という新しい組織に委託され、CIAがかつてしていたことを行うようになりました。

このような国に侵入して、さまざまな政治団体を支援し、活動家を訓練し、ジャーナリストや企業グループと取引し、米国の外交政策上の利益を推進しようとして、時には、ホスト国である対象国政府の利益に反することもします。

さらに、全米民主主義基金やその他の米国機関から資金や後方支援を受けて、そして、活動家を訓練し、ジャーナリストと協力して、自分たちの言い分が、より有利に伝わるようにしました。

彼らは、いかにして誘導するか、いかにして拡散させるか、それを使って、いかに自分の目的のために支援するか、ということに取り組んでいます。

(進行役)
そして、支援できるところを生み出すのです。
ウクライナの新メディアのひとつを立ち上げたムスタファ・ナイエム氏です。

(ナイエム)
ご機嫌いかがかな。

(進行役)
Hromadske.tvは、流行らせる方法をよく知っていました。
最初の群衆をマイダンに呼び込んだのは、2013年11月21日の彼の悪名高いフェイスブックの投稿によるものでした。

(ナイエム)
そういう人たちがいるので、フェイスブックで話したいと思い投稿したんです。

ー革命を起こすレシピ 金、「メディア」ー

(進行役)
「あなたが新聞を読まなければ無知のまま、あなたが新聞を読めば、誤った情報を得る」
さまざまなテクノロジーやコミュニケーション手段が存在する現代社会で、メッセージを効果的に伝えるには、それらをすべて利用するのです。

ユーロマイダン(独立広場)で騒動が始まると、2013年11月21日、3つの新しいテレビチャンネルが放送を開始しました。
この様子を、ウクライナで、突如として多くの視聴者が注目しました。

Spilno.tvは11月21日、Hromadske.tvは11月22日、Espreso.tvは11月24日、
反対する勢力の声は、これらの放送局により広まりました。
デモを支援し、より多くの人々がマイダンに来るよう呼びかけました。

(ヴィタリー)
最初の大規模な抗議行動は、2013年11月21日に始まりました。
最初は平和的でした。
老若男女問わず、子供連れの人もいました。
彼らが警察や当局を信頼していることは明らかでした。
つまり、そこは安全だったのです。
デモ隊に対して武力が行使される恐れはなかったのです。
当時、勤務していた警察官は銃器を携帯していませんでした。

しかし、デモ参加者の中には、過激派や超極右政党のメンバー、ネオ・ファシスト・グループの姿が見えました。
そして11月24日、彼らは最初の攻撃行為をしました。
11月24日、彼らはウクライナ内閣の建物とそれを警備している警察官を攻撃しました。

2013年11月25日に起きた治安維持部隊に対する二度目の攻撃があり、そして11月30日は悪名高い事件が起こりました。

(進行役)
2013年11月30日は、ユーロ・マイダンにおいて、最初のターニングポイントとなりました。
その中で最も大きく報告された謎の事件がありました。

(ヴィタリー)
これらの出来事を、私の視点から話しましょう。
キエフ市役所のポポフ課長からその日なぜか、混乱しているマイダン広場に、クリスマスツリー設置のための機材を持って行きたいという電話がありました。
私は、マイダンに人が大勢集まっているのに、それは無理だろうと話しました。

午前1時頃、ほとんどの人が広場から離れ始めた頃、ウクライナのシークレットサービスの責任者と電話で会話し、現場の状況を聞きました。
彼は「神よ、全てが終わった」と言いました。
私たちが受けた全ての情報では、すでに現場では収拾がつかないということでした。
11月21日から私は、基本的に事務所で寝起きして、1日の睡眠時間が2時間ということもありました。
帰宅は午前3時頃です。
6時半に時計のアラームをセットしました。

起きて、すぐにテレビをつけました。
チャンネル5では、救急車や倒れている人たちが映っていました。

(リポーター男)
変貌した機動隊が平和的なデモ参加者をこん棒で攻撃しました。
早朝の出来事でした。
その場にいた目撃者によると、警察は手りゅう弾を使用したそうです。

(ヴィタリー)
正直なところ、冷や汗が出ましたね。

(ヤヌコーヴィチ)
マイダンでの警察の動きに対して、私は即座に反応しました。
暴力を使って、デモ隊を解散させようとした、その命令を出したのは誰なのか、調査しなければならなかったのです。
私は人権侵害やデモ参加者への武力行使には反対でした。

(ヴィタリー)
ただ、ポポフ氏はそのような決定を下せる立場ではありません。
その時のポポフの責任者は誰か?
大統領府のトップである、セルヒ・リョヴォチキです。

(進行役)
偶然にも、セルヒ・リョヴォチキは、多くの米国の政治家と親しい関係にあります。
ウクライナのセキュリティサービスは、その夜、ある証拠を持っていました。
リョヴォチキは野党指導者のヤツェニュクと接触し、クリスマスツリーを設置するという口実で、マイダンのデモ隊を追い散らすための話し合いをしていました。
ニュースでは、機動隊がテントで静かに寝ている学生を無残に攻撃したと報道しましたが、実際には別の話がそこにありました。

デモ隊は警察の到着を待っていました。
その日は、各社から数十人の記者とカメラマンが集まっていました。
新しい公共テレビ局は、この出来事を取材するために準備して待ち構えていたのです。

そして最も不吉だったのは、訓練された若者のグループが、機動隊とほぼ同時にマイダンに到着していたことです。
彼らは群衆に混ざり、暴言を吐き、投石とトーチで挑発を始めました。

(パリー)
ウクライナの右派セクターは、一部のウクライナ人からなる、かなり極端な右翼です。
特にマイダンのデモの時には、彼らの民兵が来ていました。
集められたグループはキエフに送られました。
抗議デモは事実上、彼らが入り込んでさらに圧力をかけます。
デモは比較的平和な政治的抗議から、次第にますます暴力的になりました。

(進行役)
第一歩は、きっかけを作って合図を送ります。
セルヒ・リョヴォチキは、アメリカの有力な人物たちから現在高い評価を受けています。
報道された内容に憤慨したウクライナの人々は、翌日、警察の暴力に怒りをぶつけるため大挙して押し寄せて来ました。

(オリバー)
暴動が始まったのはいつからですか?

(ヤヌコーヴィチ)
事実上、深刻な法律違反は2013年12月から始まっています。
その頃、キエフで起きていた出来事は、非常に過激なものでした。

ネオ・ナチ・グループも参加していました。
バットや鉄棒で武装した若者たちがいました。
また、建設重機も使われました。
ブルドーザーで警察官たちと鉢合わせしました。
警察は、政府ビルや大統領官邸を奪われないように必死でガードしていました。
そのような手に負えない群衆の所に、大統領は行くことができるでしょうか?
誰と話せばいいんですか?

当時行われたこのテクニック(手口)は、かなり前から計画されていたものです。

(「ウクライナ・オン・ファイヤー2」へ続く)

地震雲などの画像より
2023年9月23日 三田市 10:47
2023年9月23日 名古屋 11:41
2023年9月23日 名古屋 11:41
太陽の周りを四角く囲んだような雲?
2023年9月23日 三田市 12:54
2023年9月23日 三田市 12:54
2023年9月23日 三田市 15:27
2023年9月23日 名古屋 17:19
2023年9月23日 三田市 17:31
2023年9月23日 三田市 17:31
2023年9月23日 三田市 17:35
2023年9月23日 三田市 17:35
2023年9月24日 名古屋 8:18
2023年9月24日 三田市 10:52
2023年9月24日 札幌市 16:33

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以上、地球の謎解きより。
写真は9月24日のソラ。

 

 


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