イエスが、騒ぐ子どもを叱る弟子達を戒め、
子供を何も分かってない無知なものと思っていないか、
それは違う、天国は彼ら(子ども)のようなものだ。
彼らのようにならなければ、決して天国には行けないと言っています。
それは価値判断のことを言っています。
子どもは、この親がいいとか悪いとか、家が貧乏とか金持ちとか、価値判断をしません。
ただ、ありのままの環境を受け入れ、楽しく騒ぎ、過ごしているのです。
同時に子どものよう(価値判断しない)になることは、針の穴を通るぐらい難しいとも。
でも出来ないとは言ってません。
イエスは旅に出てから、死ぬまで、人間の罪を解くために説いてまわりました。
その罪は何かといえば、一言で価値判断。
アダムとイブから始まった人間の罪のためです。
アダムを作った神は、アダムが楽しく過ごせるように、それまでにあらゆるものを作りました。昼夜、自然、鳥や動物たち、余りあるほどの食べ物、
そして極めつけに、神に似せて作られました。建物を作ったり、音楽や芸術を楽しめるように、創造性が神に似せられました。
しかし、アダムは元気がなかったので、女性のイブを作りました。そしてこの世界で産めよ増やせよと命じました。家族ができることは楽しいことだったからです。
神の創造性は同じに作られた人間でしたが、与えられていない能力がありました。それは価値判断です。よいとか悪いとかの、人を裁く能力を与えられていませんでした。
この点で、子どものようだったのです。子どもの創造性や芸術性は目を見張るものがありますが、人や親、社会を裁くことはしません。
結局は、子ども、もしくは価値判断をしない人間しか、楽園にいることができないのです。サタン(ねたみ)も価値判断しないので楽園にはおれました。
しかし人間は、サタン(ねたみ)の話を聞いて、神に疑問を持ちました。そして、神にしか与えられていない、価値判断をしようと試みました。
価値判断したり、人を裁くことが、できるんだと、錯覚し、善悪の判断の実を食べて、価値判断をするようになりました。
これが、楽園追放の原因です。
これは比喩で書かれていますが、価値判断は苦しさの始まりなのです。
自殺と殺人は、聖書でも罪とされていますが、このどちらも根本は価値判断にあります。
自分は生きている価値がないから、死ぬんだということ。
あいつは、生きる価値がないから、殺すんだと。
結局、神が価値あるとしているものに、反逆して、自らで価値を決めている点です。
敵を愛するというのも、敵という時点で価値判断をしています。なので敵を愛するという行為は、一度は敵だと価値判断してしまったものを、修正するための行為です。
でも敵だと思うまでには、怒りが、憤りがあり、これは自分自身も苦しいものです。
また、憎んでいる敵を愛する行為は、これもまた修行僧のようで、簡単ではありません。これもまた苦しいのです。敵を憎んでも苦しい、敵を愛しても苦しい。
どちらも大変なエネルギーです。でも、敵を愛する過程は、つまり自分自身のためでもあるからです。憎しみ続けることは、自分を否定し続けることにほかなりません。
敵は、自分の内面でもあるからです。
なので敵を愛するというのは自分自身のためでもあるのです。
しかし、これは罪の表面的なもので、根源ではありません。罪は価値判断ですから、そもそも敵だという価値判断をしなければいいのです。敵という価値判断をしなければ、苦労して敵を愛する必要はありません。
つまり、敵を憎むのも、敵を愛するもの、どちらも地獄の苦しみだという点です。憎むよりも愛する方が聖書に推奨されているのは、単に愛する方が自分自身のためになるからという点です。
かりに敵を愛しても、人間の罪は変わりません。敵だと価値判断したことが、楽園を追放された原因であり罪なのですから。
価値判断すること、たとえ、いい価値判断だとしても、悪い価値判断だとしても、人間にとって苦しみの根源になってしまいます。
子どものようにとのイエスのメッセージは、価値判断をするなということであり、価値判断しないものしか楽園には行けないということを表しているものなのです。
人間を作った創造主が、なぜ価値判断する能力を与えなかったのか。それは簡単です。それは一人では生きていけなかったからです。アダム一人の時には、善悪の知恵の実を食べるなと言っていません。イブができてから、二人に、知恵の実を食べるなと命じました。
神は一人です。しかし人間は一人で完結しない、二人で初めて完結する、アダムの誕生自体から不完全だったのです。神はアダムだけで完結すると当初思っていました。しかし、それが違うことが分かりました。神ですらなぜ人間が一人で寂しいのか、最初は分からなかったのです。
イブを作ってアダムが元気になり、人間は二人が必要だということを理解しました。しかしそこで問題がありました。アダムとイブ、互いが互いを価値判断したらどうでしょうか。夫婦二人、アダムがこうだとか、イブがこうだとか、そんなことになったら、楽しいはずはありません。
厳に、知恵の実を食べて、神から諭されているときに、初めての夫婦喧嘩をしました。イブが蛇(サタン)にたぶらかされて、俺に食わせたとか。イブも、でも先に食べたのはアダムじゃないかと。
早速、価値判断すること、知恵の実を食べることで、何か知恵が出たでしょうか。いい価値判断で幸せになったのでしょうか。それは皆無です。
食べた最初は、人類最初の夫婦喧嘩。はっきり言ってどうでもいい喧嘩です。
そして価値判断できるようになった人間が次にしたことは、殺人です。アダムとイブの二人の子の、兄弟喧嘩、兄?に対する妬みで、兄を殺しています。
原因は何か、価値判断です。兄がいなくなれば、俺は幸せになれるという価値判断、兄は死んでもいいんだという価値判断。
価値判断することで、人間に与えられた苦労は、夫婦喧嘩、殺し、妬み、嫉妬、誹謗、中傷、盗み、などなど、それらの共通点は一つ、価値を判断することです。
ですから、私たちは価値判断をしないことです。そもそも、全知全能の神ではないので全てを知っている訳ではないのです。自分自身のこともよく分からないのです。
そんな人間が、俺が先輩だからとか、経験があるとか、親だからとか、兄だからとかで、だれかをどうのこう価値判断することができるでしょうか。
誕生した時から、価値判断する能力が与えられていないのです。神ではないのです。しかもむしろ、価値判断することは地獄の苦しみの始まりなのです。
しかし、私たちは、一日、膨大な数の価値判断をしています。そういう癖になってます。ありのままで捉えるのは難しいのです。
しかし、イエスが言ったように、楽園に行くには、幸せに行くには、価値判断をやめようというメッセージをひとつづつ、実行に移すことがイエスの言葉だと思います。