songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

化石山のふもとから~拉致も慰安婦も暴行もねつ造ではない。しかし~   加藤明さんを偲んで

2017-11-27 00:11:50 | ライフ
また一人、戦争の時代の貴重な生き証人を失いました。

瑞浪市に在住だった加藤明さんです。
岐阜県地下壕研究の代表をされていた加藤さん。新聞の取材にもたびたび応じておられました。
 しかし私が加藤さんの存在を知ったのは最近のことで、機会があれば一度お話を…と思っておりましたが、お亡くなりになり、非常に残念に思います。

ご本人自らも戦争の時代の体験者でありながら、その後、この後述べる「化石山」の実態を確かめるべく情報を集め、集約された方です。

くわしくはこのリンク先からご検索ください。
http://xn--w0w51m.com/ireihi/

このデータと、小説「化石山」からはっきりわかること

1.悲惨な強制労働は間違いなくあったこと
・瑞浪市の化石山(現在の中央道瑞浪インター周辺)では、昭和20年4月から8月終戦間際まで、300人を超える中国、朝鮮人が劣悪な条件の中で働かされていた。
・工事現場は地下に、川崎重工の飛行機工場を作るための掘削が中心であった。
・彼らの多くはそれ以前に母国で俘虜となったもの、拉致された者などであった。
・瑞浪に来る前は長野県に集められていた。
・4月に化石山に来る時、既にほとんどの者は弱り切り、または病気だったが、長い長い道を無理やり歩かされたらしい。地元の人の目撃情報は多い。
・労働に就くには就いたが、以上の状況から、実際には大した労働力にはならなかったという。
・食事も生活環境も人としての扱いも、およそ人間としての扱いレベルではなかったそうである。

2.39人の死者 彼らが最も恨んだこと
・当然倒れる、死者も出る。死者はそこで松やにで炊いて火葬にしたという。
・倒れればさぼったと見なしてひどい仕打ちをしたという。
・それらの仕打ちをした本人たちは敗戦間近の情報を得ると隣県にこっそり逃げたという。残った軍人の中には終戦後瑞浪で彼らに袋叩きにされたといい、どちらも本人たちからの証言がある。
・39人の死者のうち、なんと14人が、終戦後2か月以内に死去している。とても労働などできる状態ではなかったことがうかがえる。「化石山」でフィクションながら実名登場した王喜隆氏は、実際には8月28日に逝去、わずか18歳であった。
・そんな悲惨な状況でありながら、生き残った元俘虜の方々の話では、
 「化石山の強制労働もひどかったが、それ以上に、母国で拉致されたことが一番恨みがましく、憎い」
という。この拉致の方法こそ、小説内に登場する「うさぎ狩り作戦」であり、(ここからは私の見解であるが)またこれは、後年日本で行われた、北朝鮮による日本人拉致の方法に酷似している

3.データを取った時期からわかる信ぴょう性
 この調査は、具体的には昭和28年から始まっています。おそらく本土でも、大陸や朝鮮半島での実態がまだつまびらかにされていない時期です。
 今のように、捏造や「盛った」証言によって世論を操作しようなどという時代でもなく、また、大きく公表されるような取材でもなかったこと、目撃者が多かったこと、加藤さん本人の体験や日本人側の生き証人など、総合して考え、ここにある証言データは、まったく捏造の可能性がないということが分かります。今韓国のメディアで証言している「自称慰安婦」とは、まったく信ぴょう性が異なります。

 これらのことから、次のようなことが言えます。

日本は、やはり戦争の時代に、中国本土、朝鮮半島などで非人道的なことを行ってきた。このことは認めねばなりません。
化石山の例では女性、慰安婦はおりませんでしたが、朝鮮半島などで「うさぎ狩り」などによって不法に慰安婦扱いされた、ありていに言えば拉致されて性暴力を受けた女性もきっとあったことでしょう。

