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songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

すみませんgooさんへのお礼中断! 参政党について聞き捨てならないこと

2025-07-09 00:19:49 | Weblog
7月8日の新聞で初めて知りました。
参政党は、「創憲」といって憲法を作り直したいと。天皇は「元首」とし、「教育勅語」を重視し、「国民主権」ではなく、「国 主権」とすると。
公表しておりますのでフェイクニュースでも何でもありません。

これについて、なぜネットもマスコミも言及しないのでしょうか?天皇がからむとセンシティブだから、あるいは伝家の宝刀選挙期間中だから特定の党のことを云々いうのは避けて公平、とかいういう大ウソ?
兵庫県知事選の時あんなに堂々とネガキャンやっていたマスコミが?

この提唱は、国家の根幹にかかわる非常に重要な問題を抱えております。選挙期間中だろうが何だろうが、触れなくてどうするんですか?

この党の、党員の集め方、党員に配るDVDの法外な金額など、いろいろと宗教染みた怪しさは聞いていました。といっても比較的最近ですが。
それでもこの党の主張の中に現在の日本が抱える大きな課題に切り込もうとするところがあり、支持者が増えるのもあり得るのだろうと考えてはおりましたが、冒頭の記事のことについてだけは聞き捨てなりません。

この主張、まとめれば「大日本帝国憲法に戻せ」でしょ?最も根幹的な思想として。
党員の皆さんや支持者の皆さんは、それを是としているのですか?ずいぶん多くの支持者を集めているみたいなのですが。

天皇は、「権威」であっても、「権力」ではありません。これは、世間からは「どちらかといえば右寄り」といわれがちな小名木善行氏が常に広めている話です。
何千年と続くたった一つの家系が日本のトップとして位置付いている天皇家。こんな国は世界中ほとんど例を見ません。ですから、日本の天皇の「国を代表とするお家柄」は、世界中どこへ行っても大きな敬意をもって迎え入れられます。
これを「権威」といいます。君主、元首、という言葉に置き換えられてもよいほどのものをもっているのです。

しかし、かつての憲法下での日本は、「元首」という言葉を用い、実質、権力者としての位置づけをした。いわゆる、将軍様の、さらに上をいくゆるぎない為政者としたわけです。
写真を全国すべての学校に配り、拝ませました。政治の中心に位置づけ、決定権を持たせました。最後にはそれを最大限悪用し、多くの過ちを含んだ道に進んでいきました。

天皇家が権力を振るわなければまとまっていかなかった古代と違い、平安時代以降、天皇は実質「権威」であり続けました。
権力をふるおうとした天皇(ご本人なりに大きなお考えはあったのですが)が動いた時、ろくなことにならなかったことは歴史がはっきり証明しています。

天皇の一系が日本の国のありように大きく関わり続けていたことを学んでいない人は多い。それは確かです。我が国のすばらしさを語るとき、天皇という存在は切っても切れない関係にあります。残念ながらそれを学んでいない人はものすごくたくさんおり、もちろん私も浅学です。だから参政党をはじめとした人たちの「もっと皇室について畏敬と学びを」の気持ちがわからないとは言いません。しかし、決して権力を握ってはいけないのです。大日本帝国憲法はそれを行い、最大限の悪用をしてしまったのです。徳川が退いた世で、日本には新しい「葵のご門」に当たる存在がないと国民は安心できなかった時代ですから、事情は分かるのですが、結末は皆さんが知る通りです。

教育勅語もその一つ。
これも私がこのブログで何度も触れてきました。時代背景として、国民には「いざ鎌倉」のご主人に当たる存在が必要でした。それにあたるのが天皇。
ですから、教育勅語の最後の項目にはそういうことが書いてあります。「国民はいざとなったら私のために心を一つにして動きたまえ」でも、それ以外の項目は、至極一般的な、生きる上での心構えがうたってある。

