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ヒト遺伝子想定的生活様式実践法

2023年8月にテーマ・タイトルを変更(旧は外国語関連)
2015年4月にテーマ・タイトルを変更(旧は健康関連)

はじめに・・・

 gooのサービス終了に伴い移行を迫られているところ、推奨移行先の一つの "Hatena Blog" に本年8月の間に移行中です。移行先のアドレスは:
https://site2508epsilon.hatenablog.com/ となります。(2025年8月記)

 動物の生活様式の本質は遺伝因子に刻まれており、ヒトにおいても難しいことをせずにそのような生活様式を取り入れてみることが健康への第一歩と思います。なぜなら、生物の進化を眺めると、生息環境内で成り立ち得るある種の特徴を持った生態系があり、そこに依存する姿・形が想定する生活様式に倣うことが最も簡単と考えるからです(姿・形は生物側による長期間にわたる最適な変化の蓄積の賜物。例:チンパンジーはツル植物に覆われた密林での果実食に適応し、そのために手及び口の形や移動方法もこれに対応)。
 動物であれば何を食べて生きていくのかということが課題で、生活様式を変えようとすると、野生動物の場合は形質形態を変えるべく遺伝因子の変化を伴います。ヒトはいつの頃からか文化を持つようになり道具・技術を進展させてきましたが、これまでの生活様式を反映した遺伝子による自動制御を活用しないのは勿体ないと思います。(2024年9月記)


 外国語テーマも長く続かずなので、従来の健康ブログに戻してみようかと思いまして・・・ 備忘録的に残しておくと旧タイトルは「タイ語、漢字を使って覚えるの?」でした。(2023.8月記)


 従来の健康ブログ時に記事を書いていて、何故か、そろそろ外国語でも勉強した方がより良いかなーと思いつきまして、以来ちょこちょこと続けてきましたが、なんとなく、ある事を覚えると別の事を忘れてしまうモードに入ってしまったようで、知識量が停滞しつつあるような感じになりました。
 そこで、本ブログを外国語学習ブログに変更して、自分の備忘録的にまとめておこうかなと思いまして・・・。
 しかしながら、少し飽きたのか内容を増やしすぎたのか、書くのに手間がかかるようになり、時間がとれない時は、別ブログ「単語帳の素材?」にてライトな記事を書くことにしました。(この別ブログも徐々にライトでなくなり、記事を500本ほど書いたところで滞り中・・・)
 なお、健康ブログ時代の記事は、コチラの 入り口 からどうぞ。(2015.4月記)
 最近の健康系記事はカテゴリー「タイ語以外(健康2019)」からどうぞ。

進化の考え方:ラマルクとダーウィン

2023年09月26日 | 健康法

 御先祖様から伝来の生活様式は、過去の経験の積み重ねで成り立っている。かつて経験した事象に対しては、何らかの自動的な制御法が身についている(例えば、植物毒への対応。ユーカリの葉には毒性があるが、それを主食にするコアラは解毒できる)か、あるいは制御できない類のものならそのような事象に至らないよう極力回避するだろう(例えば、毒のあるものは味覚や本能で回避する)。生活様式には、生きるための知恵が詰まっている。
 運動して体を鍛えるという生活習慣は、スポーツするアスリート級の人なら当然のことだろう。しかし、現役を引退しても同じレベル(同世代のトップ級)で体を鍛え続ける人はそれほど多くないのではないか(コーチや監督になって太るのはよくみかける)。他方、音楽の場合は、かなり上手い人ならもともと素養があって好きで始めたものだろうから、趣味として生涯にわたり長く訓練を続けることが多いだろう。
 体を鍛えることと音を楽しむこととでは、継続性に大きな違いが生じることから、次の世代への伝わり方も違いが生じると思われる。


 一例を引っ張り出すと、当時8歳の女の子(また特殊な例ですまぬ・・・)。南米の日系5世らしく、祖父(3世)が楽器の演奏を教えていたらしい。当時は日本語はできなかったようだが、親がなじみの日系人のサークルではカラオケが流行っていたらしく練習して上達したらしい。動画サイト youtube から:

瀬戸の花嫁を唄うブラジル人女の子
   https://www.youtube.com/watch?v=1cCSLGIPiPg
 (興味があるなら、この子を日本のTV番組が取材した動画もどうぞ。"MELISSA KUNIYOSHI Imagens do programa Sekai Marumie"というタイトルで検索を)

 


 脱線はほどほどにして、本題に戻り、ラマルク的な進化の考え方とダーウィン的な進化の考え方を簡単にまとめておこう。

 ラマルク的な進化の考え方においては、生物の進化は、
・下等で単純なものから高等で複雑なものへという方向の中で、生物はその時の生存環境に対応したある種の意図・目的を選び出す(前進的な進化、目的選択により変化の方向性が存在すると仮定)、
・それらによく適した生活様式を通じて、よく使うものは発達し、使わないものは衰える方向へ向かう(用不用説)
という感じだろう。

 他方、ダーウィン的な進化の考え方においては、生物の進化は、
・意図も目的もなくただただ変化していく(変化はすれど方向性がないと仮定)
・たまたま変化した形質形態のうち、その時の環境における生存闘争で有利な方が優越種として生き延びる(適者生存説、自然淘汰説。偶然の結果を通じた進化。注1)
となるのだろうか。

(注1)ダーウィンの有名な著作「種の起源」の原文題名は "The Origin of Specied by Means of Natural Selection, or the Preservasion of Favoured Races in the Struggle for Life" である。自然選択と生存闘争における優越種の保存とが等価ということらしい。

 
 動物をみる限りは、もどちらの考え方もあり得ると思われる。ある時はラマルク的に進み、ある時はダーウィン的に進むのであろう。
 ラマルク的な進化の例は、エピゲノム遺伝論をみればいろいろあるだろう。大規模な変化を伴うもの(例えば、サメ(軟骨魚類)のひれがカエル(両生類)の足に変化など)は、こちらで説明した方が分かり易いだろう。
 ただ、獲得形質の遺伝を初めから終わりまで観察するには、時間幅が最低でも10万年から100万年あたりは必要のような気がするので、明解に実証しようとするとなかなか困難と思われる(注2)。
 ダーウィン的な進化の例は、蛾の工業暗化の話が有力なのだろう(注3)。生物の体表の色などの小規模の変化を説明するのに便利なのではないかと思われる。

(注2)ダーウィン派によれば、獲得形質の遺伝を否定した実証としてヴァイスマン(「ワイスマン」とも書かれる)の実験がある(ラマルク派からみると実験自体が突っ込みどころ満載で、一般向け記事だとダーウィン派でも最近言及・紹介する人が減っているような・・・)。サイト「人物小史」から:

7.[オーガスト・ヴァイスマン] 1834-1914 [生殖細胞連続説]
 http://ymorita.la.coocan.jp/hist1.htm#2-7
> 卵の細胞質の中に、生殖細胞質(生殖質)と体細胞質(体質)が区別されると考えた。そして、生殖細胞質を配分された細胞が生殖細胞となって次の代に伝えられ、体細胞質を配分された細胞は体細胞となって、その個体を構成し、生殖細胞に栄養を与える役目をするとともに、その個体の生命を維持する。したがって、個体の死は体細胞の死を意味し、生殖細胞には死はなくて、あたかも原生動物に死がないのと同じように、世代から世代へ送られて行くと考えた。
<エピソード> ・・・
・この説によると決定子に変化が起きない限り種は不変である。彼の説によると獲得形質の遺伝は不可能である。彼はそれを証明するために21代にわたってハツカネズミの尻尾を切断し続けても生まれる子供に変化がないことを示した
・ダーウィンの説の中で自然選択だけを強調したのでネオ・ダーウィニズムと呼ばれる。<


(注3)蛾(オオシモフリエダシャク)の例については、サイト「FNの高校物理」の記事から:
オオシモフリエダシャクの工業暗化
   http://fnorio.com/0080evolution_theory1/peppered_moth1/peppered_moth1.htm
(種名を読むときにどこで間を置くか心配なヒトは、シャク蛾の一種で幼虫期はエダに擬態し羽がシモフリ模様のオオきなもの、という理解で対応するとよいかも)


 ラマルク的な進化の考え方とダーウィン的な進化の考え方は本来、共存可能なはずだろう。しかし、19-20世紀にかけて弱肉強食主義を信奉する人々がダーウィン説を社会思想へ援用し始めたことから、おかしくなってしまったようだ(注4)。ラマルク説は間違っていて、ダーウィン説が正しいという排他的な関係になってしまった時期が長くつづいていたように思われる。

(注4)社会思想における自然権論(「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という天賦人権説の考え方に同じ)の下では、20世紀前半に隆盛した人種差別主義や植民地主義は高尚な考えとは言えずこれらを正当化するのは難しい。このため、生物の基本法則にあたる進化でのダーウィン説に白羽の矢が立てられ、同説以外を認めない態度をとった感じだろうか。


 ダーウィン的な進化の考え方だけが正しいとすると、矛盾点はいろいろあるので列挙しておこう。何故だか毛色が違いそうな路線も扱うファッション雑誌のサイト「Oggi.jp」の記事を要約すると:

ダーウィンの進化説には重大な矛盾点がある…?【知らなくても困らない。でも知ってるとちょっと楽しい宇宙の話】
 https://oggi.jp/98661


要約すると>ダーウィン進化説6つの矛盾点
 (1)カンブリア爆発が説明できない
 (2)コピー・ミスで進化するのか?
 (3)不利な形質も残っている
 (4)中間段階の化石が未発見
 (5)長期間進化してない生物がいる
 (6)突然変異の仕組みが説明不足<

 

 ラマルク的に考えれば、(1)については、生物の大絶滅後の回復期にあたり未開の生息環境が豊富にあり様々な生活様式が成立し得たから、(2)や(6)については、ラマルク的なものとそもそも関係がないから、(3)については、生存環境に依存して形質形態の有利不利が生じ得るものの、多少不利でも残ることもあるから、(5)については、よく使うものだけからなる形質形態(収斂進化)の場合は生活様式が変化しなければ進化もしないから、ということになり、特に問題にならなくなるであろう。
 (4)については、ダーウィン的ほどではないが、ラマルク的に考えても問題になり得るかもしれない。このため、生物の進化には停滞期(現在はこの期)と非停滞期(躍進期)とがあると考えを取り入れる必要があるか(注5)、あるいは、もっと別の考え方(注6)がよいのかもしれない。

