songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

覚えていてくださったどころか…感涙です。石川さゆりさんとツービート

2024-03-20 12:36:51 | ライフ
自分のブログの、だいぶ前の記事
「あのステージを、さゆりさんは覚えているかしら…紅白のビートたけしさんから」
が、意外に多く読まれていることを不思議に思って、「もしかしたらお二方、本当に覚えているのかも」
と、検索をかけてみましたら…

あった!!

「石川さゆりの前座だったたけし、『紅白』で自ら挨拶に出向く」
smart FLASHさんの過去記事です。


ご本人たちにとっても、大事な記憶だった様子がうかがえて、その場を共有できた私には、感涙ものの記事です。
なんだかわけもわからず妙にうれしくて、胸が温かくなります。
あの1978年から2年後、テレビで受けまくっているツービートさんを見て、不思議な感覚になったことを覚えています。
自分の目の前でアウェイ状態での漫才をしていた人たちが、こんなに短期間の間にスーパーメジャーになるなんて、と。

あのコンサートが見られてよかった、と、今も懐かしく思い出します。

忘れたころに君が代を蒸し返す方々へ

2024-03-18 02:25:40 | ライフ
すっかりご無沙汰いたしております。

世の中大きく動いているのに、私はなかなかブログが書けないままです。

さて、久々に蒸し返す質の悪い輩が出てきました。文部科学省に抗議に行った「君が代強制反対」の人たち 京都のキャロライン親子、ですか
まあ、名前を出したことに責任を負おうとしている覚悟は評価しますがね

この件に関しては、私がブログを立ち上げた大きな一つのきっかけとして一連の記事で語っております。「君が代問題」

ここから続く一連の記事をお読みいただき、それでも納得がいかないというのならば、どうぞ文部科学省を訴えてください。
わたしから言わせれば、まったく幼稚な理論と感覚で、ひどく罪深いことをしているとしか思えません。

強制という悪意ある言葉
日本音楽を全く受け止めようとしない傲慢さ
君が代成立までの道のりさえ知らない無学(あ、挽歌だったなどという苦し紛れの人はいたな)

最低のことぐらい学んでから訴えに行きなさいよ それとも、誰がこの親子を広告塔として、イデオロギーパフォーマンスさせようとしているの?
あ、マスコミか

無学にもほどがあります。この件については17年前に語りつくしました。政治家もマスコミも、この程度の情報は国民に与えておくのが義務のはずです。
それをあえて外しているところに悪意がある。
ほんと、いい加減にしてほしいですね。

どんぐり音楽会出演の思い出 その7 本番直前ってこんな感じ

2023-06-11 17:27:26 | ライフ
【とにもかくにも一発本番】
 前回のトラブルがあったことで、私は番組の進行についてほとんど何も練習、リハーサルをすることもなく、本番の収録に臨むことになってしまいました。私のような出演者のトラブルのために、時間を作り直すことなど無理だったのです。出演者の皆様や観客のタイムスケジュールもあります。
 他のみんなはばっちり本番通りの流れを一通りやっているのに、自分だけは3分の1ほどの情報しか得ていないままの、文字通りの一発本番の収録が始まろうとしていました。

 何が不安って、バックのバンドの皆さんと、一度も音合わせをしていないのです。前奏も分からない、どんなアレンジで来るのかもわからない。もちろん音量や、自分の出す声がどのように会場に響くのかも、とにかく何もわからない状態。今考えても、よく平気な顔して出演していたものだと思います。

 幸いだったのは、私は幼少期からこの番組をテレビでとことん見てきていたので、ほとんどの進行を自分でつかんでいたことでした。

 本番直前のホール。
…とにかく、すごい観客数に驚きました。超満員です。
 狩人のお二人さんは、やはり飛ぶ鳥落とす勢いのアイドル。しかも地元出身。あと、本番中にもお二人が語っていらっしゃいましたが、どちらか、または二人でこの「どんぐり音楽会」に出演されたこともあったらしい。石川進さんの「何点だったの?」の質問に「29点です。(30点満点)」と発言されて笑いを取っていましたが、あれは場を和ませるサービスで、実際には30点満点を取っていらっしゃったのだろうと、今になると思います。

学級の友達の、「ゲストが狩人でよかったね」の意味が、ようやく分かった気がしました。こんなところで歌うんだ。と。ありがたいことではありましたが、緊張も高まりました。

「前説」と言われる本番前の、ディレクターさん?の話の中で、
「CBCには、よく要望が来るんですよ。毎週人気のある歌手を呼べって。でもね、こればっかはなかなか難しいんですよ。こちらも努力しているんです。」というような内容のことをしゃべっていらっしゃったことを覚えています。そのうち、私も番組中の立ち位置を教えてもらい、流れを一生懸命覚えていると、アシスタントのお姉さん(すみません、名前は失念しました)が言いました。

