最近の自分のペースとしては珍しく気炎を吐いてしまいました。
まあ大型連休だったということもあるのですが、仕事もしていましたので、そんなに暇でもなかったのですが…
とにかくほとんど推敲もせずたたみかけましたので、ずいぶん読みにくいものになってしまったと思います。
私、絵文字、顔文字も使わないし、写真などもほとんど添付しておりません。
全く自己本位で、読者を意識しないブログを進めているなと思います。それでも読んでいただけたら、と矛盾したことを思いつつ。
さて、「いじめはあったのか?」で進めてきた今回のシリーズ。お読みいただければお分かりかと思いますが、
基本的に今回は、マスコミの体制に、非常に激しい怒りを感じております。この体制こそが、事件を悪化させ、混乱させた根本である、ということを主張したくて、ずっと進めてまいりました。その怒りが、このシリーズを続けるエネルギーを与えていたと思っています。
特にうちで取っている地元の新聞(地元ではメジャーな新聞)と、明らかな偏向報道をした汐留系のテレビ局には、許せないところが多々ありました。地元の新聞社など、その気になれば多方面から取材できそうなことがいくらでもありそうなのに、全く足を使わず、頭も使わず、事件後の行事やイベント、動きがあっても、同じ人からしかコメントをとろうとしない。今でもこの新聞を取っている自分が情けなくもあります。もしもこの事件に関して新たな展開が(あくまでももしもだが)見られたとして、よもや保身に走ることはないかとは思いますが…残念ながら新聞社も、一般の保護者層を敵に回すことだけはしたくないようで、そういう意味では戦前戦中と何ら変わっておりません。
しかし、この新聞社にも一人のつわものはいた。
事件後どれぐらいたった時だったでしょう。この新聞の社説欄に、故、指揮者の岩城宏之さんのことが触れられていたのです。
超一流の指揮者であり、文筆家でもあった岩城さんのエッセイに、「いじめの風景」というものがあると。そこから「社説」は論を進めております。
岩城さんは学生時代、疎開か親の転勤か、で、この事件のあった岐阜県の町で何年かを過ごしました。(それは私も知っていたことです。この町に金沢のオーケストラを率いて凱旋コンサートをしに来た時、その演奏を見たこともあります。)
病弱で引っ越しを繰り返す岩城さんは、どこへ行ってもいじめられる、いじめられっ子だったそうです。今ほど人権とか何とか言われなかった時代ですから、そのひどさは推して知るべしです。
で、岐阜のこの町に引っ越してきた時。学校で、やはり大柄な番長格の男と対面し、ガツーンと一発叩かれました。
「ああ、やっぱりここでも俺はいじめられるのだ」と岩城さんは悲しい自覚をしたそうです。
ところがその男は、
「今のはあいさつだ。お前、誰も知り合いがおらんのやろう?俺が守ってやる。困ったことがあったら俺に言いに来い。」
そして青春時代の最も多感なこの時期、岩城少年は、多少のことはあったものの、この岐阜の地では目立ったいじめにあうこともなく、新しい仲間に守られ、今までにない幸せな日々を過ごすことができた、と懐述しているのだそうです。その後も折あるたびにこの町を訪れ、旧交を温めたというのですから、本物です。私が見に行ったオーケストラ・アンサンブル金沢のコンサートの時も、誰の目から見ても、すでに岩城さんの体はだいぶ病魔に蝕まれている様子が明らかでした。しかし渾身の指揮と素晴らしい演奏。岩城さんはこの町に特別な思いを抱いてコンサートを決行していたのだと思うと、思わず涙があふれてきます。
「社説」は、いじめという現象をキーワードに、同じ町での、この対照的な例をあげていました。いじめの悪のスパイラルから一人の少年を救ってくれたできごと。こんな素晴らしい、生きた教訓のある町で、その正反対の事件が起こってしまった。地元の皆さん、今一度、輝かしい先輩の、美しい心に触れてみませんか。とでも言わんがばかりの、素晴らしい社説だったのです。
私は、怒りに震えていたこの新聞社に向けて振り上げかけていたこぶしがすーっとおり、一気に浄化させられた気持ちになりました。
いろいろ言いたいことはあるが、そういう視点を持っているこの新聞社の上層部の方のジャーナリズム精神は、本物だ、と。
今後、この事件に関し、いろいろなことが明らかになっていくと思われます。私たちはしっかりとした情報リテラシーを持って真実を求め、マスコミの方々には、広い視野を持って報道していただき、更に私たちは、岩城さんという偉大な先輩とその仲間の教えと心を胸に刻み、次の世代に、その美しい心を引き継いでいけるよう、努力していきたいと思っているのです。