(注5)生物が逆境に置かれると、細菌レベルでは突然変異が増大することが知られており、多発突然変異、あるいは進化の躍進期にあたるのかもしれない。その内容をブログ「生命進化の真実を求めて-植野 満」の記事から引用すると:

2.突然変異説の誤り
 https://blog.goo.ne.jp/um1123/e/32bc8396cb23111255c9814368cface7
>なお、突然変異がランダムに引き起こされるということに関しては、それに反する実験がすでに1989年にハーバード大学のジョン・ケアンズらによってなされている。それは、大腸菌の実験であるが、大腸菌は生命の危機に晒された場合、合目的的な突然変異の出現が普段に比べて一兆倍も出現したそうなのである。これらの事実からも突然変異のランダム性は失われるのである。<
(なお、同ブログでの一つ前の記事「1.ダーウィン進化論の問題点」 https://blog.goo.ne.jp/um1123/e/ce483d16b7a84a313603a60bac697f4c も興味深い)


(注6)例えば、ウイルス感染が生物を進化させたとする、ウイルス進化説がある。これについては、再度ファッション雑誌のサイト「Oggi.jp」の次の記事が詳しい:
ウイルスが生物を進化させたのか? ウイルス進化論ふわっとまとめ 1-2【知らなくても困らない。でも知ってるとちょっと楽しい宇宙の話】 
 https://oggi.jp/99894 及び
 https://oggi.jp/99895
後者の記事から>・・・ここで、ウイルス進化論の要点をまとめていきましょう。要点は以下の通りです。
【1】遺伝子の突然変異が単なるコピー・ミスだけではなく、ウイルスが生物に感染した時にその生物の遺伝子を組み替えたりして起こる。
【2】ウイルス自身の遺伝子をその生物の遺伝子に挿入したりすることによって変異が起こり、それが次世代に引き継がれて、生物が進化する。<

 
 最後に備忘録的に、それぞれの進化の考え方の特徴をまとめておこう:

〔ラマルク的な進化の考え方〕

- 先メンデル遺伝論の時代に、豊富な博物学の知識から導かれたものだが(ラマルクは当時の博物学から生物学を新たに分離させた立役者)、動物のみを対象としたものである。
- 動物自身の意図・目的が進化に関与するので、人智を越えたものが生物を選ぶという思想(選物思想)とは異なる考え方である。
- 動物の具体的な習慣的動作が進化に関与するとしてかなり自力本願的で、偶然性を排している(将来の予測もできるかもしれない)。
- 生物種間による生活様式の工夫の競争(ニッチ獲得の争い。注7)はあるだろうが、同一種の中での生存闘争の形では前面に出てこない。


(注7)ニッチの意義については、例えば、環境イノベーション情報機構のサイトから:

ニッチ   【英】niche  / ecological niche
 https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2923

>生物学用語で、生態的地位のこと。
 動物であれば、餌となる植物や他の動物、隠れ家など、また、植物であれば、光合成に必要な太陽光や根を張るための土壌など、生物が自然の生態系内で生きていくために不可欠なもの(環境)がある。生物種が生態系内でこれらを巡る種間の争奪競争に勝つか、耐え抜いて、得た地位が生態的地位(ニッチ)である。ニッチを獲得できた生物種だけが生態系内で安定した生存が可能となる
 一般に、生物種は様々な生物の相互関係の中で適応して、ニッチを獲得しやすい特有の形態や習性を持つようになる(進化する)ので、生態系内には多様な生物種が複雑な相互関係の中で存在する。安定した生態系は、ニッチを持った多くの種で成り立っており、通常、空いているニッチはない。また、一般的には、ひとつのニッチを異なる種が占める(獲得する)ことはできないので、安定した生態系に新たな生物が侵入する余地はほとんどない。しかし、希には餌の食い分けや棲み分けが起こり(ニッチが分化され)、両種の共存が可能になることもある。<

 

〔ダーウィン的な進化の考え方〕

- メンデルの遺伝論と同時期の考え方であり、品種改良のための栽培植物や飼育動物(家畜、犬、鳩など)の観察が考え方の基礎にある(植物も対象化。動植物の品種改良の場合は、大規模な変化は起こりにくいし、選択は人為的選択によっている)。
- 自然が選択するという選物思想の一種であり、創造説(生物は神により選ばれ創造されたとの考え方。この場合、個体差はあれど生物は不変と考えることが多い)との距離は近い。
- 偶然性が支配すると考えるためかなり他力本願的で、結果の分析しかできない。
- 同一種内でのよく似たもの同士(普通の子と親とは少し違う形質形態の子)による生存闘争の存在を仮定している。
- 進化は個々に関連のない事象が偶然の積み重ねで起こるので、時間的にみれば一定の時間を必要とし、徐々にしか進まない。

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動物の生体エネルギー論と進化

2023年09月14日 | 健康法

 前々回記事の生活様式との関連で、能力向上をもたらす上での生活様式の重要性の一例を(かなり特殊な例だけど・・・)。

 ついでに言えば、ゲノム遺伝論が全盛の時期にダーウィンの進化の考え方だけが正しいとする実例がほとんどないことから、今西 錦司氏が「生物種の集団(コロニー)がその集団の目標としてある方向に向かうと、その方向で多発突然変異が起こり得るのだろう」というような趣旨のことを述べたことかある。これは、その一例にあたるのかもしれない。
 一例というのは、音楽家の家系の3代目の当時8歳の女の子。父が作曲家、母がバイオリニストで、その練習姿を眺めながら3歳でバイオリンに触り「毎日5時間練習した後、先生と一緒に練習します」という環境・生活様式だと上手くなれるらしい。その演奏の一つ(サラサーテのツィゴイネルワイゼン)を動画から:

 

Himari Yoshimura. 1st round String instruments / 20th International Competition for Young Musicians "The Nutcracker"(2019)
 https://www.youtube.com/watch?v=4H6BitFb9zw

 

 雑談はさておき本題に戻ると、いろいろ詰めていくと「動物とは何か」という疑問にぶつかる。西原克成氏の言説だと、エネルギーが渦を作るということになるけど、渦を作るのは物質とした方が座りがよさそうなので、これを改変すると次のようになるだろうか:

 

 動物とは、運動を通じて獲得・摂取した物を消化吸収して全身に供給し、供給物から生成したエネルギーを利用する新陳代謝によって物質の流れの渦(動的平衡)を形成しつつ老化を克服する生命体である。

 

 想像するに、流れの渦(その中心は内臓、心臓あたりか?)に鎮座するのが、心とか霊魂と言われるものかもしれない。この場合、脳は、本来は筋肉の協調による運動を制御するための電気回路であり、後にヒトは論理的な思考ができるようになったが、これは当初運動量の節約を目的として発達したものである、と考えるのだろう(故に、心を働かせると利他的にもなり得るけど、頭を働かせると省力化、すなわち利己的になりがちになるのだろう)。

 

 動物をエネルギー論的にみれば、新陳代謝用(基礎代謝)のエネルギー、運動用のエネルギー、その他のエネルギーを生み出す必要がある。その他のエネルギーからは、生殖用のエネルギーを捻り出す必要があり、その残りが余剰エネルギーと言えるのだろう。

 動物の生活様式は、基礎代謝エネルギー、運動用のエネルギー及び生殖用のエネルギーを確保できるものでなければならないという制約があることになる。例えば、哺乳類の基礎代謝エネルギーの場合、恒温を維持する必要があり、エネルギー摂取(energy intake)のうち5割以上は熱エネルギーに変換されていると言われている。
 運動用のエネルギーは身体活動の程度に、余剰エネルギーは肥満度などに依存して、同じ生物種であっても個体差による変動が大きいであろう(そもそも野生の動物であれば引き締まった身体をしており、肥満ということはあり得ないのだが・・・)。他方、生殖用のエネルギーは、変動はそれほど大きくないだろうが、残る基礎代謝エネルギーについては、利用が効率化されていればされているほど生存に有利ということになろう。

 

 進化は、生物種と地球環境の相互作用でおこる。この点に戻って再度考えると、生物種によつて相互作用の内容が異なるのは何故だろうか。
 その答えは、いろいろなものが成り立つと思う(例えば簡単なのは、それぞれ生息環境が違うから)。その一つとして生体エネルギー論的に考えれば、生物は常に基礎代謝を最適化しようとしているから、ということになるのではないか。この点を少し説明しよう。

 

 生物の一つの特徴として、生体のエネルギー恒常性を維持するため、基礎代謝向けエネルギー利用を効率化して最適化するようにしていることが挙げられる。生体エネルギー論的にみれば、そのような最適化はエネルギー支出の削減策の一つであり、エネルギー摂取(食餌・酸素摂取など)の必要性を軽減することに繋がる。
 このような最適化は、生体は、基礎代謝向けエネルギーが効率化されるよう、久しく使わない過剰機能(over-specification fundtions)には減衰調節(down-regulate)を、よく使うようになった機能には徐々に補強調節(upregulate)を施すことで実現しているようだ(生体の基礎代謝最適化仮説)。

 この最適化現象は、生物個体の一代かぎりで眺めればホルミシス効果(逆境が生物を強くする現象)に、生物種を累代にわたって眺めればラマルクの用不用説(よく使うものは発達し、使わないものは退化する現象)になるのであろう。

 以上のように、生体エネルギー論的にみれば、基礎代謝の最適化の結果自然と導かれることになるラマルクの用不用説には違和感が生じにくいのではないだろうか。この場合、生物の進化は、基礎代謝の最適化に伴う随伴現象である、とみられるのかもしれない。

 

 ついでに補足説明しておくとホルミシス効果の例は、前々回記事とも関係するが、


- 生活場における重力の存在が動物の骨・筋肉を強くする、
- 生活場に風が吹くことが樹木を強くする

などが挙げられる。また、ラマルクの用不用説は、次の二つの法則からなる(いろいろあるけど、西原克成「究極の免疫力」(2004年) から引用しよう。同書204-205頁):


1-「生育の限界を超えないかぎり、脊椎動物の器官の形と機能は使えば形も機能も発達し、使わなければ縮小してやがてなくなってしまう」((狭義の)用不用の法則)
2-「そして雌雄にこれが共通していれば、生殖を介してこれが子に伝えられる」(獲得形質遺伝の法則)

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ATP恒常性(清水氏23/8/25記事関連)

2023年09月09日 | 生物医学ネタ絡み

〔更新履歴:追記2023-9-10〕

 