「あなた、番組終わりの生CMのインタビューに答えてね。」

番組の流れを知っている自分でしたので、何を要求されたのかは即座に理解しました。この「どんぐり音楽会」では、一通り番組が終わるときに、お姉さんが出演者の一人にインタビューをして、放送上のCMをするのです。

「君は、ハンバーグは好きかな?」
「はい、大好きです。」
「家で、お母さんにハンバーグ作ってもらってる?」
「はい、作ってもらっています。」
「…はい。会場に来ている出演者の子も、家で作ってもらうハンバーグが大好きです。この、オリエンタルハンバーグの素を使えば、ひき肉と混ぜるだけで云々…」という流れ。
毎週テレビでやっていたので、どう答えればよいかは十分わかっていました。実際に我が家では、このCMに影響されて、この提供社、「オリエンタル」のハンバーグの素でよくハンバーグを作ってもらっていました。

まだ本番前なので気楽だった私は、お姉さんに、「うちでは本当によくこれでハンバーグ作ってます。」とぽつんと言ったら、思ったよりも反応してくださって、「えっ!?そうなの?じゃあさ、本番のインタビューでもそのこと言ってみてよ。頼んだよ。」と。

お姉さんは純粋にうれしくて、何気なくお愛想も含めて私に振ってきたのでしょう。しかし、私は違いました。「え……。これは何とかしなくては」

【生意気な出しゃばり】
傲慢にも自分は、それまでずっとテレビでその「スタジオCM(?ホールか?)」見ていて、若干イライラしているところがありました。「インタビュー受ける子たち、みんななんて下手なんだ」
歌はうまいのに、こういうインタビューを振られると、ぼそぼそと、言わされた感満載の答え方しかできない子ばっかじゃん。CMとして全然生き生きしてないじゃん。自分だったら…

小学生にしてそんなことで不満持っていたなんて、身の程知らずの傲慢も甚だしく、顔から火が出てしまいますが、確かにそういうことは思っていたのです。
客観的に見れば、本番のリハをたった一人やっていない大ピンチの場なのに、
「よし、最高に効果的なインタビューの受け方にしてやろう」なんてことで「とらぬ狸の皮算用」でほくそえんでいました。

悪いフラグ、立ちまくりですよね。新しいハードルができただけなのに。

そして、本番収録が始まりました。

どんぐり音楽会出演の思い出 その6 本番前

2023-05-29 01:20:06 | ライフ
【スタジオリハーサルへ】
2回目のCBCホール。同じように客席へ行くのかと思ったら、受付後、出演者のみ別の場所に案内されて、もうそこで父母とは別行動になっていきました。予備知識が何もなかったものでしたから、さすがに不安になりましたね。あれから半世紀近くたった今、思います。あの時間帯、父母はどうしていたのだろう?と。多少リラックスして新栄あたりで過ごしていたのか?父母亡き今となっては、もうわかりません。
出演者用の通路沿いだったか、目立たないところに、CBCがテレビを始めた当初のテレビカメラが資料として置かれていました。大掛かりで古めかしいカメラに驚き、生意気にも、「こういう昔の機材なんかが一般公開されてみんなで見学できるような施設があるといいなあ」なんて考えていました。
今のCBCホールはどうなのでしょう?もう15年近くあのあたりには足を運んでいません。
話はそれますが、うちの子が小学生時代、何かの絵のコンクールに入賞して、展示施設がCBCのギャラリーだったので、懐かしくて足を運んだことがあります。でも、少なくともその時は、そのような施設はなかったように覚えています。歴史ある放送局なのですから、そういう施設も作ってほしいと願ってしまいます。

話がそれました。ホールに連れて行かれ、いろいろ担当の方が進行を説明されました。私は、もうこの時から、司会の石川さんとか、水谷先生はじめとする審査員さん、ゲストの狩人のお二人がいらっしゃるものだと思っていたのですが、そうではありませんでした。


【事件発生・曲が違う!!】
「とりあえず、皆さん、バックのバンドさんと一緒に音合わせをしておきましょう」
ということで、マイク前での立ち位置などを教えてもらいながら、一組ずつ歌っていきました。
私は、4番目当たりの出演順だったのでは?という記憶です。ところが…