歴史的に価値あるものとして、それを改めて読むのを悪いとは言いません。でも今の時代、それをそらんじて読ませることに、それほどの意義は感じません。
それは、「子曰く、〇〇〇」であったり、「ならぬことはならぬのです」の会津の十のおきて レベルのことに過ぎない。洗脳まではできませんし、させる必要もない。
道徳という授業があるからです。

「国民主権」といわず、「国に主権」とは???やはり元首である天皇に政治的責任を持たせ、「国体」という言葉を再び悪用しようとしているとしか、私には読み取れません。
私は、「国体」という言葉は非常に重要な言葉だと思っています。我々の生活主体、守ってくれている存在、一体感の意識、その母体、最も大切にしていきたいものとして国という意識を持つこと。その意識は大切です。
でも、主権は国って…説明をあやふやにしているところに怪しさを感じます。
なんにせよ、今の憲法は壊してしまうというのがこの党の一番やりたいことということ。絶対に知っておかなければならないのです。

思うようにいかないとき、この党の方々が起こす活動として、「クーデター」の現実性を私は恐れます。

現実的に考えましょう。そんな憲法が、数年のうちに国民の理解を得て、新しく作れると思いますか?現在の陛下は、それを是とするのでしょうか?私は、違うと思いますよ。
どうにもならないとき、ここまでの考えを持った大きな集団がやりそうなこと それは2.26事件や5.15事件のようなクーデター
今支持している皆さん、そんなことをしたいと思っているのですか?

希望や強い意志を持った前向きな人が、この党の支持者には非常に多いように、私には見受けられます。党是は変えることができますから、今後も学んでいただきたい。しかし、
「間違っていたことに対しては責任もって訂正の公表をする」ことだけは忘れないでください。私はこの党は、まだ学び足りないところがあると思っています。党の運営についても、多少疑っております。
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何とか引っ越しできそう gooブログ様へのお礼を一言 1

2025-07-06 23:17:38 | Weblog
何とか、ブログ引っ越しできました。
引っ越し先は、アメブロです。
https://ameblo.jp/hanninnkyo/

数年前、本名名義で投稿しておきたい内容があってアメブロにアカウントを作り、一つだけだったか、記事を投稿して備忘録にしておいたのです。
いくつもアカウントやチャンネルを作るのは嫌だったので、どうせなら、ということでそのアカウントを引っ越し先に選び、申請しておりました。

このたびデータ引っ越しの通知を受け取り、アメブロの自分のページを見てきました。
そうしたら、ちゃっかり(?)自分の本名の記事が時系列順に組み込まれていて、現在ちょっとあわてています。
一応身元を隠した上で述べることができる記事がほぼ全てですので、今後何らかの対策を、と考えています。

それにしても、感慨深いです。

私は、「goo」というサイトにお力添えをいただいて、ネットの世界に入り、どうにかやっていくことができるようになりました。
はじめは「教えて!goo」でした。以前にも記しましたが、当時のネットは今ほどオープンではなく、知りたいことがあってもどうすればいいのかわからない。
交友関係も広くないし、ましてやパソコン、ネットの話題となるとさらに情報源がない。仕方なくネット内の適当なところで質問しても
「教えてほしいのなら、それなりの情報ネタを渡してくれねえとなぁ~。こちとらパソコンのスキルつけるためにどれほど苦労したと思ってんだよ?マシン語で基本的なプログラムぐらい組めるんだろうな?」
という圧があからさまで、いつも途方に暮れていました。

そんな時に出会った「教えて!goo」は、私にとっては革命的なツールであり、神様のような存在でした。ちょっと大げさか。
あらゆるジャンルの質疑応答を見て、「ああそうなのか」と知ることができました。しかもここでは、自分が回答者側になれる。良回答、などと認めてももらえる。
あっという間にとりこになり、むしろ回答者としてささやかな「生きがい」を感じ始める場になってしまいました。

…まだ続きます。

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どんぐり音楽会出演の思い出 その8 それなりに頑張ったけど、不完全燃焼だった本番