 細胞内のATP(アデノシン三リン酸)濃度はどうやって測定するのか、ダイナミックな(動的な)測定は可能なのか?
 西原 克成氏が、生物は細胞ではなくてミトコンドリアが単位だろう、と指摘したことがあって(確か彼の著作「患者革命 目を覚ましなさい!」(2014年)あたり)、この道で話を転がしてみたところ、ATP濃度が重要ということになって上記の疑問に至っていた。ATP濃度の測定、ということで調べても、細かい技術的な話ばかりで少し困っていたところ。
 そのような状況で見かけたのが、ブログ「ドクターシミズのひとりごと」の次の記事:
 
   果糖摂取は肝臓のATP貯蔵量を大きく減少させる -2023年8月25日
   https://promea2014.com/blog/?p=23401

 

 関心がかなりあるのでリンク先を含めて隅から隅まで読んでみたところ、「ATP恒常性」という概念があると学ぶことができた。この概念を使うとかなり当初の話を転がすことができたようだ。

 ということで、その成果を含む考察に関し備忘録的にその荒筋をまとめておくと:

 

1・多細胞生物は、(真核)細胞内でATP恒常性を維持しているのだろう(この制御モデルについては、例えば「ATP恒常性のミトコンドリア制御仮説」)


2・(ヒトの場合の)糖質食は、低ATPを誘導し食欲を亢進させ脂肪蓄積へと向かわせる越冬準備食にあたる(糖質食の越冬準備食仮説)。糖の種類で経路が異なる:
 - ブドウ糖は、追加分泌されたインスリンの作用過剰による食後の低血糖を利用して低ATPへ
 - 果糖は毒性があり肝臓で代謝されるが、代謝時に低ATPを誘導する設定
  (低ATP誘導により果糖がだぶつき貯蓄に回せるのも望ましい方向)

 

 ついでにプロトタイプを書いておくと:

 

3・ATP恒常性のミトコンドリア制御仮説
 細胞内では生体のATPの95%を賄うミトコンドリアが中心となり、モデルとしては次のように制御するのではないか:
- 恒常性を維持:       平時〔エネルギー代謝は非貯蔵モード〕
- 事前想定内での高ATPの発生:細胞分裂の方向へ
- 事前想定内での低ATPの発生:越冬前など〔エネルギー代謝は貯蔵モードへ変化。他方、細胞自体は低ATPが祟り異物老廃物の除去が滞り早死傾向となり、長期化すると脂肪組織主導の慢性炎症と繋がる模様〕
- それ以外の恒常性の破綻: 細胞死(アポトーシス)へ誘導〔主としてがん化防止のための模様〕

 

追記:


 ついでに、冒頭記事の中に出てくる。身体活動時に細胞内で働き易くなる酵素である、アデノシン一リン酸(AMP)により活性化するタンパク質リン酸化酵素(AMP-activated protein kinase、AMPK)について触れておこう。
 AMPKは、細胞内のATP恒常性を監視して生体のエネルギー恒常性を維持するエネルギー・センサーの役割を果たしている。具体的な働きは:

 

AMPK -バイオキーワード集
 https://www.yodosha.co.jp/jikkenigaku/keyword/3067.html
 AMPK(AMP-activated protein kinase).細胞内のエネルギー状態を監視し,その状態に応じて糖・脂質代謝などを調節するセリン・スレオニンキナーゼで「代謝マスタースイッチ」とよばれている.低酸素,筋収縮などのエネルギー低下ストレス時に起こるATP低下とそれに伴うAMPの増加によって活性化される.活性化AMPKはエネルギー産生経路(糖輸送,脂肪酸化)を亢進し,エネルギー消費経路(タンパク質合成)を遮断することにより細胞内ATPレベルの回復をはかり,細胞内のエネルギー恒常性の維持に貢献している.

 

 このリン酸化酵素は、運動時に低ATPになりAMP濃度が高まると働き出し、ATPを産生・供給し、運動には無関係な先送りできる細胞機能(グリコーゲン合成,脂質合成,タンパク質合成など)でのATPの消費を抑えることによって、運動時に最大限のパフォーマンスを発揮することを意図した機構と解される。
 エネルギー代謝が貯蔵モードの際には、邪魔な働きを持つ酵素であり、ある程度その働きを阻害する必要性が出てくるのであろう(AMPK活性を阻害の結果、低ATPへ誘導)。

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生活様式と獲得形質の遺伝

2023年09月07日 | 健康法

〔更新履歴:追記2023-9-8〕

 

 進化は、生物種と地球環境(生息環境)との相互作用で成り立つ。生息環境の中で生活様式が成り立つと考えることとなるが、環境要因と生活様式との切り分けはそれほど自明ではない。
 生活様式の中でも生体に力学作用を与えるものが重要との立場を採るが、普段の生活では余り意識されないものも多い。特に、物理的環境要因が関係するものは、力学的、電磁気学的あるいは熱力学的な作用を生体に及ぼし得るが、ヒトが制御できない要因(気圧、重力、自然放射線量など)と制御できる要因(生活場の気温、日光・紫外線量など)との二つに大別できるだろう。ヒトが制御できない要因は、暗黙の生活様式となり易い。例えば:


1.- 生活場は1気圧前後である、
2.- 生活場には地球引力(重力)が働いている、
3.- 生活場には風が吹く、

 

などである。

 

 上記1.について力学的にみれば、動物は1気圧の力学作用で押しつぶされないように1気圧に釣り合う力で内側から膨らみつづけている、ということになる。なので、動物をロケットで宇宙に連れて行って宇宙空間に放り出せば、ゼロ気圧なので膨らみ過ぎて破裂してしまうであろう。
 気圧の変化は力学作用の変化を招くこととなるが、このような調節が苦手で不快な症状が出る人が結構いるらしく(いわゆる気象病を患う人々)、次のような情報サイトがあり繁盛しているようだ:

頭痛ーる
https://zutool.jp/
低気圧頭痛・不調の原因や症状とは? -気象病の基礎知識
https://zutool.jp/column/basic/tenkitu_symptom

低気圧頭痛・不調の原因とは?
 低気圧頭痛・不調の主な原因としては気圧の変化が関係しています。気圧の変化感じ取るのが耳の奥にある内耳(ないじ)になります。・・・この内耳のセンサーが敏感だと、わずかな気圧の変化でも脳に対して過剰に伝わってしまいます。
その結果、頭痛、めまい、肩こり、ぜん息、うつ病といった様々な不調に繋がるのです。

 

 2.について力学的にみれば、普段運動しない人でも、ある程度身体活動をしている、ということになる。寝ている時は格別、座ったり立ったりしている時は、骨格のバランスを上手くとりながら筋肉(抗重力筋)で調整して重力に釣り合う力で骨格を支えていることになる。
 骨や筋肉の成長を司るものは、力学的な負荷であり、ヒトをロケットで宇宙空間に連れて行って長期滞在させると、残念ながら無敵ングにはなれずに骨そしょう症や筋力低下に悩むこととなる。

 

 3.については、動物にとっては野外では目や肺に風で舞ったゴミが入ったりするので、それに対する備えが必要ということになるが、植物にとっては死活問題となっているようだ。
 1991年に米国で、人工的な生態系を作り上げ自給自足の生活をすることを目的として、巨大な温室(バイオスフィア2)に科学者8人が2年間の予定で閉じこもる実験をしたことがある(月面に宇宙基地を作り長期滞在するための地上での予備実験なのであろう)。生態系の柱は樹木だろうということで、温室内にも多くの樹木が植えられた。最初は順調に育っていたが、実験が終わらないうちにその多くは枯れてしまった。理由は、ニクラス・ブレンボー氏の著作「寿命ハック」によれば:


「風は木にとっては手ごわい敵の一つだが、実のところ、必要不可欠なものである。絶え間なく吹く風に耐えることによって木はたくましく強く育っていく。風が吹かない場所では木は弱くなり、やがて自らの重さを支えられなくなって倒れる。」(同書78頁)


 風が吹かないと木が枯れる。ヒトが無重力空間に長期滞在すると大きな問題が生じるということが分かっていた筈なので、思考実験で思いつきそうなものだが、ムーンサルト(後方二回宙返り一回ひねり)ほどではないだろうがちょっとした捻りが必要で当時は世界一流の頭脳でも思い至らなかったのであろう。
 樹木は、生活場の風の強さ応じて遺伝因子により幹や枝の太さを制御しいてるのだろう(未だ人智が及ばない所にある、遺伝因子の自動制御の一例。ヒトの骨の強度の制御パターンに類似していそう)。樹木の種類によって制御パターンに違いがあると思われるが、そのことがある生活場所での樹木の植生に大きく影響しているのかもしれない。

 

 さて、生活様式が遺伝因子に影響を与える例があるのだろうか。


 この疑問に答えるために、先ず遺伝学の歴史についてみておこう。明らかに段階的な発展を遂げていると思われる:

1- 先メンデル遺伝論〔遺伝という現象は、いにしえより認識されていたのだろうけど、その機構については手探りの状況〕
2- メンデル遺伝論〔劣性遺伝などを解明〕
3- ゲノム遺伝論(DNA配列遺伝論、ワトソン・クリック遺伝論)〔ゲノムを解析できれば遺伝の謎が解けるという都市伝説に至った模様〕
4- エピゲノム遺伝論(エピゲノム制御を含む遺伝論、DNA発現制御遺伝論)〔ゲノムは生命体にとって、いわばご先祖様伝来の指令が書かれた古文書(DNA配列)だが、古文書自体よりも古文書を読み取る装置(エピゲノム制御)の方が複雑で高度なものであることが判明〕

 

 ゲノム遺伝論では、いわばDNA配列原理主義の立場なので、生殖時にDNA配列が決まりそれが遺伝系すべてを制御しているとし考えるので(例外は、突然変異によるがん化など)、生後に行われる生活様式を考慮の対象として取り入れにくい。

 

追記:ヒトのゲノムは塩基数にして約30億個ほど。ゲノムのいちばん多い動物は肺魚(1100個億)、次が両生類で哺乳類に比べ15-30倍の数のゲノムを持つ。ゲノム数は進化の度合いと関係しておらず、むしろ肺呼吸に慣れない時代にかなり膨張した模様。


