井上しんごブログ

北九州市議の井上真吾です。何かあったらいつでもどうぞ、私の携帯電話は070-5690-1423です。😄

真吾の福音書 大人になれなかったイエス

2022年06月17日 | 枝光地域

※父への手紙から

大人になれなかったイエス

イエスも、騒ぐ子どもを叱る弟子達を戒め、
 
子どもを何も分かってない無知なものと思っていないか、
 
それは違う、天国は彼ら(子ども)のようなものだ。
 
彼らのようにならなければ、決して天国には行けないと言っています。
 
それは価値判断のことを言っています。
同時に子どものようになることは、針の穴を通るぐらい難しいとも。
 
でも出来ないとは言ってません。
 
イエスは旅に出てから、死ぬまで、人間の罪を解くために説いてまわりました。
 
その罪は価値判断。
 
アダムとイブから始まった人間の罪をなきものとするために。
 
しかし、そのイエスを人間は、ある時は病気を癒す超能力者として、崇め(価値あるものとし)
 
しかし、最後は嘘うきの頭が狂った者(価値なき者)として磔にしました。
 
寿命は30才前半です。
 
イエスが死んだのも人間の罪、価値判断からでした。
 
2000年前でそれでした。
 
では今、イエスが生まれたとしたらどうでしょうか。
 
おそらく、子どもの時代に生きていけなるのではと思ってしまいます。
 
学校で友達、先生から価値なくものとして、いじめられて、自殺に追い込まれる。
 
または、親から価値なきものとして、虐待を受けて殺されています。
 
2000年前のように、30代まですらも生きていけなかったのではないか。
 
それが今です。
イエスが大人になれない世界。
 
ピュアで純粋なイエスが生きていけない、痛みの世界なのです。
 
それが現代なのではないでしょうか。
 
私達はそのことを理解し、この世の末に、イエスが天寿を全うできる世を作れるのか。この世の一人一人が試されてる。
 
出来なければ、ただ人の世は終わるだけです。
だから待ったなしなのです。
 
私が歌をつくれと矯正されているのも(後日は話します)、そうした世の末だからだと思います。
 
または父が地獄の淵から帰ってきたのも、私に哲学を伝えることを神が命じたらです。
 
父のこの価値を、ご両親や、世間がわかるでしょうか。父自身もそうなるまでわからなかったことです。
 
これは神の計画であり、アイデアなのです。
 
私の価値も家族や世間は分かりません。私にもです。
 
歌を作るなど私も分からなかった事です。
 
だから、価値判断というのは最大の罪になり得たのです。
 
価値判断しない生き方は、難しいですが、楽園への入り口ではないでしょうか。

歌詠會 6月

2022年06月17日 | 枝光地域

● 動けない 電話を切って また眠る

         着信ながめ 心配かけた

 

「早朝日曜日の勉強会、疲れて起きれず、思わず電話切る。(*_*)

やっと起きて、先生からの着信履歴。二日後電話し、心配されているのを感じ、心配おかけしました。(-_-;)」

 

● わたし死ぬ 突然のメール 胸騒ぐ 

        天を信じて 扉をあける

 

「友人からのメールで、急いで伺ったとき」

 

● 外すなと マスク警察 友責める

       小学三年 なぜこんな世に

 

「6月議会本会議質問で、小学生が屋外でもマスクをしてない人や友達に、マスクつけろと責めた立てる事例を聞いて、小学3年生にそんなマスク警察をさせるような世の中、だれがこんな世にしたのかと」

 

● 国内の ロシア料理へ 嫌がらせ

     ゆがんだ正義 本質を見ず

 

「日本国内のロシア料理店が、ロシアのウクライナ侵攻への憤りからかもしれないが、ロシア人への嫌がらせのニュースを聞いて、馬鹿なのかと。ウクライナ侵攻と、ロシア料理店、日本で暮らすロシア人、なんの関係があるのか。そうした少数派を排除する、いじめる人間を憤って。」

 

● 善悪の 知恵の実食べて 神となり

       支えきれない 神の苦しさ

 