2023-06-19 20:35:49 | Weblog
実は出演前、局から事前アンケート用紙がきておりました。そこには次のような2点のことを書いておりました。
「思っていること…出演者が女の子ばかりになってきている。男の子がどんどん出てくれるといいと思います」
「得意なこと…ハーモニカが大好きです。2台持っています。1台は学校で使うヤマハツーライン。もう1台は個人的に持っているハーモニカ。学校のやつは表と裏で、ハ長調とヘ長調の二つの音階でできているから便利です。でも、家のやつは、音がよく響くのです。(※これは複音ハーモニカと呼ばれる、一つの音に対し2枚のリードが使われるハーモニカのことです。2枚のリードはわざと微妙にピッチをずらしてあるため、吹くとそのうなりがビブラートのようになって、豊かな音色となるのです)ぼくは、ツーラインで、よく音の響くハーモニカが出ればいいな、と思っています」

その事前の情報を、番組内で話してもらえるようなことを本番前に聞きました。
今考えると、贅沢な話です。一介の小学生のたわごとを、テレビ番組内で拾ってもらって採用してくれるというのですから。

【本番収録で覚えていること】
 自分では意識していなかったのですが、けっこう必死の30分間だったのだと思います。のちに本放送、1978年2月19日のものを見たのですが、あまりしっかりと様子を覚えていないんです。「どんぐり音楽会」は収録番組でありながら、時間的な編集作業は一切なく、一発撮りをそのまま放送していました。
・ディレクターの合図待ちで本番スタート。おそらく出演者全員でステージに立ち、顔見せをしたのでしょう。その後待機の席に戻って、出演時以外は進行を見て楽しんでいました。もちろんかなり緊張はしていたはずですが。

・3人の審査員の先生がいらっしゃって(そのうち一組は狩人のお二人)、ひとり持ち点が10点、30点満点で審査されていました。この中に水谷俊二先生がいらっしゃったことを覚えています。

名古屋少年少女合唱団の主宰としても知られる水谷俊二先生。ご自身も声楽家。愛知教育大学名誉教授でいらっしゃることは、ネットで検索した今、初めて知りました。とすれば、そこに通っていたうちの子もどこかで水谷先生のお世話、薫陶にあずかっていたかもしれません。親子二世代で。ありがたいことです。

というのは、私の両親が水谷先生のファンで、自然私も水谷先生に勝手に親しみをもっていたのです。
・この方の歌に対する評価が大変適切であること。
・基本の歌い方を大切にされていらっしゃること。
・(我が家と同じで)歌謡曲のちゃらちゃらとしたものを子どもが歌ってテレビで披露する姿は若干苦手。童謡など、純粋な歌唱力で(今言うと語弊があるのだろうけどね)勝負してほしいというスタンス、芸能界への道具として手を貸すような真似だけはしたくない

そういう匂いがプンプン感じられる先生だったのです。

さて収録に話を戻します。

【オープニングの石川進さん】
これは収録直後に父が言った言葉ですが、
「石川進はやっぱりすごいな」と。
オープニングトーク第一声が、例のアシスタントさんの
「いやー寒いですねーー!」だったのです。(私は覚えていませんでしたが)
ですが、そうです。これは収録。
収録日の2月1日は本当に寒い日だったのです。おそらくこの第一声は、アシスタントさんの、思わず漏れてしまった「リアルタイム」での感想。帰り際に父が言ったのです。「だって、19日が本当に寒いかどうかわからないじゃないか。未来の予測できないときの時候の挨拶というのは、怖いから普通しちゃいけないんだ」と。
そういう「テレビ的な事情」が、あの時代にしてわかっていた父もすごいと思ったのですが、石川進さんは、次のように返したのです。
「そうですね、寒い日が続いてます、でもね、今日は19日で、暦の上では『雨水』っていうんです。どんなに寒い冬も、今日あたりから、温まり始まる…っていうことで、春を待ちましょう。」
こう返してくれれば、この日がどのような気候であっても、違和感なく聞こえるわけです。さりげないフォローができる石川さんに、父は「プロだなあ」と感服したそうです。