 他方、現在主流のエピゲノム制御を含む遺伝論によれば、生活様式と遺伝因子とが密接に関係するとの立場であり、生活様式を考慮の対象に入れるのは当然のこととなっいる。

 このような関係はラマルクの進化法則のうち「獲得形質遺伝の法則」と言われているものだが、今ではその実例がいろいろあるけど、例えば、折茂英生氏 「エピジェネティクスと栄養」(2010年) https://www.nms.ac.jp/sh/jmanms/pdf/006040193.pdf の左欄下段から、戦時中のオランダの飢餓の事例(母親の生活様式(低栄養。流通が滞ったという社会的要因によるもの)による影響が子孫に伝承):

 

 第二次世界大戦末期の1944 年~1945 年の冬季,ドイツ占領下のオランダで発生した飢餓(Dutch Hunger Winter)時に妊娠していた女性から生まれた子供たちに,成人後に生活習慣病を発症するリスクの増加がみられた.最近彼らの子の世代,すなわち飢餓時に妊娠していた女性の孫の世代(F2)まで,生活習慣病の発症リスクが高いことが示された。

 

追記:エピゲノムの解説がなかったでござる:

エピゲノムの制御を受けた転写の方程式-エピゲノム異常の影響を反応素過程ごとに理解する- 2020年11月26日
 https://www.riken.jp/press/2020/20201126_1/
抜粋>補足説明
  1. エピゲノム
    細胞内の全DNAの塩基配列として記録された遺伝情報の総体を指す「ゲノム」に対し、DNAやヒストンの化学修飾などによって細胞の個性を記憶する情報の総体を「エピゲノム」と呼ぶ。<
(研究成果報告からの抜粋だけど、報告自体を眺めるとエピゲノム遺伝論での探究点に触れることができるかもしれない。ちなみにエピゲノム制御の結果、ヒトのゲノムのうち読み取られる部分(遺伝子)は約21-24千ヶ所ほど)

 

 他方、進化学について眺めてみると、ダーウィン的な進化の考え方が主流と思われる。これは、ゲノム遺伝学と相性がよいし、突然変異をベースとした概念なのでかなり緻密な枠組みを組み上げて確率過程の現象ととらえて数理進化学的な方向にも進んでいるところ。
 なので、その信奉者は何故かエピゲノム遺伝論を毛嫌いする傾向がみられる。おそらく、ラマルク的な進化の考え方、特に獲得形質遺伝の法則への強い反発なのだろう(数理進化学のようなものをやっていた専門家が、今更、生物種の生活様式を観察することが重要と言われても、方向転換できないのかもしれない)。

 エピゲノム遺伝論の時代においては、親世代の生活様式が重要であり、本ブログでは獲得形質遺伝の法則は当たり前田として扱っていこう。この点に関し、とりあえず見つけた雑多な資料を置いておこう:

 

「遺伝」 について
   https://byosei-neuroscience-institute.ncnp.go.jp/bucho/%E3%80%8C%E9%81%BA%E4%BC%9D%E3%80%8D%E3%80%80%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
>(獲得形質というのは、生まれた後で経験などによって得られたその人の性質のことです。 例えば、もともと運動神経の悪い人が猛練習によって野球がうまくなっても、その後生まれたその人の子供が生まれつき野球がうまくなるかというと、そうではありません。 つまり、獲得形質は遺伝しない、というのが生命科学上の常識なのです。)・・・<
>でも、最近では「生みの親より育ての親」という現象が少なからず報告されてきています。 これは、遺伝子そのものに組み込まれた情報ではないけれども、育て方によって、その遺伝子が修飾を受けて、結局育ての親と同じ性質が世代を超えて伝えられていく、という概念です。
 なかなか面白いんですよ、この分野の研究も。。。。
 たとえば、ネズミで観察されているんですが、子供の毛繕いをしたり背中を舐めたりと、きちんと子育てをする親に育てられたネズミは、自分が親になったときにはやはりきちんと子育てをするようになる。 逆に、あまり子育てをしない親に育てられたネズミは、親になってからやはり子育てをしなくなる。
 しかし、子育てに熱心でない親から生まれても、親を交換して子育てに熱心な親の元で育てられれば、将来きちんと子育てをするようになるし、また逆の現象も観察されています。 つまり、生みの親は関係なくて、どのように育てられたのか、ということが、その後のネズミの振る舞いを決定するわけです。しかも、これが何世代も受け継がれるんですよ、あたかも「遺伝」しているかのように。 つまり、生みの親より育ての親、という訳です。・・・

 

獲得形質は遺伝する? -親世代で受けた環境ストレスが子孫の生存力を高める-
 https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2017-01-11
>概要
 生物学では長らく、後天的に獲得した形質は遺伝しないと考えられていました。ところが近年になって、その通説を覆すような事象がいくつか報告されるようになりました。例えば、高カロリー食により肥満になった父ラットから生まれた娘ラットが、通常食で育ったにもかかわらず糖尿病の症状を示すという報告が挙げられます。このように、親が生育した環境によって子供の表現型が変化を受ける可能性が示唆されているものの、それがどのようなメカニズムで生じるのかについてはほとんど明らかではありません。 ・・・

 

後天的に獲得された形質は、次の世代へと遺伝する──「エピジェネティクス」の謎を独科学者らが解明
 https://wired.jp/2017/10/10/epigenetics-mechanism/
>親は子どもの発達を導く遺伝情報を提供する。親のエピジェネティックな情報は、子どもが最初に直面するであろう環境に適応するための、母親からもらえる最初のマニュアルのようなものといえるだろう。そして親世代が後天的に得た形質は、子ども世代、そして孫の世代へと受け継げられていくのだ。

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生活様式の例

2023年09月04日 | 健康法

〔更新履歴:追記2023-9-6〕

 

 生活様式は「ある生物種の集団(コロニー)の成員が共有している生活の営み方」という意味であり、特にヒトの場合はある集団が持っている生活様式を広く総称して「文化」ということになるのだろう。

 

生活様式(読み)せいかつようしき(英語表記)ways of life
 https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E6%A7%98%E5%BC%8F-85612
ある社会あるいは集団の成員が共有している生活の営み方,とくに人間の基本的活動である生産(仕事),消費(余暇),再生産(家族生活)の本質と関係について共有している認識と行動の枠組みのこと。・・・<

文化(読み)ぶんか
 https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96-128305
>あらゆる人間集団がそれぞれもっている生活様式を広く総称して文化とよび、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっているから、個別文化の間には高低・優劣の差がつけられないとする。採集狩猟、定住食糧生産、都市居住者の商工業を営む人々の生活様式にはそれぞれ独自な価値があり、その間に甲乙はないとされる。・・・<

 

 とりあえず例として、以前の記事で言及したアイアイ(原猿類)に関して生活様式(特に食性)を見ておこう。

どうぶつ図鑑「アイアイ」 | 東京ズーネット
   https://www.tokyo-zoo.net/encyclopedia/species_detail?code=354
>特徴:マダガスカルだけにすむ原猿類で、アイアイ科で現存するただ1種の動物。長い尾、大きな耳をもち、夜活動します。木の中の昆虫をさがして食べると報告されていますが、島泰三先生の綿密な観察によると、主食はカンラン科 Canarium属のラミーの果実で、切歯で穴をあけ、細長い中指で中身をかきだすそうです。現地では森林破壊により個体数が減っています。<

 

 動画で見た方が分かり易いと思うので:

キモカワ猿】アイアイの狩りが衝撃的!1本だけ長ーい中指でミルワームを食べまくる【どうぶつ奇想天外/WAKUWAKU】
  https://www.youtube.com/watch?v=cK8II3DxJeg

 

   上記動画からのショット:

     図1:主食のラミーの実に噛みつくアイアイ(猿だが切歯がリスのように発達していて堅い実を割ることができる)

 


        

     図2:殻を割ったラミーの実から中指を器用に使い中身を掻き出すアイアイ(黒い竹ひご様のものが中指)

 

 

      

     図3:アイアイの手指(中指・薬指が長く、中指は特に細長い)とラミーの実のかじり痕

 


        

     図4:タッピングしながら大きな耳を傾けるアイアイ(木の枝や竹などの中の空洞の有無や、

     中にいる好物の昆虫(ミルワーム)の居場所を反響音の違いで聞き分ける)

 

追記:

 猿のアイアイの形質形態の特徴をまとめておくと:

・口(歯)は、前歯(切歯)が発達していて硬いものを噛める一方、犬歯・臼歯はそれほどでもなく軟らかいものが主体の食性(主食のラミーの実を割るにはペンチを使うぐらいの力が必要。好物の昆虫はミルワームなどで外骨格のゴキブリ、バッタはお嫌いの模様)
・手指は、中指・薬指が長く、特に中指は異様に細長い(ラミーの実から胚芽を、竹の空洞から好物の昆虫を掻き出すのに便利)
・耳は、身体の大きさの割に大きい(タッピングによる音を聞き分けるのに便利)

 

 想像するに、歯と手指は、ラマルク的な進化の考え方(用不用がベース)で説明すると良さそう(食事の際に働く力学作用により徐々に変形してきた)。
 耳は、ラマルク的な考え方、ダーウィン的な考え方(突然変異がベース)のいずれでも説明できそう(タッピングの際に耳を自ら動かす力学作用によって、あるいは突然変異後の自然淘汰によって徐々に大きくなった)。

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清水氏23/8/31記事関連(高脂血症薬、筋毒性)

2023年09月02日 | 生物医学ネタ絡み

  自分は健康関連の業務の人ではないので、何かインプットがないと論考が進まない状態にある。なので暇があれば "food for thought" (思索の糧)ということで、健康関連の本を読んだり、関係のウェッブ・サイトを定期的に巡回したりしているところ。

 そうすると、ここはこうなんじゃないの、とか突っ込みを入れたくなのことがよくあって、このカテゴリー「生物医学ネタ絡み」ではそういう点を記事化したものを放り込んでおこうかと考えているところ。

 

 とりあえず、その第一弾は、清水氏のブログ記事にしよう:

   ゼチーアの筋毒性 -2023年8月31日
   https://promea2014.com/blog/?p=23657

 大変ためになる記事だったと思われる。過去の経験を踏まえると、同ブログでは別のブログ記事にコメントを入れたこともあるけど、素人の考察は余り歓迎されてない雰囲気がありありオオアリクイ。

 ということで、妄想の類かもしれない内容は関係ない場所で個人の見解としておいた方が無難かと思っているところ。

 

 ということで前記記事に関し、備忘録的に荒筋だけ書いておくと:
 