「聖書から、アダムとイブが善悪の知恵の実を食べて、人を裁ける、価値判断する神になった。しかし、神となったとたんに、価値判断することで、自分自身の苦しみ、苦悩を知り、とても支えきれない。価値判断する重責を背負切れない。価値判断したことで、神の苦しさ、憤りの重さを知った人類。しかし神になろうとしたが、神にはなれないので、苦しさ、苦悩だけが残ってしまった」

 

● 死にたいと 人を憎むと なぜ背く

      価値の判断 苦しみの源

 

「自分に価値がないという価値判断、相手に価値がないという価値判断。神が価値あるとしているものを、なぜ価値なしだと決めつけるのか。人間にはしょせん、神の計画、神のアイデアは考えが及ばない。いい、悪いなど、価値判断することが苦しさの根源でもあり、原罪でもある。神が価値あるとしているもの、そのことに従い、自らの価値判断しないこと。価値判断から離れること、神のアイデアを受け入れることが、楽園の入り口である。  ※聖書:創世記から」


真吾の福音書 イエスの言葉「価値判断について」

2022年06月17日 | 枝光地域

※仏教や聖書など哲学的な事が好きです。ふと思いついたことなどを書きます。そんな知識のない私ですが、独自の解釈と独断と適当さで、徒然なるままに書いてます。

 

「クリスチャンの友人への手紙」  イエスの命じたことはそれ以外に何かと問われたことに対して

 

イエスの命令、そうですね。
聖書全体を通して、イエスは、価値判断をするなと教えています。
イエスが、騒ぐ子どもを叱る弟子達を戒め、
 
子供を何も分かってない無知なものと思っていないか、
 
それは違う、天国は彼ら(子ども)のようなものだ。
 
彼らのようにならなければ、決して天国には行けないと言っています。
それは価値判断のことを言っています。
子どもは、この親がいいとか悪いとか、家が貧乏とか金持ちとか、価値判断をしません。
ただ、ありのままの環境を受け入れ、楽しく騒ぎ、過ごしているのです。
 
同時に子どものよう(価値判断しない)になることは、針の穴を通るぐらい難しいとも。
 
でも出来ないとは言ってません。
 
イエスは旅に出てから、死ぬまで、人間の罪を解くために説いてまわりました。
 
その罪は何かといえば、一言で価値判断。
 
アダムとイブから始まった人間の罪のためです。
アダムを作った神は、アダムが楽しく過ごせるように、それまでにあらゆるものを作りました。昼夜、自然、鳥や動物たち、余りあるほどの食べ物、
そして極めつけに、神に似せて作られました。建物を作ったり、音楽や芸術を楽しめるように、創造性が神に似せられました。
 
しかし、アダムは元気がなかったので、女性のイブを作りました。そしてこの世界で産めよ増やせよと命じました。家族ができることは楽しいことだったからです。
神の創造性は同じに作られた人間でしたが、与えられていない能力がありました。それは価値判断です。よいとか悪いとかの、人を裁く能力を与えられていませんでした。
この点で、子どものようだったのです。子どもの創造性や芸術性は目を見張るものがありますが、人や親、社会を裁くことはしません。
 
結局は、子ども、もしくは価値判断をしない人間しか、楽園にいることができないのです。サタン(ねたみ)も価値判断しないので楽園にはおれました。
しかし人間は、サタン(ねたみ)の話を聞いて、神に疑問を持ちました。そして、神にしか与えられていない、価値判断をしようと試みました。
価値判断したり、人を裁くことが、できるんだと、錯覚し、善悪の判断の実を食べて、価値判断をするようになりました。
これが、楽園追放の原因です。
 
これは比喩で書かれていますが、価値判断は苦しさの始まりなのです。
自殺と殺人は、聖書でも罪とされていますが、このどちらも根本は価値判断にあります。
 
自分は生きている価値がないから、死ぬんだということ。
あいつは、生きる価値がないから、殺すんだと。
 
結局、神が価値あるとしているものに、反逆して、自らで価値を決めている点です。
敵を愛するというのも、敵という時点で価値判断をしています。なので敵を愛するという行為は、一度は敵だと価値判断してしまったものを、修正するための行為です。
でも敵だと思うまでには、怒りが、憤りがあり、これは自分自身も苦しいものです。
 