【シンプルな伴奏】
自分は確か4番目ぐらいの出演だったと思います(違ったかも)。
紹介の時の石川さんの声が、「それでは、本日の『黒一点』です。」でした。
上記の資料の「出場者が女の子ばかり」を読んでくださったのだと思います。実際この頃から、出場者が女の子ばかりの週がざらにありました。
読んでくれていて、ありがたいな、と思うと同時に、なんだか妙な注目を感じてしまい、緊張が増したことも覚えています。

歌唱については、まあまあの出来だったと思います。

なんと言っても一度も事前に合わせていない伴奏で歌うのですから、しかもリハーサル時に「歌い出せない」というパニックを経験しているのですから、行けるのかどうか、いろんなことが気になっていました。
実際の演奏は、例の打ち合わせたバンドリーダーさんのギターがほとんどで、ベースとドラムが一部で申し訳程度についたものだったのではなかったかと記憶しています。まあ、問題なく歌えました。もちろんほかの出場者の子たちのような、演奏の派手さも、ドラマティックさもありませんでした。

でも、それで、私には十分でした。その日たった1回の歌唱がそこでやり切れたのですから。


【テンパって、痛い場面を作る、しかも2回】
歌い終わったところで、プレッシャーから解放されました。同時に頭の中は何もありません。
石川さんが、「どうですか?あがっちゃったかな?」と質問されて、思わず、「あ、あがっちまった」
と言いかけ、「あがっち…ました」で会場の笑いを誘ってしまいました。

自分自身は、そういうことで失笑を買うことを想定もしておりませんでした。今ならば、「あ、おいしいところもらった」とみんなに笑ってもらえるようにふるまうのでしょうが、当時の自分は、繕い笑いしかできませんでした。
そして、例の「ハーモニカ」のことを尋ねられたのです。石川さんは、「君はハーモニカが好きなんだって?」と尋ねただけだったのですが、私は、先ほどの失敗を挽回しようと、こともあろうに、応募票に書いた通りのことを一生懸命説明しようとしました。
思い出しても、痛い、痛い。まるで自分に音楽の知識があることをひけらかすかのような言い方で。
石川さんは、それをうまく受け流して笑いに変えてくれるリアクションをしてくれました。あちらのほうが音楽のスペシャリストだというのに。

会場は大いに盛り上がりましたが、私は、自分がおもちゃにされたことのありがたみを少しも理解できていなかったのです。
「わかってもらえなかった、バカにされた、恥をかいた」
この思いが後を引きました。

さらに、例の番組終了時のインタビューでも、考えていた通り一生懸命アピールしようとして空回り。やはり会場の失笑を買う結果に。思い出すたび心がズキズキ痛みます。

45年経った今でも、この時の経験は、ほろ苦い教訓を残す思い出です。

得点は、30点をいただきました。
講評が水谷先生だったことはうれしかったです。「上手に歌ったね。でもね、声がもっとお腹から出せるようになるよ。呼吸の仕方を勉強していってください」というありがたいお言葉でした。
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教育の専門家とやらはお気楽でいいですな 「8人に4リットルのジュースを分けると1人何リットル?小学6年生の約半数が間違えた理由」にもの申す

2022-12-27 21:26:09 | Weblog
全国学力テストというものがあります。
基本的な暗記や計算、言語事項だけでなく、様々な考える力、教科特有で獲得させたい力や価値感などを総合的に見て伸ばしていこうとする意図で毎年行われているものです。
大変厳重に管理されていて、実施する各学校でも慎重に扱わなければならなくて、いろんなマニュアルがある。
結果は地域ごとなどで公表されることが多く、平均点が低いと、「この地区の教育はどうなっているんだ?」と責められる、例のあれです。
まあ、「ゆとり」以来、日本人の真の学力が落ちてきていて世界に太刀打ちできなくなっているとやらで、躍起になっている文部科学省と現場
子どもたちは小学生にして、大学入試共通テストのようなテストの進め方を覚えていくわけです。

私も、問題をよく見ます。
大変だな、と毎回思います。小学生が単元の終わりごとにやっている、教材会社の出しているテストとは、まるでわけが違うからです。(そっちは、下手すりゃ15分もあればちょちょいと100点満点の答案ができてしまうようなやつです)
大変なわりには、高い得点をとっても誰からも褒めてもらえないような、すっきりしないテストなのです。

で、表題について。
このテスト(令和3年 6年生の問題)に、表題にあるような問題があったそうです。
「8人に、4リットルのジュースを等しく分けます。1人分は何リットルですか。求める式と答えを書きましょう。」


皆さん、いかがですか?