1・ 高脂血症薬の筋毒性は、ミトコンドリア毒性により低ATPとなる経路のみではなさそう(想定外の低ATPにより筋毒性に繋がるとの前提あり)。
2・ 肝臓での低コレステロールが脂質輸送系を阻害するために起こる、末梢での低中性脂肪により低ATPになる経路も影響していそう。

 

2の補足:スタチン製剤はコレステロール合成阻害、エゼチミブは胆汁酸循環阻害で、肝臓での低コレステロールを招く(後者は合成増量できれば影響を緩和し得る)
→ 肝臓はVLDL(いわば中性脂肪の運搬船)の減便で対応し、末梢へ行く中性脂肪が減る(末梢で血糖値を上昇、あるいは脂肪蓄積を増量できれば緩和し得る。肝臓では遊離脂肪酸(長鎖脂肪酸)、中性脂肪がだぶつく一方、LDL-Cの生成(VLDLの抜け殻が原料)は減る)
→ 運動の際に末梢で栄養素不足となり低ATPが発生(既述の緩和措置がいずれも働きにくい人は問題発生の可能性が高まる)

 

3・ついでに書いておくと、
-「NAFLDの肝線維症」については、肝臓での低コレステロールが良いのであろう

-「複数の脂質低下療法に対する不耐性、脂質低下療法を受けていない間の空腹時の呼吸交換比(RER)の上昇、高中性脂肪血症などの共通の特徴を持つグループ」については、記事で指摘のとおり「糖質から脂質への代謝の切り替えが悪い」のだろう(普通の人ほど上手に利用できないため代償的に糖新生を普段最大限利用する傾向がありそう)

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遺伝の本質と健康

2023年08月27日 | 健康法

 

 遺伝の本質は何であろうか。趣旨が分かりにくいかもしれないので言い換えてみると、生物には親の形質・形態を子に伝える現象があるがその目的は何だろうか、ということになる。

 微視的(ミクロ)な方向へ思考を巡らせると遺伝因子へ還元して行く話となるのだが、それだと分子レベルの細かな話になって全体を見失い、よく分からなくのが落ちだろう。ここでの考察ではその道は有用そうではないので、巨視的(マクロ)な方向へ眺めてみよう。


 すると、親から子への「生活様式の伝承」というのが浮かび上がり、これ以外には思いつかない。生物種の生活様式が遺伝因子や道具の形成に繋がる(生活様式遺伝因子・道具形成仮説。前回記事を参照)という立場からすると、最も自然な見方にあたるだろう。

 

 ある生物種が特定の生活様式(食性がその主要部分)を採用している場合でも、生息環境自体は日々変動したり季節変動をすることから、生物種側には生体恒常性(homeostasis、ホメオスタシス)を維持するための機構が備わっているのが一般的である。当然これも遺伝の対象になるはずであり、環境変動に対する自動制御機構が遺伝因子に含まれているのだろう。

 

 健康を維持するということは、常に生体恒常性を維持することが必要不可欠だろう。それを容易に達成するには、進化の過程で獲得したであろう生息環境の変動に対する自動制御機構を最大限発揮させることが重要になるだろう。
 遺伝子が想定していない生活様式を実践する場合は、制御の方法が判明していない課題に遭遇する可能性が高くなり、試行錯誤を重ねつつ新たな道を切り開いていく必要があるだろう。他方、遺伝子が想定している生活様式を実践する場合は、いつか来た道であり、ご先祖様から伝承された制御方法を活用することにより、容易に生体恒常性を維持してトラブルを回避することができるだろう。

 

 以上が、ヒト遺伝子想定的生活様式実践(健康)法を推進する理由にあたるのだが・・・(分かり難くてスマヌ。理解が深化すればもう少し分かり易く書けそうなのだが、現状はこの辺りが限界か)。

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生活様式と生物進化

2023年08月26日 | 健康法

 健康法を考察するためには、その生物の進化過程を踏まえる必要があるだろう。進化は、生物種と地球環境(その種の生息環境)との相互作用で起こるからだ。

 そのような相互作用の在り方(種の生態などに反映)は様々であり共通性は少ないかもしれない。しかし、相互作用の原動力は、生物種が採用した生活様式に伴い生体に働く力学現象にあることは間違いないだろう(こう考えるのは、ラマルク的な進化の考え方を基盤にしているからだろうか)。

 

 島 泰三氏の著作「親指はなぜ太いのか」(2003年)では、猿のアイアイの形質形態の観察から出発して論考を展開しているが、その意義をまとめると次のような感じになるだろう:

 アイアイ(原猿類)の形質形態(耳・口・手の特異な形)を観察しその合理的理由を解釈
→ 今西錦司氏の棲み分け理論を「食べ分け理論」に組み替えた上で、食性と口・手に関するの相関を霊長類に演繹し、食性が霊長類の口(歯)と手の形を決めている(口と手連合仮説)を提唱
→ この仮説の応用として、ヒトの口と手の形から初期人類の食性と、食性関連の移動方法について推論を展開(骨食を採用し直立二足歩行になったと結論)

 

 この辺りの話は、西原克成氏の著作「究極の免疫力」(2004年)が簡潔にまとめているので引用しておこう(207頁):

「哺乳動物の歯と顎と顔の形は、食物の性質が一定に決まると、それにしたがって変化します。食べ方、噛み方、餌のとり方で、身体のすべての形が少しずつそれに適したように変化し、これが親子代々に続き累代に及ぶと亜種が分離します。つまり、『種の起源』は、突然変異や適者生存ではなく、行動様式の変更そのものにあり、行動様式の力学現象つまり重力作用そのものこそが、進化の原動力だったのです。」

 

 島氏の論法を応用する目的でさらに演繹すれば、次のようにできるだろう:

 島氏の口と手連合仮説
→ 食性は生活様式の主体であり、口や手の形は結局遺伝因子ということであり、島説は、生活様式遺伝因子形成仮説に衣替えできそう
→ 現生人類(ホモ・サピエンス)を含むホモ属の進化には二つの様式があり、生物学的な進化と文化的な進化である。前者は遺伝因子に、後者は道具に制御されていると見られるので、上述の仮説はホモ属においては「生活様式遺伝因子・道具形成仮説」と発展させられそう。

 

 生活様式遺伝因子・道具形成仮説を考察上の基本法則として設定すれば、生物種の生活様式が進化を主導するということとなり、ヒト遺伝子想定的生活様式実践(健康)法の意義が見えてくるのではなかろうか。

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タイ語関連の近況

2023年08月26日 |  未分類(外国語)

〔更新履歴:追記2023-8-27〕

 

こんにちは

 

 暑くて外に出たくないが、暇を潰す方法はないかと考えて思い出したのが放置されているブログ・・・

 

 最近ではタイ語記事を読むことも少なくなったものの、タイ・ドラマを動画サイトで視聴して、何とか聴解力だけはを維持できているようだ。

 聞く力しか鍛えていないのだが、何故か進歩した面があるような気がする。

 

 3チャンネル(タイの地上波放送)のドラマだと、主題歌とかエンディングのテーマ曲が動画クリップになり、動画サイトで字幕付きで公開されることがほとんどだ。未だに初聴では歌詞の意味が理解できないことが多いが(この辺りが今後の次の課題か?)、字幕が何故か追えるようになり、だいたい動画の初見で意味がとれるようになったところ。

 退歩が多くて目に見えての進歩はないものの「継続は力なり」ということで、多少は進歩している面があるのかもしれない・・・

 

 追記:イーサン方言を多用するドラマがけっこうあったりして(後述の最初のドラマもその一つ)、その際必ず標準タイ語の字幕が入るから知らずのうちに訓練されていたのだ、と今頃気づいたりして・・・

 

 ドラマの主題歌と言えば、何故か3チャンネルのサイトでは公開されなかったイーサン・ソングを紹介したおこう(早い時間帯のドラマでタイトル「อ้ายข่อยฮักเจ้า」):

 

  อ้ายข่อยฮักเจ้า - มอส จารุภัทร Ost.อ้ายข่อยฮักเจ้า【Official MV】
  https://www.youtube.com/watch?v=IhV8etcVBo4

 

 この4年半で一番興味深かったドラマは、これ一択だろう:

 

  พิภพหิมพานต์ World of Himmapan EP.1 ตอนที่ 1/8 | 26-02-64 | Ch3Thailand
  https://www.youtube.com/watch?v=zvCZH8iJ8ng

  (特撮技術が映画「ロード・オブ・ザ・リング」(2002年)・「アバター」(2009年)へのオマージュ的で、脚本もしっかりしていて、テレビドラマでこのレベルが作れるようになったのかと感慨深くなったもの。タイドラマのテレビ生放送を初めて視聴したときは、ライティングが貧弱故に影が気になって気になって仕方がなかったもので・・・)

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あの洞窟の名称

2019年02月03日 |  未分類(外国語)

〔最終更新2019-2-4〕

 

お久しぶりです。

ブログ記事をこまめに書いていた間にタイ語学習のレベルが当初の目標に到達したと思われたので、その後はタイ語を読む機会は少なくなり、最近では、タイ・ドラマを動画サイトで視聴して、何とか聴解力だけはを維持しようとしいるところ。


タイ・ドラマを見るときは、何故かほとんど3チャンネル(タイの地上波放送)のもので、新しいドラマについては、3チャンネルの公式サイトにて、放送済みドラマの情報閲覧数をみて判断することが多い。
http://www.ch3thailand.com/%e0%b8%a5%e0%b8%b0%e0%b8%84%e0%b8%a3%e0%b8%8a%e0%b9%88%e0%b8%ad%e0%b8%873/olddrama

今の所、閲覧数が4万を超えていると「面白いかもしれない」、8万をを超えていると「面白いだろう」という感じで判断している。

 


ついでに、昨年(2018年)3チャンネルのドラマを見ていて、これは一体何なんだろう、と気になって今も気になっているのは、1人称単数代名詞としての เรา の使用機会の増加だ。

従来、1人称単数代名詞については、男性なら ผม、女性なら ดิฉัน を使っていたような気がするけど、

ドラマ "Mr.Merman แฟนฉันเป็นเงือก" あたりから、เรา を使う機会が増えているような気がしている。英語の"I"に引っ張られて男女兼用のものを使い始めたような気もするが、もしかするとイーサン語の男女兼用の "ข่อย" にならっているのかもしれない。(そう言えば、標準語で ข้า というのも文語的だけど男女兼用だから、この現代版を目指しているのかもしれない。)

 