まあ大型連休だったということもあるのですが、仕事もしていましたので、そんなに暇でもなかったのですが…
とにかくほとんど推敲もせずたたみかけましたので、ずいぶん読みにくいものになってしまったと思います。
私、絵文字、顔文字も使わないし、写真などもほとんど添付しておりません。
全く自己本位で、読者を意識しないブログを進めているなと思います。それでも読んでいただけたら、と矛盾したことを思いつつ。
さて、「いじめはあったのか?」で進めてきた今回のシリーズ。お読みいただければお分かりかと思いますが、
基本的に今回は、マスコミの体制に、非常に激しい怒りを感じております。この体制こそが、事件を悪化させ、混乱させた根本である、ということを主張したくて、ずっと進めてまいりました。その怒りが、このシリーズを続けるエネルギーを与えていたと思っています。
特にうちで取っている地元の新聞(地元ではメジャーな新聞)と、明らかな偏向報道をした汐留系のテレビ局には、許せないところが多々ありました。地元の新聞社など、その気になれば多方面から取材できそうなことがいくらでもありそうなのに、全く足を使わず、頭も使わず、事件後の行事やイベント、動きがあっても、同じ人からしかコメントをとろうとしない。今でもこの新聞を取っている自分が情けなくもあります。もしもこの事件に関して新たな展開が(あくまでももしもだが)見られたとして、よもや保身に走ることはないかとは思いますが…残念ながら新聞社も、一般の保護者層を敵に回すことだけはしたくないようで、そういう意味では戦前戦中と何ら変わっておりません。
しかし、この新聞社にも一人のつわものはいた。
事件後どれぐらいたった時だったでしょう。この新聞の社説欄に、故、指揮者の岩城宏之さんのことが触れられていたのです。
超一流の指揮者であり、文筆家でもあった岩城さんのエッセイに、「いじめの風景」というものがあると。そこから「社説」は論を進めております。
岩城さんは学生時代、疎開か親の転勤か、で、この事件のあった岐阜県の町で何年かを過ごしました。(それは私も知っていたことです。この町に金沢のオーケストラを率いて凱旋コンサートをしに来た時、その演奏を見たこともあります。)
病弱で引っ越しを繰り返す岩城さんは、どこへ行ってもいじめられる、いじめられっ子だったそうです。今ほど人権とか何とか言われなかった時代ですから、そのひどさは推して知るべしです。
で、岐阜のこの町に引っ越してきた時。学校で、やはり大柄な番長格の男と対面し、ガツーンと一発叩かれました。
「ああ、やっぱりここでも俺はいじめられるのだ」と岩城さんは悲しい自覚をしたそうです。
ところがその男は、
「今のはあいさつだ。お前、誰も知り合いがおらんのやろう?俺が守ってやる。困ったことがあったら俺に言いに来い。」
そして青春時代の最も多感なこの時期、岩城少年は、多少のことはあったものの、この岐阜の地では目立ったいじめにあうこともなく、新しい仲間に守られ、今までにない幸せな日々を過ごすことができた、と懐述しているのだそうです。その後も折あるたびにこの町を訪れ、旧交を温めたというのですから、本物です。私が見に行ったオーケストラ・アンサンブル金沢のコンサートの時も、誰の目から見ても、すでに岩城さんの体はだいぶ病魔に蝕まれている様子が明らかでした。しかし渾身の指揮と素晴らしい演奏。岩城さんはこの町に特別な思いを抱いてコンサートを決行していたのだと思うと、思わず涙があふれてきます。
「社説」は、いじめという現象をキーワードに、同じ町での、この対照的な例をあげていました。いじめの悪のスパイラルから一人の少年を救ってくれたできごと。こんな素晴らしい、生きた教訓のある町で、その正反対の事件が起こってしまった。地元の皆さん、今一度、輝かしい先輩の、美しい心に触れてみませんか。とでも言わんがばかりの、素晴らしい社説だったのです。
私は、怒りに震えていたこの新聞社に向けて振り上げかけていたこぶしがすーっとおり、一気に浄化させられた気持ちになりました。
いろいろ言いたいことはあるが、そういう視点を持っているこの新聞社の上層部の方のジャーナリズム精神は、本物だ、と。
今後、この事件に関し、いろいろなことが明らかになっていくと思われます。私たちはしっかりとした情報リテラシーを持って真実を求め、マスコミの方々には、広い視野を持って報道していただき、更に私たちは、岩城さんという偉大な先輩とその仲間の教えと心を胸に刻み、次の世代に、その美しい心を引き継いでいけるよう、努力していきたいと思っているのです。