じっくり時間があれば、多くの人は、正解にたどり着けると思います。答えは「0.5または2分の1」となりますが、「2リットル」と解答した児童が36.0%、その他の間違いを含め約半数が誤答という結果となったとのことです。
うーむ…でも…と思っていると、この記事(どことは言いません)に意見を寄せた教育の専門家の方によると、

・もととなる「1リットル4本」のイメージができていない
・イメージをせず、「8人に、4リットル」の文字(数字)だけで判断し、計算しやすい「8÷4」の式を立て、1人分は「2リットル」と答えてしまう
・原因は、問題文に書かれている内容をイメージできない、イメージをしようとしないことと、そもそも式のもつ意味をしっかりと考える習慣が身に付いていない
・先に「答えを出すための技術的なやり方」や「公式を覚えること」を優先してきた教育に起因している



表題に書いた通りです。「教育の専門家とやらは、お気楽でいいですな!」
なにそれ??そんな分析や評論ならば、小学生でもできるじゃん。読んでてだんだん腹が立ってきて、いたたまれなくなったので、この記事を書き始めました。

少しでも教育の現場にいたことのある人間ならば、間違えた子が多かった理由のもう一つの側面をなぜ語ってくれないのだ??
これでは頑張ってテストに臨んだ子供たちが浮かばれない。自分が小学生だったら、
「確かに、その通りです。間違えた原因はそれだと思います。だけど」と、何ともやりきれないもやもやだけが残る。
で、「こりゃいかん」と躍起になった先生や親たちから叱られ、類似の問題をたたき込まれて、他の勉強に身が入らなくなり、の無限ループ

「専門家」様、どうしてもう一つの側面について触れてあげないのですか!?

①そんなこたわかってる!じゃ、あんた、あの時間であんだけの問題数こなしている中でこの問題出されて、そういうこと悠長に想像したり、考えたりしている余裕はあるのか?

冒頭に書いた通りです。このテストは問題数が多く、考えさせる問題が中心。多くの子どもは、「もう時間がないのに、まだこんなにも問題がある」の中でやっています。
その中で簡単そうな見た目の問題があれば、さっと済ませてしまいたくなる心理にもなるでしょう。
いわゆる「受験用の学習」に慣れている子であれば、ここで立ち止まって考え直すのでしょうが、それは受験のテクニックです。
算数の本質とは、必ずしも一致しません。脳も疲れるのです。

②これは「悪問」です。

問題文の文法として、皆さんは不自然さを感じませんでしたか?一応理論上は成立している文ですが、やっぱり通常ならば、「4リットルのジュースがあります。」で始まるはずです。
「8人に4リットルのジュースを分けると」落ち着いた状態で問題文を呼んだ私でも、この文章は2度見、3度見しました。明らかに引っ掛ける意図があり、単純な子を振るい落とそうとしているのです。
ただ残念なことに、算数の教科書にも、時々このような不自然な日本語による文章問題は散見されます。
まあもしかしたら、「算数独特の言い回しに慣れ、感覚をつかめ」とでも言いたいのかもしれませんが、それでも件の出題が意地の悪い文になっていることは明らかです。

この問題に不正解して、「ああそうだったかー!なるほどそういう風に考えればいいんだな!」なんて気分には、なれないと思います。
言い換えれば、この問題の不正解によって学ぶものは、あまりありません。こういうのを「悪問」というのです。
少なくとも、子どもを算数嫌いにはさせても、算数好きにする要素は全く含んでいない、質の悪い問題であるということ
なぜ「教育の専門家さんとやら」は、そういう側面に少しも触れようとしないのでしょうか?


