songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

どんぐり音楽会の思い出 その3 たった一度の予選会

2023-05-04 12:23:38 | ライフ
【祖母の立場】
祖母は静岡県磐田市で生まれ育った苦労人でした。身を持ち崩してしまった祖父に成り代わるも主婦以外やったことがなく、家計は火の車、土地も財産も差し押さえられ、
叔父、叔母さんたち口をそろえて「あの時代のことは思い出したくない」といまだに詳しい話は聞かせてくれません。
父をはじめきょうだい達が就職して自立し、ようやく安定して暮らせるようになった頃に私は生まれたので、私はその時代を知りません。すでにその祖父は亡くなっていました。
私は、兄弟仲の良い叔父さんたちと祖母しか見ておりませんが、その頃の無理が祟ったか、祖母は大病を患い、手術後はその磐田の借家も引き払って、私が小学6年生になる直前にこの岐阜県東濃地方にやって来ました。
嫁、姑同居というやつです。その後3年ほど我が家で暮らしましたが病気が再発し、帰らぬ人となりました。

祖母は、基本私をかわいがってくれました。ちびまる子ちゃんの友蔵じいさん…ほどではありませんが、苦労された割には、楽天的な方だったと記憶しています。
どんぐり音楽会の話が出た時、祖母は開口一番、「出たいって言うんだから、やらしてみりゃいいじゃん」
家に来て間もないころで嫁姑の関係性も微妙だったためか、父母は大きく反対することもできず、予選へのはがき応募へと段階が進むこととなりました。

今、当時の祖母の年齢になって思うのですが、おそらく祖母は、たいして何も深く考えていなかった。
祖母は、この結果私がどうなろうと、一切責任がありません。陰口をたたかれることも、恥をかくこともありません。失うものは何もないのですから、「楽しそうだと思うなら何でもやってみな」ぐらいの気持ちだったと思います。

私は、積年の望みがかなったかと勘違いして小躍りしました。
そうです。話はまだ、「応募はがきを出す」段階にしか来ていないのです。当時の私は、「予選っていうのがあるんだな」ぐらいの認識しかありませんでした。


【予選の時に気づく コピーって何?】
考えていなかった最初の壁は、すぐにやってきました。
予選会実施要項が届いたのです。
歌う曲の楽譜を持参すること。曲名を記してCBCに事前に送ること…のようなことだったと思います。
曲はもう決めてありました。前回記した「落ち葉」(チャイコフスキー、古いフランスの歌)です。私は、自分の学校放送の「のど自慢の時間」ぐらいの認識しか持っていませんでした。
覚えていないのは、「楽譜をどうやって送っていたのだろう?」ということ。この時代私の町には、コピー機というものが存在しませんでした。
父母が印刷屋さんで頼んでいたのか、学校の青焼きコピーだったのか…これが実は後々(だいぶ後で)トラブルの原因となります。

予選は、1977(昭和52)年11月初旬ぐらいだったのではないかと思っております。
日曜日だったのではないかと思います。だから級友たち、誰にも知られずに出ることができました。学校の先生にだけは、知らせてあったと思います。(楽譜のこともありましたし)
もう本当に、このあたりの記憶はあいまいです。
場所は、CBCホールでした。受付をすますと、客席にそのまま通されたと思います。
例の青い椅子。今でこそリニューアルしてきれいですが、1977年当時、すでにシートの色はすすぼけていて、(うわぁ…)と思ったことを覚えています。テレビカメラに映る色と、現実との違いを初めて感じた一瞬でした。

何より驚いたのは、参加者の多さです。田舎者の私は、「出たい子がこんなにもいるのか!!」と驚いたものです。だって6年間通った自分の学校で、この番組に出ようとした人など一人もいませんでしたから。
予選があっても、せいぜい2人に一人ぐらいの合格率で、テレビに出られるだろうと、ホールに来るまでは本気で考えていました。
ざっと数えただけでも、ゆうに100人は超えています。「この中から選ぶのか?」
自分が選ばれるかどうか、よりも、この人の多さに、めまいにも似た感覚を覚えました。しかし、同時に自覚しました。
「この予選が通らなかったら、学年的に、もう二度とチャンスはない。この1回にかけるしかない。」

自分にとって、たった1回の予選会が始まりました。




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