songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

どんぐり音楽会出演の思い出 その4 予選とその後

2023-05-06 15:01:29 | ライフ
予選の時に進行のかたがどのような指示をしていたのかは記憶にありません。ただ、ほとんどを客席で聴いていたということは、番号順にステージに呼ばれて歌っていたのだろうと思われます。
カラオケがない時代。後ろにはピアノが1台あっただけでした。事前に渡していた楽譜ですべての曲を伴奏されていたのであろうと思うと、まったくもって恐れ入ります。
真ん中にマイクが1本立っています。二人組で出るときは2本立ててくれていたかもしれません。

「マイクの前に立ち位置のテープが貼ってありますから、そこで歌ってください。間違ってもマイクスタンドを持つようなことはしないでくださいね。」
まだ世良公則さんもデビューするかどうかの時期だったから、マイクスタンドを持って歌うパフォーマンスをするミュージシャンもあまり多くなかったような気がしますが、多少はいたのでしょうね。音響の方々からすれば、マイクを触られる、マイクスタンドごと持たれるというのは、最悪の破壊行為でしかありません。もちろん安全性もあります。けがなどされたら大問題です。
それほど言われたにもかかわらず、1,2名の男の子がマイクスタンドをもってかっこつけていました。後ほど叱られていました。

そう、いろいろな面で私は面食らっていたのです。
今までにも述べてきたように、私は、小学校で行われていたあの奇妙な「お昼の放送のア・カペラのど自慢」の延長線上ぐらいの気持ちで歌いに来ていました。だから歌う曲も、教科書の曲や童謡、唱歌レベルで考えていました。
しかし考えてみると、それ以前から「どんぐり音楽会」では、歌謡曲を歌う子が増えていたなあ…と。そして、私が予選に臨んだ1977年あたりでは、出演者の8割が女の子で。特に自分が出演するなら…と考えていた頃には、女の子の出演率がぐんぐん上がっていたのです。
そして、歌のジャンルでも、唱歌童謡、教科書の曲を歌う子はかなり少なくなっていました。ほとんどの子が歌謡曲を歌っていたのです。私だって歌番組は見ますし、歌謡曲も歌っていましたが、それを歌ってテレビに出るという発想はありませんでした。

つまり、予選に出る構えが、根本から違ういろんな子が会場には集まっていたのです。


【予選開始】
いよいよ予選が始まり、いろんな子が歌い始めました。

生意気言うようですが、まったくの素人の自分が聴いても「箸にも棒にも…」のレベルの歌が結構ありました。
歌の最中に、昔の黒電話の呼び出し音のようなベルが鳴るのです。そのベルが1回しか鳴らなかったら不合格、2回鳴ったら合格、予選通過、というシステムでした。(記憶違いだったらごめんなさい)
予想通りというか予想以上というか、9割近い子たちがベル一つで、どんどん敗退していきます。
まるで他人事のように「ずいぶん残酷だなあ」と感じていました。でも思っているより、落ちた子たちも割とサバサバとしています。

近くの席で、女の子が家族や友達と、「また落ちちゃった」なんて言っているのが聞こえました。それで分かりました。
何度もチャレンジしている子たちがいるんだ、と。私が恐る恐る家族と出演の相談をするレベルとは全く違うのです。落とされてもくじけず、メディアに出るチャンスを何度も、したたかにねらっている子たちが、本当に多いのだと感じました。(もちろんそんな子たちばかりではなかったのですが)
ただの度胸試しで遊びに来たぐらいの子たちもいました。実に、いろんな子がいるものだと思いましたね。

その中で、ひときわ目を引く女の子がいました。

見かけは3,4年生ぐらい。予選だというのにドレスを着ています。今思えば、顔もうっすらとメイクしていたと思います。
お人形さんのようにかわいい子。明らかにまわりとオーラが違います。どんなかわいらしい歌を歌うのかと思いきや、歌いだしたのは八代亜紀さんのド演歌。「おんな港町」だったか「愛の終着駅」だったか…どっちにしても超絶難易度の高い曲。声色は全然ハスキーじゃなくて、むしろ「この声なら石川さゆりさん歌ってほしい」と言いたくなるような芯の通った声でした。ごめんなさい、名前は忘れました。
もちろん合格しました。
ところがこの子、自分の席に戻ると、お母さんと思しき方から何やらお叱りを受けているようなのです。きっと細かい表現についてのダメ出しだったのでしょう。
そう。この女の子は素人ではない。おそらく個人レッスン、または芸能事務所所属でプロ歌手を目指している子だったのだと思います。
その後彼女は私の出演した回ではないときに「どんぐり音楽会」に出演して、その週のチャンピオンになっていましたし、前回述べた東海テレビの番組にも出ていました。ちょっとした賞荒らし、有名人だったのだろうと思います。どこに出演するときも八代亜紀さんの歌を歌っていました。
あのルックスと歌唱力なら、おそらく芸能界入りしたと思うのですが、残念ながらその後のことは知りません。

私は当時から「歌」にしか興味がなかったのでわからなかったのですが、その頃にはもう「どんぐり音楽会」のような番組は、ただののど自慢番組から、芸能界への登竜門のような気持で出演している子が多くなっていた、ということになります。ですから今記した八代亜紀を歌うような子は極端だとしても、名古屋にもすでに巣山プロや劇団ひまわりのような事務所に所属していた子は多くいたでしょうし、世に出るための一つの手段、ステップとしてどんぐり音楽会の予選に出ていた子が非常に多かったのだ、と思われます。

むしろ私に対して、「じゃあ、お前はなんでこの番組に出ようとしてるんだよ?」と目的を質問されるほど。

私は歌が好きだし、いい歌披露したいし、歌って褒めてもらえば嬉しいし。本当にそれだけでした。今でも基本それは変わっていません。

さて、私が歌う番になりました。不思議とそれほどは緊張しませんでした。ベルが2回鳴った時は、もちろんうれしかったです。ですが、大した記憶がないんですね。それほど、この予選会で見たいろんな人々や光景が衝撃的だったのです。
両親も喜び、励ましてくれました。がこれも不思議なもので、私と同じくそれほど興奮したわけでもなく、「よかったな。今度は本番だな。」ぐらいの会話でした。

この時何人ぐらいの子が合格していたのかは覚えていません。が、20人はいなかったと思います。私はこの日に合格したメンバーで、本番1回分の収録を行うのだと思っていましたが、そうではなかったのです。他の回の予選通過の子たちもごちゃ混ぜにして、それぞれの収録に振り分けていたようです。


長い長い1日が終わりました。中央線の、遅い電車で家族で帰ったことを覚えています。

予選通過の結果は祖母も喜んでくれ、学校にも、「まだクラスメイトには内緒」ということで通過の報告をしました。

予選を通過すれば、あとは局からの連絡を待って、本番収録に臨むだけなのですが…
次回述べます…

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