私も学生時代、あまりできの良い生徒ではありませんでした。まだ共通一次試験の時代でありました。
大学受験のために共通一次試験を受け、思いのほか苦戦して自己採点でも悪い結果で、半泣きで帰宅しました。
テレビや新聞で講師の先生が、各教科の解答、解き方などを示していました。そして、口をそろえてこう言うのです。
「今回の試験も、例年通り、基本に乗っ取った問題ばかりです。きちんと基礎を学んでいれば、それほど苦労せずに解ける問題ばかりでしたな。」

自業自得なので仕方がなかったですが、私はこの言葉にずいぶん打ちのめされた思いをしたことを、今でもよく覚えています。
で、その後も見てみると、毎年、この先生方は、試験のあと、同じようなことを言っているのですよね。
ただし令和4年度は、「難しかった」とおっしゃっていましたが。泣いている受験生の皆さんを、テレビ越しでたくさん見ました。これはこれで、どうかとも思うのですが…彼らの3年間の勉強はなんだったのだろうってね。

話はそれましたが、でも今回はね、相手が小学生なんですよ。一生を左右する入試ならば、そんな甘いこと言っていられるか、っていうのも、少しはわかるのですが。
ちょっとは彼らの気持ちにも寄り添ってやってほしいな。
勉強嫌いにさせるための試験作ってどうするんだよ。追い打ちかけて「これだから何も考えずに数見ただけで式にしようとする安易な子が育つんだよ」なんて言わないでほしいのです。
受験テクニックの専門家と、教育の専門家は、違うのだと私は感じています。
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真の極悪人とは何か?北京と東京のオリンピック開会式を比べ、非難する人たち

2022-02-06 02:54:04 | Weblog
北京冬季オリンピックが開幕しました。
早速わが岐阜県の堀島選手がメダルを取り、わが家でも湧き上がっています。

さて、先日行われた開会式について、二つのことを、今述べておきたいと思い、ひさしぶりに投稿しました。


1.今回の開会式はかなり良かった


北京オリンピックというと思いだすのは、例の2008年夏、悪夢の酷暑4時間の最悪開会式です。
あれを、壮大で、すごかったとか言っている人もいて、全く理解しないというわけではありませんが、
私には、あれほどひどいものはなかった。
①4時間。馬鹿ですか??
アスリートや関係者を、酷暑の中、あんな長時間
「鍛えられているから大丈夫」「野球でも云々」とか言っている人、あんなことに膨大な体力を奪わせて、それでも良いというのでしょうか?
どんなに良いものを涼しい環境で体験していたとしても、たいていは2時間ちょっとが限界です。
何でもかんでも詰め込んで、派手にやって、正気の沙汰とは思えませんでした。

②単なる中国の国威発揚のショー
中国がいかに凄くて、力があるのか
それを延々と見せつけられただけの4時間でした。まあ、おそらくヒトラーがベルリンでやっていたことと同じだったのでしょう

③どこが多民族の共同国家だ??
一番腹が立ったのは、終盤だったか、「中国は多くの民族が共存している国家」を主張しようとして、子どもたちを出演させていました。
少数民族がこんなにいるんだよ、と見せつけようとして、さまざまな民族衣装の子たちが出ていたのですが、
その子たち、全員漢民族。
他の国の方々には、見分けがつきませんから、わからないかもしれませんが、東洋の我々に、わからないはずがない。
オーストラリアで、イギリス人系白人が、アボリジニの衣装を着て踊っているようなものです。
ずいぶんな民族差別行為、民族の誇りの侵害だと思われました。現地の子が出れば済むだけの話なのに。

ですが、今回は、その悪印象を払拭してくれる開会式でした。
時間が短く、コンパクト。主張も一貫している。美しい映像、奇をてらうことや壮大なことにとらわれない構成。
習近平主席が同席していて、よくこんなことできたな、と思わせた、「イマジン、再び」
聖火ランナーの最終走者にウイグルの選手を起用する演出。かつての孫 基禎(ソン・ギジョン)さんのような、複雑な心情を表に出す様子は見られず、
これはこれで一つの主張のように思われました。

