songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

どんぐり音楽会出演の思い出 その5 本番までの日々

2023-05-08 00:48:11 | ライフ
【レコード盤で練習】
予選を通ったことについて、学校の先生も喜んでくれたのだと思います。音楽を教えてくださった先生が、「レコードシングル盤」を貸してくださいました。「これで練習しておきなさい。」
私の家にはピアノはありませんでしたしもちろん弾けません(ピアノが入って練習することになったのは高校生になってからのことです)。

カセットテープレコーダーの普及率もこれから、音源はレコード盤だけ、という時代でした。
本番に向けて、より良い歌を歌いたいと思っていた自分にとって、ありがたい話でした。ちなみに両親が働いていて私はかぎっ子、一人っ子だったので、留守番していてちょっと暇があれば、気が向いたときにレコードをかけて一人で練習する、と言ったのん気なものでした。
学校の放送室では一人で歌えても、両親の前で一人で歌うことには抵抗があったのです。こう言ってはなんですが、あまり褒めてくれる両親ではなかったので、いい気持ちで歌えなかったですね。親の前で歌った経験はあまりありません。
自分で気持ちよく歌っていられればいい、人に文句を言われたくない、という、かなりわがままな態度でしたので(今でもそうかもしれません)、人前で歌って、何か指導してもらうなどという気分の悪いことなどしたくありませんでした。
祖母もよく出かけていたので、一人きりの時を中心に歌っていました。それが私にとってのレッスンすべてでした。
学校の先生も、そのレコード盤を貸してくれただけで、特に「レッスンするか?」という声がかかってきたこともありませんでしたし(先生の立場上も、それがベストだったのでしょうね)
両親も、予選が通ったからと言って何か態度を変えるわけでもなく、「どれ、お前の歌を聴かせてみろ」もありませんでした。まあ、私にはそれが一番気楽でよかったです。

レコードで練習している中で、自分なりに課題が見えてきました。「伴奏のテンポに合わせていると、息が続かないこと。」「変声期とは言わないまでも、声の高さが落ちかけていて、高音を体で支えにくくなっていること」等
どうすれば解決できるのか、わかりませんでした。でも、こういう性格でしたから誰かに教えを乞うこともせず、何とか頑張ればいいか、ぐらいでした。お世辞にも練習熱心ではなかったですね。その時の気分がいいかどうか、だけが、練習する、しないの基準でしたから。でも、音楽は大好きでしたのでいやになること、飽きることは全くなかったです。


【連絡待ちの日々 ずる休み??】
予選が11月だったので、遅くとも年内には収録に関する連絡が来るだろうと待っていたのですが、なかなか連絡が来ないのです。ついに、年を越してしまいました。
今だったらメールやらホームページやら、いろんな方法で気軽に問い合わせができるのですが、この時代の方法は二つ。郵便か電話です。
「それでも予選を通ったのだから、まさか忘れられていることはないでしょう、わざわざ問い合わせしなくても」と、やきもきした正月をむかえました。
でも、下手したら自分は小学校卒業しちゃって、出場資格を失ってしまうのでは、と、いらぬ心配ばかりしていました。無用なストレスが溜まります。友達にもまだ何も言えないでいるし。
(実際卒業してしまった子もいたのではなかったかと思います。そういう場合は特例で、応募時小6、という断りで出ていた子がいたような記憶があります)

これ以上待てない、いよいよ局に電話か、と思っていた1月も冬休み明け、ようやく通知が届きました。本番収録は2月1日水曜日の午後から。

ほっとしたと同時に、次の心配が浮かびます。
水曜日??

どう考えても、通常の学校の授業日です。早退しなければならない。でも、なんと言って??
「家の都合で早退します」
今ならば、周りの子もそれほど気にしないことですが、この時代の田舎です。病気でもなく学校から去ることは、「ずる休み」以外の選択がなかったのです。
そんな悪評を広められたくない。

…まあ収録の段階まで行ってしまえば隠しようがないのですから、そこまでのサプライズをねらっているわけでもないし、この段階で学級の仲間には事情を話すのがベストタイミングと考え、
「どんぐり音楽会に出演するので早退」を学級で公表しました。収録1週間前だったかもしれません。

思っていた以上に、驚かれました。
以前の「化石のトンネル」みたいな偶然ではなく、割と知られているテレビ番組に出る 結構な衝撃だったようです。うちの学校で、そういう形でテレビに出る子などいませんでしたから。
仲間の食いつき方が、「化石のトンネル」とは段違いでした。でも、まだ収録前だったし、照れもあるので、あまり語らなかったと思います。

2月1日の収録は2本立て(2週間分の録画)、とテレビではすでに放映されていました。
ゲストは、それぞれの回で、芹洋子さん、狩人のお二人、とテロップに出ていました。
早速学級の友達に聞かれました。
「ねえ、どっちのゲストの回に出るの?」
「狩人のお二人の回だよ。」
「えーーー!!いいなあーー。よかったよね、狩人の回で!」「サインもらってよ」
「いや、それは確かできないはずだから…」

ずいぶん失礼な子だな、とその時の私は思っていました。私にとっては、芹さんも、狩人さんも、とっても素敵な歌手だったので、全く同等に思っていたのです。
でも、同級生の女の子たち、ちょっとませてきた仲間たちにとっては、狩人さんたちは前年「あずさ2号」の大ヒットで、当時トップクラスのアイドル扱いを受けていたのです(収録時に私はそれを思い知ります)。
芹さんも大好きな歌手でしたが、当時の狩人さんほどの勢いには、世間的には及んでいなかったようなんですね。その時は。


そして2月1日水曜日。寒い日でした。
この日のために、両親も服を買いそろえてくれました。おそらく会社にも休みを取ったのでしょう。
なんだかんだ言って、私にとってはちょうどよい距離で気にかけてくれた両親には感謝しています。私もこの歳になるとわかります。恥ずかしいとはいえ、予選を通ったわが子の晴れ姿。嬉しく、誇らしかったのだと思います。
私はそれどころではなかったのですけどね。

学級のみんなに送られて、中央線で名古屋に向けて出発しました。祖母が留守番でした。


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