ひとことで戦時の現場と言ってもいろんなところがあったはずです。実情は様々です。「慰安婦なんてでっち上げで、全部売春婦だったくせに」と息巻く一部の人がいるようですが、非常識な戦時の現場、うさぎ狩りが行われるような現場の中で、性暴力がゼロだったと考えるほうがむしろ不自然です。
「サザエさん打ち明け話」で長谷川町子さんが、敗戦後進駐軍がやってきた時の恐怖を記しています。町中のうわさで、「女性は進駐軍に犯される」となって、隣近所はみんな疎開してしまった、というくだりがあります。

なぜそういううわさが流れたか、答えは簡単ですね。日本人に限りませんが、占領側の人間は、現地の女性にそのようなことをするものだ、というのが戦時の常識中の常識だったからです。


で、

今では絶版になっている「化石山」を読んだ人たちは、必ずと言ってよいほど、
戦時中の日本の蛮行、ということでこの本を題材にした劇などを公開して反戦のキャンペーンに使い、過去の日本人は悪い人たちだった、というふうに話を進めようとします。
あるいは、よく言う「日本は歴史を直視して、強制労働、慰安婦問題を認めて謝罪し云々」の主張につなげようという

でも、おそらく子どもたちは、その結論が出そうになると、本能的に「ん??」と首をかしげるはずです。それまで感動して読んでいた「化石山」が、急に胡散臭く感じられてしまう…

そうです。ことは単純ではない。

思い切り長くなりましたが、気力があれば続きを書きます。

「化石山」
偕成社 少年少女創作文学シリーズ
著者:岸武雄 1972年 214ページ
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明治ミルクチョコレート デラックス コマーシャル

2017-11-05 21:36:39 | 音楽
明治ミルクチョコレート デラックス コマーシャル


ついに見つけました

このCM、ほとんど語られることがないのが私には残念です
このCMをきっかけに、岐阜の田舎の中学生であった私が、一時期強烈に「明治製菓」(現:明治)にのめりこんでいったことを思い出します。
明治製菓と言えば、昔から、国民的な有名人をCMに使うのがスタンダード。
「チョコレートは明治」といういずみたくさんの曲も、このビデオの10年ぐらい前から普通に流れていました。
だからよく知っている曲でした。

CMでは歌手の人、タレントなどが歌っていて、特に気にも留めていませんでした。

ところが、このCMの歌を聴いて、私は深く感動してしまいました。
なんてきれいなメロディーとハーモニーだろう、と。
今聴くと、歌っているのはおそらくは杉並児童合唱団。すばらしい声です。

そして分厚いコーラスとオーケストレーション。アナログ録音時代のもっとも厚みのあるサウンド。
ちょうど山下達郎さんや大瀧詠一さんがあの最高のサウンドを作り上げた時代と一致します。

今のように、どこの中学校も合唱を中心にして取り組んでいるような時代ではありませんでした。
こんなに美しくポップな合唱の音を、私は聞いたことがありませんでした。松田聖子さんのところでも述べたとおり、多感な年齢の時期ということもあったのでしょう。

とにかく夢中になりました。この音が聴きたい。
今まで知っていた曲が、こんなにも素晴らしい音だったなんて、と。
しかし、今とは時代が違います。いつこのCMが流れるのか、検索の仕方が分かりません。

恐れ多くも、田舎の中学生、この時、明治製菓本社の宣伝部に投書をしました。「いつ流れるのですか?」と。(15秒のスポットではなく30秒ものを、と生意気にも)
すると本社より、
・当時放送していた「Gメン75」の提供でよく流れること、
・ラジオでは、「サーカス」が「チョコレートは明治」を歌っていること…という情報
・その、「サーカス」バージョンのスタジオ用楽譜と、明治製菓の主力商品カタログ
が送られてきました。

こんな一学生の気まぐれな投書に、最大級の誠意で「有料で」ご返信いただいた明治製菓宣伝部の方に、32年越しで、改めてお礼申し上げます。
本当にうれしかったです。
(ただこの後私は、こういうものなのだと大きな勘違いをして、いくつかの企業や放送局に無礼な問い合わせ投書をしており、後年こういうことは会社の方にとって大変なご負担であることに気付きました。世間知らずを大いに恥じたものです。明治製菓の皆様、ご負担をおかけしました。)でも、この時いただいたものは確かに私の心の中で大きな宝物となりました。