なんだかさっぱりわからない前奏が流れます。曲調が明らかに違います。どこでどう歌い出せばいいのか、さっぱりわかりません。パニックになっていると、当然担当者が怒ってきます。
「何やってるんだ!?練習してきたんでしょ?」
もう1回前奏からやってもらうのですが、やはり何ともつかめません。自分が悪いのか、自分は音痴になってしまったのか?…でもしばらくして落ち着き、ようやく自分にも、「間違えているのは楽団側だ」と気づいてきます。
「『落ち葉』はそういう曲ではありません。」
楽団やディレクター側はそんなはずはない、という態度でしたが、これもしばらくして、本当に何らかの手違いで、まったく違う楽譜がバンド側に渡っていたということが分かってきたようです。
もちろん現場はプチパニックです。

「じゃあ、君はちょっと別室に来て。あとの子は音合わせとリハーサルを続けるよ!」
私は別室(と言ってもおそらくホール横の薄暗い空間)に連れられて行きました。
本番を前にして、私はどうなってしまうのだろう?出演させてもらえなかったら???など、何とも言えない不安な時間でした。

ギターを持った、バンドの方と思われる方が私のところにやってきました。
「で、本当はどういう曲だったの?」と、やさしく聞いてくれました。もうこの時の私は、「自分がしっかりしていれば、何ら臆することはない」の境地でした。
楽譜は、持ってきていなかったと思います。「小学校の教科書に載っている曲で」と説明しても、あちら様が持っているわけがありません。一般的にはほとんど知られていない曲なのです。「どんぐり音楽会の思い出 その3 たった一度の予選会」の時に述べた、コピーという言葉が頭をよぎります。おそらくその予選のあと、何らかの手違いが生じたのでしょう。

偉そうなこと言いますが、この時、自分に多少の楽譜の心得があったことが幸いしました。
この時私は一生懸命その方に歌って聴かせ、楽譜上どういう音の動きなのか、速さやリズムはどうなのか、などを楽譜用語を交えて伝え、何とか曲の流れを理解していただきました。
あの時、自分に楽譜の心得がなかったら、私は本当に出場できなかっただろうと思います。私は当時ピアノも何も音楽の習い事をしていなかったので、私の音楽のお手本は学校の音楽の授業だけでした。
音楽が本当に好きだったので、習ったことをもとにして楽譜を読んだり、知識を付けたりしていました。それを家でハーモニカで吹いたり、リコーダーで吹いたり。鍵盤楽器は家にありませんでしたが、高学年になって、その頃世に出始めたばかりの「鍵盤ハーモニカ」なるもの(当時4000円)で楽しんだり。
それが、窮地を、とりあえずは救ってくれたのです。

ギターを持った方は言ってくれました。
「ありがとう。ごめんね、こちらの手違いだったみたいで。お詫びに、何かできることある?」
とのことですので、
「あの、狩人さんのサインいただくこと、できますか?」と、ダメ元で聞いてみました。すると、
「わかった。本番後、特別にプレゼントするね」

何ともありがたい話でした。当時人気絶頂の狩人さんのサイン。
引っ越しを重ねた我が家で、今、どこにあるのかわからないのでお見せできなくて恐縮ですが…もし見つかることがあったらアップさせていただきますね。

浮かれていた私でしたが、そうです。本番撮影は、すぐそこまで迫っていました。

どんぐり音楽会出演の思い出 その5 本番までの日々

2023-05-08 00:48:11 | ライフ
【レコード盤で練習】
予選を通ったことについて、学校の先生も喜んでくれたのだと思います。音楽を教えてくださった先生が、「レコードシングル盤」を貸してくださいました。「これで練習しておきなさい。」
私の家にはピアノはありませんでしたしもちろん弾けません(ピアノが入って練習することになったのは高校生になってからのことです)。

カセットテープレコーダーの普及率もこれから、音源はレコード盤だけ、という時代でした。
本番に向けて、より良い歌を歌いたいと思っていた自分にとって、ありがたい話でした。ちなみに両親が働いていて私はかぎっ子、一人っ子だったので、留守番していてちょっと暇があれば、気が向いたときにレコードをかけて一人で練習する、と言ったのん気なものでした。
学校の放送室では一人で歌えても、両親の前で一人で歌うことには抵抗があったのです。こう言ってはなんですが、あまり褒めてくれる両親ではなかったので、いい気持ちで歌えなかったですね。親の前で歌った経験はあまりありません。
自分で気持ちよく歌っていられればいい、人に文句を言われたくない、という、かなりわがままな態度でしたので(今でもそうかもしれません)、人前で歌って、何か指導してもらうなどという気分の悪いことなどしたくありませんでした。
祖母もよく出かけていたので、一人きりの時を中心に歌っていました。それが私にとってのレッスンすべてでした。
学校の先生も、そのレコード盤を貸してくれただけで、特に「レッスンするか?」という声がかかってきたこともありませんでしたし(先生の立場上も、それがベストだったのでしょうね)
両親も、予選が通ったからと言って何か態度を変えるわけでもなく、「どれ、お前の歌を聴かせてみろ」もありませんでした。まあ、私にはそれが一番気楽でよかったです。