また、憎んでいる敵を愛する行為は、これもまた修行僧のようで、簡単ではありません。これもまた苦しいのです。敵を憎んでも苦しい、敵を愛しても苦しい。
どちらも大変なエネルギーです。でも、敵を愛する過程は、つまり自分自身のためでもあるからです。憎しみ続けることは、自分を否定し続けることにほかなりません。
敵は、自分の内面でもあるからです。
 
なので敵を愛するというのは自分自身のためでもあるのです。
 
しかし、これは罪の表面的なもので、根源ではありません。罪は価値判断ですから、そもそも敵だという価値判断をしなければいいのです。敵という価値判断をしなければ、苦労して敵を愛する必要はありません。
つまり、敵を憎むのも、敵を愛するもの、どちらも地獄の苦しみだという点です。憎むよりも愛する方が聖書に推奨されているのは、単に愛する方が自分自身のためになるからという点です。
 
かりに敵を愛しても、人間の罪は変わりません。敵だと価値判断したことが、楽園を追放された原因であり罪なのですから。
価値判断すること、たとえ、いい価値判断だとしても、悪い価値判断だとしても、人間にとって苦しみの根源になってしまいます。
 
子どものようにとのイエスのメッセージは、価値判断をするなということであり、価値判断しないものしか楽園には行けないということを表しているものなのです。
 
人間を作った創造主が、なぜ価値判断する能力を与えなかったのか。それは簡単です。それは一人では生きていけなかったからです。アダム一人の時には、善悪の知恵の実を食べるなと言っていません。イブができてから、二人に、知恵の実を食べるなと命じました。
 
神は一人です。しかし人間は一人で完結しない、二人で初めて完結する、アダムの誕生自体から不完全だったのです。神はアダムだけで完結すると当初思っていました。しかし、それが違うことが分かりました。神ですらなぜ人間が一人で寂しいのか、最初は分からなかったのです。
 
イブを作ってアダムが元気になり、人間は二人が必要だということを理解しました。しかしそこで問題がありました。アダムとイブ、互いが互いを価値判断したらどうでしょうか。夫婦二人、アダムがこうだとか、イブがこうだとか、そんなことになったら、楽しいはずはありません。
 
厳に、知恵の実を食べて、神から諭されているときに、初めての夫婦喧嘩をしました。イブが蛇(サタン)にたぶらかされて、俺に食わせたとか。イブも、でも先に食べたのはアダムじゃないかと。
早速、価値判断すること、知恵の実を食べることで、何か知恵が出たでしょうか。いい価値判断で幸せになったのでしょうか。それは皆無です。
食べた最初は、人類最初の夫婦喧嘩。はっきり言ってどうでもいい喧嘩です。
 
そして価値判断できるようになった人間が次にしたことは、殺人です。アダムとイブの二人の子の、兄弟喧嘩、兄?に対する妬みで、兄を殺しています。
原因は何か、価値判断です。兄がいなくなれば、俺は幸せになれるという価値判断、兄は死んでもいいんだという価値判断。
 
価値判断することで、人間に与えられた苦労は、夫婦喧嘩、殺し、妬み、嫉妬、誹謗、中傷、盗み、などなど、それらの共通点は一つ、価値を判断することです。
ですから、私たちは価値判断をしないことです。そもそも、全知全能の神ではないので全てを知っている訳ではないのです。自分自身のこともよく分からないのです。
 
そんな人間が、俺が先輩だからとか、経験があるとか、親だからとか、兄だからとかで、だれかをどうのこう価値判断することができるでしょうか。
誕生した時から、価値判断する能力が与えられていないのです。神ではないのです。しかもむしろ、価値判断することは地獄の苦しみの始まりなのです。
 
しかし、私たちは、一日、膨大な数の価値判断をしています。そういう癖になってます。ありのままで捉えるのは難しいのです。
しかし、イエスが言ったように、楽園に行くには、幸せに行くには、価値判断をやめようというメッセージをひとつづつ、実行に移すことがイエスの言葉だと思います。