まあ中国の掌の上で転がされているだけなのかもしれないが、それでもオリンピック精神は、政治と独立して主張できる場であることを、
国の圧力には負けず、アピールできたのではないか、というのが私の評価です。放送利権という大金には従順なようではありますが。


日本入場の時、やけに盛り上がりに欠けていた、とか、(入場直前に流れていた曲が、例のソフトバンクの白い犬のCM曲だったので、「えっ?中国人が日本に抱くイメージって、あのCMだったの??」などと思ってしまったが、チャイコフスキーくるみ割り人形の、「葦笛の踊り」でした…)
開会式前にPRされていたコロナ対策で、「選手村では、人の手を介さない、ロボットによる調理をしている」と、チャーハン作りロボットの実演を、さも、これが中国の技術ですとでも言いたげに公開していたけど、あれ、日本の冷凍食品作りの機械まるパクリじゃん、と怒ってみたり、はありましたが
私には開会式は好印象でした。


2.東京オリンピックと比べて貶める罪深い人たち

で、世間的にも結構好評だったようです。しかし、こういうときに必ず現れるんですよね、いやーな性格の人たち
半年前の東京オリンピックの開会式と比べて、いかに東京がひどかったかを語りたがる人

この人たちはね、本当に、本当にいただけません。非常に悪質なものを感じます。

確かに考えさせられたところはあります。
日本は、芸術を、なんか変なものとまちがって認識し、主張しようとしてしまっているのではないか?ということ
東京オリンピックの開会式では、いろんなことを主張しようとして、それを、「芸術」という名の、…まあ言ってしまえば、得体のしれない、難解っぽい物にしたがる。
そして、それを、高尚なもの、質の高いものだと自己満足に向かおうとする。
でも、そんなものをオリンピックに求めるのですか?ということ
日本で行われるイベントって、大体、そういう方向に走ろうとしますよね。で、結果はどうですか?
本当は、実は、そうじゃないんじゃないですか?と、最近ようやく日本のみんな、気づき始めているような気がするのです。あれ、本当に、芸術なのでしょうか?そもそも、芸術って何?と。

わかる人にだけすごさが分かればいいという考えは、ともすれば傲慢な自己満足で、もっとへたすれば、醜い物ともなりうる。


それは、そうなのですが。

東京オリンピックの開会式を、偉そうに上から目線で非難している皆さん、一番大事なことを忘れています、ていうか、わざと忘れたふりをしていますよね?
オリンピックの、本当に直前の直前、あなたたちは、何をしましたか?
詳しくは、ここで述べました。以前の記事、「なぜ、今なんだ?」

あんな状態で中心人物を、「あの時期に」放り出しておいて、「これで清い人たちだけになったから、よい開会式に」
なるわけないでしょ。小学2年生でもわかる理屈だ。
司令塔がいない。積み上げられたものは全部崩された。時間がない。コロナはある。
そんな状況で、むしろ私はよくあれだけの準備期間で開会式にこぎつけたものだと感動すらしました。
内容は手放しで評価できるものではないけど、よく頑張っていました。
もしもあれを「日本人の恥」などというのならば、そういう状況を作ったのは、ネット社会とマスコミの、低いモラル、正義という名の暴力容認主義です。
悪意の世論操作にのこのこと乗ってしまった我々の責任 そういう意味で「日本の恥」というのならば、認めましょう。

注目度がオリンピックほどではなかったパラリンピックの開会式は、けっこうよかった。そりゃそうでしょ。時間も人材もあったのですから。

あのオリンピック直前、何らかの悪意ある力に乗せられて、内部を壊滅状態にしてしまったのは、我々なのです。
関係者やスタッフなどのせいにして自分の罪にも気づかず、偉そうに「あいつら最低」と、再び世論を動かそうとしている悪党たち
騙されてはけません、乗せられてはいけません。そういう人物たちが、何の努力もせず、我々の財産を食いつぶしていくのです。真の悪人とは何か、知っておきましょう。










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