レコードで練習している中で、自分なりに課題が見えてきました。「伴奏のテンポに合わせていると、息が続かないこと。」「変声期とは言わないまでも、声の高さが落ちかけていて、高音を体で支えにくくなっていること」等
どうすれば解決できるのか、わかりませんでした。でも、こういう性格でしたから誰かに教えを乞うこともせず、何とか頑張ればいいか、ぐらいでした。お世辞にも練習熱心ではなかったですね。その時の気分がいいかどうか、だけが、練習する、しないの基準でしたから。でも、音楽は大好きでしたのでいやになること、飽きることは全くなかったです。


【連絡待ちの日々 ずる休み??】
予選が11月だったので、遅くとも年内には収録に関する連絡が来るだろうと待っていたのですが、なかなか連絡が来ないのです。ついに、年を越してしまいました。
今だったらメールやらホームページやら、いろんな方法で気軽に問い合わせができるのですが、この時代の方法は二つ。郵便か電話です。
「それでも予選を通ったのだから、まさか忘れられていることはないでしょう、わざわざ問い合わせしなくても」と、やきもきした正月をむかえました。
でも、下手したら自分は小学校卒業しちゃって、出場資格を失ってしまうのでは、と、いらぬ心配ばかりしていました。無用なストレスが溜まります。友達にもまだ何も言えないでいるし。
(実際卒業してしまった子もいたのではなかったかと思います。そういう場合は特例で、応募時小6、という断りで出ていた子がいたような記憶があります)

これ以上待てない、いよいよ局に電話か、と思っていた1月も冬休み明け、ようやく通知が届きました。本番収録は2月1日水曜日の午後から。

ほっとしたと同時に、次の心配が浮かびます。
水曜日??

どう考えても、通常の学校の授業日です。早退しなければならない。でも、なんと言って??
「家の都合で早退します」
今ならば、周りの子もそれほど気にしないことですが、この時代の田舎です。病気でもなく学校から去ることは、「ずる休み」以外の選択がなかったのです。
そんな悪評を広められたくない。

…まあ収録の段階まで行ってしまえば隠しようがないのですから、そこまでのサプライズをねらっているわけでもないし、この段階で学級の仲間には事情を話すのがベストタイミングと考え、
「どんぐり音楽会に出演するので早退」を学級で公表しました。収録1週間前だったかもしれません。

思っていた以上に、驚かれました。
以前の「化石のトンネル」みたいな偶然ではなく、割と知られているテレビ番組に出る 結構な衝撃だったようです。うちの学校で、そういう形でテレビに出る子などいませんでしたから。
仲間の食いつき方が、「化石のトンネル」とは段違いでした。でも、まだ収録前だったし、照れもあるので、あまり語らなかったと思います。

2月1日の収録は2本立て(2週間分の録画)、とテレビではすでに放映されていました。
ゲストは、それぞれの回で、芹洋子さん、狩人のお二人、とテロップに出ていました。
早速学級の友達に聞かれました。
「ねえ、どっちのゲストの回に出るの?」
「狩人のお二人の回だよ。」
「えーーー!!いいなあーー。よかったよね、狩人の回で!」「サインもらってよ」
「いや、それは確かできないはずだから…」

ずいぶん失礼な子だな、とその時の私は思っていました。私にとっては、芹さんも、狩人さんも、とっても素敵な歌手だったので、全く同等に思っていたのです。
でも、同級生の女の子たち、ちょっとませてきた仲間たちにとっては、狩人さんたちは前年「あずさ2号」の大ヒットで、当時トップクラスのアイドル扱いを受けていたのです(収録時に私はそれを思い知ります)。
芹さんも大好きな歌手でしたが、当時の狩人さんほどの勢いには、世間的には及んでいなかったようなんですね。その時は。


そして2月1日水曜日。寒い日でした。
この日のために、両親も服を買いそろえてくれました。おそらく会社にも休みを取ったのでしょう。
なんだかんだ言って、私にとってはちょうどよい距離で気にかけてくれた両親には感謝しています。私もこの歳になるとわかります。恥ずかしいとはいえ、予選を通ったわが子の晴れ姿。嬉しく、誇らしかったのだと思います。
私はそれどころではなかったのですけどね。

学級のみんなに送られて、中央線で名古屋に向けて出発しました。祖母が留守番でした。