さらにのめりこんだ私は、自宅のカセット録音機で明治製菓のいくつものCMを録音しました。
いい音楽、楽しい音楽が多かったのです。チェルシー、フレンチパイなど…

「明治製菓CM集」として4分ぐらい音源を集め、学校のお昼の放送で流させてもらいました。
まさか学校放送もNHKではないから、止めることはないだろう、と。
果たして放送開始後1分ぐらいで強制終了。「なんだこのふざけた音は」と職員室で呼び出しをくらいました。
私は全く自分の勝手な価値観で進んでいて、周りのことに目がいっていなかったのですね。
叱られていてもしばらくの間、なんで自分が叱られているのかが分からずにいました。「いい音楽を流すことに何の問題があるのか?」と。

まあ、思い出しても未熟極まりない、発達の問題を指摘されるレベルの厚顔無恥な学生時代でした。今こんな、空気の読めない児童生徒はまず見かけません。
でも、本当にいい音だったんです。

明治チョコレートデラックスのCMに話を戻します。
このアニメと児童合唱団バージョンがその後も続くのかと思っていたのですが、1980年途中、終了してしまいます。

81年初め、五十嵐浩晃さん「ペガサスの朝」バージョンの放送に切り替わったのです。いや、私もこの曲好きでしたが。
曲が大ヒットし、これ以後、元通りの、歌手、タレントものに戻り、現在に至ります。
私のCM熱も冷めていきました。

でも、ひょっとしてあの時、自分がもっと頭がよくて向上心があり、商社マンに興味があったのならば、明治製菓、もしくは広告代理業に憧れ、目指していたかもしれません。
CM NOWという雑誌が発行されたのもこの2年後ぐらいでした。
過酷でとんでもない業種だということはおぼろげにつかみ、そそくさとあきらめたのですけどね。

後年尋ねてもこのCMを覚えている人はほとんどおらず、ネット上でも見つけることはできなかったのであきらめていたのですが、
見つけたんです。本当にうれしい。

私に音楽の美しさを教えてくれた記念碑の一つなのです。


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↓読みにくいのでアップにしました

2017-11-05 06:38:47 | Weblog
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最近のデジャブその2 本当はこっちが書きたかった「君の名は。」と「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」

2017-11-05 01:16:10 | Weblog
私生活、体調その他諸々いろいろあって、最近ではまともに記事が書けない日がずーっと続いておりました。
今回の記事も、本当は前回(5月)すぐに書きたかったのですが、(最近のデジャブその1、の記事です)書く集中力を保てず、結局半年もたってしまいました。
そうこうするうちに他にも書きたいことがいろいろあり、そちらもまとまらず…の半年でした。

1年前散々騒がれた「君の名は。」

「見るべきだ、見なければいけない」
「あんな名作、他にない」
「食わず嫌いとは論議する気にさえなれない」
「これを見ずして、結構ということなかれ(日光見ずして、のことだな)」

珍しいほど若い世代が、こぞってものすごい布教活動をした作品でした。あれほど群れたがらない、冷めた若い世代が、すごい使命感に突き動かされているかの如く語っていました。
我が家もご多分に漏れず息子世代がせかしました。「あれを見ずに語っちゃあだめだよ」と

そうはいっても、我が子世代よ
見る前から、我々世代は、そういう言葉を聞くほど意固地になっていったのだぞ
だって評判を聞けば聞くほど、「転校生」と「時をかける少女」のミックスではないか
お恥ずかしながら我々の世代は、それらの映画で当時胸をきゅんきゅんさせ、「このときめきは自分の心の中にそっとしまっておこう」と
がたいのいい男どもまでもが、これでもかというほどときめいた世代なのだ わかるか?恥ずかしくて口になど出せない青春だったのだ

なぜおまえたちは口に出す?そして強要する?

