白雲去来

蜷川正大の日々是口実

花見と大和。

2024-04-11 13:41:37 | 日記

4月7日(日)晴れ。

朝食は、乾燥ホタテ、昆布、かつお節でしっかりと出汁を取って、お粥を炊いた。昼は、民族革新会議による屋形舟でのお花見。春のうららの墨田川・・・。と歌ったのは小学校の頃か、中学だったか覚えていないが、いい一日だった。終了後に、盟友たちと御徒町の蕎麦屋「吉仙」へ転戦。

今日は、昭和20年に戦艦大和が沖縄特攻の「天一号作戦」にて出撃し、米軍の航空機による攻撃で沈められた鎮魂の日。『真相・戦艦大和ノ最期』(原勝洋著、ベストセラーズ出版)によると、米側の記録を調査した結果、坊の岬沖海戦での米攻撃隊の損害は被撃墜五機、原因不明の墜落一機(進撃途中で落下し海面に激突した)、海上に不時着水一機、被弾損傷五十二機(内、五機が修理不能と判断され海上投棄)、戦死十四名、負傷四名となっている。

「大和」の最終改装時には百五十以上の対空機銃や二十四門の高角砲で武装され、軽巡矢矧以下の駆逐艦の対空機銃が一斉に米軍機に向かって撃っても、米軍機の犠牲は十機程度だった。いかに日本の対空機銃の性能が悪かったかが分かる。因みに大和の乗組員、3千3百32名の内、戦死者は3千56名。他の艦も合計して4千37人がこの日に犠牲となった。これは陸海軍の飛行機による特攻隊の死者数4千6百15人に近い。大和を中心とした第二艦隊の司令長官は伊藤整一中将。伊藤中将は最後までこの作戦に反対していたという。

座右の書である宇垣纏の戦陣日記『戦藻録』の昭和20年の今日の日記には、「なお十一月下旬余の内地帰還まで乗艦したる懐かしの軍艦大和ついに西海の藻屑となり終わりぬ。伊藤整一長官、森下信衛参謀長、有賀幸作艦長以下余のかつての部下たりし多数精鋭の乗員と共に。嗚呼!余は同隊の進撃については最初より賛意を表せず、GF(注・連合艦隊の略)に対しては抑へ役に回りありたるが今次の発令はまったく急突にして如何とも為し難く、わずかに直衛戦闘機以って協力し敵空母の攻撃を以ってこれに策応するほか道なかりしなり」。と書いている。宇垣も伊藤整一長官同様、大和の水上特攻には反対であったことが分かる。

屋形船で両岸の満開の桜を眺めながら、大和を思う。

 

 


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