本題の洞窟の話に戻ると、昨年有名になったタイのあの洞窟は、日本語では「タムルアン洞窟」と呼ばれていたので、タムは ถ้ำ から来ているはずで、本来の名称は「ルアン洞窟」なのだろうと最近まで思い込んでいたところ。



タイ文字に接する機会がかなり減っているので、半年以上遅れて、あの洞窟の正式名称が
ถ้ำหลวง - ขุนน้ำนางนอน
であると知り、えーっ、「大洞窟・洞窟」と言っていたのか、「メナム川の『川・川』」の再来か?、と驚いた次第。

(注:間違っていたようですまぬ。ウィキペディア英語版の次の項目によると、ถ้ำหลวงขุนน้ำ は並列関係にあるらしく、ถ้ำหลวงนางนอนขุนน้ำนางนอน があって、それらが วนอุทยานถ้ำหลวง-ขุนน้ำนางนอน 内にあるということらしい(วนอุทยาน は「森林保護区、保護林」の意味):


Doi Nang Non
https://en.wikipedia.org/wiki/Doi_Nang_Non

以下では、洞窟の名称を "ถ้ำหลวงนางนอน" として話を進めることにしよう)

 

 

正式名称 名称を分解してみると、
ถ้ำ は「洞窟」で異論はないだろうけど、
หลวง の後に名前が続いているので、ここでの意味は「大きい」の意味で、
ขุนน้ำนางนอน の部分が固有名詞なのだろう。
なので、全体では「クンナム・ナーンノーン大洞窟」という感じだろう。


画像1 現地にあると見られる案内図("หลวง"を"big"と訳している)

 


ついでに「クンナム・ナーンノーン」部分を分解してみる見ておくとと、
นางนอน は、ここでは ดอยนางนอน のことで「ナーンノーン山」を指し、無理に和訳すれば「寝女山」という感じだろうか。この山の画像をみると、このタイプの山を和風に言えば「女体山」とか「寝姿山」とか言われている例があるみたい。

 
画像2 ナーンノーン山の山並み(お腹の辺りが大きく見えるのは、伝承によれば、元の女性は妊娠していたらしいからなのだろうか・・・)

 

น้ำ は、北部の方言だとコーン川(メコン川)を น้ำแม่ของ とか น้ำของ とか言うらしいので、ここでの น้ำ は「川、小川、水の流れ」の意味なのだろう。ついでに、東北部の方言でも น้ำของ らしいので、タイ標準語 แม่น้ำโขง โขง は、 ของ の中部訛りということなのかもしれない。


ขุน は、多分 ขุนเขา と似た用法(「大山、高山」の趣旨)で後ろの名詞に修飾して「大きい」の趣旨なのだろう。。หลวงขุน と類似の意味の修飾詞が続くので、間に"-"を置いているのではないだろうか("-"を使わない書き方でも、ถ้ำหลวง ขุนน้ำนางนอน と一旦切ることが多いと思われる)。

ขุนน้ำ では結局「大きい川・水の流れ」の趣旨だけと、この洞窟内の川が洞窟内にあるものにしてはかなり大きいの趣旨のような気がするところ。適当な訳語がなさそうなので、น้ำ を「沢」と解して、ขุนน้ำ は「渓流」とでもしておこうか。

 

以上の趣旨を適当にまとめると踏まえて、「女体山渓流」という感じで、名称全体では「女体山渓流大洞窟」 名称全体を漢字で置いておくと「寝女大洞窟」という感じになるのだろうか。

 

画像3 大洞窟内の流れ 大洞窟内の流れ(ขุนน้ำนางนอน にあたると思われる)


上記の画像は、次の動画からのスクリーンショット。
ประวัติ ดอยนางนอน, ถ้ำหลวงขุนน้ำนางนอน
https://www.youtube.com/watch?v=UsK6vd2FlGM

 

 

(備忘録)

 ナーンノーン山は、ミャンマーとタイにまたがるデーン・ラーオ山地(ทิวเขาแดนลาว)に属するらしい(ここでの謎は、ラオス関係ないのに、何故「ラーオ」の名称が入るのかという点):

 

Deang Lao Ragge

https://en.wikipedia.org/wiki/Daen_Lao_Range

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利用教材について (1) まとめ

2016年05月02日 |  利用教材

 教材の話をしておかないと、なんとなくブログをやめられそうもないので、久しぶりに、寂れているコッチの方に書いておこう。

 細かい話は後にすることにして、今回は全体のまとめという感じにしよう。

 

 以前にも触れた気がするけど、タイ語に挑戦するのは、今回が2回目。前回はかなり前で、新聞やテレビ番組を理解するということろまでは届かず、途中で使う機会もなくなり、挫折。

 2回目を始める前は、旅行者用のサバイバル会話は大体覚えていたけど、タイ文字はほとんど忘れていて、 とが mと nの音に対応する子音字というのはかろうじて記憶に残っていたけど、どっちがどっちだったっけという程度であった。

 現在も「読む・聞く」を中心でやっているので、話す・書くというのは、かなりの課題が残っているところ。特に、話すについては、もともと音痴なので、かなり訓練しないといけないのだが・・・。また、読むについても、ドラマ・映画のタイ語字幕は早すぎて、まだ読めないレベルにある。

 教材については、いつでも撤退できるようにするため、なるべくお金をかけずにやろうということで、独学でやることにして、なるべく早く動画サイトのタイ・ドラマやネット上のタイ語の新聞記事を活用する方向で考えていたところ。

 あと注意としては、いまだにタイ語より英語能力の方が上なので、英語関連の教材も活用しているので、英語がかなり苦手な人には、この教材の記事はあまり参考にならないような気がしている。


 教材の選び方については、現在は、
       手に取ってパラパラめくってみて面白そうなもの
を使うのが一番良いような気がしている。なので、都会にある大きな本屋さんに年に1、2回行ってみて、実物をみて選択するのがよいのではないだろうか。独学でやっていてつまらない教材を使うと、興味が持続せず、長続きしないように思われる。


【分野別の整理】

〔文字〕 B1、01、03。
〔辞書〕 B2、B3、0506、09、1013

〔文法〕 B4、07。
〔語彙〕 B2、B3、03、04、10、13。

〔読解〕 (短文) 02 0109
     (長文) B5、11、07、12
〔聴解〕 02 01、07、08

(注1)番号に対応する教材については、下記のリスト参照。
(注2)下線部は、現在でもよく使っているもの。


【リスト】

ア.<以前に購入済みで、今回利用したもの>

B1- 水野潔・水野ワーサナー「聴いて、話すための - タイ語基本単語2000」、語研、1989年(使ったのは 19-34頁、205-221頁辺り)。
B2- 冨田竹二郎編「タイ・日-日・タイ小辞典」、国際学習社、1991年(タイ日部分は、発音記号順の並び)。
B3- "Modern English-Thai Thai-English Dictionary"、ไทยวัฒนาพานิช、2534(1991)年(ポケット型の辞典)。
B4- 佐藤正文ほか「実用タイ語会話 1」、泰日経済技術振興協会、1991年。
B5- サオワラック・スリヤウォンパンサーンほか「実用タイ語会話 2」、泰日経済技術振興協会、1991年。


イ.<今回利用・購入したもの(利用開始・購入順)>

01- タイ語学習サイト「タイリンガル」の「タイ文字が最速で読める講座」(URLは、http://www.tlin.jp/thaimoji01.php )。
02- 水野潔「今すぐ話せるタイ語単語集」、ナガセ、2002年。
03- 加川博之「旅の指さし会話帳 (1) タイ 第二版」、情報センター出版局、2003年。
04- 須崎祐司・近藤和人「ビジネス指さし会話帳 (3) タイ語」、情報センター出版局、2005年。
05- ウェッブ・ベースのタイ語辞書(現在は主に次の5つのサイト:"Thai2English.com"(タイ英)、"thai-language.com"(タイ英)、"冨田竹二郎 タイ日辞典"、"dictionary.sanook.com"(タイ英)、"ごったい")。

06- Tianchai Iamworamate "Thai-English Dictionary of 88,000 Words"、รวมสาส์น (1977)、2547(2004)年。
07- 斉藤スワニー・三上直光「中級タイ語総合読本」、白水社、2005年。
08- 動画サイトのタイ・ドラマ(最初に見たのは "คุณหนูฉันทนา" 2552(2009)年放送)。
09- Group Jammassy「日本語文型辞典(タイ語版)」、泰日経済技術振興協会、2554(2011)年。
10- 岡滋訓「音で引く・タイ日実用辞典 第2改訂版」、ボイス、2011年。

11- "สนทนาอังกฦษเก่ง เป๊ะเว่อร 3,500 ปรัโยคฮิต 54 สถานการณ์ฮฮต"、Se-Education Public Company、2558(2015)年(台湾の英会話教材 "Everyday English Conversation"(2011)のタイ語版)。
12- ウエッブ上のタイ語の新聞記事(現在は主に "เดลินิวส์" 。かつては "matichon" も)。
13- 藤崎ポンパンほか「日タイ⇔タイ日ひかがな辞典」、TLS、?年。


ウ.<現在読んでいる途中のもの>

14- ตะวัน ปทุมเพชร "เก่งพูดอังกฦษในที่สาธารณะ" (English Public Speaking)、อินส์พัล、2558(2015)年(タイ語で書かれた英語の教材で、スピーチ関連)。

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動詞 สิ้น (sîn、つきる)

2015年05月21日 |  動詞編

 先ずは、前回記事で触れた、動詞 หาย (hǎai、なくす・うせる)を用いた例文の解説から。
(ア) เขาหายกลัวเป็นปลิดทิ้งเมื่อพบว่าเสียงที่ได้ยินเป็นเสียงเคาะประตูของเพื่อน
 構文としては、เขาหาย...という柱に เมื่อ ~ 以下の時を表す副詞節がついた形だろう。

 直訳は、
  〈彼は、怖いのがすっかりなくなった、ことに気づいた時に、聞こえた音が知り合いがドアをノックする音であるという〉
みたいな感じだから、
  「物音は知り合いがドアをノックした音だと気づき、彼はすっかり怖くなくなった。
という感じだろうか。
 単語については、กลัว は「怖い」、พบ は「会う」という意味でよく使われるが、ここでは「見つける、気づく」の意味だろう。
เป็นปลิดทิ้ง で「完全に、すっかり」の意味かな。(更に分解してみると分けがわからなくなったのだけど、しいて言えば) ปลิด で「殺す」、ทิ้ง で「捨てる」みたいな意味がそれぞれあるようなので、殺して捨ててたので完璧、という感じなのだろうか?
動詞 หาย は、ここでは前回記事の(1)の「なくす」という意味なのだろう。



