
土鍋でくつろぐ猫を「猫なべ」と言うことを知らず、猫のレシピを思い出してしまいました。猫肉を食べる文化が沖縄特有であるような誤解を与えたかも知れません。しかしこれは沖縄に限らないようです。夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭に猫を食べる話が出て来ます。
「吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。」
漱石の記述からは貧乏書生の奇特な行動という印象を与えますが、佐藤垢石(さとう こうせき1888年6月18日 - 1956年7月4日)の書いた「岡ふぐ談」ではもっとリアルな猫を食べる話になっています。
「昔から猫のことを『おしやます』という。おしやますとはどんなところから名が出たのか知らぬが、おしやますの吸物といえば、珍饌中の珍饌に数えられてある。また一名『岡ふぐ』ともいう。
二、三日後、老友は小風呂敷の包みを持ってやってきた。包みを解くと、竹の皮に家鶏の抱き肉のような白い半透明の肉が、一枚一枚ならべてある。
君、これは鶏の肉じゃないか、おしやますじゃあるまい。これでは、何の変哲もないのうと期待に反した文句をいうと、いやこれは、正真の猫肉じゃ。猫肉は、犬の肉のように闇赤色に濁って、下品ではない。恰も、若鶏の如くやわらかく白く澄み、風味たとうべからずであるから、食べてみてから文句をいい給え。
さようか、分かった。しかし若鶏の肉にも似ているが、鰒(ふぐ)の刺身のようでもあるのう、貴公はもう試食済みか。いや、試食どころではない、常食にしちょる。猫肉は、精気を育み体欲を進め、血行を滑らかにすると、ある本に書いてあったから、先年来密かに用いたところ、なるほど本の通りであった。」
猫のことを「おしゃます」と言うのは「おしゃま」から来ています。私の持っている電子辞書にもその説明があります。
お‐しゃま
1 (形動)子供がませたふるまいをすること。また、そのような子。多く女の子について、可愛がる感じを含んで用いられる。「急におしゃまになる」
2 猫、または芸者をいう。幕末・明治の俗謡「猫じゃ猫じゃとおしゃますが、猫が下駄はいて杖をついて、絞りの浴衣で来るものか」の「おしゃます」から出た語という。
さらに
おしゃます‐なべ【おしゃます鍋】 牛、豚の肉の代わりに猫の肉を使った鍋料理。
と本土でも猫肉を食べる習慣があったことが分かります。
「岡ふぐ談」を書いた佐藤垢石は経歴を調べると群馬県前橋市の出身で旧制前橋中学在学中に校長排斥運動を起こして放校処分を受けていました。つまり私の先輩ということです。彼はその後、釣りを題材とする随筆の名手と謳われ、井伏鱒二にも影響を与えています。釣りジャーナリストのはしりです。彼の作品は青空文庫に収録されているので、釣り好きの方はこの大先輩の文章をいつでも読むことが出来ます。
さて私の手許にあった日本で最初に出版されたファーブルの『昆虫記』を青空文庫で公開するプロジェクトが始まりそうですが、完成はいつになるか分かりません。
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「吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。」
漱石の記述からは貧乏書生の奇特な行動という印象を与えますが、佐藤垢石(さとう こうせき1888年6月18日 - 1956年7月4日)の書いた「岡ふぐ談」ではもっとリアルな猫を食べる話になっています。
「昔から猫のことを『おしやます』という。おしやますとはどんなところから名が出たのか知らぬが、おしやますの吸物といえば、珍饌中の珍饌に数えられてある。また一名『岡ふぐ』ともいう。
二、三日後、老友は小風呂敷の包みを持ってやってきた。包みを解くと、竹の皮に家鶏の抱き肉のような白い半透明の肉が、一枚一枚ならべてある。
君、これは鶏の肉じゃないか、おしやますじゃあるまい。これでは、何の変哲もないのうと期待に反した文句をいうと、いやこれは、正真の猫肉じゃ。猫肉は、犬の肉のように闇赤色に濁って、下品ではない。恰も、若鶏の如くやわらかく白く澄み、風味たとうべからずであるから、食べてみてから文句をいい給え。
さようか、分かった。しかし若鶏の肉にも似ているが、鰒(ふぐ)の刺身のようでもあるのう、貴公はもう試食済みか。いや、試食どころではない、常食にしちょる。猫肉は、精気を育み体欲を進め、血行を滑らかにすると、ある本に書いてあったから、先年来密かに用いたところ、なるほど本の通りであった。」
猫のことを「おしゃます」と言うのは「おしゃま」から来ています。私の持っている電子辞書にもその説明があります。
お‐しゃま
1 (形動)子供がませたふるまいをすること。また、そのような子。多く女の子について、可愛がる感じを含んで用いられる。「急におしゃまになる」
2 猫、または芸者をいう。幕末・明治の俗謡「猫じゃ猫じゃとおしゃますが、猫が下駄はいて杖をついて、絞りの浴衣で来るものか」の「おしゃます」から出た語という。
さらに
おしゃます‐なべ【おしゃます鍋】 牛、豚の肉の代わりに猫の肉を使った鍋料理。
と本土でも猫肉を食べる習慣があったことが分かります。
「岡ふぐ談」を書いた佐藤垢石は経歴を調べると群馬県前橋市の出身で旧制前橋中学在学中に校長排斥運動を起こして放校処分を受けていました。つまり私の先輩ということです。彼はその後、釣りを題材とする随筆の名手と謳われ、井伏鱒二にも影響を与えています。釣りジャーナリストのはしりです。彼の作品は青空文庫に収録されているので、釣り好きの方はこの大先輩の文章をいつでも読むことが出来ます。
さて私の手許にあった日本で最初に出版されたファーブルの『昆虫記』を青空文庫で公開するプロジェクトが始まりそうですが、完成はいつになるか分かりません。
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↑初耳でした・・・。
エレニちゃん、今日のお顔はりりしいですね。
ねこの振る舞いから「おしゃま」を当てた昔の人のセンスには感心するばかりです。エレニが日常見せる愉快な行動も沢山あるのですが、なかなかカメラに収めることが出来ません。カメラを向けると互いに意識してしまうのです。
これだから動物を撮影するのは難しい。
今日も良い天気です。カメラを持って散歩に出かけます。足腰を維持するために。