もう我々の世代では、とっくに終わっている世界なのだぞ

…と言いたかったのですが言えるはずもなく、今年の春、岐阜の映画館でやっていたので家族で見に行きました。もうとっくにシーズンオフだったので観客も少なく、ゆったりと見ました。
しかし、なるほど見る甲斐はありました。
なんといっても地元岐阜ですので 古川と思しきあの地方一帯の描写
実際にもあの通りの巫女舞

隕石の惨事描写は、県の東西は違えど、数年前の御嶽噴火の惨事を思わずにはいられませんでした。

ストーリーの甘酸っぱさは…先述の通り、もう私たちは、「既に終わっている」世代ですので、まあ、まあ、ということで



この映画は、実に多方面で論じられており、私はまともに見たのは1回だけですから、偉そうなことは全く言えません。
ただ、私がこの映画で受けた最大のデジャブこそが、この映画のテーマだったように思えたので、一言添えていきます。


忘れちゃいけない人、最も大切にしなければならない人
しかし、その、最も大切な相手の名前を思い出せない事態に陥り、果てしない絶望感にもがく

「君の名は。」のその場面で、大きく動揺した人がほとんどなのではないかと思われます。映画のテーマに直結するところです。
そのシーンに、私は心当たりがありました。
今回のタイトルに挙げた、「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」の、幻のボツシーンです。


上の画像は、1984年「うる星2」公開時に出された「少年サンデーグラフィック10 うる星やつら2 ビューティフルドリーマー特集」の中の1ページです。
名作の誉れ高い押井守監督の「うる星2」。この「ボツシーン」の直前は、次のような場面です。

この映画に出てくる妖怪「夢邪鬼」は、ラムと契約し、ラムの夢の世界を構築していた。あたるたちは知らぬ間に、その、人(ラム&夢邪鬼)の夢の中で動く人物たちにされつつあった。
真相に気付いた登場人物たちが次々と闇に消され、同じく真相に行きついたあたるも「夢邪鬼」が用意した避難所みたいな夢の世界に押し込まれる。
それもよいかと気楽なことを言っていたあたるだったが、肝心なラムのいない不完全さに気付き、この世界をついにすべて破壊。
「夢邪鬼」は、壊された腹いせに、あたるに様々な悪夢を見せつける。「目覚めたら数百年の時が流れ、伴侶のラムは機械の故障で党の昔に亡くなっている夢」
「自らが醜い姿に変えられ、誰からも避けられて生きていく夢」など

その次に、このボツシーンが挿入される予定でした。

この直後、猛烈に落ち込み自失しているあたるに、「夢邪鬼」は言います。
「今のはきつかったやろ。夢でよかったと。夢やったから、やり直しがきくんや。夢で暮らしなはれ。わしと契約せんか。夢の世界で生きるんや」

しかしあたるは、忘れちゃいけない人すべての名前を口にし、最後に「ラム」の名を叫びながら、現実の世界に戻ることに成功する
、というシーンです。


「うる星2」はすばらしい名作でしたが、当時からこの幻のボツシーンを知る人たちからは、
「なぜあのシーンをボツにした?一番肝心なシーンなのに」
「あのボツシーンこそ、肝だろ?あれがないとつながらないじゃないか」
「あのシーンのあるなしで、作品の価値が数段違っていたはずなのに」

と惜しむ声が引きも切らず、でした。まあいろんな事情があったからでしょうけどね。


「君の名は。」の例のシーンを見て私は、誠に自前の勝手ではありますが、あの幻の「うる星2」の「ボツシーン」が日の目を見たような気持ちになったのです。
ああ、報われた、と

こんな感想もちながら映画見ていたのは、私ぐらいのものだったでしょうけどね

非情にひねくれた視点でありながらも、私は「君の名は。」を見ることができて非常に良かったと思いました。
私の中で、この二つの作品が、紡がれ、結び付けられたのです。新海監督も案外、この「うる星2ボツシーン」を意識していたのかもしれないな、なんて
一人で勝手に考えたりしております。誰も言わないから私の妄想でしょうが。
コメント (2)
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