(イ) เมื่อสถานการณ์ยืดเยื้อมาถึงขนาดนี้แล้ว การล้อมคอกหลังวัวหาย ก็ถือว่าดีกว่าปล่อยให้เหตุการณ์บานปลาย
 構文としては、เมื่อ 以下の時を表す副詞節がまずきて、การ... ก็ถือว่า ~ というのが続いて、これは「การ(で始まる名詞節)は、~とみなせる」という感じだろう。
 語句については、ยืดเยื้อ で「続く、長引く」、บานปลาย で「増大する、発展する」("to escalate"。分解すると、บาน で「咲く」、ปลาย は「終わり」の意味があり、元々は末広がるみたいな感じか)。ปล่อยให้ ~は、以前にどこかの記事で触れたような気がする。
名詞節 การล้อมคอกหลังวัวหาย は、 วัวหายล้อมคอก ということわざ(สุภาษิต)から来ているようで、意味は、その直訳だと「牛が消えてから牛房で囲う」みたいな感じか(ล้อม で「囲う」、คอก で「馬房、牛房」)。損害が出てからその防止策を考えるという趣旨のことわざようだが、日本語だと、何にあたるのだろうか?(「後の祭り」が近そうだけど、ちょっと違うような・・・。「物には時節」というのがあるらしいが・・・)

 直訳すれば、
  〈既に状況がこのようにまで長引いてきた時は、牛が消えた後で牛房で囲うのは、こととみなせるだろう、ほっておいて状況を発展させるより良いという〉
みたいな感じだから、
  「既に状況がこのように至っては、牛がいなくなった後で牛房で囲う式の対応でも、ほっておいて状況を悪化させるよりは良いだろう。
となる感じだろう。動詞 หาย は、よく分からないけど、前回記事の(3)の「消える」という意味なかな(別にもとれそうだが・・・)。



 さて、表題の動詞 สิ้น に入ろう。
この単語の一番多くみかけるのは、名詞で「終わり、末」という意味の使い方だろうか。例えば、สิ้นสัปดาห์ といえば「週末」、สิ้นเดือน は「月末」、สิ้นปี は「年末」。類似の単語はปลาย(終わり)で、少し幅があるような感じで、ปลายเดือน で「月の終わりごろ、下旬」、ปลายปี は「年の終わりごろ」。
 
 動詞 สิ้น(ソースア・サライ・ノーヌー・マイトー sin)に対応する日本語動詞は、「つきる、尽きる」と思われる。


(1) 先ずは、一定のお金・時間などがつきる~という趣旨で、「(お金・時間などを)かける」という意味がある。
  〈つきる+お金〉( สิ้นเงิน )で「(お金を)かける、費やす」。


(2) ある事柄がつきて、終わりが来るという趣旨で、「(事柄が)終わる」という意味がある。
この場合は、สุด (終わる)という単語と一緒のことも多いだろう。例としては、
  〈事件+つきる[+終わる]〉( คดีสิ้น[สุด] )で「(事件が)終わる」。


(3) ある事柄がつきて、完了するという趣旨で、「(事柄が)完了する」という意味がある。
この場合は、เสร็จ (完了する)という単語と一緒のことも多いだろう。例としては、
  〈仕事 [+終わる]+つきる〉( งานการ[เสร็จ]สิ้น )で「(仕事が)完了する」。


(4) ある種の資源がつきるという趣旨で、「(資源が)無くなる」という意味がある。
この場合、無くなる原因の動作を表す動詞と一緒に使われる傾向がある。例としては、
  〈つきる+命〉( สิ้นชีวิต )で「(命を)なくす」、
  〈使う+お金+つきる〉( ใช้เงินสิ้น )で「(お金を使って)なくなる」。

 

 最後に、動詞 สิ้น を用いた例文については、以下のとおり。例によって、解説は次回記事にて。
(ア) แต่วันนี้ลุงใสสิ้นแรงกายแรงใจ แค่ยกพายกรีดน้ำก็ยังไม่อยากทำ

(イ) จงใช้มันต่อๆ ไปด้วยความภาคภูมิใจจนสิ้นอายุขัยของมัน

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動詞 หาย (hǎai、なくす・うせる)

2015年05月20日 |  動詞編

 先ずは、前々回記事で触れた、動詞 หมด (mòt、なくなる)を用いた例文の解説から。
(ア) ซื่อกินไม่หมดคดกินไม่นาน

 ซื่อ (sʉ̂_ʉ)は「正直な、誠実な」、คด はその反対で「うそをつく」の意味。
内容は多分、タイのことわざみたいなものだろう。

 直訳すると、
  〈正直には、食べて尽きることはないが、うそつきには、食べるのは長くはない〉
みたいな感じだから、かなり意訳して
  「誠実な者には、いつも必ず良いことがあるが、不誠実な者には、良いことは長続きしない。
という感じかな。日本語だと、「正直の頭に神宿る」あたりが近いのだろうか?
いずれにせよ、動詞 หมด は、ここでは前回記事の(1)の「無くなる」という意味なのだろう。


(イ) ชาวสวนจำหน่ายไม่หมดต้องทำเป็นมะม่วงกวนเก็บไว้รับประทานได้นาน ๆ

 構文としては、ชาวสวน...ต้องทำเป็น ~ というのが柱で、ชาวสวน の後と、มะม่วง の後にそれぞれ関係詞 ที่ が省略されているという感じだろう。
 ชาวสวน は「園芸をする人」で、จำหน่าย は「販売する」かな。タイには、禁酒日(より正確には酒販売禁止日。仏教系祭日など)というのがあるけど、その際の店先の掲示で、話し言葉的な ขาย (売る)てはなくて、จำหน่าย の方だったものをみたことがある)。
ทำเป็น は「~になるように作る」。กวน は元の意味は「混ぜる」(例えば、ไข่กวน で「スクランブル・エッグ」)。

 直訳すると、
  〈販売してなくならなかった園芸をする人は、になるように作らなければならない、混ぜて保存して長く食べることができるマンゴーに〉
みたいな感じだから、
  「販売しきれなかった果樹農家は、保存して長期間食べられる調製したマンゴーに加工しなければならない。
のような感じだろうか。กวน は、保存のためにという趣旨を踏まえれば「調製する」という感じだろう(タイのコンビになどでは、砂糖に混ぜて(漬けて)脱水して乾燥させたようなものをよく見かけるような)。
いずれにせよ、動詞 หมด は、ここでも同じく前回記事の(1)の「無くなる」という意味なのだろう。


 ついでに、上記の ไว้ の別の見方について、少し述べておこう。上記文の後半の動詞連続のあたりを一般化すれば
  [ที่] ทำ ... ไว้ทำ ~
というような使われ方をしている。この場合は、〈・・・しておいて、~する〉みたいな趣旨なので、ไว้ の後に เพิ่อ が省略されていると考えることもできると思われる(目的を誘導する ไว้ )。すなわち、和訳では
  「~するために・・・する」(英語だと、"[that] do ... [in order] to do ~")
というような意味になる感じだろう。この認識で直訳すると、
  〈販売してなくならなかった園芸をする人は、になるように作らなければならない、混ぜて保存しておくマンゴーに、長く食べることができるように〉
みたいな感じだろう。最終的な意味としては、上記の動詞連続と考えた場合とほぼ同じなので、読解する際には、どのようにしても(動詞連続としても目的をを誘導する ไว้ としても)、余り違いはないけど、
  「~するために・・・する」 ──→ ทำ ... ไว้ทำ ~  
と整理しておけば、作文する際に役に立つのではないだろうか。


 さて、表題の動詞 หาย に入ろう。
  動詞 หาย(ホーヒープ・サラアー・ヨーヤック hǎai)に対応する日本語動詞は、「なくす・うせる、無くす・失せる」と思われる。

 動詞「なくす・うせる」から連想されるべき言回しはには、
 血の気がうせる
などがあろう。


(1) 先ずは、「(物などを)なくす」という意味がある。
  〈なくす+物〉( หายสิ่งของ )で「(物を)なくす、失う」。また、
  〈物をなくす〉( ของหาย )で「なくした物」、
  〈なくす+身体〉( หายตัว )で「行方不明である」。
 これも、ここの項に入れるへきかな?(違うなら、後述の(5)だろう)
   〈なくす+怒る〉( หายโกรธ )で〈怒るのをなくす〉となり、据わりがわるいので「怒るのを止める」の訳へ。


(2) 病気をなくすという趣旨で、「(健康状態が)よくなる」という意味がある。
  〈なくす+痛み〉( หายเจ็บ )で「(健康状態が)よくなる、(痛み)がなくなる」、
  〈なくす+病気〉( หายป่วย )で「(健康状態が)よくなる、(病気が)治る」。


(3) 血の気がうせる、とあるように、「(症状などが)消える」という意味がある。
  〈腫れ+うせる〉( อาการบวมหาย )で「(腫れが)消える、なくなる」、
  〈雲+うせる〉( เมฆหาย )で「(雲が)消える、なくなる」。


(4) 疑問などがうせるという趣旨で、「(疑問などが)晴れる」という意味がある。
  〈誤解+うせる〉( ความเข้าใจผิดหาย )で「(誤解が)晴れる、なくなる」。


(5) 天気などの継続している状態がうせるという趣旨で、「(状態が)止む」という意味がある。
  〈雨+うせる〉( ฝนหาย )で「(雨が)止む」、
  〈風+うせる〉( ลมหาย )で「(風が)止む」。


 最後に、動詞 หาย を用いた例文については、以下のとおり。例によって、解説は次回記事にて。
(ア) เขาหายกลัวเป็นปลิดทิ้งเมื่อพบว่าเสียงที่ได้ยินเป็นเสียงเคาะประตูของเพื่อน

(イ) เมื่อสถานการณ์ยืดเยื้อมาถึงขนาดนี้แล้ว การล้อมคอกหลังวัวหาย ก็ถือว่าดีกว่าปล่อยให้เหตุการณ์บานปลาย

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二重動詞 動詞+ไป (離れて・完了・継続)

2015年05月19日 |  二重動詞

 動詞 หมด (mòt、なくなる)を取り扱ったところで、よい機会なので少し脱線しておこう(要は、今回は手抜きをしようということかも・・・)。

 หมด という動詞は、何かとくっ付いて出てくることがあり、よく見かけるのは、例えば前回記事でもふれた
  หมดแล้ว 「もうなくなった、既になくなった」
だろうか。あと、たまに見かけるものの中には、หมดไป という二重動詞の形もあるだろう。ไป の意味としては、上記の แล้ว と同様に完了の表したものとなっている。

 このような動詞 ไป は、補助動詞とか呼ばれることもあるようだけど、とりあえず使われ方をまとめておこう。主に3つの意味があるのだろうか。
(1) ออกไปเข้าไปเอาไป など。
(2) หมดไปแตกไป など。
(3) ต่อไปพูดไป など。


(1)については、「(離れて)行く」みたいな意味(英語で言えば "away" という感じ)を補う ไป となっていて、上記例示は、それぞれ「出て行く」、「入って行く」、「連れて行く」という意味合いになるのだろう。また、このような ไป の場合、文脈上の理由や言回しの流れから、必ずしも訳出しておく必要のないこともあるだろう(1番目は「出る」、2番目は「入る」のままとしておく)。


(2)については、完了を表す ไป で「・・・してしまう」みたいな意味になるのだろう。上述の例示でいえば、それぞれ「なくなってしまう」、「割れてしまう」という感じだろうか。
ただ、日本語で「~てしまう」とした場合、完了の意義が後退して、予期せぬことが実現したという意義が前面に出すぎることもあるので(例えば、「負けてしまう」)、その時は単に「・・・した」みたいな感じに訳した方がいいのかもしれない。
泰泰の解説だと、このような ไป は、
  แสดงว่าเสร็จสิ้นไปแล้ว (仮訳:既に完了してしまったことを表す)
と説明されているようだ(ここでの ไป も完了を表すものだけど、แล้ว も一緒に使われている)。

 もう少し例を出しておくと、
(ア)น้ำมันหมด     (イ)น้ำมันหมดไป
(ウ)แก้วแตก       (エ)แก้วแตกไป
(オ) อ่านหนังสือ   (カ)อ่านหนังสือไป

(ア)は「ガソリンがなくなる」、(イ)は「ガソリンがなくなってしまう」、
(ウ)は「コップが割れる」、(エ)は「コップが割れてしまう」、
(オ)は「本を読む」、(カ)は「本を読んでしまう」
というような感じとなるのだろう。

 完了を表す二重動詞のパターンだと、完了を表す มา のパターン
  動詞+ มา (ここで มา は「・・・して来た」の意味)
がよく知られているけど、個人的には、完了を表す ไป の方が使用頻度が多いのではないかと感じている。
想像するに、完了を表す มา の印象が強いのは、サバイバル会話の初歩で、挨拶代わりの表現ということで、次を習うからではないだろうか。
  ไปไหน    (pai nǎi)     「どこへ行くの?」
  ไปไหนมา (pai nǎi maa)  「どこへ行ってきたの?」


(3)については、継続を表す ไป で「(続けて)行く」みたいな意味になっている。上述の例示でいえば、それぞれ「続けて行く」、「話し続ける」というような意味になるのだろう。
印象の強さということで言えば、ต่อไป と聞くと、先ずは「次の」という意味が思い浮かぶのではないだろうか。そうであれば、それは多分、次のようなBTS(バンコク市内の高架鉄道線)の駅に到着する度に聞かせられる、印象的な車内アナウンス(タイ語と英語)のせいではないだろうか。
  สถานีต่อไป [駅名] (sàthǎanii tɔ̀ɔ pai [駅名])
  The next station is [駅名].

 

追記)
 書き忘れたので、追記しておこう。上記(1)と(2)の区別は、細かく言えば、必ずしも明確でないこともあるだろう。例えば、
  ทุกคนหมดไป
とあれば、〈皆、いなくなって(離れて)いった〉ともとれるし((1)の場合)、〈皆、いなくなってしまった〉ともとれることもあるだろう((2)の場合)。
まあ、訳したときに、大きく異なるわけでもないので、細かすぎる点を気にしても仕方がないということで・・・

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動詞 หมด (mòt、なくなる)

2015年05月18日 |  動詞編

 まずは、前回の動詞 เลื่อน(lʉ̂an、ずらす・うごかす)を用いた例文の解説から。
(ア) การลงคะแนนเสียงเลือกตั้งทั่วไปจะต้องเลื่อนเวลาออกไปหากปรากฏว่าผู้สมัครรับเลือกตั้งคนหนึ่งคนใดเสียชีวิต

 構文としては、เลื่อน を動詞とする文に、หาก 以下の条件節(条件を表す副詞節)が付いた形といえるだろう。
内容としては、公職選挙に関する法律レベルにあるべき規則だと思われるけど、日本では、聞いたことがない内容だけど、タイにはあるのだろうか?

 直訳してみると、
  〈総選挙の投票は、延期しなければならない、もし明らかになった場合には、立候補者の誰か一名が命を失ったということが〉
みたいな感じだろうから、
  「総選挙の投票は、立候補者のいずれか一名が死亡したことが明らかになった場合には、延期しなければならない。
という意味だろう(タイのドラマを動画サイトで見ていると拳銃を撃つ場面が多いように感じるので、これも拳銃所持の許可がわりと簡単に手に入るという社会情勢を反映しているのだろう思っている。仮に、このような法律の規定がタイにあるならば、接戦の選挙戦だと無投票当選をねらって刺客を放つというのも簡単にできそうな気もするので、そういったことを防止する規定なのかもしれない)。
動詞 เลื่อน は、ここでは前回記事の(3)の「延期する」という意味なのだろう。

 語句については、いずれもよく使われるものだが、การลงคะแนนเสียง(票を投じること)で「投票」、เลือกตั้งทั่วไป(一般の選挙)で多分「総選挙」、ผู้สมัครรับเลือกตั้ง(選ぶのを受けることに応募した人)で「立候補者」、เสียชีวิต で「命を失う」。

(イ) เณรเคาะประตูได้ยินเสียง "เชิญ" เลื่อนประตูออก เห็นหลวงพ่อกำลังนั่งจิบชาอ่านหนังสือพิมพ์

 構文としては、〈 เคาะ して、ได้ยิน して、เลื่อน して、เห็น した〉というダラダラした文という感じたろう。

直訳してみると、
  〈小僧は、戸をノックして、「どうぞ」という声が聞こえて、戸を動かし出して、見えた、偉い僧侶が座ってお茶をすすり新聞を読んでいるところ〉
みたいな感じだから、
  「戸をノックすると『どうぞ』という返事が聞こえたので、小僧が戸を開くと、高僧が座ってお茶をすすりながら、新聞を読んでいるのがみえた
という感じだろうか。動詞 เลื่อน は、ここでは前回記事の(1)の「動かす」という意味なのだろう。
語句については、เคาะ は「たたく、ノックする」、หลวงพ่อ で「尊敬すべき僧」、จิบ で「すする、味わう」。



 さて、表題の動詞 หมด に入ろう。
この単語は、サバイバル会話では、重要なものといえるだろう(逆に言えば、いまままで紹介した単語は、その用途では何にも役立たないということだ)。

 役立ちそうな場面としては、二つが思い浮かぶ。一つは、物を買うのに価格交渉をしている場面。一つでは値段が思ったほど下がらないようなら、数量値引きを求めるわけだ。気に入った商品が複数あるならば、指差して次のように言うわけだ。
  ทั้งหมดเท่าไร ครัว/คะ (全部でいくらですか?)
ここで หมด は、副詞の意味(「全て」)で使われているのかな。

 もう一つは、屋台で人気のメニューの昼飯を食べるような場合だ。自分がよく行くところだと、注文が通ると、普通は何かそれらしい返事があるか(例えば、จ้า とか。書かれたところをみたことないので声調は不正確かもしれない)、あるいは座って待てという趣旨で、空いている席を指さされることが多いような気がする。で、注文がはじかれる時は、多くの場合は、次のように言われるわけだ。
  หมดแล่ว

  さて、動詞 หมด(ホーヒープ・モーマー・ドーデック mòt)に対応する日本語動詞は、「なくなる、無くなる」と思われる。

 動詞「なくなる」から連想されるべき言回しはには、
  資金がなくなる、夢がなくなる
などがあろう。


(1) 先ずは、資金がなくなる、とあるように、用意していた資源が利用されてなくなるというような趣旨で、「(物などが)無くなる」という意味がある。
この場合、無くなる原因の動作を表す動詞と一緒に使われる傾向がある。例としては、
  〈使う+紙+なくなる〉( ใช้กระดาษหมด )で「(紙を使って)無くなる」、
  〈売る+本+なくなる〉( ชายหนังสือหมด )で「(本が売れて)無くなる」。


(2) 人がたち去りいなくなるというような趣旨で、「(人などが)いなくなる」という意味がある。
この場合、無くなる原因の動作を表す動詞と一緒に使われる傾向がある。例としては、
  〈人+去る+なくなる〉( คนไปกันหมด )で「(人が去り)いなくなる」。


(3) 一定のお金・時間がなくなるという趣旨で、「(お金・時間を)使う」という意味がある。
  〈なくなる+時間〉( หมดเวลา )で「(時間を)使う、費やす」。


(4) 能力など不定形のものがなくなるというような趣旨で、「(能力・機会などを)失う」という意味がある。
  〈なくなる+自信〉( หมดความเชื่อมั่น )で「(自信を)失う」、
  〈なくなる+機会〉( หมดโอกาส )で「(機会を)失う」。


(5) なくなった後の状態を表現することを重視する趣旨で、「(権限などが)ない」という意味がある。
  〈なくなる+権利〉( หมดสิทธิ )で「(権利が)ない」。


 上述のサバイバル会話の話に戻ってみよう
自分がタイ語学習に挑戦するのは今回で2回目なのだけど、1回目と2回目の間は相当の間隔(5年以上)があって、その間は、かなり適当なサバイバル会話しかできなかったのだ。
2回目を始める直前の時期には、前者の表現は覚えていたけど、後者は意味が思い出せなかったのだ(よく行く屋台だったので、おばちゃんの表情でなんとなく趣旨はわかったので、そこの屋台では ข้าวมันไก่(鶏油飯)しか食べないから、回れ右して・・・)。


 最後に、動詞 หมด を用いた例文については、以下のとおり。例によって、解説は次回記事にて。
(ア) ซื่อกินไม่หมดคดกินไม่นาน

(イ) ชาวสวนจำหน่ายไม่หมดต้องทำเป็นมะม่วงกวนเก็บไว้รับประทานได้นาน ๆ

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